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故、大西ハルエ姉(99才土居教会員)百万人の福音より
(下に記載)
百万人の福音2001年2月号より
…シリーズ キリストの証人…
「主が共にいて下さるので何一つ乏しい事はありません」
   
大西ハルエさん
芸者置屋から脱出して、行き着いた場所は「婦人ホーム」だった。

そこでキリストに出会ったハルエさんは、やがて世の誘惑に会い、再び魂の荒野を彷徨った。

戦後16年が過ぎた時、「教会へ行きたい」という思いは叶えられ、暖かく迎えてくれた教会の群れの中で信仰が復興した。

そこから子供達に福音を伝える教会学校の先生としての働きが始まった。

91歳の先生
 大西ハルヱさんは91歳を越えた今も、現役の教会学校の先生である。耳はすっかり遠くなったが、子どもの礼拝で語るそのメッセージはまだまだ力強い。

子どもたちはハルヱおばあちゃんが大好きだ。

 去年の春に仙台から転校してきた女の子は「大西先生に会えただけでも土居に来てよかった」と言ったという。

いつもニコニコしているその顔からは、決して伺い知れない若い日の苦労と、迷い…その闇が深かっただけに「万事を益としてくださった神さまの恵みは大きかった」と大西さんは証ししてくれた。
格子なき牢獄

 1910年、大西ハルヱさんは、愛媛県宇摩郡川滝村〈現在の川之江市川滝町)で生まれた。

 数え年十八歳の時に、今治市の芸者置屋へと連れて行かれた。丸抱えで五年間、七百円の契約に縛られ、いくら働いても、収入は親方のものとなる生活が続いた。

 21歳の年も暮れようとするある晩、立ち寄った玉突き場で・人の青年に出会い、その清らかな感じにひかれ交際するようになった。やがて、結婚の約束をするようになり、将来の夢を語り合うようになった。

だが、2人の噂が親方に知れる事となり、行動が厳しく監視されるようになった。「二人は、会えなくなり、私は多額の借金に縛られ、格子無き牢獄にいるようでした」。

ハルヱさんは芸者置屋からの脱出を決意する。

 「何事でも一生懸命になると、不思議に道が開けるものです」。ある晩、偽電話で、人々の注意をそらせ、人日につかないように名仙のふだん着で何一つ持たず、裏門から逃げ出し港に向かって一目散に走り出した。

その夜は顔なじみの家に匿ってもらい、次の朝早く、船で本州に渡った。
 
岡山から神戸へ。そして、汽車の中で出会った見知らぬ青年の助けで、大阪中之島にあつたジャパン。レスキュー・ミッションの婦人ホームへと辿り着いたのである。
迷える羊
 ミッションに到着した日、ハルヱさんは、温かい歓迎を受け、さっそく、木綿の着物と帯を贈られ、それまで着ていた物や所持品は事務所に預けた。

その晩、生まれて初めてのキリスト教の集会に出席したハルヱさんの手には聖書と聖歌が渡された。

「初めのころはお話の内容が分かりませんでした」。ある夜の集会で"九十九匹の羊"という聖歌が歌われた。

  九十九ひきの羊は おりにあれども
  もどらざりし一ぴきは いずこに行きし
  飼い主よりはなれて奥山にまよえり
  奥山にまよえり
  九十九ひきもあるなり 主よよからずや
  主はこたえぬ迷いしものもわがもの
  いかに深き山をも 分け行きて見いださん
  分け行きて見いださん


 この聖歌を聞いているうちに、ハルヱさんは、鼻の奥のほうが痛くなり、熱い涙が溢れ出てきた。

「迷子のたった一匹の羊のために、見つかるまで探し続けられたイエスさまというお方の事が私の心を強く打ちました」

 婦人の家での生活が慣れて来た頃、堺市郊外に建設中だった慈愛館が完成、移転する事になった。施設は三棟あり、一号館には廊からの婦人たち、二号館には献身者と二、三人の不良少女が、三号館には、身寄りのない老婦人と幼児が収容されていた。

各館に宣教師と牧師が起居を共にし世話をしていた。
 此処でも朝夕に聖書の話があった。「私は聖書のお話を聞いている内に自分の罪に染まった醜い心が分かって来て、自分が嫌でたまらなくなったのです」。

 小野先生はそんなハルヱさんに福音を語った。「イエスさまは、あなたのその罪の為に身代わりとなって十字架にかかって死んでくださったのだから、それを信じてイエスさまを心に受け入れさえすれば、今までの、全ての罪は赦され、新しく造り変えて神の子としてくれるのですよ」。

