2018年2月11日
説教題 「恐れるべきかたを恐れよ」
聖書箇所 マタイによる福音書第10章24~33節
説教者 安井 光 師

 イエスは様々な場面で、弟子たちに対して「恐れるな」と語っておられます。それは彼らが遣わされる所において、イエスと同質の者と見られ(「クリスチャン」にはキリストに属する者という意味がある)迫害されることになるからでした。

 イエスは、パリサイ人や律法学者たちから「悪霊どものかしら」(9:34)とか「ベルゼブル(サタンの別名)」などと呼ばれ、揶揄されていました。弟子たちもイエスと同じように、人々に誤解され「悪く言われる」ことがあるのです(24-25節)。日本のクリスチャンもそういう経験をすることがあるのではないでしょうか。

 私たちクリスチャンは、遣われている所・置かれている場所で福音を証しするミッション(使命=伝道)を主から託されています。伝道しても、人々に伝わらない・通じないという経験をします。でも「恐れるな」と主イエスは私たちを励まされるのです。福音を聞いて真理を悟らされた者たちは、そのことを世の人々に「話」し「言いひろめ」ていかなくてはならないのです。真理は、いつまでも「おおわれた」ままでなく「隠れている」ままではないからです(26-27節)。

 現代日本において、イエス・キリストの福音を宣べ伝えることで、またクリスチャンとして信仰生活を送ることによって生命を奪われることはありません。ただ日本のキリスト教史を顧みる時、「からだを殺」そうする者たちが再び起こらないとは限りません。異教社会に生きる私たちに対して、キリストへの信仰やキリストにある生き方を打ち消そう(なきもの)とする見えない力は今日も働いています。しかしイエスは、「魂を殺すことのできない者どもを恐れるな」と言われます。クリスチャンを真に生かしめるキリストの命を奪い取ることはできないからです。

 「からだも魂も地獄で滅ぼす力のあるかたを恐れなさい」とイエスは言われます。一番恐ろしい、最も恐れるべきなのは、世の支配者ではない、闇の支配者でもない。天地の支配者であり、地獄さえも支配しておられる審判者、天の父なる神だとおっしゃるのです。神を侮ってはなりません。恐れるべきなのは、主なる神、天の父なのです。私たちクリスチャンもこのことをよく覚えていなくてはなりません。

 ただ神は、さばきの恐怖に脅えさせて私たちを従わせようとなさるお方ではありません。バチを与え、祟ったり呪ったりする神であれば、人から遠ざけられるでしょう。しかし天の父である神は愛をもって私たちに近づいておられます。私たち罪人を滅びから救うために、御子イエスを世に遣わされ、罪の贖いの供え物として十字架でささげて下さいました。私たちは一羽の雀のように小さく取るに足りない存在ですが、神は私たちを「多くのすずめよりも、まさった者」と見ておられ、「頭の毛までも、みな数えられている」のです。この恵みと幸いを覚えて、心から恐れて(畏れて)神に近づくべきなのです(ヘブル4:14)。正しい恐れを抱く(神を信頼する・愛する)ことで、不必要な恐れは私たちの心から取り除かれていくのです。

 死の力・悪魔の力が、私たちを脅かしてきますが恐れないでいたいと思います。主が十字架で死なれ復活されて、死と悪魔に勝利され、その力から私たちをお救い下さっているからです。主イエスへの信仰を告白する者たち、主なる神・天の父を恐れ者たちは、それらを恐れる必要はないのです。

2018年2月4日
説教題 「あなたはどう読んでいるか」
聖書箇所 ルカによる福音書第10章25~37節
説教者 安井 光 師

 ある律法学者がイエスを試みるために、「何をしたら永遠の生命を受けられましょうか」と尋ねました。「律法にはなんと書いてあるか。あなたはどう読むか」とイエスは逆に律法学者に問い返されました。すると律法学者は、「心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」、「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」と律法から答えました。するとイエスは「あなたの答は正しい。そのとおり行いなさい。そうすれば、いのちが得られる」と言われました。いったいどういう意味でイエスはそう言われたのでしょうか。

 律法学者はイエスの問いに正しい回答をしましたが(マタイ22:34-40を参照)、そのことを実行できていたわけではありませんでした。彼は自己弁護するために「わたしの隣り人とはだれのことですか」と、さらにイエスに尋ねました。そこでイエスは譬えを用いてそれにお答えになるのです。それが「良きサマリヤ人」の譬え(30-35節)です。

