2019年6月9日
説教題 「弟子たちに注がれた聖霊」
聖書箇所 使徒行伝第1章1節~14節、第2章1節~4節
説教者 安井 光 師

 イエスは復活後四十日間、弟子たちに現れては交わりを持ち、彼らを励まされました。その時イエスは弟子たちに、「わたしたから聞いていた父の約束を待っているがよい」と命じられました。その「約束」とは、イエスが昇天されて後、助け主として聖霊を降されるということでした(ヨハネ14:16-17、16:7)。

 イエスの宣教を弟子たちが担うためには聖霊が必要でした。人間の頑張りでは宣教の働きを継続していくことはできないのです。神から力を与えられ、助けを受けなくてはやっていけないことを弟子たちは経験的に知っていました。彼らは「聖霊によって、バプテスマを授けられ」なくてはならなかったのです。

 「ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて…地の果てまで、わたしの証人となる」とイエスは言われ、弟子たちに神の宣教のビジョンを示され、主の十字架と復活の証人として生きる道を示されました。神の宣教は「地の果てまで」、全世界に向けられていたのです。

 イエスが天に昇られた後、弟子たちは聖霊の降臨を待ち望みました。彼らはエルサレムにある家の二階に集い、一つになり「心を合わせ、ひたすら祈りをし」ました。かつては思いがバラバラであった彼らでしたが、思いを一つに、謙った心で祈りました。そこに約束の聖霊が降るのでした。

 「突然、激しい風がふいてきたような音が天から起ってき」ました。「風」は旧約時代から聖霊を象徴するものでした。それが「天」から降った、すなわち神から与えられたのです。「また、舌のようなものが、炎のように分かれて現れ、ひとりびとりの上にとどま」りました。「舌」が言語・言葉を表しています。宣べ伝えるべき福音の言葉が、弟子たちに与えられたのです。彼らは「聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに」御言葉を宣べ伝え始めたのです。

 聖霊は地の果てである日本にも降っておられます。聖霊は一人一人に臨んでおられるのです。聖霊を迎えるために、私たちは祈ること、心を明け渡すことが必要です。聖霊は「イエスを主」と証させる方として、「力と愛と慎みとの霊」として私たちに注がれています(Ⅰコリント12:12、Ⅱテモテ1:7)。聖霊が私たちの内に宿り、御業を成して下さるために、聖霊の支配と導きを求めていきましょう。

2019年6月2日
説教題 「神の愛を無にしない」
聖書箇所 マタイによる福音書第21章33節~46節
説教者 安井 光 師

 イエスはぶどう園の譬を語られました。ある主人がぶどう園を造り、農夫たちに貸し与え旅に出かけます。収穫の季節になり、主人は収穫の分け前を受け取るため、僕たちをぶどう園に送ります。ところが、農夫たちは僕たちを捕まえ、袋だたきにし、石で打ち殺すのです。「わたしの子は敬ってくれるだろう」と主人は愛子を遣わしますが、農夫たちは「あれはあと取りだ。さあ、これを殺して、その財産を手に入れよう」といって殺してしまうのです。

 もしもこんなことがあったら、それは赦しがたい蛮行でしょう。イエスは話を聞いていた人々に、「ぶどう園の主人が帰ってきたら、この農夫たちをどうするだろうか」と尋ねました。人々は「悪人どもを、皆殺しにして…」と答え、強情な悪党は滅びる以外にないと考えました。私たちもイエスの話を聞いて同じように思うかもしれません。

 イエスは、神とイスラエルの関係をぶどう園の主人と農夫たちに譬えられました。旧約聖書にも、神がイスラエルを神のぶどう畑として造られ、彼らを良いぶどうの木として植えられ、良い実を結ぶのを期待されたとあります(イザヤ5:1-2)。ところが彼らが結んだのは悪い実(罪)でした。これはイエスの譬でも同じで、神はユダヤの指導者らに悔い改めの実を求めておられましたが、預言者ヨハネの証を受け入れず、神の御子を十字架につけてしまうのです。

