聖日礼拝 2022年11月27日
説教題 「インマルエルのしるし」
聖書箇所 イザヤ書第7章1~17節
説  教 安井 光 師

 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」(14 節)。イザヤによってイエス・キリストの誕生の預言がなされたのは、アハズ王の治世(BC740年頃)のことでした。北イスラエル(エフライム)と隣国アラムが同盟を組んでユダを攻めてくるという知らせを受け、アハズはとても動揺しました(2節)。アハズは大国アッシリアと手を結び、困難を逃れようと図りました(列王記下 16:7)。主なる神は、預言者イザヤをとおしてアハズに対して御心を語られるのです。それがインマヌエル預言でした。

 主はアハズに、「気をつけて、静かにしていなさい。恐れてはならない」と言われました。北イスラエルとアラムの画策はついえてしまうからでした(5∼7 節)。主はご自分の民と共に歩まれ、幾度も彼らを困難から救ってこられた神でした。自分の頭でアレコレ考え、自分の力で行動しようとするのを止めよと、主は言われるのです(出エジプト 14:13∼14、詩編 46:10)。「心を弱くしてならない」とイザヤはアハズを励まし、主に全く信頼することを求めました。主に信頼することこそが、ユダが確かにされ、存続すること ができる唯一の道であるからでした(9 節)。

 主は「しるし」を与えようとしておられました(10 節)。それは人の考えもつかない、人が見ていないしるしでした。それは「インマヌエル=神が私たちと共におられる」というしるしでした(14 節)。福音書記者マタイはこのしるし、インマヌエル預言を神の御子・救い主の誕生を指し示したものと理解し、イエス・キリストの誕生の次第を記す際に引用しています(マタイ 1:18∼23)。「インマヌエル」という名に込められた主なる神の御心は、イエス・キリストによる罪の贖いをとおし て実現したのです(マタイ28:20)。

 神はただ存在され、私たちのことを遠く離れた所で傍観しておられる方ではありません。いかなる時にも私たちと共におられる神です。イエス・キリストが天と地をつなぎ、神と私たち罪人を結び合わせ、私たちを神と共に生きる者として下さったのです(ヨハネ 15 章)。困難な時にも私たちはひとりではない。神が共におられるので孤独ではないので す。私たちのために御子が救い主としてお生まれになった出来 事がインマヌエルのしるしです。だから私たちはクリスマスを喜び祝うのです。神が共におられるのですから、神に信頼して助けと導きを求めながら歩ませていただきましょう。

聖日礼拝 2022年11月20日
説教題 「恐れるな、語り続けよ」
聖書箇所 使徒言行録第18章1~11節
説  教 安井 光 師

 パウロはアテネを去り、コリントに行きました。そこでユダヤ人キリスト者の夫婦アキラとプリスキラと出会いました。二人の職業はテント造りでした。パウロも同業者だったので、二人の世話になり一緒にテント造りをしながら、コリントの人々に伝道しました。シラスとテモテが合流すると、パウロは御言葉を語ることに専念し、多くの人々がイエスを救い主と信じて洗礼を受けました(5∼8 節)。

 コリント伝道は祝福されましたが、パウロは心に不安と恐れを感じていました。「恐れに捕らわれ、ひどく不安でした」(Ⅰコリント2:3)と、その時の心情を語っています。パウロはコリントでもユダヤ人の反抗に遭いました(6節)。パウロは色々考えたことでしょう。神の祝福はユダヤ人から異邦人に及ぶと約束されているのに、ユダヤ人が御子イエスを救い主として受け入れようとしない。コリント人も大多数はなお偶像に支配され、主から離れた生活をしている。そういう現実を目の当たりにしながら、彼らをどう主に導けばよいのかと思い巡らし、恐れたのではないでしょうか。

 「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。私はあなたと共にいる」と主はパウロに語られ励まされました。主は御言葉を宣べ伝える者たちと共におられるのです。主なる神はイスラエルの民をエジプトから導き出すためにモーセを指導者として召された時、「私はあなたと共にいる」と約束されました(出エジプト 3:12)。また主イエスは弟子たちに世界宣教の命令をなされた時、「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と約束されました(マタイ 28:20)。あなた一人でやりなさい、あなたの力で頑張りなさいと、主は言われないのです。私があなたと共に行うとおっしゃるのです。