 そして、ヨハネの手紙第一、1:9の罪の赦しの聖句を読むと、ハルヱさんがこの聖句を信じて救われるようにと涙を流しながら小野先生は祈つた。

「私も後から後から湧き出る涙と共に、悔い改めのお祈りをしました」。ハルヱさんが初めて祈った瞬間だった。
析っている内に、"救われた"という思いとともに、心の底から感謝が湧いてきたという。
受洗と献身
     1934年受洗の時
 1934年、レスキュー・ミッションに行った翌年の三月二日、春の嵐の吹き荒れる寒い日に礼拝堂の前のプールで、ハルヱさんは10人程の女性と共に洗礼を受けた。既にその時には、自由廃業が成立していた。

 「それからまもなく献身して、先生方のお手伝いをするかたわら、私設聖書学校で聖書を学ばせて頂きました」。

学びは午前中である。午後になると宣教師一人と献身者一人が一組になって、京阪神の遊廓や花柳界、キャバレーなどにトラクト配布に毎日出かけるようになった。

〃全て重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなた方を休ませてあげよう" 〈マタイ2:28)
 と書かれたトラクトを、歩いている男達に片っ端から手渡した。
するとその中の何枚かは女性の手に渡り、救いを求めて来る人もあつた。

 ある寒い晩、背の高いカコールデー宣教師と小さなハルヱさんが大阪の松島遊廓に行った時のことである。

 門を入ると、ゾッとする殺気のようなものを感じた。すると、あちこちから数人の男が出て来て、二人を取り囲み、口々に恐ろしい声で宣教師を脅迫し始めた。

「私は顔からさっと血の気が引くのを感じ、体がガタガタ震えてどうにもなりませんでした」。しかし、カコールデー宣教師は毅然として、いきり立つ彼らに静かに応対していた。

「二度と来るな。今度来たら無事に帰れると思うな」。彼らは一層声を荒げた。
「もう来ないと約束はできません。神の御心でしたらまた来ます」と宣教師は静かに言った。

 外国人だったからか、暴力はふるわれず、無事に二人は帰る事ができた。この時、ハルヱさんは、神と共に働く者の強さをまざまざと見せられたという。
誘惑され、主を捨てる
 誘惑は思いがけない所ろから忍び込んで来た。
ミッションで、献身し伝道に励んでいたハルヱさんのもとへ、今治で別れたきりの、あの青年の姉が、突然、訪ねてきた。

聞くと、彼は、ハルヱさんが忘れられず、いくら縁談があっても一向に取り合わず、酒びたりの生活を送っている。料亭で暴れ、警官を殴って、今は、六カ月の刑で服役しているのだという。
更正
 「彼を更生させてくれる人はあなた以外いません。帰って来たらぜひ結婚してやってはもらえませんか」。
涙ながらに話す姉の言葉にハルヱさんはショックを受けた。

 「神さまのお導きを一生懸命に祈っていても、いつの間にか、彼の事で頭が一杯になって、祈る事もできなくなったのです」
 彼が出所して、大阪の兄の所に来ていると便りが来た時、ハルヱさんは矢も盾もたまらず、ミッションの宣教師には黙ってその兄の家を訪ねた。5年ぶりの再会だった。

「彼に会った私は、すっかりサタンの虜になっていました」。被と再び会う事はないと思ったから、全てを献げます、と言えた。
 だが、今、彼と会う事ができた瞬間、主に背を向けて歩き始めていた。

「私は、主イエスさまを捨て、あれほど愛してくださった先生方に背いて、彼と暮らし始めたのです」。阿倍野住吉町の一角に、彼の姉が大衆食堂を開くように準備をしてくれた。
 新居浜でジンギスカン料理の店を開いていた頃
 思い続けていた彼との生活は夢のようだった。彼もとても幸福そうで食堂の主人らしく、白い上っぱりにエプロンを着けて生き生きと働いた。

だが、この幸福は長くは続かなかった。五年の空白は二人の間に大きな溝を作っていた。
 幼い信仰とはいえ、クリスチャンになっていたハルヱさんと彼とは歯車が合わない。いつしか、彼は、また酒に走るようになっていった。

