2019年4月14日
説教題 「十字架による赦し」
聖書箇所 ルカによる福音書第23章26節~43節
説教者 安井 光 師

 イエスが十字架を背負いゴルゴダの丘に向って進まれた道は、「ヴィア・ドロローサ」(悲しみの道)と呼ばれます。イエスは、人に捨てられ、打たれ、虐げられ、苦しめられました(イザヤ53章)。しかし、私たちはイエスの死を嘆き悲しむのではなく(28節)、むしろ自分の罪の悲惨さを嘆き、罪を悔い改めてイエスの十字架による赦しを受けるべきです。

 十字架刑はすべての処刑法の中で最も悲惨なものと言われます。ローマの処刑法でありながら、ローマ人には適用されませんでした。ユダヤ人も忌みきらっていました(ガラテヤ3:13)。イエスは罪を犯されなかったのに十字架につけられたのです。イエスが十字架で味わわれた苦痛(苦悩)は、どれほどのものであったことでしょう。イエスは正しいさばきをなさる神にすべてを委ね、十字架上で祈りをささげられたのです。「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」と。

 イエスは、ご自分を十字架につけたユダヤ人やローマ人のためだけでなく、全人類のために、私たちすべての者のために「父よ、彼らをおゆるしください…」と祈られたのです。自分は罪人ではないと思う人でも、「わからず」犯している罪がたくさんあります。罪だと思わないで無自覚・無意識に犯している罪こそ、神による赦しが必要なのです。イエスは十字架で血を流し、ご自分の命を神の御前に差し出しながら、「彼らをおゆるしください」と祈られたのです。

 イエスの隣にいた二人の犯罪人も、その祈りを耳にしたことでしょう。ひとりはイエスを嘲りました。けれども、もうひとりは自分の罪の重さを示され、正当なさばきをなさる神を恐れたともに、不当な苦しみを受けながらも罪人のために(自分のために)赦しを祈られるイエスが救い主であることを悟ったのです。そしてイエスに自分を委ねました。イエスはこの犯罪人(つみびと)にパラダイス(天国)に入る約束をお与えになったのです。

 人間的に考えれば、罪人が行くのは天国ではなく地獄でしょう。この犯罪人自身、人生を振り返りながら「こうなったのは当然だ」と思い、自分はとても天国に行けるような人間ではないと考えたことでしょう。でも彼はイエスを信じ、イエスに自分を委ねたのです。イエスは十字架の血によって彼を罪から贖い、御国の約束を賜わったのです。彼は魂に平安を得ました。これこそ、イエス・キリストが私たちにもたらされる救いなのです。

2019年4月7日
説教題 「宮をきよめるイエス」
聖書箇所 マタイによる福音書第21章12節~17節
説教者 安井 光 師

 イエスがエルサレムに入られると、まず神の宮(神殿)に行かれました。ちょうど過越の祭の時期で、各地からおびただしい数の巡礼者が神に礼拝をささげるために宮を訪れていました。

 「宮の庭」では、神にささげる犠牲の動物の売り買いがなされていました。傷のある動物ではダメなので、巡礼者たちは庭で売られていた検査済の動物を購入していました。また献金は、日常用いられていたローマの貨幣でなくユダヤの貨幣でしなくてはならなかったため、庭に設けられた両替所で換金してもらうのでした。宮の庭は、異邦人にとって神殿内で唯一入ることが許された礼拝場所でした。

 イエスは神の宮の様子をご覧になり、「売り買いをしていた人々をみな追い出し、また両替人の台や、はとを売る者の腰掛をくつがえされ」ました。金儲けがなされ、神を礼拝する場所とは言い難い状況に陥り、またささげられていた礼拝が形骸化してしまっていた神の宮の有様に、イエスは心を痛められたのです。イエスがなそうとしておられたのは、神の宮の礼拝改革でありました。

 宮を取り仕切っていた祭司長らは、イエスが宮の庭でなされる癒しの御業を目の当りしてもイエスを信じようとしませんでした。一方で、庭にいた子どもたちは「ダビデの子に、ホサナ」とイエスを賛美したのです。それを見て立腹する祭司長らに、イエスは子どもたちの賛美は神がお与えになったものであり、神はこのような賛美と真心からささげる礼拝を求めておられることを示されたのでした(16節、詩篇51:16-17)。

