今週の聖句 「異邦人は彼の名に望みを置くであろう」   マタイによる福音書第12章21節

2018年4月15日
説教題 「異邦人の望みであるキリスト」
聖書箇所 マタイによる福音書第12章9節~21節
説教者 安井 光 師

 「安息日に人をいやしても、さしつかえないか」。パリサイ人は、安息日に会堂にいる片手のなえた人を横に見ながらイエスにそう尋ねました。同情の思いからではなくイエスを訴える目的で、イエスが癒しを行うかどうか試したのです。安息日に医療行為を行うことは、命に危険がない場合を除き 禁じられていました。
 
 当時のユダヤ人たちは、安息日の意義を見失っていました。イエスは安息日の意義を回復なさるお方でした。安息日は神が人のために与えておられたのです(マルコ2:27-28)。あなたがたは安息日でも穴に落ちた羊を助けてやるではないか。神が家畜より人間の方をはるかに重んじておられるのだから、「安息日に良いことをするのは、正しいことである」とイエスは言われ、片手のなえた人を癒されたのです。

 ルカの記述には(ルカ6:6-11)、彼の「右手」が「元どおりになった」とあります。聖書において右手は力の象徴であり、生活を営むための重要な器官とされていたことからすると、力を必要とする彼の心や魂もなえていたのではないでしょうか。イエスは安息日の主として、人の心と魂も健やかにされるお方だったのです(マタイ11:29)。私たちが聖日に主にささげる礼拝は、主が私たちに良いことをして下さる時であり、私たちが主によって元どおりにしていただく場でもあるのです。

 マタイは、この出来事がイザヤの預言の成就であると説明しています(17-21節、イザヤ42:1-4)。神は御子イエスをユダヤ人だけではなく、異邦人に福音を宣べ伝え、救いを得させるために遣わされていたのです(ローマ10:12)。「異邦人」は、ユダヤ人にとっては蚊帳の外の存在でした(片手のなえた人も異邦人のような扱いを受けていた)。しかしイエスは「いためられた葦を折ることがなく」、むしろ癒して力を与え、「煙っている燈心を消すこともな」く、むしろそのような魂に希望の光を灯されるお方なのだとマタイは証言しているのです。

 私たちもかつては真の神を崇めない異邦人なる罪人で、恐れと不安を抱え心休まらず生きていました。しかし今や主イエスに信仰を抱いて、真の安息を与えられて生活することができます。魂の安息も折に適った助けも、すべてはこのお方から与えられるのです。主イエスこそ私たちの望みです(ローマ9:30-33)。だから私たちはこのお方に礼拝をささげるのです。主がすべての人々の望みとなって下さることを信じて主を礼拝しましょう。