そして破局が来た。酔って出刃包丁で脅す彼の姿を見た時、ハルヱさんは、着のみ着のままで四国へ逃げ帰った。

まもなく、彼は33歳の若さでこの世を去った。「更生させる所か、彼の命を縮めた責任の大半は私にあります」。

 彼に一言の福音も語らず、彼を死なせてしまったと嘆くハルヱさん。
「神さま、どうぞお許しください」と祈り続けた。
中国での生活
 彼と別れた時、ハルヱさんは実家のある四国へではなく、ミッションへ、そして神さまのみもとに帰るべきであった。だが、現実はそうはならなかった。

今治の妹の嫁ぎ先に身を寄せていた時、再婚話があった。相手は奥さんを亡くし、後添えを探しに中国の北京から帰ってきていた男性で、北京で手広く食料品商を営んでいた。
会って見ると体格の良いたいへん朗らかな人物だった。
 
当時、信仰の試みに会い、生きる事に疲れていたハルヱさんは、いっそ外地でやり直そうという気になっていった。

 1935年、新しい生活を求めて北京へと旅立だった。
夫となった男性は元満州国の官吏で、ある県の副知事をしていたが、脱サラで北京で商売を始めていた。全くの素人だったが中国語が堪能で、思い切った商売をしていた。

 その頃、北京で日本人が中国人に射殺されるという事件が度々起こった。
恐れから、ハルヱさんは眠れない夜が続いた。眠りが来ても、恐ろしい夢を見る。

そんな時、「神さま、助けてください!」と叫んだ。そうすると体がすうーつと浮き上がる感じがする。「永久にいます神はあなたのすみかであり、下には永遠の腕がある」〈申命記33:27)という聖書の言葉がその度に心に浮かんできた。

 1943年、太平洋戦争が始まって、二年後、夫の心が離れ、彼に外で子どもが生まれた時、ハルヱさんは、また家を出る事になった。
そして一人で、天津へ向かった。

 当時、日本軍が中国を侵略していた時代である。天津では日本人経営のヤマトホテルのメードとして働くようになった。
 1945年8月15日、終戦の報をハルヱさんは、天津の仕事場で聞いた。

翌年の2月、6年に渡る中国での生活に別れを告げ引湯げ船で、佐世保へ。「国破れて山河あり、生きて祖国の土を踏めるなんて…。その時は、何を見ても涙、涙でした」。
焦土と化した今治に着いてみると、焼け跡の小さな小屋を建てて妹たちは生活していた。

 ここで豆腐の行商などをしながら、ハルヱさんは懸命に生きた。大阪の婦人ホームを離れて、あまりにも長い年月が流れていた。
「神さまを信じなくなったわけではありませんでした。けれど、ミッションの先生の反対を押し切って出てしまい、犯した罪の大きさに、もうあそこには帰れないと思ってしまったのです」

 再び、罪ゆるされて引き揚げてから十六年もの間、魂の荒野を彷徨い続けた旅に終止符が打たれる時がきた。

 1962年、友人が新居浜で家を見つけてくれ、そこを改装して小さなジンギスカン料理の店を始めた。安くお美味しい、店は繁盛した。

そんなある日の事キリスト教の者と言って若い女性が本を売りにきた。聞くと「1975には、キリストの再臨がある」という。ハルヱさんは、「その時期はイエス様さえ知らないと聖書に書いてるのに、どうして?」と疑問をぶつけた。
 ミッショで教えられた事とは全く違う、と分かった時、その女性の来訪を断つた。

 「長い間、教会を離れていたので、ものみの塔の事を知りませんでした」しかし、この事がきっかけとなり、教会へ行きたいという思いが猛烈にハルヱさんの心に起こってきた。

「矢も盾もたまらず、近くの教会を訪ねました」。1962年5月のある日、新居浜教会〈日本キリスト教団)の牧師は温かくハルヱさんを迎え入れてくれた。

「私の長い長い告白を、先生は忍耐をもって聞いてくださり、祈ってくださいました」
 その時開かれたのが次の聖書の言葉だった。

〃もし、私達が自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、全ての悪から私達をきよめてくださいます"
〈Iヨハ1:9〉

 その御言葉に触れた時、長い間、主を捨てたという罪の意識が心を占領していたハルヱさんにとって、その大きな罪がゆるされる事は、言葉に表せないような喜びと感謝となった。

「祈りなさい」と牧師は言った。「心から、お詫びと感謝を申し上げたかったのですが、途中から涙があふれ、ほとんど言葉になりませんでした」
 神さまが、もし気短なお方なら私はとうの昔に滅んでいたでしょう、とハルヱさんは語る。

