聖日礼拝 2022年1月9日
説教題 「敵を愛しなさい、神の子どもとして」
聖書箇所 ルカによる福音書第6章27~36節
説  教 安井 光 師

 イエスは「敵を愛しなさい」と弟子たちに教えられました。「敵を憎め」というのが世の常となっていた者たちにとって(マタイ 5:43)、イエスの教えはまことに驚くべきことでした。イエスがここで言われる「あなたがたを憎む者」「呪う者」「侮辱する者」(27∼28 節)とは、 総じて私たちの「敵」を指していると言えるでしょう。敵を愛することなどできっこない、実行不可能なことのように私たちには思えます。

 「敵」は遠くにいるのではなく、弟子たちの近くにおり、彼らと 関わりのある人たちでした。初代教会のキリスト者たちにとっては、彼らを迫害する人たちでした。自分の敵を愛することは本当に難しいことです。しかしイエスは理想論を掲げておられるのではありません。ただ現実に照らし合わせるだけでなく、私たちは神の御旨を問うべきでしょう。イエスは私たちに無抵抗を貫けと言われるのではありません。敵に対する対応策として、彼らを祝福し彼らのために祈るようにと言われたのです(28 節)。使徒たちは「敵を愛しなさい」というイエスの御言葉と十字架における執り成しの祈り(ルカ 23:34)を心に留めながら、キリスト者に対して迫害する人たちに祝福をもって報いるようにと勧めています(ローマ 12:14、Ⅰ ペトロ 3:9)。

 自分を愛してくれる人を愛することは、「罪人(神に従 わない人)」でもしているとイエスは言われます。キリスト者に対しては、「敵を愛し…よくして」やりなさいとおっしゃるのです。それは、私たちを罪赦された者として、すなわち神の子として扱っておられるからなのです。敵を愛せば、その時はじめて神の子となるのではありません。御子イエスにとって神は父なる方ですが、私たちはイエスによって神の子とされているのです(ガラテヤ 3:26)。イエスは神の子とされた者たちに言われるのです、「いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深い…。あなたがたの父が慈しみ深いように、あなたがたも慈しみ深い者となりなさい」と。

 敵を愛することは難しいことです。私たちにはできません。できないからこそ、私たちは神を仰ぎ求めるのです。神は敵である私たち罪人を愛されました(ローマ 5:7∼8)。イエスは裏切る者たちを最後まで愛し抜かれました(ヨハネ13:1)。愛された神の子どもたちは、神の愛を受けまた聖霊の助けによって神の愛に生きることができるのです。イエスの執り成しを心に留めながら、愛せない人を祝福し祈ることからまず始めたいと思うのです。

聖日礼拝 2022年1月2日
説教題 「神のものとされた民」
聖書箇所 ペトロの手紙Ⅰ第2章9~10節
説  教 安井 光 師

 「あなたがたは、選ばれた民、王の祭司、聖なる国民、神のもの となった民です」と、ペトロはすべてのキリスト者に告げています。この聖句は、異教社会において信仰の戦いをしているキリスト者が、どのような心持ちで歩んでいけばよいかを示しています。

 9節前半は、イスラエルの民がエジプトから贖い出されてシナイの荒野に入った時に、神から自らの立場を確認させられた所がもとになっています(出エジプト19:3∼6)。イスラエルの民は神と契約を結び、約束の地を目指して荒野の旅を続けます。彼らは神の民として全地の国民の中で祭司的な役割を果たすことが期待されたのでした。ペトロはこのことをキリスト者と教会に当てはめています。イエス・キリストによって贖われた私たち桑原教会も、霊的に新しいイスラエルなのです。

 私たちは「選ばれた民」です。イスラ エルの民はヤコブの子らによって形成されましたが、私たちはイエス・キリストを信じる信仰によって神の民とされました(ヨハネ 1:13)。神はこの世の優れた者ではなく、無力な者をあえて選ばれました(イザヤ 41:10、Ⅰコリント 1:28)。同時に私たちは100人に一人の貴重な存在です。神はご計画をもって私たちを選ばれたのです(ローマ 8:28)。

 私たちは「王の祭司」です。祭司は神と人の間に立ち、贖罪のために動物の犠牲をささげ、神に執り成しをしました。キリストは、十字架でご自身を完全な犠牲としてささげ、永遠の執り成しをする大祭司となられました(ヘブライ書)。私たちは牧師も信徒も、キリストの完全な執り成しを覚えながら隣人や世界の救いのために神に執り成し、また彼らを祝福する役割を担っているのです。

