2019年2月10日
説教題 「神の定めた結婚の奥義」
聖書箇所 マタイによる福音書第19章1節~12節
説教者 安井 光 師

 パリサイ人たちはイエスを試みようとして離婚に関する質問をしました。イエスは天地創造にまで遡り、聖書から結婚とはいかなるものかを説明されました。

 「創造者」なる神は初めに天地を創造し、「人を男と女とに造られ」ました(4節、創世記1:27)。人(男)が造られた時、最初は一人でした。相応しい助け手が必要と神は考えられ、男のあばら骨をとって女を造られたのでした(創世記2:18~)。男は喜んで女を迎えました。この出来事に併記されているのが、イエスが引用された「それゆえに、人は父母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりの者は一体となるべきである」という御言葉でした(5節、創世記2:24)。結婚とは神の定めたものなのです。結婚する二人は、互いに依存していたものから離れ、二人して神に依存していくのです。二つの心と体が一つになることで、家庭が生まれ、新しい生命も育まれていくのです。

 イエスは聖書から結婚とは何かを示され、「だから、神の合わせられたものを、人は離してはならない」と言われました。律法には「妻を出す場合には離縁状を渡せ」と定められていましたが、離婚は神の御旨に沿うものではなく、人間の「心が、かたくななので」許可されたのでした。元々妻の立場を保護するために許された規定でしたが、離婚は夫の側に認められ、夫本位に解釈され適用されていました。今日では、結婚は当人同士の決めることですし、離婚もそうでしょう。けれどもそれは人間本位の考えかもしれません。イエスは言われるのです、結婚は人ではなく「神が合わせられたもの」であると。神が合わせられたものであるから、「人は引き離してはならない」と言われるのです。

 日本では三組に一組が離婚します。離婚理由で最も多いのは性格の不一致(夫妻とも)と言われます。結婚に対して否定的な思いを抱いている人も少なくありません(10節)。結婚は神の定めたものであり、神が合わせられることを覚え、それを求め、その祝福を信じてなくてはなりません。ただ、結婚することも、独身で生きることも、神の召しと許しによることを覚えるべきです(11-12節)。また神の定めた結婚の奥義には、イエス・キリストとクリスチャン=教会の関係が示されています(エペソ5:31-32)。私たちはイエス・キリストと一体なのです。どのようなライフスタイルを送るにしても、私たちが不真実であったとしても、イエスの愛によって結ばれたこの関係は解消されることはないのです。

2019年2月3日
説教題 「励まされて励ます信仰者」
聖書箇所 使徒行伝第27章9節~27節
説教者 安井 満 師

 人生行路という言葉がありますが、この行路を航路と読み替えることがあります。何かの課題に直面した時、「乗りかかった船」とか、「同じ船に乗り合わせた」とかいう言葉を使います。

 使徒行伝27章では、ローマに向けて出航した護送船に使徒パウロが乗り合わせています。その船が季節風に脅かされることになります。そして、「・・・助かる最後の望みもなくなった」(20節)という事態に直面します。

 その時、パウロが立ち上がります(21節)。そして、「元気を出しなさい」(22節)と、同船者を励まします。私たちも家族・クラスや部活・職場・近隣社会という同じ船に乗り合わせています。そこには多くの課題・難問があり、ある場合には、進むべき方向を見失うことがあります。沈滞ムードの中にあって、私たちが立ち上がり、周囲の者を励ますことができたら幸いです。

 パウロだから立ち上がれたのでしょうか。パウロも漂流する船の中で恐れていました。神から、「パウロよ、恐れるな」(24節)と、励まされる必要がありました。パウロは何を恐れていたのでしょうか。死ぬことを恐れていたとは考えられません。世界の中心都市ローマでの宣教が不可能になるかも知れない、というのがパウロの不安と恐れでした。

 パウロは神から励まされて、同船者を励ましています。23節には、「昨夜、わたしが仕え、また拝んでいる神からの御使が、わたしのそばに立って言った、『パウロよ、恐れるな。あなたは必ずカイザルの前に立たなければならない。・・・』」と書かれています。「わたしのそばに立って」と書かれていますが、パウロが立ち上がることができたのは、神の御使がパウロを立ち上がらせたからです。同船者を励ます勇気を、神からいただいているのです。