 神はイスラエルのみならず、私たち人類にこの世界を神の「ぶどう園」として託しておられます(創世記1:26)。各自に与えられている命、健康、人生、時間、経済、才能、能力も、すべて神の賜物です。実を結び神の栄光を現わすために、各自にそれら管理が委ねられています。ところが、人類は欲望のままに好き勝手に使い、神に反逆しています。神はこの有様をどう思われるでしょうか。

 イエスはご自分の十字架の死を指し示しながら、「家造りの捨てた石が隅のかしら石になった」と言われました。イエスは十字架の死をもって「悪人ども」を贖い、その人が神の子として新しく生きるための土台を据えるのです。イエスご自身が土台となられるのです。私たち罪人を救うために、神は御子イエスを十字架でささげて下さったのです(ローマ5:6-9)。

 神の愛、イエス・キリストは人に捨てられましたが、信じる者を真に生かす命となり、神のぶどう園で豊かに実を結ぶ者として下さいます。神の愛の賜物を無にすることなく、しっかりと受け取り、愛の実を結ばせていただきましょう。

2019年5月26日
説教題 「キリストのよみがえり」
聖書箇所 コリント人への第一の手紙第15章12節~20節
説教者 安井 光 師

 イエス・キリストの復活は、十字架の死と共にキリスト教信仰の根幹をなしています。使徒たちはそのことを「最も大事なこととして」宣べ伝え(3節)、「自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じ」た人々は、神の御救いにあずかってきたのです(ローマ10:9)。
 
 イエス・キリストは、十字架の死から「三日目に死人のうちよりよみがえ」られました。ところがキリストの復活を否定する人がいたのです。今日でも、キリストは十字架で死んでいなかったとか、弟子たちがキリストを墓から運び出したとか言って、復活を信じない人々が多くいます。確かに、死人がよみがえるということは有り得ないことです。キリストの復活についての科学的な論証はできません。人間には死人を生き返らせることはできません。しかし人ではなく、神が死人の中からイエスをよみがえらせたのです(使徒行伝2:24他)。パウロは「事実、キリストは…死人の中からよみがえったのである」と証言して止みませんでした。それはキリストの復活の証人が数多くいたからでありました(5-8節)。

 もし仮にキリストがよみがえっていないのに、よみがえったと嘘を宣べ伝え、作り話を信じているとするなら、キリスト教は滅びていたことでしょう。そのような嘘・偽りを神がお許しならず、神自らが滅ぼされたことでしょう。しかし現実には、人間の手によって滅ぼされようとすればするほどに、この福音は拡大し、今もこの信仰は燃え続けているのです。これは、イエス・キリストの復活が事実であるからです。イエス・キリストの十字架の死と復活を信じて新しく造り変えられたクリスチャン一人一人が、キリストの復活の証人なのです。

 「わたしはよみがえりであり、命である」と宣言なさる主イエスは(ヨハネ11:25)、死人の中からの復活を通して、「眠っている者の初穂」となられました。そしてこのことを信じるすべての人々の救いと永遠の命の保証となれたのです(ローマ4:24-、8:11他)。復活の主イエスは、「わたしを信じる者はたとい死んでも生きる…あなたはこれを信じるか」と私たちに問われます。「我は信ず」と信仰を言い表したい。

2019年5月19日
説教題 「イエスはまことのブドウの木」
聖書箇所 ヨハネによる福音書第15章1節~10節
説教者 安井 直子 師

 主イエスは十字架に架けられる前日に、弟子たちにとても大切なことを伝えるために「ぶどうの木」を用いて話をなさいました。

 主イエスと私たちはぶどうの木と枝のような関係です。ぶどうの枝である私たちは、ぶどうの木である主イエスにしっかりとつながっていなければ生き生きと生きることはできません。もし枝が木から離れていたら、実はなりません。そのように私たちも、主イエスにしっかりつながっていなければ、良い実をならせることはできないのです。私たちは主イエスを信じる時にしっかりとつながり、良い実を結ぶことができます。では良い実を結ぶとはどういう意味でしょう。それは、神様が求めておられる生き方をすることです。