 私たちは「聖なる国民」「神のものとなった民」です。私たちはキリストの十字架の血と御霊によって聖別され、神のものとされています(Ⅰコリント 1:2)。私たちは神の御手の中にある器として、神の祝福(恵み、愛、命、慰め、平安、希望)を盛り付け、これを人々に分かち与えていくのです。

 私たちが神のものとされ神の民とされたのは、「闇の中から驚くべき光の中へ招き入れてく ださった方」の救いを宣べ伝えるためでもあります。私たちはこの年、神が私たちを召された恵みと目的を心に留めながら、コロナ 禍の世界のために、日本の国民のために、家族や隣人のために祝福を祈り、神に執り成していきましょう。また私たちになされた救いの恵みを証ししつつ歩ませていただきましょう。

聖日礼拝 2021年12月26日
説教題 「献げる教会」
聖書箇所 使徒言行録第4章32~5章11節
説  教 安井 光 師

 初代教会の人々は、心と思いを一つにしていただけでなく、持ち物を共有していました。土地や家を持っている者がそれを売って代金を持ち寄り、必要に応じて分配されたので教会の中に貧しい人はいませんでした(4:32∼35)。教会では私有財産が認められなかったのではなく、信者は持ち物をすべて処分して献げねばならなかったのでもありません。各自が示されるままに自発的に 献げたのでした。

 バルナバの例が紹介されていますが(4:37)、 彼はキリストの十字架の贖いに感謝し、所有の土地を売った代金を献げ教会に委ねました。自分の持ち物は神から与えられたものであり、神から預かり管理を託されているものだと、バルナバはわきまえていました。執事が主人から財産の管理を託されるように、キリスト者は神から与えられているものをいかに管理しどう使うのか、例えばお金もそうですが、神から託されたものであることを覚えなければなりません(スチュワードシップ)。初代教会の人々は「一人として持ち物を自分のものだという者はなく」、神に献げて貧しい人たちに分かち合ったのです。

 アナニアとサフィラ夫婦も土地を売って献げますが、代金の一部を全部と偽りました。土地は 二人の持ち物でしたし、売ってもその代金は彼らの思いどおりになるものでした。神から託されたものとして有効に用いることがで きました。彼らの偽善と誤魔化しが神を欺くことだったのです(5:1∼ 4、8∼9)。アナニアとサフィラはペトロに厳しく叱責され、倒れて息絶えてしまったのです。実に厳しいさばきです。初代教会の人々 は、アナニアとサフィラの出来事を聞いて「皆、非常に恐れた」(5:5、11)とあります。神は慈しみ深い方ですが、悪に厳しく臨まれる神 でもあります(ローマ11:22)。神は教会を愛する故に、罪をそのままにできなかったのです。教会は神を侮ってはならず、正しく恐れなくてはなりません。

 私たちも神に献げものをします。私たちが 献げるのは、神の恵みに感謝しながら、神から与えられたものの一部をお返しし、神から託されたものの一部をお渡ししていることに他なりません。そうしながら私たちが倒れないのは、アナニア やサフィラのような罪を犯さないからではありません。神が赦して下さるので私たちは立つことができます。イエス・キリストの十字架が神と私たちの間に立ち続けています。神の恵みを覚え、神を恐 れて真心からの献げものを神に献げましょう。

聖日礼拝 2021年12月19日
説教題 「まことの光の到来」
聖書箇所 ヨハネによる福音書第1章1~18節
説  教 安井 光 師

 ヨハネの福音書の前半部分には、「言」と「光」という語句が繰り返し出てきます。ともに御子イエスを表わしますが、ヨハネは二つの象徴的な語句によってクリスマスの出来事を伝えています。御子は歴史の初めから神と共におられ、神は御子によって天地万物を創造されました(1∼3節、ヘブライ1:2)。地は混沌として闇が深淵の面を覆っていた時、神が「光あれ」と御言葉を語られ、まず光を創造し光と闇を分けられたように、御子イエスは闇の中に輝く光としてお生まれになったのです(5 節、創世記 1:1∼5)。

