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故、鷲沢富美恵姉(96才土居教会員)ナルドの壺より
故、大西ハルエ姉(99才土居教会員)百万人の福音より


ナルドの壺より

故、鷲沢富美恵姉の生涯

※鷲沢姉は、2004年8月6日に天に召されました。享年96才でした。最後まで穏やかな方でした。

助産婦としてのスタ−ト


 四国の愛嬢県は土居町の片田舎の農家に生れた私には、四人の兄がありました。が、小学生の時、悪病の流行で、瞬く間に四人とも亡くなってしまったのです。両親の悲しみと、寂しさはひとしおだったようで、母方の姪を貰って育てておりました。しばらくして兄が生れ、「もう一人女の子がほしい」と口癖のように言っていた五年目に生れたのが私でした。 父母の喜びは大変なもので、掌中の玉のようにかわいがってくれました。

 私はとても元気にすくすくと成長し、学校に行くようになってまあ成績も良く、運動会も何時も一位でした。父はそんな私に期待をかけて、医者にさせたい希望を持っていました。当時、田舎では、女学校へ行く人は二、三人でしたが、両親は私を女学校に入れてくれました。しかし、大切な時期に私が病気になりましたので、医大は諦めて阪大の『看護婦養成所』に入学し、大正十三年三月に卒業しました。
初めて両親の許を離れた私は、父母恋しさに夜になると布団を被って泣いたものです。負けん気の強いくせに、とても甘ったれでした。夏休みのくるのを楽しみに、指折り数えて待っておりますと、父の方が夏休みまで待ちきれずに面会に来たのです。その時、父の顔を見るなり、わっと泣き出して中々涙が止まりませんでした。

 その後、体調をくずして微熱が続きますので、医師に2ヶ月間静養の診断書を書いてもらって、四国に帰って来ました。その時、今こそ勉強の時と思って助産学の本を買い、夜も昼も一生懸命勉強しました。そして、大阪と愛媛で検定試験を受けたのです。幸い、どちらも合格しました。実地試験は同じ日でしたので、愛媛で受けました。
 経験はありませんでしたので案じつつ受けたのですが、合格出来てほっとしました。二年間高い月謝を出して通学しなければならない所を、二か月の独学で助産婦の免状を頂いた時は、何ものにもまさる喜びでした。両親もほんとうに喜んでくれました。

 大正十五年五月に助産婦の資格が与えられてから、産婦人科の方へ代り、それ以来ひたすらお産の仕事に励んで来たのです。私のような甘ったれでも、神様を知るようになってからは、人生が180度変わって自分でも驚くほどにしっかりしてきました。

希望の光を見い出す

初めて神様のみ言葉に触れたのは、昭和2年の秋でした。『阪大病院』にいた時、賀川豊彦先生の講演のビラを貰ったのがきっかけで、行ってキリスト教のお話を聞きました。それはこんな内容だったと思います。

天地創造の神は私達人間を造られた事、しかし、人は神の御旨に背き罪の生活をしている事。これを憐れんで神は独り子イエス・キリストをつかわして、願いの十字架にかけられたこと。そして、それを、私の為と信じる者は救われるという事でした。

 私は神様に今までの無知をお詫びして、すぐ信仰の決心を致しました。その時頂いたのが次の聖句でした。「主は私達の為に命を捨てて下さった。それゆえに、私達もまた、兄弟達の為に命を捨てるべきである」Tヨハネ3:16

 それからというのは、日曜日の来るのを楽しみにして「早天祈祷会」「礼拝」「祈祷会」にと熱心に通いました。教会と言っても普通の家で、そこを「四貫島セツルメント」と言っていたのです。初めて見た教会の様子は、今も忘れる事が出来ません。

いつくしみ深き 友なるイエスは
罪とが憂いを とり去りたもう
こころの嘆きを 包まず述べて
などかは下さぬ負える重荷を
いつくしみ深き 友なるイエスは
われらの弱さを 知りて憐れむ
悩みかなしみに沈めるときも
祈りにこたえて慰めたまわん
いつくしみ深さ 友なるイエスは
かわらぬ愛もて導きたもう
世の友われらを 乗て去るときも
祈りにこたえて労りたまわん
         賛美歌312番


 清らかな讃美歌、先生のあたたかい愛の導き、熱心なお祈りに感動し、また驚きました。上阪して初めて、希望の光を発見した喜びに包まれて病院の寄宿舎に帰ったのを覚えています。その後も熱心に教会に出席し、神、罪、救い、悔い改めについての導きを受け、洗礼がゆるされたのです。昭和4年、22才の時でした。
 
 雪のちらつく寒い日に、真白い襦袢1枚を身に付けて大阪の広い「淀川」で洗礼を受けました。「淀川」は海かと思う程広い川で、胸までつかっていると、牧師が祈りと共に私を頭からすっぽり沈めるのです。感激で胸がいっぱいだった為か、寒さを感じませんでした。
この時、10人ほど一緒に受洗しましたが誰一人風邪をひく者もなく、神様の御恩寵を深く感じさせられました。神様のなさる事は、すべてを益にしてくださるのだと思いました。

病身の彼との結婚

『阪大病院』に勤務しておりましだ時、一人の喘息患者が入院して来ました。彼は『同志社大学』の神学部の学生ということでした。次第に慣れるにつれて、私も教会に行っている話等しますと、急に親しくなっていろいろと聖書のみ言葉の説明などを聞かせてくれるようになったのです。彼の病気は、入院しても全治せず、相変わらず時々発作を起こしていました。その内に、とうとう諦めて退院してしまったのです。しかし退院後も私宛に時々手紙を下さり、そこには何時も神様のみ言葉が書かれてありました。その後、彼の両親から、また彼からも結婚の申込みを受けたのです。私も随分ためらい、両親に相談しますと、病身であることやキリスト信者であることに対して猛反対するのです。私も、両親の忠告に従うべく、何回も彼にお断りの手紙を出していました。