 「この町には、私の民が大勢いる」と主はパウロに言われました。主に反抗し、神ならぬ ものを崇めている人々の中にも、福音を待っている人、主が救おうとしておられる人が大勢いたのです。孤軍奮闘していたパウロでしたが、彼の周りには信仰の仲間たちや協力者たち(シラスや テモテ、アキラやプリスキラ、ユスト、クリスポ、イエスを信じたコリ ント人)が大勢いました。パウロは大きな励ましを受け、一年半コリントに留まって伝道することができたのでした。

 私たちも伝道する時に恐れを感じてしまうことがありますが、御言葉による励ましにあずかり、主の臨在を覚えながら、遣わされ置かれている所に腰を据えて、主の恵みを証しし執り成しをさせていただきましょう。

聖日礼拝 2022年11月13日
説教題 「嘆きから賛美へ」
聖書箇所 詩編第22編1~6、20~27節
説  教 安井 光 師

 詩編は聖書における賛美歌集です。内容は祈りでもあり信仰告白でもあります。喜んで神をほめたたえる歌だけでなく、神に訴えている、叫んでいる、神の御前で悲しみ嘆いている歌も多くあります。詩編22編もその一つです。詩編の作者はもちろんですが、詩編を歌う信仰者たちもまた色々な感情を抱きながら、神に向かって歌ったのです。「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのか…」と、私たちも信仰生涯において神に向かって呼ばわることがあるのではないでしょうか。

 「ダビデ」(1節)は、常に神を賛美していた信仰者でした。ダビデは人生において大きな試練を経験しました。不条理な苦しみを味わい、「神様、なぜですか?」と吐露しました。ただ「わが神…」(2∼3節)という訴えは、神を疑っている呟きではありません。悩みのなかで、神への信頼は失われていません。「しかし、あなたこそ聖なる方、イスラエルの賛美の上に座する方」「私たちの先祖たちは…あなたに信頼し、恥を受けることがなかった」と歌い、神の民になされた救いを根拠にしつつ、神への信頼を表明しています(4∼6節、参照出エジプト15章)。賛美は神への信頼の発露でもあります。神に信頼するからこそ、私たちは神を賛美するのです。

 詩編22編はイエス・キリストの十字架の苦難を予告した詩でもあります。イエスは十字架上で「わが神…」(マタイ27:46)と叫ばれましたが、常に父なる神を信頼しておられました。まだ見てはいませんが、ご自身の十字架の死によって世の罪の贖いが「成し遂げられた」(ヨハネ19:30)と確信しておられました(参照ヘブライ12:2)。詩編22編の作者も結果を見ていませんでしたが、祈りが聴かれていると確信し、神を賛美し、集会で仲間たちにも「主を賛美しよう」と励ましています(20∼26節)。ヴェスターマンは、「イエスは詩編22編をご自身の嘆きとされた。イエスは人類の嘆きを賛美に変えることができる」と述べています。

 「賛美する」には、「ほめたたえる」のほかに「賛成を表明する」という意味があります。困難な状況に置かれつつ神を賛美するというのは、その状況を神のご計画の一部として是認することでもあるのです。祈っても明確な答えがない時、神が沈黙しておられるように感じてしまうこともあるでしょう。しかし神は真実な方です。神は苦しむ私たちの悲嘆の叫びを聴いておられます。ですから神を賛美したいと思います。嘆きから賛美へと導いていただきましょう

聖日礼拝 2022年11月6日
説教題 「聖書とリバイバル」
聖書箇所 ネヘミヤ記第8章1~12節
説  教 安井 光 師

 イスラエルの人々は、エルサレムに戻ってきて神殿を建て直しました。壊れた神殿を建て直すのには大きな力が必要でしたが、皆で力を合わせて神殿を建て直すことができました。建物はできたのですが、中身ができていませんでした。建物の中身でありません。人々の心の中身でした。信仰を建て直すことが必要でした。神殿は新しくなりましたが、人々の心と生活は古いままだったのです。心の中がまことの神様を信じないバビロンの人々と変わらず、バビロンの人々がするような悪い行いを皆が続けていたのです。神様の御心が分からず、自分たちの思いのままに振る舞っていたのです。