 神が創造された世界は明るく輝いていました。ところが人類は神に背を向けて生きるようになり、心が闇(罪と悪魔)に支配されてしまったのです。二千年前のイスラエルの状況も闇の中にありました(マタイ 4:16、 ルカ 1:79)。神を恐れないローマ帝国によって支配され、ユダヤの指導者たちも私利私欲のために政治を行っていました。現在の世界も似たような状況にあるでしょう。しかし闇は外の世界にあるのではなく、人間一人一人の心の中にあり心を覆っていたのです。

 人は光を必要とし、光を頼りにして生きています。太陽の光や照明器具の光は生活に欠かすことができません。クリスマスのイルミネーションの光は、人々の心を和ませ、温かくし、辛いことや悲しいことを一時忘れさせるでしょう。でもそれらの光では、人の心を真に照らし明るくすることはできません。私たちにとって本当に必要なのは、心の奥底まで照らす光、心の闇を照らし人生の道 程を照らす光、すなわち神による「まことの光」なのです。

 イエス・ キリストは「すべての人を照らす」まことの光としてお生まれになりました(9節)。御子イエスは、人の心の闇を照らし出し、罪と汚れを取り除き、明るくしきよめるのです。また、神の愛と恵みに満ちていて、人を真に生かす命の光なのです(4、14 節)。羊飼たちは、 救い主としてお生まれになったイエスを心に迎え入れ、永遠の命を与えられ、闇から光の支配へ移されたのでした(ルカ 2:8∼20)。 まことの光であるイエスを信じ、心に受け入れる人はすべてそのようにされるのです(12∼13節、ヨハネ8:12)。

 悪魔が私たちを試み、 世界を闇で覆おうとするでしょう。しかし世の光、まことの光であるイエス・キリストは、闇の中に常に輝いておられます。いかなる闇もこの光を打ち負かすことはできません。イエスの光に照らされ、この光を心に抱き、また輝かせながら歩ませていただきましょう。

聖日礼拝 2021年12月12日
説教題 「神の愛」
聖書箇所 ヨハネによる福音書第3章16節
説  教 安井 光 師

 聖書は人類に向けて書かれた「神からのラブレター」と呼ばれます。神は聖書の御言葉をとおして、私たちに対する愛を明らかにしておられます。ヨハネ福音書3章16節には、私たちに対する神の愛がどのようなものであるかがはっきりと示されています。

 「神は、その独り子をお与えになったほどに」私たちを愛されます。神は 独り子を救い主として地上に遣わされましたが、人の子として生まれさせ、一人の人間として歩ませられました。それは、神ご自身がその立場を放棄するようにして、人の姿となってこの世に来られた出来事でもありました(フィリピ2:6∼7)。クリスマスには御子イエ スの降誕を祝いプレゼントを贈り合いますが、神はこの世界を愛する故に、ご自分の最も大切な独り子を私たちにプレゼントして下さったのです。

 神は「世を愛され」ました。神はこの世界を素晴らしいものとして造られ人類の手に託されましたが(創世記 1:26∼ 31)、人類は神に背を向け、神に反逆し自分の好き勝手に扱っています。世の中にある悪や不幸を見て、「神のせいだ!」などとは決して言えないでしょう。この世は神でないものを愛し、神の如くに崇めています。それでも尚、神は世を愛されるのです。神の愛は、「~だから愛する」とか「もし~ならば愛する」といった条件付き の愛ではありません。神は、罪深い世である「にもかかわらず」愛されるのです(ローマ4:8)。

 神がそのようにして私たちの世を愛されるのには目的がありました。それは「御子を信じる者が一人も滅 びないで、永遠の命を得るため」です。神から離れ、神なしで生きること自体が滅びなのです。羊飼から離れて迷い出た羊の姿に聖書はそのことを例えています。イエス・キリストは、いなくなった一匹の羊を探し出すために命を捨てる羊飼です(ルカ 15:4、ヨハネ 10:11)。私たち罪人が「滅びない」ために「永遠の命を得るため」 に、神は十字架で御子イエスを犠牲としてささげて下さったのです(Ⅰヨハネ 3:16)。

 「永遠の命」は、人を真に生かしめる 神が与えて下さる新しい命です。イエス・キリストをとおして、生けるまことの神との人格的な交わりを持たせる命なのです(ヨハネ 17:3)。人生には困難がありますが、神の愛と命によって歩むことができます。この命にあずかるために必要なのは、ただ「御子を信じる」こと、神の愛を感謝して受け取ることです。まだ受け取っていない 方々が、クリスマスに神の愛を受け取ることができますように。