 あるユダヤ人がエルサレムからエリコに下って行く途中、強盗に襲われ半殺しにされ、道に放置されました。するとそこに祭司が通りかかりますが、この人を見ると向こう側を通って行ってしまいました。「隣人を愛せよ」と律法にあるのを祭司は承知していたことでしょう。でも道を急いで構っておられなかったのか、みて見ぬふりをして行ってしまうのです。次にレビ人が通りかかりますが、同様に避けるように見捨てて行ってしました。大変だ、人が強盗に襲われて倒れている、ぼやぼやしていると自分も襲われるかもしれない…と考えたのでしょうか。

 ところが、最後に通りかかったサマリヤは、「彼を見て気の毒に思い」、近寄ってきて傷の手当をし、宿屋に連れていって介抱してやり、宿屋の主人に費用が余計にかかったら帰りに支払うと告げました。ユダヤ人とサマリヤ人は仲が悪く、お互いを敵対視していました。にもかかわらず、このサマリヤ人は「強盗に襲われた人の隣り人になった」のです。

 イエスは律法学者に、「あなたも行って同じようにしなさい」と言われました。しかし彼は、「そんなことはできない…」と途方に暮れたことでしょう。イエスは、律法の行いによって永遠の命が得られると考えていた律法学者の思い違いを示そうとなさったのです。ただ神を信頼し、神が遣わされた救い主イエスご自身を信じること、信仰によって永遠の命を受けることを願われたのです(ルカ18:18‐27、ガラテヤ2:16を参照)。

 私たちは聖書をどう読んでいるか、注意しなくてはなりません。聖書は救い主イエスを証しする書です(ヨハネ5:39)。永遠の命を得るための資格教材ではなく、ハウツー本のようにその内容を実践することで永遠の命が得られるのではありません。律法学者はそのように律法(聖書)を読み励んでいたのです。御言葉を行うことで自分を正当化したり、自分の立場を神の前に弁護すべきではありません。私たちは、ただ主イエスの十字架の贖いによって罪赦され、神に受け入れられているのです。幼子のようにただ主を信頼し、主の恵みと愛によりすがるべきなのです。

 私たちは「私の隣人は誰か」と問う前に、「誰が私の隣人となられたのか」を思い知らなくてはなりません。私たちは「強盗に襲われた人」であり、イエスがその隣人となった「慈悲深い行いをした人(良きサマリヤ人)」なのです。イエスはまた、私たちが敵意を抱いているような人々の隣人でもあられるのです。

2018年1月28日
説教題 「証の言葉を与える神」
聖書箇所 マタイによる福音書第10章16~23節
説教者 安井 光 師

 イエスは私たちクリスチャンを十二使徒(主の全権大使)と同じように、主の救いと祝福をもたらす使命を与えてこの世に遣わしておられます(Ⅰペテロ2:9)。それぞれが置かれている所・遣われている場所が宣教の現場です。そこで私たちは使徒として、主の証人として福音に生きる使命が与えられているのですが、そこには色々な戦いがあり困難があるのではないでしょうか。

 イエスが使徒たちを世に遣わされるのは、「羊をおおかみの中に送るようなものである」と言われます。イエスも同様に父なる神によってこの世に遣わされていたわけですが、彼らをそこに遣わすのは自ら身を守ることができない羊を獰猛な狼の中に遣わすようなものだと、主の証人として生きる厳しさを示されました。ユダヤの反対者たちが彼らを捕え、議会に引き渡して鞭打ち、異邦人の役人や支配者たちにも尋問されるというのです(17-18節)。主に遣わされる者たちは遣わされた所で迫害されることになると言われたのです。

 イエスが言われる「おおかみ」とは、イエスに反対する人々を指すだけではありません。彼らの背後にある悪魔・サタンを含んでいることを忘れてはなりません。サタンはイエスに反対する者の頭です。サタンは見えないかたちでクリスチャンを試み、イエスに遣わされた者として生きることをやめさせようとするのです。サタンに脅かしに屈しない主にある賢さとしたたかさ(箴言1:7)と、主を信頼し御言葉に聞き従う素直さが必要です(16節後半)。

 使徒たちは迫害される只中でユダヤ人や異邦人らに対して証しをすることなると、イエスは言われました(18-20節)。「あかしをするため」に主イエスはクリスチャンを遣わしておられるのです。日本の社会においては公に信仰について語ることは困難です。しかし主が証しする機会を備えて下さるのです。家庭であれ、職場であれ、学校であれ、この世にあって、自分は主からココに遣わされているのだという意識を持ちつつ過ごすことが大事ではないでしょうか。