 枝である私たちが豊かな実を結ぶためには、どうすれば良いのでしょうか。まことのぶどうの木である主イエスは「わたしにつながっていなさい」言われます。ではイエスにつながる生活とはどういうことでしょうか。1つめは、イエスを主と信じ従う生活をすることです。2つめはキリストの体なる教会につながること、御言葉に留まること、信じることです。そして3つめは、神様に「手入れ」していただくことです。農夫である神様に自分自身を明渡し、委ね、無駄なもの、余分なものを手入れしていただくこと、聖別していただくことが必要であるということです。

 では私たちが結ばせていただく実とは何でしょうか。それは「御霊の実」であり、特に愛・喜び・平安〔平和〕の実であるのです。「愛」は主イエスにつながり、愛に満たされて生きる者となるならば、私たちも他者を愛する者とされること、また喜びの源泉であるイエスにつながっている時に、私たちも真の「喜び」に満たされること、そして「わたしの平安をあなたがたに与える」と言われるイエスにつながっているならば、私たちも本物の「平安」の実を結ぶことができるのです。

 主イエスは私たちにまことの「愛」「喜び」「平安」の実を結ばせるために、私たちを選び、十字架の血によって私たちを罪の中から贖い、私たちをご自分の体につないで下さいました。主は私たちに豊かに実を結ばせるために私たちを召し、ご自分の枝として下さったのです。私たちは主につながり、主につなげられて、実を豊かに結ぶ者とさせていただきたいと思います。

2019年5月12日
説教題 「心を変える」
聖書箇所 マタイによる福音書第21章28節~32節
説教者 安井 光 師

 イエスは神の御旨を教えるために次のような譬話をなさいました。父と二人の息子がいました。父は兄息子に対し、「子よ、きょう、ぶどう園へ行って働いてくれ」と言いました。兄は「お父さん、参ります」と答えましたが、ぶどう園へ行きませんでした。父は弟息子に対しても同じように言いました。弟は「いやです」と答えましたが、「あとから心を変えて」、ぶどう園へ出かけたのでした。「あなたがたはどう思うか」と、イエスは祭司長や民の長老らに問いかけておられますが、神の御旨が何であるかをよく心の中で思い巡らすことを彼らに願っておられたのです。

 兄は素直で従順そうに見えますが、父を真実に敬っていません。父よりも大事なものがあり、父の言うことは二の次でよいと思っていたのかもしれません。もしうっかり忘れていなら、「ごめんなさい」と父に言ってぶどう園へ行けばよかったのです。一方、父の命令に「いやです」と逆らう弟は、当時からすれば反抗的な問題児でした。しかしもう一度よく考え、考え直してぶどう園に出かけたのです。父は兄も弟も「同じように」愛していました。弟は父との関係が大事だと思ったのです。

 「父の望みどおりにした」のは「あとの者」、すなわち弟でした。答えは明らかでした。イエスは祭司長や民の長老らに対し、バプテスマのヨハネの説いた「義の道」を信じた取税人や遊女こそが「あとの者」であること、彼らが「先に神の国にはいる」ことを示されました。取税人や遊女らは、神の御心から離れた歩みをしていました。しかし彼らは「心を変えて」、ヨハネが証しした救い主イエスを信じたのです。「わたしに従ってきなさい」と言われる、愛に基づくイエスの招きを受け入れたのです(マタイ9:9)。それこそが天の父の望んでいることだったのです。

 父なる神が私たちに望んでおられるのは、必ずしも「はい」という優等生の返事ではなく、正解を出すことでもありません。神に反抗したとしても、悔い改めて神の愛を信じることを求めておられるのです。私たち人間は神に向かって生きる存在です。私たちの心が神に向けられる時、神の御許にある時、私たちは真に安らぐことができます。神は私たちを愛しておられるからです。神は聖書をとおし、主イエスをとおして、また日々の生活を通じてご自身の愛を示しておられます。不信仰に陥りやすい者ですが、心を変えて主を信じ仰ぎましょう。