 これではいけないとエズラは思いました。エズラはネヘミヤ、ハガイ、ゼカリヤと相談し、人々に聖書を読んで聞かせ、聖書の御言葉を教えました。御言葉によって人々の信仰が建て直されること、それがリバイバルでした。聖書が読まれ、御言葉を教えられると、人々は皆、心に自分の罪が示されました。また神の愛のお心が分かりました。そして神様に「ごめんなさい」と罪をお詫びしました。大人も子どもも皆そうしたのです。

 その様子を見て、ネヘミヤとエズラは言いました。「今日は、我らの主の聖なる日だ。 悲しんではならない。主を喜びとすることこそ、あなたがたの力であるからだ」。人々は聖書から、神様が自分のことをどんなに愛して下さっているのか、自分の罪をどれだけ赦して下さっているのかが分かりました。皆でこの日をお祝いし、神様に感謝をささげました。心に喜びが湧いてきました。神様に喜んで従う力が与えられたのです。

 私たちは毎週日曜日、聖書の御言葉を学んでいます。子どもの礼拝でも、大人の礼拝でも毎週そうしています。礼拝で大切なのは、神様に感謝すること御言葉に聞き従うことですが、それが「主を喜びとする」ということです。御言葉を学ぶと、神様の愛と赦しの大きさと素晴らしさが分かります。神様に愛され、神様に罪を赦していただくと、心に喜びが湧いてきます。また力が湧いてきます。喜んで神様にお従いしたくなる。周りの人にも喜びを分かち合いたくなるのではないでしょうか。

 日曜日は主の聖なる日、主を礼拝する日、私たちになされた救いを喜ぶ日です。食べ物や飲み物のご馳走はありませんが、主の御言葉を皆でいただき、主の救いをお祝いしましょう。皆で主の祝福を分かち合いましょう。そうすることが私たちの力となります。共に主を喜びましょう。

聖日礼拝 2022年10月30日
説教題 「神の家族」
聖書箇所 マルコによる福音書第3章31~35節
説  教 安井 直子 師

 イエスは神であられるお方が肉体を取り、人となられてこの世を生きられました。イエスにも家族がいました。ここでご自分にとって家族とは誰かを教えると同時に、私たちもイエスによって神の家族なのだと言うことを示しておられます。

 『身内の人たちはイエスのことを聞いて、取り押さえに来た「気が変になっている」と思ったからである』(3:21)と。イエスの活動を止めさせ連れ戻そうと考えていたようです。母マリヤもイエスを「神の子」というよりも「我が子」として見る思いが強くなったのでしょう。血縁関係で結ばれた家族という中で、イエスを人として見ていた身内の者たちの姿です。

 しかし彼らは群衆に遮られてイエスに近づくこともできません。彼らは外に立っていました。それに気付いた人が「御覧なさい。お母様と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」(32節)と伝えます。しかしイエスの答えは意外なものでした「私の母、私のきょうだいとは誰か」(33節)。一見すると冷たい言葉に聞こえますが、そこにはナザレのヨセフの息子イエスから、メシア救い主イエス・キリストとして公の立場をあらわし周りに示すためでした。

 そこでイエスは自分の周りにいた人々を見回して「見なさい。ここに私の母、私のきょうだいがいる。神の御心を行う人はだれでも、わたしの兄弟、また姉妹、また母なのである」(34、35節)と言われます。「だれでも」の言葉には身内も含まれていて、全ての者を神の家族に招き入れて下さると言うのです。では「神の御心を行う人」とはどう言う人たちでしょうか。それはあれこれと奉仕をしているのではなく、実際はただじっと座ってイエスが語る言葉を聴いていただけです。でもイエスの周りにいた人たちは、どこまでもイエスを信じて従ったのではなく、イエスが十字架にかかる時にはイエスを離れて逃げて行ったのです。誰も御心を行うことはできませんでした。群衆も外に立っている身内の者たちも、変わりはないのです。しかしイエスは家族だと呼んで下さいます。

 ここで私たちはどう聞くでしょうか。今自分がどちら側にいるのかを図るためにではなく「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」(1:15)と言われるイエスを救い主と信じる人を「神の家族」と呼んで下さる神の御心を覚えましょう。イエス・キリストにある救いの御言を聴くために集う場が礼拝です。その恵みを共に分かち合い、祈り合う神の家族とされた兄弟姉妹と共に、福音を宣べ伝える者となりたいと思います。