 主は証の言葉も私たちに与えて下さいます。「語る者は、あなたがたではなく、父の霊である」と言われます。使徒たちも証しする機会を自ら作り出していったわけではなく、迫害する者の前での弁明の機会が主イエスを証する場となりました(使徒行伝4-5章、21-26章)。使徒パウロは千卒長やアグリッパ王の前で、自らの救いの証を御霊に導かれるままに語りました。この世はクリスチャンのあり方を否定し、サタンは神の子らの歩みを否定するかもしれませんが心配することはありません。天の父がキリストにある私たちを全肯定して下さるからです(ローマ8:33)。証の言葉は、患難の中に置かれる私たちを励ます言葉としても神から与えられるのです。

 主イエスを証し主に従おうとする故に、クリスチャンは人々から「憎まれる」ことがあります。キリスト教信仰を持つために家族に猛反対され親に勘当されることあります。日本の社会においては、クリスチャンであることを公にすることで周囲から異質な目で見られること、主を証し福音に生きようとすることで冷ややかな態度を取られることもあるでしょう。それは辛いことですが、主はそのままでは終わらせないのです。「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」と言われます。クリスチャン生涯は忍耐と待望の生涯です。いま私たちはその途上かもしれません。主イエスが私たちのために十字架において最大の患難を耐え忍ばれたからこそ、私たちも忍耐し、時には逃れもしながら、主を待ち望むことができるのです(ヘブル12:1-11)。ここに救いがあるのです。

2018年1月21日
説教題 「父なる神を信ず」
聖書箇所 詩編第121章1~8節
説教者 安井 光 師

 主の祈りによるならば、私たちが信じ祈りをささげる神は「天まします我らの父」なるお方ですが、使徒信条ではさらに具体的に言い表しています。私たちクリスチャンが、「我は信ず」と告白する神は、「天地の造り主」であり「全能の父なる」お方です。

 聖書は「はじめに神は天と地とを創造された」という宣言で始まります(創世記1:1)。聖書は多くの所で、神が天地万物の創造者であることを告げています(イザヤ42:5、黙示録10:6他)。神は天地宇宙を造り、そこに生きるすべての生き物を造られました。「神は自分のかたちに人を創造され」たのです(創世記1:27)。神は私たち人間を、ご自身の最高傑作品として、高価で尊い存在として造られたのです(イザヤ43:4、エペソ3:10)。

 ところが現代世界は、「造り主」ではなく「造られたもの」を信じ崇めています。自然物、動物、人間が手で刻んだ像など、造られたものを神として拝んでいます。また人類が作り上げた、文化、思想、学問、社会、経済etc、さらに自分が築き上げた地位、権力、財産など、造られたもの、目に見えるもの、形あるものを信じています。しかし私たちは人に造られたものではなく、人をお造りになった「天地の造り主なる神」を信ずるのです。「信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉で造られた…ことを、悟る」のです(ヘブル11:3)。

 神が全能の神であることは天地創造の御業をとおしても分かりますが、神は御子イエスによる世の救いをとおしてそれを明らかにされました。「人にはできないが、神にはできる」(マルコ10:27)と、神は尊いひとり子を十字架で犠牲としてささげ、私たち人間には成し得ない罪からの救いを成し遂げて下さったのです。神は全能の御手をもって御子を死人の中からよみがえらせられ(エペソ1:20)、御子を信じる者に永遠の命を保証して下さったのです(Ⅰコリント15章)。

 全能者なる神が、私たちの「父」であられるのです。神は御子イエスによる贖いの御業によって私たちを子として下さいました。「アバ、父よ」と私たちが親しみを込めて呼ぶことができる天のお父様となって下さったのです(ガラテヤ4:5-7)。「わが助けは、天と地とを造られた主から来る」のであります。神は私たちの天の父として、私たちと共におられ、全能の御手をもって私たちを守り支えられるのです。父なる神を信じるということは、このお方の傍らにいつも居ることでもあるのです。「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」と、私たちは神を畏れ、父なる神の力強い愛の御手に支えられて歩ませていただきましょう。
 