 ある日、彼の友人で同じ神学部の学生が私に会いに来て、さかんに彼との結婚を勧めるのですが、好意は感謝しつつも、お断り致しました。半年も過ぎて、その事は忘れていましたら、また同志社の先生がわざわざ私如き者の所へお見えになったのです。彼との結婚について、また彼の信仰のお話をされますと、私も信仰者の端くれとしてお断り出来なくなり、いよいよ決心して良い返事を申上げました。私もまた信仰に燃えていた時でもあり、この病身の気の毒な人のために生涯支えになってあげようと心に決めたのです。

 昭和五年、彼が神学校を卒業した時、京都の「平安数会」で結婚式を挙げました。彼の友達数人と、私の友達も四、五人、それに教会員の皆様方と共に、誠に質素ではありましたが厳かに行われたのです。
 彼は身体が弱く、教会での働きもできそうにありませんので、彼の両親のおられる平壌に引き揚げる事にしました。
 暫くの間は、教会の手伝いなどもしていましたが、「京城」に彼の伯父が大きな請負業をしていましたので、そこの事務を頼まれて、私たちは京城に引っ越しし、気楽に養生しながら勤めることにしたのです。翌年、私は女児を出産し「愛」と命名しました。

父の死

 昭和七午のことでした。四国の実家から「チチ、キトク」の電報を受取り、取るものもとりあえず京城から四国ヘと向かいました。心ばかりあせって、汽車の遅いことをしみじみと感じながら、当時、四日まで二昼夜の旅でした。明けても暮れてもガタン、ゴトンと汽車の中ばかりで子供は嫌がって泣き出すし、機嫌を取るのにも一苦労で、そのうえ子供の顔は煤で真っ黒になってしまいました。
やっとの思いで四国に帰り着いた時は、すでに父は呼吸をしているものの意識不明で、何も言う事もできず、また一言も聞くことのできない有様です。十日間ほど看ている間に、そのまま静かに安らかな眠りについたのでした。野辺の送りも済ませると、また遠い朝鮮に帰るのです。その朝、母は「もうこれで最後だね」と涙ながらに言いますので、私は母を悲しませる不孝を心から詫びる思いでした。汽車に乗っていても、亡くなった父のことより母のあの悲しそうな面影が何時迄も心に焼きついていて忘れることが出来ませんでした。

 しかし、それからニ年後に次女が生れて「聖」と命名しました。父親の体質の弱さにかかわらず、二人の子供は元気に成長して誰からも可愛がられるようになって行ったのです。

モルヒネ中毒になった主人

 主人の発作はますます激しくなる一方です。苦しくなると、夜中といわず明け方といわず、近所の医院に走って行っては注射をして貰います。今にも呼吸が止るかと思うような発作も、注射を一本するとうそのように良くなります。こんな日々のくり返しの中で、その痛みも次努に頻繁になるので心配していたのですが、使っていた注射はモルヒネの麻薬注射だったのを知って本当に驚きました。彼はとうとうモルヒネ中毒患者になってしまったのです。このままですと深入りするのみです。そこで、この中毒を治す病院に入院させました。二ヶ月ほどの入院で、よくなって帰ってきました。

「今度こそ、どんなことがあっても頑張りましょう」と誓い合って2人で神様にお祈りをしたのです。しかし、半年も続きませんでした。又、喘息の発作が起こると、私の留守を見てはモルヒネを手に入れて自分で注射しているのを見て、本当に驚きました。私は涙ながらに、止めるよう頼みましたがどうしても聞き入れません。どれほど巨万の冨を持っていても、モルヒネ患者が一人いると、その家は破産してしまうと言われていますが、全くその通りです。何の財産もない私達は、その日食べて行くにも困るようになったのでした。

 私の着物は一枚一枚知らぬ間にモルヒネ代に替えられて、外出するにも着て行く物がなくて随分困ったことがありました。主人は、平素はとても優しく良い人なのですが、注射が切れて来ると全く別人になって荒れ狂って「注射!注射!」と叫び続け、危なくて側にいられない状態です。

 仕方なく私は大きな罪を意識しながらも、モルヒネ患者のたまり場を探し、あたりを見つつ警察の目を忍んで買いに行ったことも何度かありました。そんなある時、突然家に警察官が三人どやどやと土足で上がり込んで来て「モルヒネは無いか」と家探しをされました。が、幸いなかったのですぐ帰って行きました。あの時のことを今思い出しても背すじが寒くなり、ぞっとします。

 神様のみ前に、悔い改めて砕かれて、主の御血潮によって深めて頂かねば「神様!」とお呼びする資格もありませんでした。しかし、主人は相変わらずで中毒の方も全くよくなりませんので、京城の『帝大病院』に入院してもらったのです。

ニ人の子供と夫の死

 二人の子供もやはり、父親が弱い為、腺病質体質でした。一見、元気にすくすくと成長しているかのようでしたが、ある日突然、高熱が出て早速医者に診て貰いましたら即『大学病院』の隔離病舎に入院させられました。それは「脳脊髄膜炎」という恐ろしい診断でした。  

 時々襲う痙攣に子供は「母ちゃん、頭が痛い」と泣き叫びます。その声は、70余年を過ぎた今でも、私の頭から離れることのないものとして残っています。子供が、叫び苦しみ訴えているのに、親としてどうしてやることも出来ない哀れな状態で、ただ祈る以外になすすべがありません。

 入院している親子共に、次第に悪くなるばかりです。どちらが先に逝くかというような状態で、私は本館病棟と隔離病舎を右往左往するばかりでした。そして5月3日、愛は遂に亡くなったのです。主人も次第に悪くなって、一か月を待たずして後を追うように帰らぬ人となりました。残された聖も、少し風邪気味かと思っている間に肺炎を起こして、あっという間に亡くなってしまいました。