聖日礼拝 2021年12月5日
説教題 「祈る教会」
聖書箇所 使徒言行録第4章23~31節
説  教 安井 光 師

 ペトロとヨハネは、ユダヤの議会で尋問され釈放された後、「仲間」である教会の信徒たちの所に行き、事の次第を残らず報告しました。手柄話や苦労話をするのではなく、「心を一つにし、神に向かって」祈りをささげました。心と思いを一つにできるのは、教会に与えられた恵みであり聖霊によるものです(Ⅰコリント 12:12∼、 エフェソ 4:1∼)。聖霊が最初の教会、エルサレム教会に集う信徒たちを祈りに導いたのでしょう。

 教会の一同は、「主よ、あなたは天と地と海と、そこにあるすべてを造られた方です」と神に呼びかけて祈り始めます。主なる神がこの世界を造られ、神の支配が世界の隅々まで及んでいること、自分たちを含めすべてのものが神の御手の中にあることを信じ、恐れ謙った心で祈るのです。旧約にも、そのような心持ちで神に祈った信仰者がいますが、エルサレム教会の信徒たちが「あなたの僕であり、私たちの父」と呼ぶダビデも代表的な一人でしょう。ダビデは試練に遭った時、神に祈り、導きを仰ぎ求め、御手に委ねました(サムエル上24:16 等)。

 一同 はダビデの言葉を引用しながら祈りました(25∼26節、詩編2:1∼2)。諸国の民と王らは神に逆らい共謀してイエスを十字架につけましたが、神はイエスの十字架の死と復活をとおして世の罪の贖いを成し遂げられたと一同は悟りました。同時に、イエスに従いイエスを証する者たちもまた同じように人々の反抗や妨害に遭うことになることを定めとして、神の御心として受け取りました(27∼28 節)。 そして「あなたの僕たちが、堂々と御言葉を語れるようにしてください」と祈ったのです。

 私たちも神に祈りをささげます。一人で祈ることが多いですが、一同で共に心を合わせて祈ることも大事です。祈りは、神に私たちの思いや願いを聴いていただくだけでなく、神が私たちに語ろうとなさることに耳を傾けること、神を信頼し神に委ねることが伴います。それが教会の祈りです。神の御手が教会と世界に伸べられ、イエス・キリストが証され神の御業がなされるように祈る祈りは、教会の中心にある祈りです。福音宣教は、教会の祈りによって始められ進められていくのです。

 クリスマスを迎えようとしているこの時、世界中の人々にイエスの救いのメッセージが届けられるように、イエスを救い主と信じて神の共に歩 み始める人々が起こされるようにと、私たちは心を合わせ教会を あげて祈っていきましょう。

聖日礼拝 2021年11月28日
説教題 「イザヤが見た救い主」
聖書箇所 イザヤ書第9章1~6節
説  教 安井 光 師

 旧約聖書には、救い主に関する預言が多くあります。この内容 (イザヤ 9:1∼6)は、イザヤによる救い主誕生の預言です。誕生の約700 年以上前、その救い主がどのような方なのかをイザヤは告げ知らせたのです。

 北イスラエル王国(ゼブルン、ナフタリ、ガリラ ヤの属する)は、アッシリア帝国による攻撃を受け、滅亡に向かっていました。「地を見渡すと…苦難と闇、苦悩に満ちた暗黒…」 (8:22)という状況でした。北王国がそのような状況に至ったのは、その国民が主なる神から離れ、偶像を拝み、自分中心な生活を送っていたからでした。そのような中で、神がイザヤをとおして語られたのは、神による救い、神の御子を救い主として与えるという希 望の約束でした。

 「闇の中に歩んでいた民」「死の陰の地に住んでいた者たち」が、「大いなる光を見」、その上に「光が輝」くのです。 「光」とは神の救いを表わし、戦いの終結、暴虐な支配からの解放、豊かさの享受、平和の到来を意味していました(2∼4節)。イザヤは、神の救いの光は「一人のみどりご」となり、真の王として世に顕われると預言したのです。この預言はイエス・キリストによって成就したのです(マタイ 4:12∼17)。これは、罪深いこの世を救おうと決意された神の愛と熱情によることでした(6節)。