2018年1月14日
説教題 「十二弟子の選びと派遣」
聖書箇所 マタイによる福音書第10章1~15節
説教者 安井 光 師

 イエスは、「収穫の主に願って、働き人を送り出すようにしてもらいなさい」と弟子たちに言われましたが(9:38)、弟子たちは「自分たちが働き人となって収穫のために働こう!」と意気込んでいたかもしれません。弟子たちはここまでイエスに従ってきましたが、彼らがイエスを選んだのではなくイエスが彼らを選ばれ、彼らを宣教に遣わされるのでした(ヨハネ15:16)。イエスは十二弟子を遣わすために御許に「呼び寄せ」られました。主の働きの人となって労するために必要なのは主の召し(召命)であったのです。

 イエスによって召された十二弟子は、実に多種多様な人たちでした。シモン・ペテロとアンデレは兄弟でしたが、性格も賜物も異なっていました。ヤコブとヨハネもペテロとアンデレと同じく元漁師でしたが、「雷の子」というニックネームがつくような荒々しい兄弟でした。さらにローマの手先として働いていた取税人マタイ、ユダヤの愛国主義者の熱心党シモン、懐疑心の強いトマス、狡猾で後に裏切り者となるイスカリオテのユダ、等々。彼らの中には学者や宗教家はおらず、ごく普通の人々、いやむしろ一癖二癖ありそうな面々でした。人間的に見れば相応しいとは言えないような者たちをイエスは選ばれ(Ⅰコリント1:26-28)、働き人として用いられるのです。

 十二弟子は「十二使徒」(特別な使命を帯びて派遣された者)と呼ばれ、イエスから「汚れた霊を追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいをいやす権威」を授けられました。これらの権威は、人々に振りかざすものではなく、人々を支配し苦しめている罪の力から解放するためのものでした。十二使徒のように主に遣わされる者たちは、自分の持てるものや能力で使命を果すことを期待されるのではありません。ただ主の恵みと御力が、彼らをとおして現わされていくことが求められているのです。

 イエスは弟子たちを遣わすにあたり、遣わされる者としての心得を示されました(5節以下)。まず「イスラエルの家の失われた羊」の所に行って、御国の到来を告げ知らせるようにと命じられました。それが神の世界宣教のご計画でありました。イエスの命令を実行できるのは弟子たちに権威が授けられたからですが、また彼ら自身もイエスによって罪と死と悪魔の力から救い出されたからでした。そのような救いを彼らは「ただ(無代価)で受けた」のです。「だから、ただ(無償)で与えるがよい」とイエスは言われました。

 また、イエスは弟子たちに対し、金銭や着替えの下着や靴、杖、旅行に必要な袋を持っていくなと言われました(9-10節)。食糧をはじめ生活や働きに必要なものは、すべて与えられるからだというのです。あれこれ思い煩うのではなく、必要を備えて下さる神を信頼し身軽になって遣わされることを求められました。そして主が遣わされる所、自分たちを迎えてくれる人の許にとどまって、「平安を祈ってあげなさい」と言われました。神の祝福を祈ることこそ、まず遣わされる者たちのなすべきことでした。

 牧師や宣教師のみならず、主は信徒の兄弟姉妹たちを御許に呼び寄せられ(聖日礼拝)、主の弟子・使徒としてそれぞれの生活の場にお遣わしになります。御国の民として福音に生きるように恵みと平安と力をお授けになって、一人一人が遣わされる所で人々に主を証しし主の平安を祈るように導かれるのです。



2018年1月7日
説教題 「収穫は多い」
聖書箇所 マタイによる福音書第9章35~38節
説教者 安井 光 師

 この箇所は、イエスのガリラヤ宣教の一つの区切りとなる部分であり、イエスの宣教の要約とも言えるところです。イエスは「すべての町々村々を巡り歩いて、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え」られました。言葉をもってのみならず、「あらゆる病気、あらゆるわずらいをおいやしになった」ことも、イエスのなされた宣教の大切な要素でした。日本宣教の歴史においても、そのようなイエスの宣教が実践されてきました。

 イエスは、「群衆が飼う者のない羊のように弱り果てて、倒れているのをごらんになって、彼らを深くあわれまれ」ました。羊は飼う者(羊飼)がいなければ生きられません。聖書はしばしばイスラエルの民(人類の姿)を羊に譬えていますが、彼らは自ら羊飼なる神の許から離れてしまったのです(イザヤ53:6)。また、民の指導者(王や祭司)たちは牧者としての役目を果さなければなりませんでしたが、羊の群を養わず散らしていたのです(エゼキエル34章)。そのような羊の群(民衆)の有様をご覧になり「深くあわれまれた」、この深い愛こそがイエスを宣教に駆り立てた内的な要因だったのではないでしょうか。