 イエスはサマリヤの女との対話の中で、「まことの礼拝」について語られました。イエスをとおしてすべての国民が分け隔てなく真心から神を礼拝するようになると宣言されました(ヨハネ4:20-26)。イエスは十字架でご自身を犠牲としてささげることによって、それを成就して下さったのです(ヘブル10:19-22)。

 イエスは十字架の血をもって、私たちをきよめ神の宮としておられます。私たち教会には聖霊が宿っています(Ⅰコリント3:16、6:19)。「わたしの家は、祈りの家と唱えられるべきである」とイエスがおっしゃるように、神に祈り、御霊の導きを仰ぎ従っていくことが教会に求められます。そのようにして神を真実に礼拝していくのです。聖日礼拝に心を込めるとともに、日々の生活において聖霊が住まう神の宮として、神を崇め、神にすべてを明け渡しましょう。

2019年3月31日
説教題 「イエスは永遠の命に至る道」
聖書箇所 ヨハネによる福音書第14章1節~14節
説教者 安井 直子 師

 ユダの裏切りやペテロがご自分を三度知らないと言うことを予告されたイエスの言葉を受けて、弟子たちは不安と恐れで心騒がせていました。そこでイエスは「あなたがたは心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、すまいがたくさんある。…あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから」(1‐2節)と言われました。イエスの十字架による死は、全ての人が神と共に永遠に生きることができる「場所」を備えるためであるので、神を、わたしを信じなさいと言われたのでした。イエスは私たちのために素晴らしい天の住まい、神の国を備えておられます。私たちの行くべき場所はここにあるのです。

 ところがトマスは「主よ、どこへおいでになるのか、わたしたちにはわかりません」(5節)と答えました。他の弟子たちもわかっていませんでした。そこでイエスは「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」(6節)と宣言なさいました。それは神の御子イエス・キリストが、永遠の命へ至る道であるということです。天国へ行くにはイエスが唯一の道です。この方を救い主と信じる以外に他の道はないのです。人はどんな立派な行いをしても、自分の力で天国へ入ることはできません。

 またピリポは「主よ、わたしたちに父を示して下さい。そうして下されば、わたしたちは満足します」(8節)と言いました。ピリポも他の弟子たちもすでに現わされているイエスのお姿に、神が示されていると分かっていなかったのです。そして自分が満足し納得するかたちの答えを求めていました。私たちも同じようなことがあるのではないでしょうか。このような弟子たちに対して、ご自分と父なる神は一つであることを語られました(9-11節)。そしてイエスこそ神でありまことの救い主であるという信仰に生きる時に、イエスを信じる者たちを通してイエスが成された業よりも「もっと大きなわざ」を表して下さると語って下さいました。

 神に愛され神の愛に生かされることにより、今度は私たちが人を愛し人に仕える者とされていくのではないでしょうか。その恵みに与かった私たちは、イエスの御名によって願う祈りをかなえて下さるという素晴らしい約束を下さいました。私たちは永遠の命へ至る道となって下さったイエスを信じ、このお方に祈り、従う者となりましょう。

2019年3月24日
説教題 「主がお入り用なのです」
聖書箇所 マタイによる福音書第21章1節~11節
説教者 安井 光 師

 イエスがエルサレムに入城される時がきました。いよいよ主がイスラエルの王となられるのだと、弟子たちは胸を躍らせていたことでしょう。イエスはエルサレム入城されるために乗り物を必要とされました。イエスはろばの子をお入り用とされました(2-3節)。それは旧約聖書の預言、神の約束が成就されるためでした(4-5節、ゼカリヤ9:9-10)。

 世の王たちは軍馬に乗って民衆に迎えられるのが常でした。ゼカリヤが預言した王はそれと異なっていました。エルサレムに来られる新しい王は、「柔和であって、ろばに乗る」「戦車…軍馬…いくさ弓を断たれる」「国々の民に平和を告げ、その政治は…地の果てにまで及ぶ」と、平和の王として来られることが預言されていました。イエスは真の平和をもたらす真実な王として、ろばの子に乗ってエルサレムに上られたのです。