 ニか月足らずに、三人を亡くした私の胸中は到底筆舌では言い現わすことは出来ません。ただ茫然とするのみでした。しかし、聖書の言葉が私を励ましてくれました。

「主ご自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練の中にある者たちを助けることができるのである」(ヘブル2・18)

「神はあなたがたをかえりみていてくださるのであるから、自分の思いわずらいを、いっさい神に委ねるがよい」(Tペテロ5:7)


 今、私が主の憐れみによって生かされている事を思います時、キリストに捉えられている自分をひしひしと感じます。
『京城教会』の先生に、すべての葬儀を御依頼しました。白百合に飾られた、愛の美しい顔は誰もが「まあ、かわいい。このまま飾っておきたいようですね」と言ってくださるのです。教会の先生は「子供が死んだのではなく、ただいる場所が異なっただけで、愛ちゃんは今日も神様のおそばで喜々として遊び戯れておりますよ。又、お母さんを見ているかも知れません。だから泣いたりしてはいけませんよ。愛ちゃんが悲しみますから…」と、いろいろと私を慰めてくださいました。

 母は、私が心の病になってしまわないかと大変心配して、四国へ帰るようにと再三手紙をくれました。私は両親の反対を押し切って結婚しましたので、父母の許へ帰っても自分が惨めに思えるだけで、何の慰めにもならないことが分かっていましたので、四国ヘは帰りませんでした。自分の蒔いた種は、自分で刈り取るべきだと思って、誰一人身寄りのない外地で働くことにしたのです。孤独の中を耐え忍ぶことの出来たのも、キリストの御愛と、共にいてくださるとの信仰があったからこそだと思います。

 結婚して五年目に、何もかもが終りました。その時私は、28才でした。私の身体一つ残されただけで、着る物も食べる物も、お金も全く無いありさまです。しかし、どんな困難も、苦難も、また貧しさにもキリストにあって生かされていると思うと、心に安らぎがありました。

再就職

1人でじっと家にいても、食べていけませんので、初めて派遣看護婦として働きに出ました。行った先の患者さんは、とても難しい方で、看護婦が気に入らなくて七人も代わって私は八人目だと言われたのです。恐る、恐る病室に入って挨拶をしましたら、不思議に思う程とても良い方で、その方は私を大変信頼してくださいました。この方は『京城市大病院』の医学博士、奨学薬学博士だったのです。慣れるにつれて、いろいろのお話をするようになり、先生はこんな事を言われました。
「君はまだ若いのに、何でまた派遣看護婦などしているのかね」
「病院勤務をしたいのですが、良い所がありませんので良い所があるまでと思って、初めて派遣看護婦をしてみました」
「それじゃ、良い病院を世話しよう」と言ってくださって、先生の退院をお見送りして後、紹介して貰った北鮮の永安にある『窒素肥料株式会社』の付属病院の看護婦長兼助産婦として赴任致しました。

 従業員二千人程いる会社で、社宅も沢山ありましたので、お産の仕事も毎日忙しく、過去の悲しい出来事など考えるひまもない状態で私には本当にありがたいことでした。
 神様のお導きの確かさに、ただただ感謝したことです。不思議なことに、ここの院長は主人が入院中にお世話になった主治医でしたので、私の過去のすべてを知っていてくださったので好都合でした。この院長先生も、私をここへお世話くださったその先生のお世話で来られたのだと聞き、何もかも主のお計いであったことを知りました。

 病院には看護婦が30名いました。仕事とが終ると、夜は読書会をしていましたがいつも聖書を読むことにしていました。お互いに、読んで学び合ったのです。賛美歌は、少々知っていましたものを皆に教えて共に歌いました。そうこうしているうちに、院内の空気がすっかり一変して看護婦の態度も良くなり、患者さんにも大変親切になったと、たびたび院長先生より喜んで頂きました。

 こうして、公私共に日々楽しく過ごしています時、薬剤師の方が私に結婚の話を持ってきたのです。私は初めての結婚に随分苦労しましたので、結婚の意志などを毛頭ありませんでした。がいろいろお話を聞いていますと、私の亡くなった子供と同じ年の男の子が二人いるとの事です。
 そのことを聞きますと、子供が可哀想に思えてなりません。私は子供を亡くして悲しい思いをして来ましたが、あちらは母親を亡くしてどんなに辛いだろうかと思うと、私がその子供たちの母親になってあげようと思うようになりました。聖書を開いて見ますと「行け。汝の信ずる如く汝になれ」というお言葉が何回も何回も目に留まり、心にひびいてきます。早速、母や兄に相談しますと写真を見て、「この人ならとてもよさそうな人だから」、と勧めてくれました。

再 婚

附属病院に来て五年目の昭和十二年、十二月も押しせまった日に、ハルビンで結婚式を挙げました。相手は軍人でしたので、健康そのものです。子供たちは、内地の祖母が見ていてくれていました。
 ある晩、うつらうつらしていますと聖書の言葉が心にひびいてきました。「私はキリストと共に十字架につけられた。生きているのは、もはや、私ではない。キリストが、私の内に生きておられるのである」(ガラテヤ2:19ー20)。
驚いてとび起きました。心は嬉しくて、嬉しくて、神様にお祈りをし、このことを生活の中で碓かなものにしてもらいたいと思いました。罪深い私のために、代償を支払って私を生かしていてくださるのです。その御恩寵を思い、深く感謝しました。

 昭和十三年の十月に長女が生まれました。生後3ヶ月の時「チチハル」に転勤を命ぜられて、零下40度極寒の深い雪の中を小さい赤ちゃんをおんぶして、ざくざくと雪を踏みしめながら陸軍官舎に向かったのです。そこには、軍人軍族家族二千余名が住んでいました。私は部隊長に呼ばれて参りますと「これからは、お産の方を全部引受けてほしい」と言うことでした。