 「収穫は多い」とイエスは言われます。イエスは、弱り果てて倒れている人、神のあわれみを必要としている人々の現実を「収穫」と見ておられたのです。イエスはまことの羊飼であり(ヨハネ10章)、迷える羊たちを御国に招き入れるのはイエスご自身ですが、イエスはこの収穫を独り占めになさらず、またこの働きを自分だけでなそうとはしておられませんでした。「働き人」を必要としておられたのです。

 弟子たちはまだこの時、宣教に遣わされていませんでしたが、イエスは弟子たちに対して「あなたがたが働き人になりなさい」「働き人になるよう自ら志願しなさい」とは言われませんでした。「収穫の主に願って、その収穫のために働き人を送り出すようにしてもらいなさい」と言われたのです。父なる神が「収穫の主」、働き人の雇い主であり、畑(この世界)の所有者だからです。あなたがたが収穫の主に祈ることによって、主がある人に臨まれてその人を働き人として起されるだろう。あるいは、祈りの中で収穫の主があなたがた自身に臨まれて、あなたがたを働き人として送り出されることになるだろう、ということをイエスはおっしゃったのだと思うのです。

 「働き人」とは、牧師や宣教師や伝道者など専門的な働きをする人だけを指すのではありません。すべてのクリスチャンが、何らかのかたちで働き人として召されているのです。いろいろな人のさまざまな働きがあって、福音宣教は押し進められ、刈り入れがなされていくからです。「収穫は多いが、働き人が少ない」とイエスは言われます。「働き人が少ない」ということは、今日の日本のキリスト教会において痛切に感じさせられる事柄です。私たちの教団でも、近年この課題のために祈られ対策が講じられています。働き人(献身者)が起されるように祈りたいと思います。収穫の主に祈ること、それがまず私たちに求められている、なすべき大切な伝道の働きなのです。

 ホーリネス教会の創立者カウマン夫妻は、祖国を後にし日本の福音化のために生涯をささげました。彼らのうちにみなぎっていたのは、九十九匹の羊を残して一匹の迷える羊を捜し求める真の牧者である主イエスの愛でした。弱り果てて倒れている迷える罪人に注がれた主の愛のうちに、私たちもおらせていただきましょう(ヨハネ15:9―桑原教会2018年聖句)。



2017年12月31日
説教題 「救いを待ち望んだ人々」
聖書箇所 ルカによる福音書第2章22~38節
説教者 安井 直子 師

 マリヤは、旅先でイエスを出産しました。それから四十日後のことです。マリヤの「きよめの期間」が明けました。律法を重んじるヨセフとマリヤは「初子の贖い」と「母親のきよめ」のため、主に犠牲を献げるために、エルサレムの神殿に向かいました。貧しい二人は「山鳩一つがい、または家鳩の雛二羽」を持って神殿に赴きました。この時神殿では、長い間救い主の到来を待ち望んでいた人たちがいたのです。

 一人はシメオンという男性の老人で、彼は「正しい、信仰深い人」で「イスラエルの慰められるのを待ち望んでいる人」でした。また聖霊を通して「主の遣わす救い主に会うまでは死ぬことはない」という約束を与えられていました。彼はこの幼子が救い主であると聖霊によって示され、喜びに溢れて幼子を腕に抱き、祝福し、神をほめたたえました。(ヌンク・ディミティス)さらに、幼子イエスの将来について語り、母マリヤにとってそれは、胸を刺し貫かれるように痛く、苦しい出来事(イエスの受難と十字架)であると告げました。神はシメオンのような忠実な僕を、祭司として、また預言者として用いられたのです。

 シメオンの賛美の声を聞いて駆け寄ってきた女性がいました。アンナという女預言者で、若い時に夫を亡くし寡婦となり、84歳になっていました。彼女は預言者として昼夜神殿を離れず、絶えず断食をして神に祈り仕えていました。このアンナも「この方が救い主だ」とすぐにわかり、神に感謝を献げ、救い主がお生まれになったことを、エルサレムの救いを待ち望んでいる全ての人々に語り聞かせました。