 この時エルサレムには、過越の祭を祝うために各地から大勢の群衆が集まっていました。群衆の間には新しい指導者の誕生の気運が高まっていました。群衆は「ダビデの子にホサナ」と叫び、大きな期待をもってイエスを迎えました。群衆は、イエスがイスラエルの王となって、自分たちをローマの支配から解放し、ダビデの時代のような王国を復興してくれることを願っていたのです。しかし神がなそうとしておられたのは、御子イエスを十字架で犠牲としてささげ、世の罪を贖い、真の自由と平和をもたらすことでありました。

 イエスはろばの子の「主」であり、真の持ち主でした。主イエスが「お入り用」とされたのは、「まだだれも乗ったことのないろば」(ルカ19:30)で、調教されておらず扱い難かったかもしれません。けれども、主が聖別された(選んで贖われた)ろばでした(出エジプト13:13)。このろばの子はイエスをお乗せするために聖別されたのです。

 『わたしたちはろばの子』(子どもさんびか99番)のような存在です。私たちは十二弟子のように愚かで悟りのない者ですが、主はそんな私たちを選び、十字架の代価をもって贖われたのです。主はあらゆる敵意(神と人への敵意)を十字架によって滅ぼし、私たちの魂に平和を与えて下さいました(エペソ2:14-16)。主を中心に置くことによって、平和が守られ、平安が保たれていくのです。私たちは平和の主イエスをお乗せし、主の十字架の愛と平和を世に持ち運んでいくのです。そのために主は私たちをお入り用とされるのです。

2019年3月17日
説教題 「主よ、あわれんで下さい」
聖書箇所 マタイによる福音書第20章29節~34節
説教者 安井 光 師

 イエス一行がエリコの町を出てエルサレムへの道を進んでおられた時、道端に「ふたりの盲人」が座っていました。二人はイエスがそこを通っておられると聞き、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちをあわれんで下さい」と叫びました。イエスについての噂を耳にしていたのでしょう。二人はイエスを「主」(主権者、絶対者)、「ダビデの子」(メシヤ=救い主を意味する)と信じ、神のあわれみを請い求めたのです。

 二人は自分の貧しさを知っていました(マタイ5:3)。自分は何も持っていない、何もないと感じていたことでしょう。神にあわれんでいただかなければ、自分はどうすることもできないと考えていたのです。その点において、富める青年とは全く対照的でした(19:16-21)。ルターは晩年に人生を振り返りながら、「私たちは物乞いだ」と証ししました。まさに二人の盲人の叫びは、イエスを主と崇め、救い主と信じる者たちの叫びであり、祈りでもあるのです(詩篇57:1-2参照)。

 イエスがイスラエルの王様となると期待して従ってきた人々は、「彼らをしかって黙らせようとし」ました。小さい者、弱い者、貧しい者、罪人はこっち来るなといった態度です(19:13)。しかしイエスご自身はそのような者たちを招いておられたのです。「あわれみ(ラハミーム)」は、元々 母の胎を表わし、我が子に対する母の愛情を意味する言葉です。幼子は愛と保護を求めて遠慮なく母親に訴えます。それは母の愛を信じているからです。私たち信仰者は祈りをとおして魂の父を呼び求めるべきなのです。

 イエスは二人の盲人の叫びを聞かれ、立ち止まって二人に対応されました(出エジプト2:23-25参照)。イエスはすべてご存知でしたが、あえて二人の口から「何をしてほしいのか」を具体的に聞かれました。二人は「目をあけていただくこと」を求めました。心に思っているだけでなく、具体的に声を出して祈ることが大事です。二人の盲人にとってイエスによって目が開かれること(霊的な目も)は、彼らが永遠の命を賜わるイエスに従う生涯を送ることと結び付いていました(ヨハネ9章参照)。

 主は私たちがあわれみを請い求めて、主に祈ることを求めておられます(ルカ18:9-14)。主は私たちを深くあわれまれるお方だからです(34節)。主は私たちの心の叫びを聞かれ、私たちを罪の滅びから救って下さるばかりか、私たちを助け慰め励まして下さるのです。