 私たちは、混沌(漂流)とした時代に生きています。私たちが身を置く場も、将来を見通せないことが多いのではないでしょうか。私たちは、進むべき方向を聖書から得ることができます。聖書のお言葉で励まし合うことが大切であります。

2019年1月27日
説教題 「赦されたのだから」
聖書箇所 マタイによる福音書第18章21節~35節
説教者 安井 光 師

 罪を赦すことはとてもエネルギーのいる行為です。自分が相手から損害を被っているのに、それを免じてやらなくてはならないからです。ペテロはイエスに、「兄弟がわたしに対して罪を犯した場合、幾たびゆるさねばなりませんか。七たびまでですか」と尋ねました。イエスの答えは、「七たびを七十倍するまでにしなさい」でした。現実には三度赦すことさえ簡単でないのに、イエスは無限の赦し、完全な赦しを求められたのです。

 イエスは一つの譬を用いて、自分に対して罪を犯す人を赦す理由を説明されました(23節以下)。主人(王)に対して一万タラントの負債のある僕がいました。この負債は一生かかっても返済不可能でした。主人は返済を命じますが、僕が哀願して猶予を申し出ると、「あわれに思って、彼をゆるし、その負債を免じてやった」のです。赦された僕は、帰り道で百デナリ(一万タラントの六十万分の一)を貸していた仲間と出会います。僕は仲間の「首をしめて『借金を返せ』」と迫ったばかりか、猶予を求める仲間を赦さず牢屋に入れたのです。「わたしがあわれんでやったように、あの仲間をあわれんでやるべきではなかったか」。僕に対する主人のこの言葉に、イエスが全き赦しを求めた意図が示されています。

 私たちは、神に対して(神の前に)数えきれないほどの罪を犯します。一万タラントの負債のように、善い行いどころでは返済不可能なものです。神は私たち罪人をあわれに思い(詩篇78:38)、自ら犠牲を払われ(御子イエスの十字架の贖いによって)、罪の負債を全部帳消しにして下さったのです。神は私たちに一万タラントの罪の負債の返済を求めておられません。「七たびを七十倍するまでにしなさい」とイエスは言われますが、私たちが神の赦しの大きさを胸に刻み、神の完全かつ無限の赦しに生きることを求めておられるのです(エペソ4:32)。具体的なあり方として、仲間の百デナリの負債を赦してやることを示しておられます。

 罪を犯された者にとって、百デナリの罪は決して小さくはありません。百デナリに見合う罪の償いを相手に求め、赦さないで罪につないだままにしておくのがよいのでしょうか。イエスは赦された者が赦さないでいることに心を痛められます(31節)。人間の感情や常識では、自分に罪を犯す者を赦すのは困難に感じますが、神が私たち罪人になさった赦しの御業(イエスによる贖い)を心に留めましょう。

2019年1月20日
説教題 「キリストの死と葬り」
聖書箇所 コリント人への第一の手紙第15章1節~8節
説教者 安井 光 師

 イエス・キリストが十字架で死なれたことは、使徒信条において中心をなしています。四福音書がこれを記録していますし、使徒パウロも「最も大事なこととして」そのことを宣べ伝えたと語っています。

 十字架刑は重罪人に適用される最も恐ろしい処刑法で、十字架につけられて死ぬことは最も恥ずべき死にかたでした。人々にとってキリスト(救い主)が十字架で死ぬことは信じがたいことでした(Ⅰコリント1:23)。しかしクリスチャンは、十字架で死なれたイエスをキリストと信じ、その信仰を告白したのです。主イエスは私たちを忌むべき罪と死と滅びから救うために十字架で死なれたのです(ガラテヤ3:13)。

 主イエスは十字架で死なれ墓に葬られました。「キリストが聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、そして葬られたこと」と述べ、イエスの十字架の死とともに葬りの重要性を示しています。使徒信条に主は「死にて葬られ」と加えられたのは、主イエスが十字架で死なれたこと、またよみがえられたことが事実であることを証明するためでした。

