2019年10月6日
説教題 「天に国籍を持つ」
聖書箇所 ピリピ人への手紙第3章17節~21節
説教者 安井 光 師

 「兄弟たちよ。どうか、わたしにならう者となってほしい」とパウロは呼びかけています。私たちが倣うべき完全な模範はイエス・キリストですが、パウロは一人のキリスト者として「わたしにならう者となってほしい」と勧めているのです。そうパウロが言うのは、彼が完全な人間とされていたからではありません。彼はただイエスに目を注ぎ(ヘブル12:2)、天を仰ぎながら生活していたのです(13-14節)。

 桑原教会の召天者たちは、私たちに模範を示して下さいました。彼らが示された模範は、イエス・キリストを信じる者だけが示し得る模範です。その模範とは、救い主であり真の模範者であるイエスに寄りすがりながら、「わたしたちの国籍は天にある」と確信し、また天に希望を見出して生きる人生そのものです。パウロ同様に召天者たちも、「どうか、わたしにならう者となってほしい」と私たちに呼びかけているのではないでしょうか。

 かつてパウロは、「キリストの十字架に敵対して歩いている者」の一人でした。「地上のこと」ばかり考え、「滅び」に向かって歩んでいたのです。しかし天からキリストの語りかけを聞いて(使徒行伝9:3-)、神の愛と自らの罪を示され、悔い改めて十字架のキリストを信じて救われ、十字架を誇りとして生きるようにされたのです(3-9節)。人生観の大転換が起こり、天を想い、天を仰いで生きるように変えられたのです。召天者たちの生涯にも同様のことがなされたのです。

 国籍が天にあるということ、それは私たちが永遠に生きる住まいが天に用意されているということです(ヨハネ14:1-6)。「国籍」と訳される言葉(ポリテューマ)には「市民権」という意味もありますが、天に国籍を持つことは、また揺るがない確かな所在を私たちが持つことなのです。国籍が天にあるという事実が人生の確かな土台となり、希望と喜びと平安に満ちた幸いな人生を私たちに送らせる力となるのです。

 桑原教会の召天者たちは、イエス・キリストを信じ、「わたしたちの国籍は天にある」と確信して生涯を全うされ、天の御国・神の国に生きる民の模範を私たちに示して下さいました。私たちもやがて天に召されますが、召天者たちに倣い、「我らの国籍は天にあり」と証ししつつ、人生の旅路を歩ませていただきましょう。

2019年9月29日
説教題 「イエスの祈り」
聖書箇所 ヨハネによる福音書第17章1節~5節、11節~13節、20節~26節
説教者 安井 直子 師

 17章はイエスが十字架にかけられる前の最後の祈り、遺言の祈りで、それは残される弟子たちが一つであるように、また弟子たちが建て上げる教会が一つであるようにということでした。しかし「一つである」ということは、なかなか難しいことです。そのためにイエスは特別に祈られたのではないでしょうか。この祈りは大きく分けて三つの祈りからなっています。

 第一は、イエスご自身のための祈りで、父なる神とイエスの栄光が現わされるようにとの祈りです。イエスの栄光とは、イエスの十字架の死と復活を通して、イエスを救い主と信じる者すべてが永遠の命をもつこと、父なる神がご計画された世の救いの御業が完成することがご自身の栄光であったのです。

 第二は、弟子たちのための祈りです。この世において弟子たちを守って下さるように、この後に起こってくるクリスチャンへの迫害ということを思いにいれて、「彼らを悪しき者から守って下さい」と祈られたのです。また、弟子たちが一つになるために、彼らを守って下さいと祈られました。そして弟子たちを世に遣わすために、真理の御言葉によって聖別して下さいと祈られました。それは弟子たちが患難に遭遇する中にあって、主の証人として生き抜いていくためでした。