 当時は、若夫婦の方々ばかりでしたし、産めよ増やせよという時代でしたので、お産のために私は夜もろくろく眠れないほどの忙しい日々でした。助手三名の軍人さんの奥さんたちは、免状は持っているのですが実施経験がないので教えながら、お産のあるたびに交代にお願いしていましたので助かりました。目がさめれば「赤ちゃんのお湯だ、お産だ」と、陸軍官舎を走り廻っている状態です。
 私も子育ての最中でしたので、仕事の間中、子供のいない奥さんに預けていました。年度替わりになり、内地に預けていたニ人の子供を満州に引き取ることにしました。長男の方は来た時から「母さん、母さん」と言ってよく懐いてくれましたが、弟の方はどんなに心をつくしても馴染めなくて「お母さん」と呼んでもらえるまでには相当苦労をしました。が、二人共素直に成長して、今ではお爺さんと呼ばれるほどの年齢になっています。

 お産を沢山扱っていますと、双子があり、三つ児があり、四つ児も取り上げます。この時の四つ児は、男二人、女二人でした。満州国政府からは、お喜びのふとんと着物、その他一切の必要品が届けられ、質素な満人でしたので大変喜んでいました。

中国に生れし四つ児時折に
如何にせしやと安否を思う


また流産があり、早産があり、さらに奇形児の多いのには驚きました。また兎唇あり、狼咽がありでこんな時にはこちらの方が泣きたいような思いがします。産婦を慰め、励ましてその子を抱え、病院に行く時もありました。また、お産の出痛に耐えきれず泣き叫ぶ人もあり、私も怒ってみたり、すかしてみたり励ましたり、自分がお産をするより辛い思いをすることもありました。

 ある時、満人の家から馬車で迎えに来られて「死にかけているので、すぐ来てほしい」と頼まれました。近所の通訳者を頼んで、一緒に出かけました。行けども、行けどもまだまだと言います。
すでに日が暮れようとしているのに、家に着きません。尋ねると「もうすぐ、もうすぐ」と言うばかりで、心細くなってきました。結局山を2つ越えて、ようやく村の家に着きました。その家には、村中の人が集まっていて大騒ぎをしています。産婦も、相当疲労している様子でした。胎児はと見ると、3日前から片足が出たままの状態です。やっとのことで、赤ちゃんを出す事が出来ました。既に夜の10時を過ぎていました。お産は過ぎましたが、村中の人が寄っていても百円のお産料もありません。
「私はいいから、通訳として雇って来たこの人に少しでも謝礼を上げて下さい」と言いましても、十円のお金も無いのです。仕方なく、また馬車に乗せて貰って夜中の山道を恐る恐る帰り、家についたのは明け方でした。しかし、一日労したかいがあって一命を救うことが出来たと思うと、本当に心はさわやかでいい知れぬ嬉しさを覚えました。昼とも、夜とも区別のつかない程に働いたお産の仕事も、様々な思い出を残していよいよ終りを告げる時が来ました。それは、終戦でした。

敗戦と逃げ惑う日本人

昭和ニ十年八月、思いもよらぬ敗戦です。いよいよ戦争も危くなって来たので、少しでも南下するべく慌しく、その準備をしていましたが、何をどうしてよいやら戸惑うばかりです。そこへ満人がどやどやと上がり込んで来て、手当たり次第、家財や何もかもを奪って帰ります。手のつけられない状態で、どうすることも出来ず、着のみ着のままで車中の人となりました。

 一夜明けてハルビンに着いた時、全員汽車から降ろされて日本の降伏を知り、男も女も泣き伏してしまいました。
日本は絶対に負けない、と信じていただけに、そのショックはどうすることもできません。今後どうなることかと不安でした。日本人はもう、汽車に乗せてくれません。まことに、外地にいて敗戦したほど惨めなことはありません。男の人は皆捕虜としてソ連兵にどこかへ連れて行かれました。残された女と子供は、何時までも駅にいる訳にもゆかず、かといってどこへ行く当てもなく、雨にぬれながら赤土のぬかるみの中を滑りつつ、夜中まで歩き統けたのでした。

 その時、元日本人の学校だった所に辿り着くと、雨を凌ぐためにずぶぬれのままでコンクリートの上に寝て一夜を過ごしたのでした。夜が明けても、何一つとして食べるものもなく、また子供をおんぶすると当てもなくさ迷い歩き出しました。そうこうしているうちに、今度は元日本人のいた陸軍官舎あとに着いたのです。ここに落ち落ち着いてみますと、ここにいた人たちも私たち同様に、何も持たないで逃げて行ったのか、いろいろな食料品が沢山あります。当分、ここに落ち着いて飢えを凌ぐ事にしました。どんな困難な中でも、どこでも、何時でも、神様は私を見守っていてくださるのだと、感謝でした。

 しかし、毎夜のようにソ連兵の襲撃に会い、若い娘さんを横がかえにすると自分の宿舎へ連れて行き、暴行の限りをつくして、あとはニ階の窓から投げ捨てる始末です。そのために、死んだ人も何人かあり、怪我をした人も沢山出たのです。私も親類の娘を連れておりましたので、随分と心配しました。彼女も恐ろしくなったのか、自分で髪を切ると坊主頭になって、顔には墨を塗り、いつも男装してソ連兵の目を逃がれていました。

 毎夜、ソ連兵の襲撃の恐ろしさに八歳の娘は、ショックでとうとう足が立たなくなり、歩けなくなってしまいました。私はその歩けない子供を背負って、みんなの群から遅れないようにと一生懸命に歩くのですが、次第に遅れ勝ちになり、子供を背負ったまま座り込んでしまったのです。

 この時ばかりは「もうどうなってもよい」と思いました。「皆さんは群れから離れないよう、行動を共にして下さい。私はとてもついて行けそうにありません」と、言ったことも何度かありましたが、皆さんが後から押して下さったり、手を引張って下さったりのお陰で飢死することもなく、最後まで行動を共にすることが出来たのです。そのうちに、全員収容所に入れられて治安が落ち着いてくると、娘も安心したのか歩けるようになってほっとしました。