 闇の世を照らす救い主イエスは、「驚くべき指導者」です。知恵と知識とに満ち(コロサイ 2:3)、愛と慰めをもって正しい方向に導いて下さるワンダフルカウンセラーです。またこの救い主は、「力ある神」です。イエスは、神の大いなる力をもって十字架の死から復活し、私たち人間の最大 の敵である死に勝利されました。またその大能の力をもって、あらゆる困難から私たちを救うことがおできになるのです(ヘブライ 2:18)。

 さらにこの救い主は、「永遠の父」なる方です。イエスは、その生涯をとおして天の父を表わされました(ヨハネ 14:9)。イエスは昨日も今日もいつまでも変わらない、真実なお方であるのです。またイエスは「平和の君」たる方です。イエスはこの世がもたらす平和・平安とは異なる、神による平和・平安を私たちにもたらされるのです(ヨハネ 14:27、ルカ 15:20)。

 神は深いご計画のうちに、またこの世を愛し憐れまれて、ご自身のひとり子を私たちの救い主として誕生させて下さったのです。クリスマスに込められた喜びが一人一人の心に届くように、一人一人の心をイエス・キリストが照らして下さるように、祈りつつクリスマスに備えましょう。

聖日礼拝 2021年11月21日
説教題 「この方以外に救いはない」
聖書箇所 使徒言行録第4章1~22節
説  教 安井 光 師

 使徒たちの説教を聞いてイエスを信じた民の数は5千人ほどになっていました(4 節)。民の指導者たちはいらだち、ペトロとヨハネを捕らえ留置しました。翌日、議会が招集され、二人のことで裁判が行われました。「何の権威によって、誰の名によってこんなことをしたのか」と、指導者たちは二人を尋問しました。イエスを裁判にかけた場面と似ています。以前のペトロだったら、イエスの名を口にせず嘘をついて誤魔化そうとしたでしょう。でもそうするのではなく、「聖霊に満たされて」大胆にイエスを証したのです。

 ペトロは詩編118編22節を引用し、ユダヤの指導者たちや民衆が十字架につけたイエスを神は死者の中から復活させられ、救い主(隅の親石)として立てられたと証言しました(11∼12 節)。指導者たちは、ペトロとヨハネの堂々とした態度を見、彼らが「無学な普通の人」であることを知って驚きました。二人の側には「足を癒された人」(3:1∼10)が立っていて、反論することも否定することもできません(13∼16節)。指導者たちは二人を脅しイエスの名を語ることを禁じましたが、ペトロとヨハネは人の言葉ではなく神の言葉に聴き従う道を選んだのです(17∼20 節)。

 ペトロとヨハネは聖霊による確信に立っていました。「この人による以外に救いはありません。私たちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」。この確信にすべてのキリスト者が立たなくてはならないでしょう。ただ、私たちは日本の異教社会において、使徒たちのようにイエスの名を語ることに対して困難さを覚えます。私たちにとっては、この信仰に立って生きることそのものが試みであり戦いなのかもしれません。 実は初代教会のキリスト者も、私たちと同じ試練を経験していたのです。

 「この人による以外に救いがありません」という確信に立って歩むことによって、伝道の機会は自ずと与えられていきます。ペトロとヨハネは伝道するために神殿を訪れたのではありませんでしたが、神から民衆や指導者らにイエスを語るチャンスが与えられました。「何によって?」「誰によって?」と隣人から聞かれる機会に、答えられる準備をしておきましょう。使徒たちがしたように、自分になされた出来事としてイエスの救いを証しすればよいのです。それを聞く人は、あなたの中にそう語らせるもの(イエ ス・キリスト)があるのを認めるでしょう。

聖日礼拝 2021年11月14日
説教題 「ゆるしあいましょう」
聖書箇所 マタイによる福音書第18章21~35節
説  教 安井 光 師

 人からいやなことをされた時に、何回ゆるさなくてはならないのでしょうか。「七の七十倍までゆるしなさい」とイエス様は言われました。七回ゆるすことも難しいのに、七の七十倍ゆるしなさい…だなんて、とても無理だと思ってしまうでしょう。でも、そうなさった方がおられます。それは神様です。神様は七を七十倍するまで、いいえ、それに七百をかけて、さらに七千倍するくらい、数えきれないほどの罪をゆるされたのです。誰をゆるされたのでしょうか。神様は私たちの罪をゆるされたのです。