 最後、第三は、神様・御子なるイエス様・聖霊なる神が一つであられるように、教会が一つであるように、一致するようにと祈りをささげられました。それはイエスを救い主と信じ告白する者が互いに愛し合うことによって一つになり、教会が一致するようになるためです。そのためにはイエス・キリストの御名によって、キリストの愛のゆえにひとつとなることです。「Ⅰコリント12:20∼」の体の肢体がそれぞれ異なった働きを持っているように、クリスチャンも多種多様な存在であるけれどキリストの体とされていることのゆえに一つなのです。私たちはなかなか兄弟姉妹を愛することができない、赦すことができない者ですが、教会のかしらであるイエス・キリストが祈っておられ、期待しておられるのは、「わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためであります。」というこの言葉です。私たちのために今も祈っていて下さいます。私たちは主の祈りに支えられて、この世にあってもすべての悪から守られ、兄弟姉妹と主にあって一つであることを大切にしながら、福音を宣べ伝えていこうではありませんか。

2019年9月22日
説教題 「週末の時代を生きる」
聖書箇所 マタイによる福音書第24章1節~28節
説教者 安井 光 師

 イエスが神殿を出ていこうとした時、弟子たちは神殿の建物を指しその素晴らしさを称賛しました。イエスは弟子たちに神殿が徹底的に破壊される日が来ることを予告され、終末について預言をされました(24章)。「小黙示録」とも呼ばれます。

 弟子たちは、「いつ、そんなことが起るのでしょうか。…世の終りには、どんな前兆がありますか」とイエスに尋ねました。イエスは「人に惑わされないように」と注意を促されました。「自分がキリストだと言って、多くの人を惑わす」のです。20世紀には多くの異端、「にせキリスト」「にせ預言者」が現れました。巧妙にかたちを変えながら、現在も人々を惑わしています。国家間の対立、民族紛争は世界各地でやむことなく起こっています。自然災害は、殊に日本においては近年頻発しています。

 これらのことからも終末が近づいていると判断できますが、神が始められた人類の歴史には終わりがあることを心に留めなくてはなりません。真実で変わることのない神に目を注ぎ、神の確かな御言葉に聞かなくてなりません。想定外のことが起っている昨今ですが、神からすれば想定内なのです。「それらは起らねばならないが、まだ終りではない」とイエスは言われます。私たち主イエスの弟子たちは、神の救いのご計画の全体像が知らされています。終末の前兆を感じる度に、私たちは注意し、惑わされず慌てずにいましょう(4、6節)。

 イエスは、またクリスチャンに対する迫害や背教、教会内で不法がはびこり 愛が冷えることについても言及しておられます(9-12節)。その中で「最後まで耐え忍ぶ」ことが私たちに求められています。それは主イエスによる大いなる希望が内に与えられているからです。終末に向かう時代の只中にあって希望を抱きつつ、神を愛し隣人を愛し、互いに愛し合うこと、主イエスの賜わった愛に生きることを、主は私たちクリスチャン(教会)に願っておられるのです(マタイ22:37-40、ヨハネ13:34、Ⅰヨハネ4:12)。

 愛に生きるとともに、福音を宣べ伝えることは主の弟子たちに与えられている使命です。「御国の福音は、すべての民に対してあかしをするために、全世界で宣べ伝えられる…。そしてそれから最後が来る」とイエスは言われました。私たちは人に惑わされず、突然起こる世の事象に慌てることなく、主のご計画を心に留め、主の愛と希望を抱いて生きましょう。

2019年9月15日
説教題 「主の晩餐である聖餐」
聖書箇所 コリント人への第一の手紙第11章17節~34節
説教者 安井 光 師

 主イエスは十字架にかかられる前夜、弟子たちと共に晩餐を共にされました。それは過越の食事でした。イスラエル人は、主なる神によってエジプトにおける奴隷生活から救い出されて以来、この出来事の記念として過越の食事をしました。しかし主イエスは、ただ過越の祭を祝うために、弟子たちと食事を共にされたのではありませんでした。

 主はパンを裂き、ぶどう酒の杯を手に取り、それらを弟子たちに分け与えながら、「これはあなたがたのための、わたしのからだである。…この杯は、わたしの血による新しい契約である」と言われ、ご自分の十字架の犠牲が、全人類のための救いの契約であることを示されたのです。

 主イエスは「わたしを記念するために…わたしの記念として、このように行いなさい」と命ぜられ、これを「主の晩餐」、すなわち聖餐として制定されました。主が聖餐を制定されて以来、このお方を救い主と信じて洗礼を受けた人々の群、すなわち教会では「主から受けたこと」として聖餐を守り行っているのです。