 収容所では、ソ連兵の私役でした。日本人の作った野採や、すべてのものを袋につめて全部、ソ連ヘと毎日、貨車が絶え間なく満載したものを運びます。労働者の私たちは、1日にたかきびのお握りが2ヶ配給されるだけでした。日本に帰りたいという一心で、みな一生懸命頑張りました。

 三才になる私の子供は、どうしても、たかきびは食べませんので、お粥にしてもらいますと「美味しい」と言って、手をたたいて喜びます。たくさん食べさせたいのですが、茶匙に三回もやるともうありません。本当にかわいそうですが、何一つ食ベさせるものがないのです。

 ついに栄養失調になり、八歳以下の子供たちは全滅という悲しい事態になってしまいました。昨日は10人、今日は15人というように次々に死んでゆきます。私の子供も、とても頑丈な子でしたが食べないでは生きられません。こんな時、捕虜として連れて行かれていた主人が思いがけなく、ひげ茫々の姿で私たちのいる所を探し廻って帰って来てくれました。 

 子供も危篤状態で、私も39度の発熱で寝ていましたが、主人の顔を見ると驚きと喜びで、高い熱はどこへ行ったのか、それっきり元気になりました。子供は、その翌日に亡くなりましたが一夜でも父に見守られつつ、また主人も一日違いで子供に会えたことは不幸中の幸いでした。

食足らず日毎死にゆく幼児を
なすすべもなくじっと見守る


 十月三十一日逝った子供を埋葬しなければなりませんが、満州の十月は早士が凍りついていて、なかなか掘れません。そうこうしている間に、主人はまたソ連兵にどこかへ連れて行かれました。私は満人からスコップを借りて来て、凍った上を一生懸命に掘り起こすと亡くなった子供にオーバーを着せ、靴をはかせて外出の姿で土に埋めました。40余年を過ぎた今でも、その子供の姿が目の前にちらついて、熱いものが頬を伝わります。

満州の広野の土となりし吾子
今日も偲びて涙するなり


 そうこうしているうちに治安も落ち着き、全員が収容所を出て、各自生活することになりました。私達一家も、元日本人の旅館の一室を借りて暮らすことにしたのです。当時、チフスが大流行していて、私の家では一番に私がなりました。高熱のために意識不明になり、ニヶ月ほど、うわ言ばかり言っていたそうです。敗戦国民には、一本の注射も薬一服も与えられず、ただ死を待つのみの状態で辛うじて飢えを凌いでいました。そのうちに、家族が次々と寝込んでしまう状態でした。

 こんな困窮のどん底にいた時、昔主人に大変世話になったという兵隊さんが、私たちを探していたと言って来てくださったのです。そして、娘の服や主人の服も持って来たり、お金もたくさんくださったのでした。この方は、ずっとハルビンにいて何の被害にも会わなかったのです。私たちのように奥地にいた者ほど、被害は大きかったのでした。この方のお陰で、私たち一家はあやうく救われ、飢えを凌ぐこともできて病気も徐々に回復したのです。

神はわれらの避け所またカである。
悩める時のいと近さ助けである。
このゆえに、たとい地は変わり、
山は海の真中に移るとも、われらは恐れない。
(詩篇46:1-2)


 神様は何時も、私がもうどうにもならない時に、助けて下さいます。何と感謝なことでしょう。私の体も大分元気になってきたし、働かねばと思い八路軍の看護婦募集がありましたので行ってみました。そして数ヶ月間は、楽しく勤務していました。が、その内に八路年の敗戦となり、北満の山奥に逃げ込むことになりました。

 私たち日本人は四人でした。この軍隊に付いて行けば絶対に日本へは帰ることが出来ませんので、四人が相談して逃げる決意をしました。その朝の駅には、八路軍の人の家族や親類人、見送りの人で一杯で駅はごった返しています。すでに軍隊の人たちは、整列して点呼を取っていましたので、私たちは「今だ」と思って逃げ出すと、近くの優しい満人にかくまってもらい、そこで一夜の宿を取りました。そして翌日、満人の馬車で主人のいるハルビンに連れて来てもらったのです。途中、見張りをしている八路軍の兵隊に「どこへ行くのか」「何をしに行くのか」などと何回も聞かれましたが、馬車の満人がいいように答えてくれましたので無事でした。この時は正に九死に一生を得た思いでした。

 終戦直後、満州では、想像を越える哀れな生活をしてきました。何時になったら、祖国日本ヘ帰ることが出来るだろうかと、空飛ぶ鳥を見るたびに、あんなに飛んで帰れるものならと幾度思ったことか分かりませんでした。日本を恋い、母を慕っては母の夢を何度も見るのです。目覚めては、母に会ったら何から話そうなどと、思いに耽ったものでした。

懐かしい祖国ヘ

 昭和二十一年の九月、ついに引き揚げの噂を耳にするようになりました。しかし、汽車に乗せて貰っても、至る所で下車を命じられて汽車は思うように動いてくれません。思いあまった団長さんは、引き揚げグループの皆から少しずつのお金を集めてそれを機関手に渡すとようやく汽車が走ってくれます。ある所では、ニ晩も青空を見つつ野宿したこともあります。無蓋車に乗せられていましたので、雨の降る日は本当に困りました。敗戦の惨めさを、つくづく感じたことでした。

無蓋車の夜半に降る雨ふせがんと
子らに掛けやる吾のコートを


 コロ島に来て船に乗った時は、今度こそ日本の士が踏めると思うと胸がいっぱいになりました。船の中でもお産をする人があったりして、何一つ道具のないままに何とか無事に安産することが出来てほっとしたものです。よくも産褥熱も出さずに、無事に日本に帰れたことよと共に喜びました。船が佐世保に着くまで、一か月もかかりました。その間、明けても暮れても船の中ばかりで少しは甲板に出て見ようと思っても、衰弱した身体は思うように動きません。どんなに上陸を待ち遠しく思ったか分かりませんでした。