2019年3月10日
説教題 「仕える者となる」
聖書箇所 マタイによる福音書第20章17節~28節
説教者 安井 光 師

 イエスはエルサレムに向かう途上、弟子たちに対して三度目の受難予告をされました(17-19節)。その後、ゼベダイの子(ヤコブとヨハネ)の母が息子たちとイエスの許にきてお願い事をしました。イエスが御国の王座に着かれる時には、一人を右に、もう一人を左の座に着かせて下さるようにと求めたのです(21節)。他の十人の弟子たちは出し抜かれたと思い憤慨しました。彼らもヤコブやヨハネと同様に、他の者よりも自分が上になることを願っていたのです。

 私たちの社会には、様々な面で競争原理・競争意識が働いています。他の人より上になることが良いことで、下になるのは良くないことというような認識が植え付けられているのではないでしょうか。いにしえの時代の人々は、高い塔を建てて天にまで届かせようとしました(創世記11:4)。それは神になろうとするような愚かな行動でしたが、私たち人類はそのような性質(罪)を受け継いでいるのです。

 弟子たちはイエスの行く所にどこまでも従っていく覚悟でした(22節)。イエスは彼らの将来を御心に留めておられましたが、自分の右や左に座らせることは神がなさることで(23節)、彼らにはもっと大切なことがありました。イエスは弟子たちを呼び寄せ、「異邦人の支配者たちはその民を治め、また偉い人たちは、権力をふるっている。あなたがたの間ではそうであってはならない」と戒められました。むしろ、「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、僕とならねばならない」と言われ、彼らが人間的な考えや世の価値観に従うのでなく、神の御旨が彼らのうちに成されていくことを願われたのです。

 イエスが世に来られたのは、神の御子として世の人々に仕えられるためでなく、むしろ僕となって仕えるためであり、世の罪を贖うためでありました(28節)。イエスは弟子たちが「ちょうど同じ」ことをするようになる(それができる)と言われたのです。人間的には考えられないことですが、イエスの十字架の愛とその贖いの恵みに留まることで(Ⅰヨハネ4:10)、隣人を愛し、仕えることができるのです。

 主の愛、十字架の贖いの恵みは、私たちを天の御国に引き上げるだけでなく、私たちを謙らせ、仕えることができるように導くのです。私たちが御国の恵みを味わって生きるように、主は仕える者となられ、十字架で犠牲となられたのです。

2019年3月3日
説教題 「この最後の者にも」
聖書箇所 マタイによる福音書第20章1節~16節
説教者 安井 光 師

 イエスは神の国(天国・御国)の生きる幸いをぶどう園で働く労働者に譬えられました。

 ぶどう園の主人は、夜が明けると同時に市場に出かけ、一日一デナリの約束をして労働者を雇い、ぶどう園に行かせ働かせました。主人は午前9時と12時、また午後3時頃にも市場に行きました。市場には、仕事にありつけず立っている人たちがいました。主人は「相当な賃金を払う」約束し、彼らをぶどう園に行かせました。主人は夕方の5時頃にも市場に行き、最後の労働者を雇ってぶどう園で働かせたのです。

 一日の仕事が終わると、主人は最後の者から順に賃金を払いました。夕方の5時頃に来て一時間しか働かなかった者たちが、何と一デナリをもらいました。朝早くから一日中働いた者たちは、きっと自分たちはたくさんもらえるだろうと思いました。ところが彼らに支払われたのは一デナリでした。一日中働いた者たちは主人に不満を漏らしました(12節)。しかし彼らは主人と一日一デナリの約束をしており(2節)、主人は何ら不正をしていませんでした(13節)。

 「わたしは、この最後の者にもあなたと同様に払ってやりたいのだ」と、主人は胸の内を伝えました(14節)。主人は各自に労働の対価として一デナリを払ったのではありません。労働内容や成果を度外視にしています。神の国とは、人が一生懸命 努力した結果もたらされるものではなく、神の恵みとして与えられることをイエスはこの譬によって説き明かされたのです。弟子たちはイエスの譬話を聞きながら、自分たちは朝早くからぶどう園で働いた労働者だと思ったことでしょう。

