今週の聖句 「まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、哀れに思って走り寄り、その首をだいて接吻した」   ルカによる福音書第15章20節

2018年8月12日
説教題 「罪人を憐れんで走り寄る神」
聖書箇所 ルカによる福音書第15章11節~24節
説教者 安井 光 師

 主イエスは三つの譬話(15章)をもって、失われた罪人を捜し求め、またその帰還を待たれる父なる神の姿を示されました。

 ある人に二人の息子がいました。弟息子は父に財産を分けてくれるよう頼みました。父は何も言わず弟息子に財産の持分を与え、彼はそれを持って遠い所に出かけました。彼には志の高い目的があったわけではなく、ただ父の支配から離れ、自由気ままに生活することを望み、「そこで放蕩に身をもちくずして財産を使い果たした」のでした。ひどい飢饉が起り、彼は食べることにも窮し、豚の餌で空腹を満たしたいと思うほどに、惨めな状態に陥ってしまうのです。

 イエスが語られた「放蕩息子」は、神から離れた罪人の姿を表しています。神は人間にとって、天の父であるお方です。人は神のかたちに造られ、神との愛と真実の交わりの中に生きるように造られています。ところが人は神から離れ、神に反抗し、神を否定して、自分勝手な道を生きているのです。人はお金と自由さえあれば幸福になれると考えるかもしれません。しかし物質的には満ち足りていても、霊的には貧しく飢餓状態にあるのです。神から離れて歩む人は皆、霊的に放蕩息子なのです。

 放蕩息子は飢えと空しさの中で「本心に立ちかえって」、父の家に帰る決心をしました。自分のやってきたことの間違い、自分の思い違いを示されたのです。ただ自分を責め、自己嫌悪に陥るのでなく、父の家を思い起し、「天」を見上げました。そうすることに、唯一の解決があったからです。「立って、父のところへ帰」ることは、心の変化にとどまらず、回復と真に祝福された新しい生活への確かな第一歩でありました。

 父は息子の帰りを待ってくれていました。「まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、哀れに思って走り寄り、その首をだいて接吻し」ました。父は、もはや「むすこと呼ばれる資格」のない彼を「雇人のひとり」として迎え入れるのでなく、かけがえのない愛する息子として迎え入れたのです。父は「むすこが死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった」ことを心から喜び、祝宴を催したのでした。

 私たちがどんな失敗や過ちを犯し、罪を犯したとしても、それを赦し、私たちを受け入れて下さる神が、私たちの父として天におられるのです。天の父は私たちの罪を赦すために、神の子として新しく生かすために、自ら走り寄って私たちを迎え入れて下さるのです。