悲しいことに、船の中で死ぬ人もあり、せっかくここまで苦労して帰って来たのに肉親と会うことも出来ずに水葬されるとは、人ごととは思えませんでした。ところが、佐世保を目前にしながら擬似コレラ患者が出たとて、また十日間上陸を延期されたのです。

擬似コレラ患者ありとて十日間
故国を見つつ足止めをくう
食足らず日毎死に行く引き揚げ船
水葬されし人の座のあく


 佐世保に上陸する時は、さすがに一同が歓声を上げて喜びました。どんなに、今日の日を待ったことでしょう。下船した時に、麦ばかりのお雑炊を御馳走になりましたが、その美味しかったこと。今の、どんな御馳走にも替えられないものでした。ほんとに生き返ったような、カが内から出てくるのを感じました。

汽車は、一路四国ヘと走ります。見るもの、聞くものすべてが懐かしく、嬉しく、また母の顔も浮かんできます。夢にまで見た懐かしの祖国、そして肉親との再会を思い描きつつ家に着いて見ると、母もたった一人の兄もすでにこの世の人ではなかったのです。私はまるで断崖から突き落とされた思いでした。戦後、音信不通になった一年間に変り果てた故郷の様子に、ただただ驚くばかりでした。何のために苦労して帰って来たのだろうか。私は生きる勇気を失いました。この世に誰一人頼る人とてない、暗いどん底にいるような時、神様はこう語って下さったのです。

 しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、鷲のように翼をはって、のぼることができる。
走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない。 (イザヤ40:31)


この聖句がどんなに私を勇気づけてくれたことか、かくまで私のことを心配してくださっているのかと思うと、本当に神の愛に止めどなく涙が溢れてきて生きる勇気が沸いてくるのでした。神様はどんな時にも、どこにいても私を守って下さいました。

 佐世保に上陸した時、1人あたり五百円が支給されましたが、配給米を買う事も出来ませんでした。その頃、住家の田舎(土居町)では病気になっても死ぬほどにならないと誰も医者には診て貰わないのですが、私がここに引き揚げて来てからは、あちこちから「子供が引きつけを起こしたから来てほしい」とか「また熱を出したから診に来て」とか「怪我をしたから処置してほしい」とか、まるで医者の代りに頼まれるのでした。時にはお医者さんから「注射をして上げて下さい」と頼まれることもありました。
農家ばかりですので、治療代としてお米を貰ったり、野菜も次々と頂いたりで他家へお裾分けするほどでしたが、食料難でしたので大変助かりました。

 そうこうしているうちに、本職のお産の方も次々と頼まれるようになり、お産の済んだ人たちは「あの人にお産をさせて貰うと、とても楽に出る」と一人一人が次々に宣伝してくれました。その頃、土居町にも八名の助産婦がいましたが、私が何時も取扱い件数が多いのです。

 生活も何とか落ち着いて来ますと、私は何とか教会に行きたいと、心の渇きを覚えていました。
会う人ごとに「教会がありませんか」と、口癖のように尋ねていました時、近所の青年が教会のある事を教えてくれました。尋ねながら行ってみますと、それは小さい草屋根の家でした。

門を叩くと、先生は大変喜んで迎えて下さったのです。先生を通して御言葉を聞くのは、何年振りだったでしょうか。
初めてお会いした先生ですのに、嬉し涙が止め度なく流れて止まりませんでした。心からの安らぎと、嬉しさと喜びに満たされたのです。そして次の日曜日を楽しみにして、朝早くから近所の子供たち四、五人を日曜学校に誘って連れて行きました。子供らも大喜びでした。

当時はバスもなく、一時間半も歩いて教会へ行っていました。何とかして、教会の近くに家が与えられるようにと神様にお願いしていましたら、ある日、近くのおじいさんが「売家があるから」と知らせて下さったので早速、主人と共に見に行きました。そこは100坪しかありませんので、主人は「狭過ぎる」と言って反対でした。私もせめて150坪位の広さはほしいと願っていたのです。そこは、たしかに教会へ行くのには五分とかかりませんので、少し狭いけれど主人にも納得して貰って此処こそ神様が与えてくださった所だと思い、早速買い求めてすっかり建て直しました。

 教会が近くなったので、本当に嬉しく日曜日が待ち遠しい思いで教会に行っていました。ところが、今度は先生の御都合で姫路の方へ引越されて、土居町には教会も先生もなくなってしまったのです。教会員の方々は隣りの新居浜の教会へ行かれたり、また三島へ行った人もいましたが、私はお産の人が入院していますので産婦を置いて遠方に出られません。残念でしたが、神様の時を待つことにしました。

手術で味わった十字架の苦しみ

 引き揚げ後、七年目のことでした。子宮筋腫になって『住友病院』へ入院しようと支度をして行きましたが、入院を断られました。病院の先生は、私がガンだと思ったようで、『岡山大学病院』か『大阪大学病院』に行くよう勧められました。結局『岡・大』に行く事にして紹介状を律いて貰って入院することにしました。

 その日は、土居駅を夜中の三時に出発ですのに、駅に行って見ると、50軒ほどある村の人たちが誘い合わせて、一軒残らず私を見送りに来て下さっていたのです。
「元気になって帰って来なさいよ」とロ々に言って励ましてくれました。その時の皆さんの温かい心に感激、また感謝しました。

入院には何かと用事を頼もうと、次男を連れて行ったのです。病院に行って、1週間は検査ばかりでした。31日が手術日ときまり、その前日の昼頃から、次男が腹痛を訴えます。夕方になっても益々ひどくなる一方で、盲腸炎だろうと思って、外科の先生に診て貰いました。やはり腹膜炎を起こしかけているとの事で、すぐ手術という事になりました。