 聖餐のパンとぶどう酒とにあずかりながら、私たちの罪のために主が十字架で肉を裂き、血を流されたこと、それによって私たちが罪から救い出され、永遠の命を受けたという、その恵みを思い起すのです。過ぎ去った出来事としてではなく、新たな恵みの出来事として受け取り、この恵みを拠り所としていくのです。

 コリントの教会では聖餐が正しく行われていませんでした。各自が自分の思いのままに振舞い、先に食べあるいは飲んで酔っている者もあれば、食べることも飲むこともできずに飢えている者いるという状況でした。そこでパウロは彼らに聖餐の意義を示し、主イエスがご自分の教会に求めておられることを示しました。

 教会はキリストの体、クリスチャン一人一人はその肢体です。クリスチャンはキリストの体、一つの体となるために洗礼を受けたのです(Ⅰコリント12:12-、エペソ2:11-)。主イエスは教会が一つとなるために祈られたのです(ヨハネ17章)。

 主はご自分の体と血にあずかる者たち、聖餐にあずかる者たちが、主の十字架による救いの恵みを告げ知らせ、主の一つの体として共に建てられていくことを願っておられるのです。

2019年9月8日
説教題 「イエスの嘆き」
聖書箇所 マタイによる福音書第23章25節~38節
説教者 安井 光 師

 イエスは律法学者やパリサイ人らを厳しく批判されました(13節~)。「あなたがたは、わざわいである」と不幸な状況は、彼らが抱えていた「偽善」と霊的な「盲目」から生じていました。「杯と皿との外側をきよめ」ていましたが、内側には「貪欲と放縦とで満ちて」いました。彼らは神の取り扱いを受けなければならないもの(罪)を内側に抱えていたのです。その様は「白く塗った墓」のようで、「外側は美しく」「人に正しく見え」ましたが、内側には「偽善と不法とでいっぱい」になっていたのでした。

 律法学者やパリサイ人は「預言者の墓を建て、義人の碑を飾り立てて」、神が遣わされた人々を敬っているように装っていましたが、実際には預言者ヨハネの証を受け入れず、イエスを救い主と信じようとしませんでした。彼らも先祖たちがしたように(35節)、預言者や義人の血を流すことに加わり、先祖と同じ罪を犯していたのです。神は彼らを愛しておられましたが、その神の愛を退けていたのです。それは「わざわい」以外の何ものでもありませんでした。

 「ああ、エルサレム、エルサレム…」と、イエスはエルサレム全体の罪と不幸を嘆いておられました。「平和の町」という意味を持つ神の愛される都でしたが、真の平和は訪れずにいました。それはエルサレム(住民である律法学者やパリサイ人ら)が神と争い、神のもたらす平和の道(イエス・キリスト)を拒んできたからでした。それでも尚、イエスは深い愛とあわれみをもってエルサレムに臨んでおられたのです(ルカ19:41-44)。

 「めんどりが翼の下にそのひなを集めるように、わたしはおまえの子を幾たび集めようとしたことであろう」。イエスのこの呟きは、エルサレム(イスラエル)を敵から守り救おうとなさる愛なる神の姿を表わしていました(イザヤ31:5、詩篇91:4他)。親鳥が雛を翼の下に隠して外敵から守るように、神は人々を守り救われるのです。真の平和にあずかるために、神の懐に飛び込まなければならなかったのです。

 主イエスは十字架の道を進まれましたが、主の十字架上の姿は、親鳥が翼を広げてその下に雛を集めるように、両手を大きく広げて罪人を守ろうとする姿でした。私たちも律法学者やパリサイ人らと同じ罪を犯します。自分を偽ってイイ恰好をして主の許に行くのでなく、十字架の血をもって内側から聖くし、真の平和を得させて下さる主の御許に逃れましょう。