 パウロは、イエス・キリストの死と復活が主イエスを信じる者たちの死と復活と密接に結び付いていると説明しています(Ⅰコリント15章)。私たちも死んで葬られる日が来ます。しかし私たちクリスチャンの死と葬りには希望があります。それは主イエスが死んで葬られたからです。私たちに先立って主イエスが死人の中から復活されたからです。私たちが死んで葬られるのは、主と同じように朽ちない体によみがえらされるためなのです。

 主イエスは陰府(死者の集まれる所)にまで降られました。それは、私たち人間を虜にしている死の力から私たちを解放するためでした(Ⅰペテロ3:18-19)。旧約の信仰者は、「わたしが天にのぼっても、あなた(主)はそこにおられます。わたしが陰府に床を設けても、あなたはそこにおられます」と告白しています。主の救いの御腕が届かないところはないのです。

 死は人の手には及ばないもの、人間にはどうすることもできないものです。それ故に、死は人を恐れさせ、悩ませ、また悲しみとなります。しかし主イエスは死んで葬られ、「陰府にくだ」られ、よみがえられた(陰府から帰られた)のです。この方を信じる者にとって、死は恐れではなく絶望ではありません。たとい絶望だと思えるようなところに置かれても、なお希望を抱くことができるのです。

2019年1月13日
説教題 「兄弟を得るために」
聖書箇所 マタイによる福音書第18章15節~20節
説教者 安井 光 師

 聖書で「教会」と訳される言葉(エクレシア)には「呼び集められたもの」という意味があります。イエスの十二弟子の群は既に教会であったと言えます。罪を犯す者に対する対応について、イエスは私たち教会に教えておられます(15-20節)。

 イエスは、教会の兄弟姉妹が罪を犯したら、「彼とふたりだけの所で忠告しなさい」と言われます。もし聞かないなら、二、三人の証人を連れて行きなさいと言われます。それでもだめなら、教会全体で関わりなさいと言われるのです。このような対応を教会に求めておられるのは、教会がその「兄弟を得」るため、罪を犯した者を悔い改めに導き、罪の赦しを得させるためでした。

 イエスは教会に対して、罪人を罪に「つなぐ」ことも罪から「解く」こともする、ご自身の権能を託されたのであります(18節、マタイ16:19、ヨハネ20:23)。これはまことに重大な責務です。イエスは群から迷い出ている者を救うために世に来られたお方でした(12-14節)。イエスは、天の父の御心がご自身によって成就されるとともに、教会を通じて実行されていくことを願いながら、これらの勧めを弟子たちに語られたのです。

 教会による悔い改めの勧めに応じない者に対して、イエスは「その人を異邦人または取税人同様に扱いなさい」と言われます。これは教会の交わりの外に置くことを意味します。ただし滅びを宣告することではありません。イエスが取税人や異邦人になさったように、教会は罪を犯す者に憐れみの心をもって対応しなくてはならないのです。

 罪は人を神から引き離すもの、人と神との関係を壊すものです。人が罪につながれたままではいけないことを、私たち教会(神の子とされイエスの兄弟姉妹とされた者たち)は理解しています。でもイエスが言われるように、教会の兄弟姉妹に対して、ひいては未信者の家族や友人、世の人々に対応することには困難さを覚えます。まず天を仰ぎ、兄弟のために祈りましょう。主は、兄弟が罪から解かれるために心を合わせる教会の祈りを求めておられます(19-20節)。

 教会の迫害者だったパウロが回心するために、アナニヤのとりなしの祈りが必要でした(使徒行伝9:17)。教会は世の罪をさばく群ではなく、世が罪から解かれるように祈り続ける群としてこの世に建てられているのです。教会が祈らなければ、兄弟は罪につながれたままでしょう。祈るならば、その祈りによって兄弟を罪から解くことができるのです。

2019年1月6日
説教題 「小さい者を滅ぼさない」
聖書箇所 マタイによる福音書第18章6節~14節
説教者 安井 光 師

 イエスは弟子たちに幼子のように心謙ることを求めた(1-5節)後、「これらの小さい者のひとり」を躓かせないよう厳しく注意されました。幼子もそうですが、霊的にまだ幼く信仰的に未熟な人たちを指しながら、彼らを躓かせてはならないと戒められたのです(6節)。