聖日礼拝 2022年10月23日
説教題 「転機としての聖化」
聖書箇所 コリントの信徒への手紙二第7章1節
説  教 安井 光 師

 この詩編には「都に上る歌」という表題が付されています。神の民とされた人々(ユダヤ人)が各地から、主なる神を礼拝するために神の都エルサレムに向けて旅をしている聖地巡礼の情景を歌った歌です。私たちキリスト者も聖日礼拝に向かいながら一週間の旅をしています。短い旅ですが都に上る旅を毎週しています。そうしながら私たちは、神の都、天の故郷に向けて人生の旅を続けているのです(ヘブライ11:13∼16)。

 詩人も神の都に向けて旅をしている旅人の一人でした。彼は旅の途上で「山々に向かって目を上げ」ました。「私の助けはどこから来るのか」と自らに問いました。困難が伴う旅だったので自ずと助けを求めたのでしょう。「私の助けは主のもとから…」。彼は知っていたのです。「山々」を造り「天と地を造られた」主なる神から助けが来ると、彼は信じていたのです。私たちの旅路には問題や課題が目の前に立ちはだかり、試練や困難が私たちを取り囲んでいますが、天地を造りすべてを統べ治めておられる神が必要な助けを与えて下さいます。

 「主があなたの足をよろめかせることがないように…」。詩人の祈りは、信仰の先達である召天者たちが生前私たちを励ましてくれた言葉、また私たちのために祈ってくれた言葉とも捉えることができるでしょう。「あなたを守る方」は、「まどろみもせず、眠ることもない」方だと言います。羊飼は羊を守るために寝ずの番をしますが、良い羊飼である主イエスは私たち羊のために命を捨てて下さいました(ヨハネ10:11)。主はいつも私たちの右におられ、寝ずの番をしていて下さるので、私たちは安心して日中過ごすことができますし、すべてを御手に委ねて平安のうちに休むことができます(4∼6節)。

 主は「あらゆる災いから」私たちを守り、私たちの「魂」を守られます。私たちに肉の命を与え、また霊の命を賜わり、神の都、天の故郷に私たちを招き入れて下さる主は、私たちの全存在を守られるのです。主は私たちの旅路を初めから終わりまで、「今より、とこしえに」守られるのです。聖日ごとに肩を並べて共に主を礼拝した召天者たちは、主に守られて礼拝者の旅を全うしました。召天者たちは礼拝の場に、礼拝を中心とした生活の中に、主の助けと守りを見出していました。

 私たちは尚、旅を続けます。主が私たちの旅路を守られます。主の守りを信じ、主に導かれながら進んでまいりましょう。

聖日礼拝 2022年10月16日
説教題 「知られざる神から真の神へ」
聖書箇所 使徒言行録第17章16~34節
説  教 安井 光 師

アテネは古い町で学問・文化・芸術がとても盛んでした。またギリシア神話でも知られるように、たくさんの神像(偶像)が祀られていました。パウロは「町の至るところに偶像があるのを見て、憤りを覚え」ました。アテネの人々が神でないものを神としている現実に直面し、「これではいけない」とパウロは心を激しく動かし、真の神を、救い主イエスを宣べ伝えるのです。ユダヤ教の会堂で論じたり、町の広場で出会う人々、エピクロス派やストア派の哲学者たちと討論したりしました。

人々はパウロの語る新しい教えに興味を持ち、パウロはアテネの中心で伝道する機会を得ます(19∼22節)。パウロはアテネの人々を「信仰のあつい」人と肯定的に捉え、彼らが「知らずに拝んでいるもの」「知られざる神」が何かを知らせます。日本の宗教事情も当時のアテネと似ています。「自分は神を信じない、無神論者だ」という人でも、困難な状況や危機的な状況に置かれると、「誰か助けて!」と絶対者なる存在を求める思いが自ずと内側から湧き起こってきます。その「誰か」こそ「知られざる神」であり、人々が「知らずに拝んでいるもの」なのです。

「世界とその中の万物とを造られた神が、その方です」とパウロは伝道を始めます。神は人の手の中で制御できるものではなく、人の思いのままに生み出されるものではありません。神が人を造り生かしておられます(創世記1:27、2:7)。神はすべてを備えておられ、すべてを人にお与えになります。人を全地に住まわせ、国土の境界を定められ、時代を区分され、人類の歴史を導いてこられました(24∼26節)。そのように神がなさったのは「人に神を求めさせるためであり」「探し求めさえすれば、神を見いだすことができる」とパウロは続けます。人は神との交わりに生きる者として生かされているのです(27∼28節)。