2019年9月1日
説教題 「愛の完成」
聖書箇所 ヨハネによる福音書第21章15節~19節
説教者 安井 巌 師

 ヨハネ福音書第21章の主イエスとペテロとの愛を巡る対話は、私たちのうちにどのようにして、主の愛が完成、成就していくかが明確に示された場面であります。ここで主イエスは、ペテロの殉教の死を予告しながら、死ぬことを前提にわたしに従いなさいと言われた。そのようなたいへん厳しい使命に招かれるにあたって、求められたのが、ご自身に対する特別な愛でありました。

 愛は、超えるべきものを越えさせる力があります。主イエスを信じて従うということは、愛を持ってお従いしていくことにおいてのみ可能になるのです。この対話を巡る愛の問答、そこで鍵となるのが、3回の問いです。なぜ、3回同じ質問をされたのか。また、3度目にはペテロの心に痛みが生じる。その痛みとは何か。それは、主イエスに対する裏切りでありました。死からくる恐れから、主イエスの極みまでの愛を拒否し、自分の主イエスに対する愛を断念せずにおれなかった。しかし、それが、罪を抱えているペテロをはじめとする愛に生きることができない私たちの姿ではないでしょうか。どんなに愛することを望んでも、誓っても、私たちは愛し通すことができない弱さを、罪深さを抱えている。その姿に、ここで、主イエスは愛を問われる、まさにそこで、ペテロに目を向けさせ、しかし、その限界を、主イエスに対する愛を答えていく中で越えさせてくださるのです。

 ペテロの主イエスに対する愛の表明は、自分の愛の深さ、自分の意志の硬さ、自分の誠実さによるものではありませんでした。だから、そこに痛みが伴うのです。悔い改めが伴うのです。しかし、ご自分への愛を問われるその主イエスご自身が、このペテロの愛を保証していてくださるのです。主イエスは、何もかもご存知なのです。裏切った自分を、これからも失敗するかもしれない自分を。しかし、そんなペテロであっても、主イエスを愛する者へと変えてくださる。すでに変えられている。十字架の赦しとよみがえりの命の中で、そこに気づかせてくださる。主イエスの問いに答えさせていただく中で。そして、主イエスの「わたしに従ってきなさい」という招きに、答え、従うものへと変えられていくのであります。そして、主イエスは、そのように、毎週の礼拝において私たちに出会ってくださり、「わたしを愛するか」と、み声をかけてくださるのです。

2019年8月25日
説教題 「偽善者のわざわい」
聖書箇所 マタイによる福音書第23章13節~24節
説教者 安井 光 師

 イエスは律法学者とパリサイ人たちを「あなたがたは、わざわいである」と批判されました。イエスはガリラヤで宣教を開始してから3年にわたって、神の国の福音を宣べ伝えてこられました。その内容は山上の説教に要約されるように「さいわい」を告げる言葉でした(マタイ5:1-12)。エルサレムに登られ、イエスの宣教は終盤を迎えていましたが、「わざわい」を告げる言葉をもって終えなくてはならない状況にありました。律法学者やパリサイ人らが不幸な状態にあること、彼らに災いがもたらされようとしていることをイエスは憂い嘆かれたのです。

 彼らは律法の専門家であり、律法を非常に重んじていました。律法を守り行うことによって義とされることを求めていたので、イエスが宣べ伝えた福音を拒絶し、また人々にもそのように教えて天国(神の国)に入らせようとしなかったのです(13節)。彼らは異邦人をユダヤ教に改宗させる伝道活動を展開させていましたが、彼ら自身、神の救いを受け入れなかったので改宗者を滅びに導いていたのです(15節)。民衆までも不幸に陥れていたのです。

 律法学者やパリサイ人らは二つの問題を抱えていました。一つは「偽善」に陥っていたことでした。彼らは見栄のために長い祈りをしたり、形ばかりで心の伴わないささげものをしていました(14、23節)。それらは神の祝福を遠ざけてしまうものでした。もう一つは霊的に「盲目」になっていたことでした。彼らは、神殿に住まわれ祭壇と供え物を聖別される神より、神殿に飾られた黄金や自分がささげた供え物のほうが大事だと思ったのです(16-22節)。周辺的なことばかりに目をやり、本質的なことが見えていなかったのです(23-24節)。見えていないのに「見える」と偽ることに彼らの罪がありました(ヨハネ9:39-41)。