 この世にはクリスチャンを信仰から躓かせる試練や誘惑があります(7節)。イエスを信じて洗礼を受け、喜びをもって信仰生活を送っていたのに、思わぬことに躓いて信仰を失ってしまうケースがあります。そうならないよう気を付けなくてはなりませんが、自らが教会の兄弟姉妹を躓かせないように配慮しなくてはなりません。牧師や役員などは特にそうすべきですが、信仰年数の浅い人も、自分よりも「小さい者」が周りにいることを覚えなくてはなりません。「小さい者」を軽んじる愛のない振る舞いこそ最も罪深いことを、イエスは弟子たちに示されたのです。

 イエスの思いは「小さい者」に注がれていました。イエスは世の中で軽んじられていた者を重んじられました(9:12-13)。イエスはご自分が「滅びる者を救うためにきた」救い主であることを示され、また譬を用いて天の父なる神の御心を弟子たちに教えられました(11-14節)。

 羊の群から一匹の羊が迷い出てしまいました。羊飼は群(九十九匹)を山に残して、迷い出た一匹を捜しに出かけるのです。迷い出た一匹のために九十九匹を置いていくなんてナンセンスだと思われますが、神の秤は人間(世)の秤と異なっているのです。良い羊飼であるイエスは「小さい者」を重く見られ、捜し出して救うために命を捨てられるのです(ヨハネ10章)。イエスは、一匹の羊を見つけ出した羊飼の喜びを示しながら、「小さい者のひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではない」と言われたのです。

 躓いて教会の群から離れ、信仰生活から遠ざかっている兄弟姉妹がいます。私たちは彼らのことを心に留めて祈り、つながりを持つことをやめてはなりません。主イエスの愛は変わることがないのです。いまだ信仰を持つに至っていない世の人々も、創造主なる神にとっては「小さい者のひとり」、御手から失われた一人一人なのです。主は私たちすべての者の神であり、私たちと彼らを救うために惜しむことなくご自身の御腕を伸ばされるのです(イザヤ41:10)。主の愛の心をわが心として、「小さい者」に配慮していきたい。

2018年12月30日
説教題 「新しいいましめ」
聖書箇所 ヨハネによる福音書第3章31節~35節
説教者 安井 直子 師

 イエスは「今や人の子は栄光を受けた。神もまた彼によって栄光をお受けになった」と言われました。この栄光とは、十字架にかかることを指しています。そこで、イエスは私たちに本当の「栄光」や「愛」を教えるために、弟子たちの足を洗い、裏切るユダをさえ愛し通され、この世に残していく弟子たちにどうしても伝えたい「新しい戒め」を語られました。

 イエスは新しい戒めとして「互いに愛し合いなさい」と教えています。新しいとはどういうことでしょう。それは旧約聖書を越える新しい質を持った戒め、イエスの生涯と死によって始まった新しい時代に授けられた教えと言うことです。互いに愛するというイエスの戒めが私たちの間で現実となるためには、このイエスの十字架の愛に学ぶ以外にありません。そのためにはまず、ありのままの自分自身を受け入れること、そして他者を愛をもってゆるし受け入れていくことです。でも私たちは愛を実践する力のない自分に気づきます。ではどうしたら良いでしょうか。それは、「わたしがあなたがたを愛したように」というイエスの十字架の愛、私たちの為に「父よ、彼らをおゆるしください・・」ととりなしの祈りをささげて下さるほどに愛して下さったイエスの愛に倣って、私たちも互いに愛し合う者にされたいと思います。

 ではどんな風にして互いの愛を表していけば良いのでしょうか。それはまず祈ることです。私たちはダマスコのアナニヤの祈りに学ぶことができます(使徒行伝9:10-19)。神様に従い、迫害者サウロのためにアナニヤが祈った祈りによって、サウロは眼も心も開かれて魂の救いに与り、洗礼を受け、クリスチャンとなったばかりか、使徒パウロとなり、世界宣教に用いられる偉大な人物とされました。このように私たちの祈りも大切な神様の働きの業であると教えられます。また互いに言葉をかけ合い、互いに話を聴き合い、交わること、これらを積極的に実践していくことによって「あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての者が認めるであろう」と言われる者にされるのではないでしょうか。イエスの十字架の愛を受けて、互いに愛し合うことを実践していきたいと思います。