真の神を認めないことこそ最大の「無知(罪)」です。パウロはアテネの人々に悔い改めを迫り、イエス・キリストの十字架の死と復活を示しました<31節)。キリストによって神との交わりが回復し、神と共に生きることができるからでした(ヨハネ17:3)。十字架と復活のメッセージは人々には愚かに思われました。しかし神は「宣教という愚かな手段」によって罪人を救うこととされたのです(32∼34節、Ⅰコリント1:21)。真の神を宣べ伝える時、信じる人が起こされます。聞く者は自分を神に明け渡し、伝える者も神に委ねることが求められます。聖霊の働きを祈りつつ、真の神を伝えましょう。

聖日礼拝 2022年10月9日
説教題 「理にかなった礼拝を目指して」
聖書箇所 ローマの信徒への手紙第12章1節
説  教 安井 巌 師

 パウロは「礼拝」とは「理に適った礼拝」と申します。人間であれば当然すべきこととして礼拝を捉えています。「礼拝」とは「自分の体を、神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げ」ることだとも申します。礼拝とは自分の体を指差して、この私を「神に喜ばれる、聖なる、生けるいけにえ」献げることであるというのです。ですから、礼拝は、神に私たちが、この体をもってお仕えすることである。英語では「奉仕」とも訳せる「サーヴィス」という言葉を用います。すると「理に適った礼拝」とは、自分の体で造る日常の生活における神への奉仕を語っていると理解することもできます。日曜日以外の、日常生活が問われているということでもあります。だからこそ、日曜日に献げられる礼拝の姿勢を整えるところから始めることが大事になってきます。神を礼拝するという心が、欠けたままの奉仕をすることがあるからです。では、礼拝において私たちが知るべき姿勢とは何か。ある人が、「神のみ顔の前で」ということを申しました。「神のみ顔の前」で生きる私。それを、礼拝の場で深く知るのです。その「神のみ顔の前」で生きる姿勢が、日曜日以外の生活の場においても貫かれていくのです。

 毎日「神のみ顔の前」で生きる生活は、ある厳しさがあるかもしれません。24時間365日「神に喜ばれる、聖なる、生けるいけにえ」として自分を献げることができないと考えるからです。けれども、できないと考えるのは私たちの性根が曲がっているからです。その性根を直して、喜んで神のみ顔の前で生きる道を開くために主イエス・キリストが来てくださったのです。「理に適った礼拝」を勧めるために、パウロは「こういうわけで、きょうだいたち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます」と申します。私たちが礼拝において知るべき神のみ顔とは、私たちの弱さを、罪深さをご自身の痛みとして受け止めてくださる憐れみのみ顔です。その神の憐れみが、主イエスの十字架において私たちに示されたのです。だから、私たちは礼拝において主イエスの十字架を仰ぎながら、神のみ顔の前に生きる私とされていることを、感謝をもって受け止めるのです。その赦しの恵みに生かされている私を喜んで神にお献げしていくのです。

 すぐに神の憐れみのみ顔を忘れてしまう私たちです。だからこそ、毎主日、愛する兄弟姉妹と共に集い、憐れみのみ顔の前に捉えられている私たちであることを、信じ喜ぶ礼拝を、これからもますます大切にしてまいりましょう。

聖日礼拝 2022年10月2日
説教題 「主が守られる」
聖書箇所 詩編第121編1~8節
説  教 安井 光 師

 この詩編には「都に上る歌」という表題が付されています。神の民とされた人々(ユダヤ人)が各地から、主なる神を礼拝するために神の都エルサレムに向けて旅をしている聖地巡礼の情景を歌った歌です。私たちキリスト者も聖日礼拝に向かいながら一週間の旅をしています。短い旅ですが都に上る旅を毎週しています。そうしながら私たちは、神の都、天の故郷に向けて人生の旅を続けているのです(ヘブライ11:13∼16)。

 詩人も神の都に向けて旅をしている旅人の一人でした。彼は旅の途上で「山々に向かって目を上げ」ました。「私の助けはどこから来るのか」と自らに問いました。困難が伴う旅だったので自ずと助けを求めたのでしょう。「私の助けは主のもとから…」。彼は知っていたのです。「山々」を造り「天と地を造られた」主なる神から助けが来ると、彼は信じていたのです。私たちの旅路には問題や課題が目の前に立ちはだかり、試練や困難が私たちを取り囲んでいますが、天地を造りすべてを統べ治めておられる神が必要な助けを与えて下さいます。