 夜明けから日没までを人生と置き換えると、ある人は9時頃、またある人は12時、3時、5時頃といった具合に、主イエスを信じて御国の約束を受ける時期(年齢)は各自異なります。日没前に主のぶどう園に招かれる人もいます。この世の秤で量ると、ぶどう園で過ごすことは重労働に感じるかもしれません(12節)。けれどもぶどう園で働ける自体、大きな恵みであることを忘れてはなりません。一デナリ(御国)の約束が与えられているからこそ、日々平安に生きられるのです。私たちは主のぶどう園で過ごしながら、御国の祝福にあずかっているのです。

 主は「最後の者にもあなたと同様に(一デナリを)払ってやりたい」と思っておられます。そう思いながら、この世界に目を注がれ、一人一人を御国へ招こうとしておられるのです。

2019年2月24日
説教題 「神のご計画」
聖書箇所 ローマ人への手紙第8章28節~30節
説教者 安井 光 師

 「神は万事を益として下さる」とパウロは語っています。私たちには自分の計画があり、それが実現することを願います。しかし神のご計画があるのです。それは最善の計画です。そのことを知り、万事を益として下さる神に人生を委ねて歩めるならば、何と幸いなことでしょうか。

 神は私たちを「ご計画に従って召された」のです。神は天地創造の以前から(エペソ1:4)、母の胎内に形づくる前から(エレミヤ1:5、ガラテヤ1:15)、イエス・キリストにあって私たちを選んで下さったのです。私たちが神を選んだのではなく、神が私たちを選んで下さったのです(ヨハネ15:16)。また私たちの能力や業績や品性などに従って選ばれたのではなく、神の一方的な愛と憐れみによって、この世から召し出して下さったのです(エペソ1:5、11)。

 神は「ご計画に従って召された」私たち一人一人に対して、素晴らしいご計画をお持ちであり、それを御心にとめておられます(エレミヤ29:11)。神のご計画は、災いをもたらすものではなく、将来と希望をもたらす計画です。たとい人間の目には災いと思えるようなことであっても、神は人知を越えたご計画の中で万事を益と変えて下さるのです。

 神が私たちを「ご計画に従って召された」ということは、あるご目的をもって私たちを選んでおられるということです。その目的とは、私たちを「御子のかたちに似たもの」とするということです。神は、御子イエスによって選んだ者たちを、御子と同じ栄光の姿に造り変えて下さり、御子のように神の栄光を表す者にして下さるのです。神はこのご計画・目的のために私たちを召され、今、聖霊は私たちを完成に向けて導いておられるのです(Ⅱコリント3:18)。

 私たちに対する神の救いのご計画というのは、人知を越えてまことに壮大なものなのです。ややもすると、私たちは神のご計画を小さく捉えているのではないでしょうか。そして人生に起ってくる様々な出来事に、戸惑いを覚え、思い煩い、悩んでしまうのではないでしょうか。しかし、「御子のかたちに似たもの」とするという神の計画を信じ、神が私たちを召されたこの目的をしっかりと見定めて歩むならば、必要以上に悩んだり、思い煩ったりすることはなくなるのです。

 神のご計画は、実にダイナミックです。神はご計画を実現するために、私たちの人生に共に働いて、すべての事柄(困難や災い、罪や失敗さえも)を益として下さるのです。

2019年2月17日
説教題 「神にできないことはない」
聖書箇所 マタイによる福音書第19章13節~30節
説教者 安井 光 師

 ある青年がイエスの許に来て、「先生、永遠の生命を得るためには、どんなよいことをしたらいいでしょうか」と尋ねました。彼はユダヤの役人(ルカ18:18)で資産家でした。彼は善い行いをすれば永遠の命が得られると考えていました。イエスは青年に対し、神の戒めを守って生活するように教えました(17-20節)。青年は戒めを「みな守ってきました」と答えました。イエスは青年に、「あなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。…そして、わたしに従ってきなさい」と言われました。大変真面目な青年でしたが、持っているものを手放すことは彼にはできないことでした。青年は失望し、イエスの許から立ち去ったのです(22節)。