 私は外科の六階の病棟を上がったり降りたりして夜具を運んでいますと、外科の先生は「あなたの明日の手術こそ大変なのだから余り動くと、術後の経過が悪くなりますよ」と言われましたが、その通りになってしまいました。

朝五時に手術をした子供の所ヘ、こっそりと見に行きますと「痛くて一睡も出来なかった」と言いますが、どうする術もなくただ励まし、勇気づけて自分の病室に帰るしかありませんでした。

 私は、当日の午後一時からの手術でした。麻酔注射で次第におぼろになっていましたが、手術台の上で足を括られたり、手を括られた時に、十字架にかかられたイエス様のお苦しみを思っていました。そして、心の中で祈りました。麻酔が利いてきて次第に意識がぼんやりしていく中で、キリストの十字架だけは眼前にはっきりと浮かんで見えるのです。
「主よ、すべておゆだね致します」と心の中で祈り続けました。手術は5時までかかりました。腸の癒着がひどかったので、長時間を要したとの事でした。

摘出した筋腫は児頭大もあって本当に驚きました。手術後の肉体的苦痛は、予想以上でした。4,5日ガスが出ない為に一滴の水も禁止され、8月の暑さの中で喉がカラカラになったり、また呼吸困難が伴って開腹している腹部が裂けそうに咳が出始めたのです。

 内科の先生に診て貰うと「肺炎を起こしています。手術前に動き過ぎたために術後の経過が悪いのです」と言われました。高熱のために、何日たっても食欲がありません。そのために、夜中も二時問毎の注射です。静まりかえった病室の長い廊下を、無気味に聞こえる靴の音がすると思うと、それは私の注射のために来てくれた看護婦の足音でした。

 手術後七日目に初めて、牛乳少しとパン少しを無理矢理口にしましたが、砂をかむ思いでした。先生が付添いに話されたのか、私が眠っていると思ってか「この人はもう駄目なのです」と囁いているのが聞こえます。しかし私には、神様の十字架がはっきり見えましたし、「主を待ち望め」という御言葉が心から消えませんでした。誰が何を言おうとも、私の心は平安でした。
「神様、すべてをみ手におゆだね致します」と、祈り続けました。このお言葉を思いかえしていますと、徐々に快方に向かっていったのです。一時は危篤状態にもなりましたが、神様のお導きより、ぐんぐん良くなっていさます。肺炎が良くなると、苦痛に呻いた日々が信じられない程の早さで元気になり、一ヶ月後の八月末日に思いがけなく、主治医より「退院してもよい」とのことで全く夢のようでした。退院を命ぜられると、水面からとび立つ鳥のように嬉しくていそいそと支度をしていて先生から叱られたものでした。

 早速、退院を家に知らせて土居駅に着いて見ると、駅いっぱいの出迎えの人に何事かと驚いて良く見ると、それは入院の時お見送り下さった方々が一人残らず、私の退院を喜んで迎えに来て下さっているのです。ただただ、感激の涙でした。このように多くの方が、私ごとき者を愛して下さっているのかと思うと、今度こそ私も出来得る限り、誠心誠意で皆様のためにご恩返しをしなければと心を新たにしたことでした。

 入院中はお産の仕事は皆お断りして、他の助産婦さんに頼んでいたのですが、不思議なことに誰一人生れていないのです。皆予定日を過ぎているのに、まるで私の帰りを待っていてくれたように、私の帰宅後ニ、三日して次ぎ次ぎと赤ちゃんが生れました。その当時、私は職業を持っていましたので、当然主人の扶養家族ではなく医療費は全額負担でした。特に一時は病状悪化のために、注射もたくさん射ちましたので十日毎の勘定は驚くほど高く看護婦さんが気の毒がるほどでした。もし、入院がもう半月も延びれば生活に困るところでした。また、お産の方々にも迷惑をおかけすることでしたが、何もかも好都合にいったのです。

 今さらのように、神様の御摂理に驚くと共に、本当に感謝しました。次第に健康を取り戻すことが出来て、今まで通り夜中といわず、嵐の夜もいとわず懸命に働きました。

主人の死

 随分元気でした主人は、昭和三十八年五月頃より身体の不調を訴えるようになりました。早速医者に診て貰うと、肝臓ということでした。いろいろと手当てをしていましたが、次第に悪くなり黄疸を併発して、医者からは「あと一か月の命です」と言われた時は、信じられない驚きでした。そして丁度一か月後に主人の容態は急変して八月五日に永遠のふる里へと帰って行ったのです。主人もニ、三度は教会へ参りましたが、ついに神の子となることが出来ず残念に思いました。
主人は、何かとよく気がついて家のことをよくしてくれていましたので、片腕をもぎ取られたように力が抜けてしまいました。しかし、神様に力づけられて、慰められ、励まされて立ちあがることが出来、お産の仕事を続けるようになりました。

再度の入院

 特にお産の方が多忙になった昭和四十一年一月頃、不眠不休で働き続けていました。一日ゆっくり休みたいと思っても、新しい産婦が次々に入院して来ますので休むことも出来ず、一生懸命に続けていたのです。ある日、何気なく自分の脈を計って見て驚いたことに、打つよりも休む方が長いかと思われる不正脈です。尿を調べてみると、肝臓も腎臓も悪くなっていました。

 早速、医師に診て貰いますと「すぐ入院して下さい」と言われましたが、産婦のこともありますので明日入院することにして、いったん家へ帰りました。その夜入院の準備をしていますと、ひどい心臓発作を起こして絶対安静を命じられたのです。遠方にいる子供たちにも知らせるようにと言われ大騒ぎをしました。こうなると産院は当分休みにして、ゆっくり静養する事に心を決めざるをえません。近所の医者が朝にタに来て注射等して行きます。そして、一か月半が過ぎた頃でした。
「わたしは主であって、あなたをいやすものである」(出エジプト15:26)という聖書の御言葉を聞きました。それ以来、今までの病気はうそのように取り去られて、身心共にさわやかな気持になり、家のまわりを散歩できるようになったのです。