2018年12月23日
説教題 「飼葉桶のしるし」
聖書箇所 ルカによる福音書第2章1節~20節
説教者 安井 光 師

 毎年世界中でクリスマスが盛大に祝われます。街や家庭のいたる所に、赤や緑や金のクリスマスカラーの装飾がなされ、イルミネーションが輝き、とても華やかです。キリストの誕生は、世界史をBC(キリスト以前)とAD(主の年から)に分けるほどの大事件です。けれどもイエス・キリスト降誕の出来事は、実に秘やかなものでありました。

 人口調査で登録をするため、ヨセフが身重のマリヤを連れてベツレヘムに到着した時、宿屋は満室で、「客間には彼らのいる余地がなかった」。マリヤは月が満ちて、家畜小屋で初子(神の御子イエス)を出産するのです。王宮のベッドこそ、神の御子、世の救い主に相応しかったでしょう。しかしイエスは飼葉桶の中に寝かせられたのです。これは神が罪人を救うため、貧しい者を富ませるために定められたこと、神の計画の中にあることでした。飼葉桶に寝かせられた御子に、貧しい私たちを富ませる神の恵みと真実が満ちているのです(ヨハネ1:14、Ⅱコリント8:9)。

 救い主の誕生は、「すべての民に与えられる大きな喜び」の知らせとして、まず羊飼たちに告げられました。彼らは自分の貧しさを自覚している人たちでした(ルカ5:3)。彼らは、自分たちのために救い主が誕生したこと、飼葉桶に寝かしてある幼子がそのしるしであるという天使の御告げ(神のメッセージ)を信じました。そして急いで出かけ、飼葉桶に寝かしてある嬰児イエスを捜しあてました。彼らは神の救いを目の当たりにし、大きな喜びに心満たされたのです。

 救い主が世にお生れになったのです。神はこの世界に救いをもたらされたのです。それがクリスマスです。この事実は、隠されていません。捜すなら、誰でも必ず見出すことができます(ルカ11:9)。神は私たちにそのしるしを示しておられます。それは〝十字架〟というしるしです。イエスの十字架に、私たちに対する神の愛と救いが示されています(Ⅰヨハネ4:9-10)。自分の貧しさ(愚かさ・弱さ・罪深さ)を知り認めるなら、私たちはこのしるし(十字架)の中に神の愛と救いを見出すのです。

 私たち人間はしるしを求めます。〝私のことを愛しているなら、しるしを見せて欲しい…〟。貧しさを感じる中で、そのような思いを神に向って抱くものではないでしょうか。神は御子イエスの十字架を私たちへの「飼葉桶のしるし」としておられます。このしるしの中に、クリスマスの恵みと喜びを見出そうではないでしょうか。

2018年12月16日
説教題 「幼子のようになる」
聖書箇所 マタイによる福音書第18章1節~5節
説教者 安井 光 師

 弟子たちはイエスに「天国ではだれがいちばん偉いのですか」と質問しました。イエスがペテロ、ヤコブ、ヨハネの三人だけを連れて山に登り、またイエスが神殿税をペテロの分まで納めたことで他の弟子たちは嫉妬し、自分たちの中で誰が一番なのか論じ合っていたのです(マルコ9:33)。弟子たちは、イエスがイスラエルの王となられる時、自分たちも高い地位に着けると期待していたのです(マタイ20:20-)。

 人間社会は競争社会と呼ばれます。お互いの中で「だれがいちばん偉い」のかを決めたがります。他者よりも少しでも上に立ちたいと願うのです。競争が激しくなると、相手を欺いたり、蔑んだり、妬んだり、仲違いしたりといったことが起こります。国家間においては覇権争いが止むことがなく、自国が他国よりも優位に立てるかどうかが各国の最大の関心事となっています。このことに人間の罪の本質を見ます(創世記11:1-)。