2019年5月5日
説教題 「天からの権威」
聖書箇所 マタイによる福音書第21章23節~27節
説教者 安井 光 師

 
 イエスが神殿で教えておられると、祭司長や民の長老たちが来て、「何の権威によって、これらの事をするのですか」とイエスに詰問しました。ユダヤの指導者だった彼らは、イエスがエルサレムに来られたことで自分たちの立場が脅かされ、自分たちの権威が損なわれるのではないかと恐れていたのです。

 「権威」(エクスーシア)は、元々「何ものにも妨げられないところに立つ」という意味があり、「力」「権力」「支配」「権利」「自由」などの意味にも訳される言葉です。すべての権威は神に帰属していました。神の御子イエスには、父なる神から権威を委ねられていました。ところが、ユダヤの指導者たちはそれを認めることができず、イエスのしていることは神の権威を侵害する行為と考えていたのです。

 何の権威か、何処からの権威かを示すために、イエスは指導者たちに「ヨハネのバプテスマ」について質問されました。彼らはヨハネの働きが「天から(神の)」ものと知っていましたが、それを認めていませんでした。ただ「人から」だと公言してしまうと、ヨハネを預言者と信じていた民衆を敵に回し、自分たちの立場が危うくなると考え、「わたしたちにはわかりません」と答えました。イエスは、天からの権威に服そうとしない者たちに対し、「わたしも…あなたがたに言うまい」と答え、ご自身の権威について明かされませんでした。

 ユダヤの指導者たちは権威を重んじてはいましたが、神の権威に服するのではなく、神の権威を傘に着て民衆を圧迫していました。自分たちの利益のために権威を行使していたのです。イエスは違いました。イエスは神の御旨を行うために、民衆(罪人)を救うために神から託された権威を行使されたのです(マタイ9:1-8)。イエスの御言葉には、罪人を救い、罪から解き放ち自由を得させる神の権威がありました(マタイ7:29)。私たち全人類を救うために、イエスは御子としての権利を放棄し、徹底して僕のように神の権威に服従なさったのです(ピリピ2:6-8)。

 私たちは、絶対的な権威を持つお方から種々の権利が与えられ、それを行使することが許されています。人の上に立つ指導者たちの権威も聖書は否定しません(ローマ13:1)。ただ権威も権利も自由も「天から」のものであり、主イエス・キリストがその頭であり基であることを 私たちは心に留めていなくてはなりません(エペソ1:20-23)。

2019年4月28日
説教題 「実りを結ぶ信仰」
聖書箇所 マタイによる福音書第21章18節~22節
説教者 安井 光 師

 イエスはエルサレムに行く途中、空腹を覚えられました。道端にいちじくの木を見つけ、実をさがしますが、葉のほか何も見当たりませんでした。「今から後いつまでも、おまえには実がならないように」とイエスが言われると、いちじくの木はたちまち枯れてしまったのです。イエスはこの行為をとおして、エルサレムに臨もうとしていた神のさばきを示されたのでした。

 「いちじくの木」は、イスラエルを象徴していました(エレミヤ8:8-13)。神はイスラエルを選んでご自分の民とされ、実を結ぶことを期待しておられました。ところが、彼らは祭司長や律法学者らの態度に代表されるように、葉ばかり茂らせるいちじくの木の如くに、見かけだけは神を敬っていましたが、神が求めておられる実を結ばなかったのです。イエスによる御業を見、御国の福音を耳にしながら尚、悔い改めようとしない彼らの霊的状態こそ、実のないいちじくの木でありました(ルカ13:6-9)。

 神が求めておられる「実」は、良い行いをし、徳や功績を積むということではありません。神を愛し、隣人を愛するという「愛」の実は、すべての人が結ぶよう神の期待しておられる実でしょう。忘れてはならないのは、それは神が結ばれる実、神によって結ばれる実であるということです。イエスに結び付き(ヨハネ15:5)、神との関係を正しくすること(信頼関係)を、神は求めておられるのです。そのために、神は御子イエスを救い主として世に遣わされたのです。

 神が求めておられるは、私たちが山を移すような奇跡を行うことではなく、神を「信じて疑わない」こと、祈りによって神と結び付くことなのです(21-22節)。山のように大きな課題に直面しても、イエスの御名により、信仰をもって祈るならば、神が山を動かされるのです。神は真実な信仰を求めておられるのです(ヘブル11:1、6)。神に祈る時、信仰は生きて働いており、私たちの心は神に真っ直ぐに向かうのではないでしょうか。