 「主があなたの足をよろめかせることがないように…」。詩人の祈りは、信仰の先達である召天者たちが生前私たちを励ましてくれた言葉、また私たちのために祈ってくれた言葉とも捉えることができるでしょう。「あなたを守る方」は、「まどろみもせず、眠ることもない」方だと言います。羊飼は羊を守るために寝ずの番をしますが、良い羊飼である主イエスは私たち羊のために命を捨てて下さいました(ヨハネ10:11)。主はいつも私たちの右におられ、寝ずの番をしていて下さるので、私たちは安心して日中過ごすことができますし、すべてを御手に委ねて平安のうちに休むことができます(4∼6節)。

 主は「あらゆる災いから」私たちを守り、私たちの「魂」を守られます。私たちに肉の命を与え、また霊の命を賜わり、神の都、天の故郷に私たちを招き入れて下さる主は、私たちの全存在を守られるのです。主は私たちの旅路を初めから終わりまで、「今より、とこしえに」守られるのです。聖日ごとに肩を並べて共に主を礼拝した召天者たちは、主に守られて礼拝者の旅を全うしました。召天者たちは礼拝の場に、礼拝を中心とした生活の中に、主の助けと守りを見出していました。

 私たちは尚、旅を続けます。主が私たちの旅路を守られます。主の守りを信じ、主に導かれながら進んでまいりましょう。

聖日礼拝 2022年9月25日
説教題 「神の言葉に生きる教会」
聖書箇所 使徒言行録第17章1~15節
説  教 安井 光 師

 パウロとシラスはフィリピでの伝道を終えた後、マケドニアの州都テサロニケに向かいました。テサロニケにはユダヤ人も多く住んでいたので、二人はユダヤ人の会堂に行って伝道しました。パウロは会堂で聖書を説き明かし、イエスがメシア=キリスト(救い主) であること、イエスの十字架の死と復活による救いについて宣べ伝えました。会衆の中から、神を崇める多くのギリシア人がイエスをキリストと信じました。ヤソン(ローマ 16:21)ら少数のユダヤ人も信じ、テサロニケに教会が誕生したのでした。

 テサロニケの教会は聖書を土台にして生まれ、神の言葉によって建てられた教会でした(Ⅰテサロニケ 1:2∼10)。パウロの語る神の言葉を受け入れた時、テサロニケの信徒たちは迫害を受けました(5∼9節)。ローマ帝国では、カイザルが一番高い位に座し、人々から崇められるべき存在でした。そういう状況下で「イエスは主である」と告白し、イエスを礼拝しながら生きることは命がけのことでした。テサロニケの信徒たちは聖書にしっかりと根差し、御言葉によって信仰が守られ強くされたのです。御言葉から信仰の確信を与えられ、聖霊の励ましを受けながら力強く信仰生活を過ごしたのです。

 パウロとシラスは、続くベレアでもユダヤ人の会堂で伝道しました。ベレアのユダヤ人は、「素直で、非常に熱心に御言葉を受け入れ」ました。パウロの言葉を鵜呑みにしたわけではなく、「そのとおりかどうか、毎日聖書を調べ」、神が聖書をとおして語っておられるメッセージを正しく理解し、心に受け入れたのです。ベレアでは多くのユダヤ人、またギリシア人の貴婦人や男たちがイエスを信じました。ヨーロッパでは上流階級の人々の心にも神の言葉が浸透していったのです。

 パウロは、テサロニケやベレアの教会の信徒たちが自分の語った説教を神の言葉として聴き、受け入れてくれたことを神に感謝していました(Ⅰテサロニケ 2:13)。「この神の言葉は、信じるあなたがたの内に今も働いている」とパウロは語ります。聖日礼拝の説教も、神の言葉として説教者によって語られ、神の言葉として聴衆に聞かています。私たちはまた日毎に聖書に向き合い、神の語りかけを新しく聴く必要があるでしょう。そうすることで御言葉は力をもって私たちに生きて働きます(Ⅰコリント 1:18)。桑原教会も神の言葉を土台にして築き上げられてきました。これからも神の言葉に生きる教会として導かれたいと思うのです。