 イエスは近くにいた幼子を弟子たちの真ん中に立たせ、「心をいれかえて幼な子のように」なること、「幼な子のように自分を低くする」ことを求められました。当時の社会では幼子は価値の低い者と見なされ軽んぜられていましたが、イエスは幼子を愛し尊んでおられました(マタイ19:13-)。イエスは、弟子たちが悔い改めて幼子のように神の愛を信頼することを求められたのです。「だれがいちばん偉い」のかと考えるのをやめて、神がそのままの自分を愛し尊んでおられることを信じて、全身全霊を神に委ねることを願われたのです。

 幼子が天国で一番偉いとイエスはおっしゃるのではありません。幼子のように謙る者を神は天国に引き上げて下さるのです。世の中の基準や序列との逆転現象が起こるのです(ルカ1:51-53)。これこそが正しい秩序、神による序列なのです。イエスご自身、御子として父なる神を全く信頼されました。謙遜という意味では、イエスは神の立場を放棄して人間となられ、罪人を救うために十字架で命をささげられました。神はこの御子イエスを高く引き上げられたのです(ピリピ2:9)。

 私たちは誰も偉い者ではなく、神の前に幼子のような存在です。元々高い所にはおらず、低い所にいるのです。イエスは高い所(天)におられましたが、低い所(この世)にお降り下さいました。貧しい姿で、嬰児として。ヘロデ大王は彼を受け入れませんでしたが、羊飼や東方の博士たちは受け入れたのです。ここに幼子の謙遜が示されています。

2018年12月9日
説教題 「神の子のふるまい」
聖書箇所 マタイによる福音書第17章24節~27節
説教者 安井 光 師

 イエスと弟子たちがカペナウムに戻られた時、神殿税の徴収人らがやってきてイエスが神殿税を納めていないことを咎めました。イスラエルの二十歳以上の男子は毎年神殿税を納めることが律法で定められていました。ペテロは「納めておられます」と答えました。イエスは各地の伝道に忙しく、今年の分をまだ納めていなかったのかもしれません。

 イエスはペテロに、「この世の王たちは税や貢をだれから取るか。自分の子からか、それとも、ほかの人たちからか」と尋ねました。「ほかの人たちです」とペテロが答えると、イエスは「それでは、子は納めなくてもよいわけである」と神の子であるご自分が律法に縛られない自由な立場にあることを示されました。しかしイエスは徴収人らを「つまずかせないために」、釣り上げた魚の口に見つかる銀貨一枚をご自分とペテロの神殿税として納めるように命じたのでした。

 使徒パウロは、世の人々がイエスの十字架に躓く現実を述べていますが(Ⅰコリント1:23)、躓きの原因は人間の側(偏見、罪の問題など)にあると言えます。神は決して人を躓かせようとなさる方ではありません。イエスは人々に余計な躓きを与えることをよしとされなかったのです。イエスが神の御子の特権を放棄なさったのは世の人々を救うためでした。些細なことで人々を神の救いから遠ざけてはならないと、イエスはペテロに教えようとされたのです。

 弟子たちをはじめイエスを神の子・救い主と信じる者たちは皆 神の子とされています(Ⅰヨハネ3:1)。神の子とされた者たちには、イエスによる真の自由が与えられています(ガラテヤ5章)。自由だからといって、私たちは法律や規則を破ったりはしないでしょう。しかしそれらの範疇にない事柄に関しては、各自思うままにふるまってしまうものではないでしょうか。例えば何を食べ何を飲むかは各自の自由ですが、その仕方によっては他者を躓かせる要因ともなります(Ⅰコリント8章)。何をするにしても、自分のふるまいが他者を躓かせることはないか、心を配らなくてはなりません。

 イエスがペテロに神殿税を納めさせたのは、徴収人らを「つまずかせないため」でした。イエスはご自分が非難されないためでなく、ただ世の人々を救いたいという一心でそうなさったのです。自己中心的なふるまいは人々を躓かせますが、他者を配慮する自由なふるまいは人々を神に導いて御前に立つことができるようにするのです。