 私たちは枯れて滅びるばかりの罪人です。心頑ななイスラエルの姿は、私たちの姿なのです。イエスは私たち罪人が滅びないために十字架で身代わりにさばきを受けて下さいました。神は決算の時を定めておられますが、イエスのとりなしがあるので、私たちは恐れないで御前に立つことができます。実があるかどうか、神は私たち一人一人を見られるのです。自分や他の何かではなく、ただご自身を信頼しているかどうかを見ておられるのです。

2019年4月21日
説教題 「エマオへの途上で」
聖書箇所 ルカによる福音書第24章13節~35節
説教者 安井 光 師

 イエスがよみがえられた日の午後、二人の弟子たちがエマオに向って歩いていました。二人は三日前エルサレムでイエスが十字架で死なれた出来事を語り合っていました。そこに復活の主イエスが近づかれ、エマオへの道程を彼らと共に歩いていかれました。ところが、弟子たちはそれがイエスだと分かりませんでした。「目がさえぎられて」いたのです。

 弟子たちの目を遮っていたもの、それはイエスに対する間違った理解でした。彼らは自分勝手な要求・願望をイエスに持ちかけては、自分の都合いいように(世直しを行うメシヤとして)イエスを見ていたのです。イエスが十字架で死んでよみがえるということ、そのことを通して自分たちに救いがもたらされるという神の計画が理解できなかった(信じられなかった)のです。成功や幸福の手段としてイエスを見ようとするなら、イエスの十字架を理解できませんし、復活の主イエスを見ることはできません。しかしイエスは、無理解や不信仰という目の覆いを取り除けるために私たちに近づいて下さるのです。

 イエスは二人の弟子たちに声をかけられ、聖書全体からご自分について書かれてある事柄について説き明かされました。弟子たちはイエスの話を聞きながら、段々と心が熱くなってくるのを感じました。氷の塊のように冷たく固くなっていた心は、イエスの御言葉によって次第に暖められ融かされていったのです。エマオに到着し、一緒に食卓についてイエスがパンを祝福して裂いて弟子たちにお渡しになった時、二人の目は開けてそれがイエスであることが分かりました。二人は他の弟子たちと共に、イエスが本当に死からよみがえられたことを互いに確認し合ったのです。

 イエス・キリストの復活は、一部の人々だけが経験した神秘的な体験ではありません。今も復活の主イエスは、聖書の御言葉をとおして、聖霊による臨在をもって私たちすべての人にご自身を顕されるのです。復活のイエスは私たちの肉眼で見ることはできません。しかしイエスは私たちの歩むエマオへの途上(人生の道程)において、聖書の御言葉を語り、また説き明かして下さって、ご自分が十字架の死からよみがえり、今も生きておられる私たちの神、私たちの救い主であることを示して下さるのです。

2019年4月14日
説教題 「十字架による赦し」
聖書箇所 ルカによる福音書第23章26節~43節
説教者 安井 光 師

 イエスが十字架を背負いゴルゴダの丘に向って進まれた道は、「ヴィア・ドロローサ」(悲しみの道)と呼ばれます。イエスは、人に捨てられ、打たれ、虐げられ、苦しめられました(イザヤ53章)。しかし、私たちはイエスの死を嘆き悲しむのではなく(28節)、むしろ自分の罪の悲惨さを嘆き、罪を悔い改めてイエスの十字架による赦しを受けるべきです。

 十字架刑はすべての処刑法の中で最も悲惨なものと言われます。ローマの処刑法でありながら、ローマ人には適用されませんでした。ユダヤ人も忌みきらっていました(ガラテヤ3:13)。イエスは罪を犯されなかったのに十字架につけられたのです。イエスが十字架で味わわれた苦痛(苦悩)は、どれほどのものであったことでしょう。イエスは正しいさばきをなさる神にすべてを委ね、十字架上で祈りをささげられたのです。「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」と。