 「富んでいる者が天国にはいるのは、むずかしい」とイエスは言われます。自分の持っているもの、財産に限らず自分の行いや能力や培ってきたものなどよりも、天国や永遠の命は価値があるとされるとショックを覚えてしまう。天国に入り、永遠の命を得るために、自分の持っているものを捨てることなどできないと考えてしまうのです。ただし、自分の富や行いを神の前に持ち出したとしても、それと引換に天国に入り永遠の命を得ることができるのではありません。天国(神の国)や永遠の命は、神が私たちに賜わる(プレゼントして下さる)ものなのです(ヨハネ3:16)。誤解してはなりません。

 富める青年は周りも羨む模範的で理想的な人でしたが、彼のような人間が無理ならば(24節)、「だれが救われることができるのだろう」と弟子たちは嘆息しました。イエスは弟子たちに言われました、「人にはそれはできないが、神にはなんでもできない事はない」と。私たち人間にはできないので、神は御子イエスを救い主としてこの世にお遣わしになったのです。私たちは本来 神の前に何も持たず何も誇ることのできない者です。幼子のように何も持たずそのままの姿でイエスの御許に行く時、イエスは私たちを喜んで天国に迎え入れて下さるのです(13-15節)。

 ペテロはイエスのお言葉を聞いて、「わたしたちはいっさいを捨てて、あなたに従いました。ついては、何がいただけるでしょうか」と尋ねました。イエスは弟子たちに天国の祝福を約束されますが(28-29節)、それらも賜物として与えられるものでした。彼らが思い違いをしないように、「多くの先の者はあとになり、あとの者は先になるであろう」と決して人間の功績によらないと戒めておられます。

2019年2月10日
説教題 「神の定めた結婚の奥義」
聖書箇所 マタイによる福音書第19章1節~12節
説教者 安井 光 師

 パリサイ人たちはイエスを試みようとして離婚に関する質問をしました。イエスは天地創造にまで遡り、聖書から結婚とはいかなるものかを説明されました。

 「創造者」なる神は初めに天地を創造し、「人を男と女とに造られ」ました(4節、創世記1:27)。人(男)が造られた時、最初は一人でした。相応しい助け手が必要と神は考えられ、男のあばら骨をとって女を造られたのでした(創世記2:18~)。男は喜んで女を迎えました。この出来事に併記されているのが、イエスが引用された「それゆえに、人は父母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりの者は一体となるべきである」という御言葉でした(5節、創世記2:24)。結婚とは神の定めたものなのです。結婚する二人は、互いに依存していたものから離れ、二人して神に依存していくのです。二つの心と体が一つになることで、家庭が生まれ、新しい生命も育まれていくのです。

 イエスは聖書から結婚とは何かを示され、「だから、神の合わせられたものを、人は離してはならない」と言われました。律法には「妻を出す場合には離縁状を渡せ」と定められていましたが、離婚は神の御旨に沿うものではなく、人間の「心が、かたくななので」許可されたのでした。元々妻の立場を保護するために許された規定でしたが、離婚は夫の側に認められ、夫本位に解釈され適用されていました。今日では、結婚は当人同士の決めることですし、離婚もそうでしょう。けれどもそれは人間本位の考えかもしれません。イエスは言われるのです、結婚は人ではなく「神が合わせられたもの」であると。神が合わせられたものであるから、「人は引き離してはならない」と言われるのです。

 日本では三組に一組が離婚します。離婚理由で最も多いのは性格の不一致(夫妻とも)と言われます。結婚に対して否定的な思いを抱いている人も少なくありません(10節)。結婚は神の定めたものであり、神が合わせられることを覚え、それを求め、その祝福を信じてなくてはなりません。ただ、結婚することも、独身で生きることも、神の召しと許しによることを覚えるべきです(11-12節)。また神の定めた結婚の奥義には、イエス・キリストとクリスチャン=教会の関係が示されています(エペソ5:31-32)。私たちはイエス・キリストと一体なのです。どのようなライフスタイルを送るにしても、私たちが不真実であったとしても、イエスの愛によって結ばれたこの関係は解消されることはないのです。