今週の聖句 「わたしの娘がただ今死にました。しかしおいでになって手をその上においてやって下さい。そうしたら、娘は生き返るでしょう」   マタイによる福音書第9章18節

2017年12月10日
説教題 「命の源であるイエスを信じる」
聖書箇所 マタイによる福音書第9章18~26節
説教者 安井 光 師

 この箇所には、イエスによる二つの奇跡物語が記されていますが(並行記事マルコ5:21~、ルカ8:40~を参照)、一つのメッセージを聴き取ることができます。絶望的な状況にあった二人の人(会堂司と長血の女)が、真の命を与える救い主イエスに希望(信仰)を抱くことによって救われたということです。

 会堂司は、ユダヤ教の会堂の管理者で指導的な立場にある人でした。彼はイエスの福音に心を開かれ、この方こそ「きたるべきかた(救い主)」(マタイ11:3)であるという思いが起されていたのでしょう。イエスによってもたらされた喜びを打ち消すかような出来事が会堂司の身に起こりました。12歳になる一人娘が病気で死んでしまったのです。しかしながら会堂司は望みを失わず、イエスを拝し「おいでになって手をその上においてやってください。そうしたら、娘は生き返るでしょう」と申し上げました。これは、会堂司のイエスに対する信仰告白でした。

 「死」は、人間にはどうすることもできない究極的な問題です。しかしイエスは死を克服する権威と力を持っておられました。会堂司はそのことを認めていたのです。だから彼はイエスに望みを抱くことができたのです。イエスは会堂司の信仰に応えて、彼の娘の許に向かわれるのです。イエスはご自分を信頼する者を決して失望させることはないのです。

 長血を患う女も、切なる求めをもってイエスに近づきました。彼女は不浄な者と見なされて社会的な差別を受け、12年間も苦しんでいました。医者にかかり、財産も費やしましたが良くならず悪くなる一方でした。望みを失いかけていた時、彼女はイエスに望みを抱き、「うしろからみ衣のふさにさわった」のでした。「み衣にさわりさえすれば、なおしていただけるだろう、と心の中で思っていた」のです。彼女は、イエスの衣に不思議な力が宿っていると信じたのではなく、救い主であるイエスそのお方(詩篇18:2)に信仰をもって寄りすがったのです。

 イエスは、「娘よ、しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです」と言われ、長血の女を癒されました。彼女の身に起こった救いの出来事が、「信仰」によることを明らかにされたのです。イエスがなされたのは、肉体の癒しにとどまるものではありませんでした。彼女は信仰によって、死の力を打ち破る真の命を与える救い主(コロサイ3:4)と結び合わされたのです。

 イエスが会堂司の家に到着すると、娘の死を悼んで人々が集まっていました。「少女は死んだのではない。眠っているだけである」とイエスが言われると、人々はあざ笑いました。人は死ねば葬る以外ないからです。しかしイエスを信じる者の死は、やがて目覚める(復活)ためのしばしの眠りでもあるのです(Ⅰコリント15:20-58)。会堂司は、イエスに望みを抱いていました(18節)。イエスは、手をとって会堂司の娘を起され、生き返らせたのでした。会堂司は喜んだことでしょう。娘が助かるためにイエスにすがっただけでなく、彼自身がイエスの命にあずかり、命の源であるイエスと結び合わされているならば(ヨハネ11:25-26)、その喜びは永久保証なのです。

 命の源であるイエスに信仰によって結び合わされることによって、私たちは恐れることなく安んじて前に向かって進んで行くことができます。イエス・キリストは、私たちの人生と日々の生活、現在のこと将来のことにおいて、命に関わるすべての事柄に心を割かれるお方です。私たちの命となるために、十字架でご自身の命をささげられ、死んでよみがえって下さったのです。