 元気そうな私の姿を見た産婦たちが、また次々と出産のために入院して来ますので、断るわけにもいかず私はお産の時だけに立合うことにしました。私も僅かニか月で以前の健康を取り灰すことが出来たのも、主の御恩寵と思い心から感謝しました。
昭和五十年十月には分に過ぎた「県知事賞」を戴き、拙い者の業が認められたことを感謝しました。

神様の守り

 ある日、用事のために自転者で出かけました。対向車を避けようと、自転車から降りて道の端で車の行き過ぎるのを待っていた時です。その車に跳ね飛ばされて、ショックのために意識不明になりました。気がついてみると、そこは病院のベッドの上でした。どこか怪我をしたのではないかと、手足を動かしてみてもどこも何ともありません。医者は念のためにと、頭のレントゲンを撮ってくれましたが、どこも何ともありません。しかし、自転車は哀れな姿になって修理も出来ない状態でした。

即死しても不思議でない現状の中にあって、すり傷一つせず無事であった事は、神様のお守り以外に考えられませんでした。静かに祈っていますと、神様の深い愛と深い恵みが心に広がってきて涙が溢れてきます。この夜は、まんじりともせず一人静かに感謝のお祈りを献げました。

神様は遠き彼方と思いしに
近くにありて吾に語らん
かくまでも愛し給える御恩寵
ただ感激に涙あふるる
神の愛如何なる時も頼る身を
守り給わん吾は安けし


 また昨年(1986年)には思いがけず「厚生大臣賞」を戴き、本当に身に余る光栄でした。思いもよらぬ唐突なことでしたので驚きましたが、まず神様に感謝しました。

助産婦としてひとすじの五十年
大臣賞を慎みて受く


また、私の受賞に際して友人は「お祝いに」と、こんな歌を詠んでくださいました。

吹雪舞う夜更けも産屋訪ねけん
君の過ぎこし尊さものかな

エス様の使徒さながらの五十年
励みし助産婦の君を尊ぶ


私は信仰薄く弱い者ですので、この頃は聖書をそのまま書き写しております。何分にも老体になりますと、覚えるよりも忘れる方が早いのですが、聖書の言葉を書きながら味わっています。

 私はよく風邪をひいては高熱を出していましたが、教会に行くようになってからは不思議なほど風邪をひかなくなり、元気になりました。これも神様のお恵みです。一昨年までは、母子保健のために自宅訪問をして新生児の指導に廻っていました。が、七十八歳という寄る年波には勝てず、足が弱くなり今年は止めました。今は教会に行くことのみを、何よりの楽しみにしています。
木曜日には「御言葉を読む会」が出来まして、また楽しみが増えました。

 教会では会堂建築に近々取りかかることになっています。そびえ立つ十字架を見たら、また信者も増えてくるのではないかと、祈りつつ期待しているのです。
私の人生も残り少ないことでしょう。祈りと、御言葉に仕えて主に導かれつつ、静かに永遠の御国に帰れたらと願う今日今頃です。

人生の海の嵐に もまれ来しこの身も
不思議なる神の手により 命びろいしぬ
いと静けさ港に着き われはいま安ろう
救い主イエスの手にある 身はいとも安し (おりかえし)

悲しみと罪の中より 救われしこの身に
誘いの声も霊しい揺すぶることえじ
凄まじき罪の嵐のもてあそぶ間に間に
死を待つは誰ぞ直ちに 逃げこめ港に (聖歌472番)


来し方

明治、大正、昭和と八十年を振り返って見れば、昨日のことのようにも思えますし、また遠い道のりだったようにも思われます。

あなたがたの会った試練で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試練に会わせることはないばかりか、試練と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。 (Uコリント10:13)

喜びも悲しみも、みな人生の通らねばならない道ですが、過ぎし八十年を神様に守られ、導かれて来ました。今あるのは、神様の恵み以外の何ものでもありません。

キリスト信仰の揺るぎない確かさは、人をして根底から新しく造り変えて下さり、生き生きとしたカを与えて下さいます。生ける主。キリストと、聖霊なる神様を信じお従いして歩んで参りました。遠い昔を思い出すままに、切れ切れに書いてみました。私にとって、神様を信じていなかったら、すべてが空しいことでした。しかし、神様を信じる者には天国があり、再臨の約束があります。何とすばらしい救いでしょうか。主のみ名を崇め、み恵みを感謝しつつペンを置きます。
         (日本ホーリネス教団土居キリスト教会員)


その後>鷲沢姉は、証のペ−ジに記載しております大西姉と、老人福祉施設”ちかい”で同室になりました。大西姉は長年の祈りの友です。しかし、大西姉は2001年の夏、自動車との接触により、足と腰を複雑骨折され、暫く危険な所を通過され、長い間病院暮らしでしたので、鷲沢姉は、祈りの友である大西姉とお会い出来ない2年間を過ごされました。
 その間、鷲沢姉は96才という御高齢に加えて、足の痛み、皮膚の痒さで眠れない日が続き、信仰も忘れがちになっておられました。

2003年8月11日  左 鷲沢姉(96才) 右 大西姉(93才)
 しかし、くすしい神のお導きによって、祈りの友の大西姉が、”ちかい”に入所される事となりました。しかも、同室です。
 先日、教会員の高橋姉が、上記の鷲沢姉自身のお証を鷲沢姉にして下さり、その夜、鷲沢姉は1晩かけて、主イエスと共に歩まれた御自分の生涯を思い出され、翌日、牧師が訪問した時には、喜びに満たされた笑顔で、「今日からまた、大西姉と一緒にお祈りします」と語って下さいました。
                
土居教会牧師  千葉和幸  

前任者濱牧師御一家と

2003年8月20日
 
濱牧師御一家&大西姉&千葉牧師