  もし恵みなかりせば
  はやほろびはてしならん
  あるはただ罪のみ いさおしなきわれぞ
  み救いをうけし罪人にすぎず
  されどわれ人に伝えん
  めぐみふかきイエスを〈聖歌522番)


 この賛美のように、大西ハルヱさんのその後の人生は全く変えられていった。機会をとらえては、店に来るお客に救われた証しをするようになり、従業員にも福音を語るようになつた。
 聖日礼拝を守るため、お客が一杯来る日曜日も店を休業にした。
土居キリスト教会
 63歳になった時、大西さんは、郷里の近くの土居町に移転した。
自然に恵まれ、田園風景の広がるこの町は、ハルヱさんの心を温かく包んでくれた。
新居浜の病院に入院していた折に紹介された土居キリスト教会を訪れた時、なにか魂の故郷に帰ってきたような喜びがあったという。

 当時、教会には教会堂はなく、古びた家屋で集会を開いていた。
そこで、教会学校を開く事になった時、ハルヱさんは、教師になるように要請された。
「私はその資格のない事を知っていますが、これが神さまから出た事なら、神さまご自身が必ずお助けくださると信じました」。
 以来、91歳になった今も、現役の教師として、日曜毎に子ども達に福音を伝えている。

「土居キリスト教会はお年寄りの信徒の祈りによって支えられているんですね」。2000年3月に仙台から土居の教会に赴任した千葉牧師は、大西さんをはじめ、老年信徒の信仰の祝福を語る。

 肉体は日々衰えていくが、とりなしの祈りというクリスチャンの最高の働きが、お年寄りによって担われているのだ。

 大西さんの一日も、またとりなしの祈りから始まる。午前5時に起きると、8時の朝食まで、祈りのノートを頼りに何百という人々の名前をあげて具体的に心をそそいで祈る。

 とりなしの範囲は日本国内にとどまらず、中国の苦難の中にあるクリスチャンにまで広がる。とはいえ、体の疲れはどうしようもなく、ウトウトしてしまう事もある。そんな時には、祈れなかった人々の為に、午後も、とりなしは続くのだという。

 今、大西ハルヱさんは教会から、徒歩20分の借家で一人で生活している。年金や生活保護で支えられているが、自分の為に使うものはごく僅かで、伝道の為に献げる事が出来る事を心から喜んでいる。

そして、金曜日午後には、教会のトイレ掃除を天職のように続けているという。
「貧しさも苦しさも、私達の主イエスさまは、全て益としてくださいました」。そう語るハルヱさんの生き様は前向きで、生きる勇気をまわりの人々に与えているように思えた。

   百万人の福音誌より

その後>大西姉は、2001年の夏、自動車との接触により、足と腰を複雑骨折され、暫く危険な所を通過されました。
日曜学校の子供達や、教会の方々、彼女に祈られた全国、全世界の方々が熱い熱い祈りを献げて下さいました。

 そんな中、彼女は2度の大手術を通り抜け、今は、教会員の方の助けによって月2度程、病院から車椅子で礼拝に出席されておられます。
 
 大西姉が大怪我をされた時、皆が感じた事は、祈ってくださる器を失う危機感でした。
大西姉の、”祈りの答えとしての癒し”を見ていて、「祈る方は祈って頂くのだ」と教えられました。

 そんな訳で、今、日曜学校の教師としての働きは出来ません。でも、祈りによって、今も働いて下さっております。

 姉から出る言葉は、”祈りから生まれ出て来る重荷に満ちており”、まだまだ、日曜学校の教師としても、キリスト者としても現役である姿に励まされております。




・2003年、2月3日に豊岡台病院から、土居町にある”ちかい”
 という老人施設に移られました。

2005年1月、「ちかい」から、同じ四国中央市土居町にある、「豊寿園」に移られました。
     

・2009年 2月21日(土) 朝7時半 召天 99歳
 21日(土) 前夜式
 22日(日) 告別式
 東京から、祈りの友も駆けつけてくださり、主の栄光が現された、前夜式、告 別式となりました。
 また、生前のご意志により、献体をされました。

 お祈りありがとうございました。私達も、大西姉の生き様を受け継いで、主と 共に信仰の馳場を歩んで行きたいと思います。

 2003年7月21日

ブラジルへ行かれる宣教師 新谷牧師夫妻(左奥)
祈りのお友達、東京の守部さん(右前)