 イエスは、ご自分を十字架につけたユダヤ人やローマ人のためだけでなく、全人類のために、私たちすべての者のために「父よ、彼らをおゆるしください…」と祈られたのです。自分は罪人ではないと思う人でも、「わからず」犯している罪がたくさんあります。罪だと思わないで無自覚・無意識に犯している罪こそ、神による赦しが必要なのです。イエスは十字架で血を流し、ご自分の命を神の御前に差し出しながら、「彼らをおゆるしください」と祈られたのです。

 イエスの隣にいた二人の犯罪人も、その祈りを耳にしたことでしょう。ひとりはイエスを嘲りました。けれども、もうひとりは自分の罪の重さを示され、正当なさばきをなさる神を恐れたともに、不当な苦しみを受けながらも罪人のために(自分のために)赦しを祈られるイエスが救い主であることを悟ったのです。そしてイエスに自分を委ねました。イエスはこの犯罪人(つみびと)にパラダイス(天国)に入る約束をお与えになったのです。

 人間的に考えれば、罪人が行くのは天国ではなく地獄でしょう。この犯罪人自身、人生を振り返りながら「こうなったのは当然だ」と思い、自分はとても天国に行けるような人間ではないと考えたことでしょう。でも彼はイエスを信じ、イエスに自分を委ねたのです。イエスは十字架の血によって彼を罪から贖い、御国の約束を賜わったのです。彼は魂に平安を得ました。これこそ、イエス・キリストが私たちにもたらされる救いなのです。

2019年4月7日
説教題 「宮をきよめるイエス」
聖書箇所 マタイによる福音書第21章12節~17節
説教者 安井 光 師

 イエスがエルサレムに入られると、まず神の宮(神殿)に行かれました。ちょうど過越の祭の時期で、各地からおびただしい数の巡礼者が神に礼拝をささげるために宮を訪れていました。

 「宮の庭」では、神にささげる犠牲の動物の売り買いがなされていました。傷のある動物ではダメなので、巡礼者たちは庭で売られていた検査済の動物を購入していました。また献金は、日常用いられていたローマの貨幣でなくユダヤの貨幣でしなくてはならなかったため、庭に設けられた両替所で換金してもらうのでした。宮の庭は、異邦人にとって神殿内で唯一入ることが許された礼拝場所でした。

 イエスは神の宮の様子をご覧になり、「売り買いをしていた人々をみな追い出し、また両替人の台や、はとを売る者の腰掛をくつがえされ」ました。金儲けがなされ、神を礼拝する場所とは言い難い状況に陥り、またささげられていた礼拝が形骸化してしまっていた神の宮の有様に、イエスは心を痛められたのです。イエスがなそうとしておられたのは、神の宮の礼拝改革でありました。

 宮を取り仕切っていた祭司長らは、イエスが宮の庭でなされる癒しの御業を目の当りしてもイエスを信じようとしませんでした。一方で、庭にいた子どもたちは「ダビデの子に、ホサナ」とイエスを賛美したのです。それを見て立腹する祭司長らに、イエスは子どもたちの賛美は神がお与えになったものであり、神はこのような賛美と真心からささげる礼拝を求めておられることを示されたのでした(16節、詩篇51:16-17)。

 イエスはサマリヤの女との対話の中で、「まことの礼拝」について語られました。イエスをとおしてすべての国民が分け隔てなく真心から神を礼拝するようになると宣言されました(ヨハネ4:20-26)。イエスは十字架でご自身を犠牲としてささげることによって、それを成就して下さったのです(ヘブル10:19-22)。

 イエスは十字架の血をもって、私たちをきよめ神の宮としておられます。私たち教会には聖霊が宿っています(Ⅰコリント3:16、6:19)。「わたしの家は、祈りの家と唱えられるべきである」とイエスがおっしゃるように、神に祈り、御霊の導きを仰ぎ従っていくことが教会に求められます。そのようにして神を真実に礼拝していくのです。聖日礼拝に心を込めるとともに、日々の生活において聖霊が住まう神の宮として、神を崇め、神にすべてを明け渡しましょう。