 私たちが神様に対して犯す罪、神様の前で犯す罪は、一回や二回ではありません。うそをついたり、悪口を言ったり、人を妬んだり、人を憎んだり、神様に背を向けたり、神様に従わなかったり…。私たちはたくさんの罪を犯します。一週間、一カ月、 一年、十年、何十年にもなると、それはとても数えることはできないでしょう。良いことをたくさんしても、とても間に合いません。でも、知らん顔をして放っておくことはできません。「罪の支払う報酬は死(滅 び)です)」と聖書に書かれています。罪を清算しなければなりません。でも、数えきれない罪など、私たちには清算できないでしょう。

 神様は愛に満ちた憐れみ深いお方です。私たちが滅びないために、ひとり子イエス様を十字架でささげ、私たちの罪の身代わりとして下さったのです。そして私たちの罪をゆるして下さったのです。罪の 負債を全部ゆるして下さったのです。なんと素晴らしいこと! なんてありがたいことでしょう!。

 でもどうでしょうか。私たちは一万タラ ントンのような罪を、数えきれないたくさんの罪をゆるしていただいたのに、友だちや周りの人の百デナリオンの罪、小さな罪がゆるせないことがあるのではないでしょうか。「私がお前を憐れんでやったように、お前も仲間を憐れんでやるべきではなかった」。そう王様が家来に言われたように、私たちがゆるさないことを神様はとても悲しまれるのです。とても心を痛められるのです。

 罪は神様にゆるしていただかなくてはなりません。神様はひとり子イエス様を十字架でさ さげて、私たちの罪をゆるして下さいました。私があなたがたをゆるしたのだから、あなたがたもゆるしなさいと言われるのです。ゆるさなければ、罪はそのまま残ってしまいます。神様はゆるすことを、ゆるし合うことを私たちにお求めになるのです(エフェソ 4:32)。神様が 私たちの罪をゆるしてくださったことを心に留めたいと思います。そ して私たちもゆるせる人とならせていただきましょう。

聖日礼拝 2021年11月7日
説教題 「命の導き手なるイエス」
聖書箇所 使徒言行録第3章11~26節
説  教 安井 光 師

 ペトロは神殿でイスラエルの民衆に説教を語りました。それは美しの門で起きた出来事を民衆が目撃し驚いてペトロらの所に駆け寄ってきたことがきっかけでした(7∼11 節)。民衆はペトロが彼の力と敬虔さで生まれつき足の不自由な男を立たせ歩かせたと思いましたが、ペトロはイエスがこの人を立たせ歩かせたことを証しました(12∼13 節)。

 ペトロは、イエスが聖書に預言されていた神の僕、すなわちメシアであると説明しました (13節、イザヤ52:13∼53:12)。ペトロは民衆がイエスを拒み十字架に引き渡した事実を示しながら、「あなたがたは命の導き手を殺してしまいましたが、神はこの方を死者の中から復活させてくださいました」と語りました。イエスの十字架の死と復活により、罪人が神の命に生きる道が拓かれたのです。足の不自由だった男は身体の自由が与えられただけでなく、命の導き手なるイエスによって神の子とされ神のものとして歩むようにされ たのです。「完全に癒した」(16節)とは、完全な健やかさを意味します。私たちもイエスによってそのような素晴らしい救いにあずかっているのです。

 ペトロは、「イエスの名による信仰」がこの人を健やかにしたと説明しました(16 節)。この人の信仰心が彼を強くし癒したというのではありません。聖書信仰、キリスト教信仰は、いわゆる信心とは異なります。それは「イエスの名を冠した信仰」、イエスに基づく信仰、イエスから来る信仰、イエスをとおして与えられる信仰なのです。私たちの信仰は、イエ スの真実に基づいています(ローマ 3:21∼26)。イエスの真実は、十字架の死と復活の御業に明らかにされているのです。ですから使徒たちは皆、最も大切なこととしてイエスの十字架の死と復活を宣べ伝えたのです(Ⅰコリント 15 章)。

 神のもたらされた救いにあずかるために、神のものとして生きるために、ペトロは民衆に悔い改めを迫りました(19節)。「無知」(罪人であること)を認めて神の許に立ち帰ることを求めたのです。放蕩息子を迎えた父親のように、天の父なる神は救いの御手を差し伸べ て待っておられたのです。神の救いの御手は、十字架で死なれ復活されたイエスそのお方だったのです。民衆は神に選ばれ、祝福に招かれていたのです(25∼26 節)。ペトロによって語られた説教は、今も繰り返して教会で語り続けられています。