 私たちクリスチャンも彼らと同じ罪を犯すことがあります(ガラテヤ2:11-14)。キリストに属する者らしく歩まねばならないと思うあまり、律法的になり、偽善に陥り、心の視野が狭くなり、周りの人々をさばくようになってしまうのです。その結果、福音の神髄から離れているとしたら、「あなたがたは、わざわい(不幸)である」とイエスは嘆かれるでしょう。しかしながらイエスは偽善者をさえあわれんで、真の「さいわい」に導き入れるために十字架でご自身をささげられたのです。私たちは、ただイエスの真実とあわれみに依り頼みたいと思うのです。

2019年8月18日
説教題 「真心からのささげもの」
聖書箇所 ルカによる福音書第21章1節~4節
説教者 安井 光 師

 イエスは神殿で人々に教えを語られた後、人々が献金箱に献金を投げ入れているのをご覧になりました。金持ちはたくさんのお金を投げ入れました。ジャラジャラと大きな音が鳴り響いたことでしょう。その後、貧しいやもめが来て、レプタ二つを投げ入れました。それはわずかな額のお金でした(1レプタは1デナリ-労働者日当-の130分の1)。金持ちは見栄を張ってたくさん献金を入れ、得意顔でした。

 一般社会において、多く金額を募金・寄付したほうが評価されます。人間の評価はそうかもしれません。しかし神の評価は異なっているのです。イエスはやもめのレプタ二つの献げものを見て、「よく聞きなさい。あの貧しいやもめはだれよりもたくさん入れたのだ」と賞賛されました。金持ちと比べて「たくさん」というのでなく、貧しいやもめにとっての「たくさん」だったのです。やもめにとっては「持っている生活費全部」であったとしても、神殿からすれば目にも留らないような献金だったことでしょう。しかしイエスは献げもののみならず、献げるその人を、その生活と心をご覧になるのです。

 「よく聞きなさい」は原文では「アーメン」(真実である、そのとおりである)となっています。イエスはやもめの真心からのささげものに、「これは真実な献げものである」と言って喜ばれたのです。真心のからのささげものとは、痛みが伴っています。詩篇51篇17節に「神の求められるいけにえは砕けた魂です。神よ、あなたは砕けた悔いた心をかろしめられません」とあります。神は、神に対して開かれた心、神の前に謙った心を求められるのです。自然にというより意識的にそうする心がけが必要です。

 宣教師にして探検家であったリビングストンは、少年時代に集会で献金するお金がなく、自分の身を献金のお盆の上にのせ、「私自身を神さまにささげます」といって、自らの生涯・将来を神に献げたと言われます。けれども忘れてはなりません。私たちが何かを献げる以前に、神が私たちのために御子イエスの十字架の死という高価な献げものをおささげになったことを(エペソ5:2)。神への献げもの・献金は私たちの善き行いでもなく、強いられてするものでもありません。ただ神の恵みに感謝し、その応答としてレプタ二つを献げたやもめのように真心から精一杯するものなのです。神はそのような献げものを「アーメン」と喜んで受け入れて下さるのです。

2019年8月11日
説教題 「私たちの立つ所」
聖書箇所 マタイによる福音書第23章1節~12節
説教者 安井 光 師

 イエスは律法学者とパリサイ人のあり方を厳しく批判されました。それは、彼らの信仰のあり方を示しながら、弟子たちや民衆に対し、イエスに信じる者たちがいかにあるべきかを教えるためでした。

 律法学者やパリサイ人は、律法を非常に重んじていました(2節)。律法学者は、律法の専門家として民衆に律法を教え、神の戒めに従って生活するよう指導していました。パリサイ人は、律法を厳格に守ることに注意を払いながら生活していた熱心なユダヤ教徒でした。イエスは弟子たちや民衆に対し、神の戒めを守り行うことを求めましたが、「彼らのすることには、ならうな」と言われました。それは「彼らが言うだけで、実行していないから」でした。

 安息日や清めに関する戒めは、細かく守っていたことでしょう。しかし「あなたの隣り人を愛せよ」という大切な戒めを実行できていなかったのです(ルカ10:25-37)。自分たちも実行できない戒めを「重い荷物」のように民衆に背負わせ、守れない者たちをさばいていたのでした。また神の戒めを唱え、神に祈りをささげる時に彼らが用いた「経札」や「衣のふさ」は(申命記6:4-、民数記15:38-)、自分の敬虔さを「人に見せるため」の道具となっていました。彼らは「上座…上席を好み、人々から先生と呼ばれること」求めたのです。

 しかし神が人々に求めておられたのは全く逆のあり方でした。「先生」と呼ばれて高慢になったり、「教師」だからと弟子に高圧的な態度をとらないように、また宗教的、民族的指導者を「父」と崇めて絶対視するような歪な関係を持たないように、イエスは注意を促されました(8-9節)。弟子たちに対し、むしろ「仕える人」「自分を低くする者」となること、上の立場に自分を置くのでなく下に置くように求められました(11-12節、マタイ20:25-27)。

 イエスが弟子たちに示されたのは、イエスご自身のあり方でした(20:28)。イエスは、私たち罪人を救うために神の立場を捨てて人となられ、御子の力を放棄して十字架でご自身を犠牲にされました(ピリピ2:6-9)。イエスの御前に私たちは身を低くする(平伏す)のです。十字架のイエスの御許こそ、私たちの立つべき所なのです。

 自分を低くすることは、また隣人に対してなすべき態度でもあります(ピリピ2:3)。自分が無力な者であり赦された罪人であることを覚え、イエスの十字架の愛を居場所とし避難所としていく、その生活において、神は私たちを高く引き上げて下さるのです(12節、Ⅰペテロ5:1-6)。 

2019年8月4日
説教題 「ダビデにまさるキリスト」
聖書箇所 マタイによる福音書第22章41節~46節
説教者 安井 光 師

 「あなたがたはキリストをどう思うか。だれの子か」とイエスはパリサイ人たちに尋ねました。パリサイ人らは「ダビデの子です」と答えました。ユダヤの人々は、「キリスト(救い主)」がダビデの子孫から起こると信じていました(イザヤ11:1-5)。

 ダビデはイスラエル統一王国の初代の王で、戦いに長けた武将であり、政治手腕に優れ、指導者として比類なき人物でした。ダビデのような王が再び現われることを人々は待望していました。イエスこそ「ダビデの子」と考え、イエスに救いを求めたのです(マタイ9:27、12:24、21:9)。

 しかしながら、イエスは人々が思い描いているような政治的な救済者ではありませんした。イエスはダビデにまさるお方でした。イエスはダビデの詩を引用され(44節、詩篇110:1)、ダビデがキリストを「わが主」と呼び、真の王である神の御子の出現を待ち焦がれていたことをパリサイ人らに示されました。

 イエスは病人を癒したり、悪霊を追い出したり、五千人の人々の飢えを満たすなど、ダビデには成し得なかった力ある御業を行われました。しかしながらイエスがダビデにまさっていたのは、神の御子としての華々しい力ではなく、むしろのその力を放棄して僕のように無力になってご自身をささげたことにありました(ピリピ2:6-8)。真の救いを人に得させるために、イエス・キリストは十字架でご自身を犠牲にされたのです。

 イエスの弟子たちは、後の日に聖霊を注がれて、イエスがダビデにまさるキリスト、王の王、主の主であることを悟り、人々にそのことを証ししました(使徒行伝2:29-36)。イエスがもたらされる救いは、人間の想像にも及ばないようなスケールの大きなものでした。イエス・キリストはユダヤ人のみならず私たちすべての者を、人間の究極的な課題である罪と死と悪の支配から贖い出されるのです。

 「あなたがたはキリストをどう思うか」、あなたがたはわたしをどのような者として見ているのかと、イエスは私たちも問われるのではないでしょうか。あなたこそ、我らの主キリスト、我らを贖い、神の子とし、永遠の命と御国を与えて下さる方。私たちの慰め、助け、望み、すべては、主よ、あなたにあります…とお答えしたいと思います。イエスは天の御座で私たちのために日夜とりなしをしておられます。終わりの日には、私たちの救いを完成させるために御座から降りてこられるのです。