 両親でさえも見ることの出来なかった救いのしるしを、この幼子の中に見出しえた二人の老人。このように神の宮が祈り深い聖徒たちによって支えられてきたことがわかります。私たちは皆、年老いていきます。その時どうやって主を信じ、従い続け、主を伝え生きていくのか。それは、礼拝と祈りを大切にし、聖霊による神との豊かな交わりによって与えられる祝福を持ち続けていくことではないでしょうか。

 シメオンやアンナのように幼子イエスを見ただけで、救いの完成を疑わない、幼子のような素直な信仰を持つことです。この信仰をもって私たちは新しい年も、「わたしの目が今あなたの救いを見たのですから」と感動と喜びを持って、救いの福音を宣べ伝える者でありたいと思います。

2017年12月24日
説教題 「ひれ伏して拝むクリスマス」
聖書箇所 マタイによる福音書第2章1~12節
説教者 安井 光 師

 「クリスマス」は、〝Christ(キリスト)〟と〝Mass(ミサ=礼拝)〟という二つの語からなっています。つまりクリスマスとは、救い主としてお生まれになったイエス・キリストを礼拝する日です。東方の博士たちの姿にそのことが示されています。

 イエス・キリストは、ヘロデがユダヤを統治していた頃、ユダヤのベツレヘムにお生まれになりました。東方の博士たちは、バビロニアの占星術師でした。彼らは西の空にひときわ輝く星を発見し、救い主(キリスト)の誕生を知り、救い主探しの旅を始めるのです。それは、救い主を「拝む(礼拝する)」ためでした。神は天体までも用いて、異邦人の博士たちを救い主のもとに導かれるのです。

 救い主を訪ね求めた博士たちの旅は、人がイエス・キリストに至る信仰の道程と似ています。人は色々な方法(マスメディア、家族・知人、教会)でイエス・キリストを知ります。その方をもっと深く知りたいという求めが起こり、聖書を読み、教会に通うようになり、救い主イエスを訪ね求める旅が進められるのです。この旅を続ける人は、聖霊が「星」となって導き、必ず救い主にお会いすることができるのです。

 ヘロデは、ユダヤに新しい王(キリスト)が誕生したと聞いて不安を感じました。エルサレムの人々も皆、同様でした(3節)。祭司長や律法学者たちは、ベツレヘムに救い主が誕生すること(ミカ5:2)を知っていましたが無関心でした。彼らは救い主の誕生という喜びのおとずれ(福音)を受け入れなかったのです。救い主を訪ね求めようとしなかったのです。彼らが新しい王(キリスト)を受け入れなかったのは、自分の王座(心の王座、主権)を誰にも譲るまいと考えていたからでした。

 毎年、日本でもクリスマスが祝われます。けれども多くの場合、祝われるはずのイエス・キリストが不在です。本来おるべきところに、あるべき王座にキリストがおられません。多くの人はクリスマスムードのみを欲し、キリストを求めていないのではないでしょうか。しかしイエス・キリストを受け入れた者、救い主を訪ね求めて礼拝をささげる者には、まことの喜びと神の子となる救いの恵みが与えられるのです(ヨハネ1:9-12)。

 博士たちは救い主、幼子イエスに会い、「ひれ伏して拝み、また、宝の箱をあけて、黄金・乳香・没薬などの贈り物をささげ」ました。何の打算もなく、すべて(立場、持ちもの、罪)をかなぐり捨てて礼拝をささげたのです。博士たちが救い主イエスにささげた礼拝、これこそがクリスマスが何であるかを示しています。クリスマスとは、また十字架でささげられたイエス・キリストの犠牲(ミサ=聖餐)をも意味しています。私たちの救いのために、神が御子を犠牲としてささげて下さったに感謝しましょう。私たちの救い主イエスにすべてを明け渡して礼拝をささげましょう。

2017年12月17日
説教題 「信仰どおりになる」
聖書箇所 マタイによる福音書第9章27~34節
説教者 安井 光 師

 イエスが道を進んでおられると、ふたりの盲人が「ダビデの子よ、わたしたちをあわれんで下さい」と叫びながらついてきました。「ダビデの子」は救い主を表わす称号でした。イスラエルの民は、ダビデのような偉大な王の誕生を長く待ち望んでいました。「ダビデの子」が世界帝国の支配から自分たちを解放し、イスラエルの国家に繁栄を回復してくれることを期待していました。目が見えず暗闇を経験していたふたりの盲人は、人一倍「ダビデの子」に対して希望の光を見出していたことでしょう。ところが、イエスはふたりの訴えにすぐ応答なさらず、「家にはいられ」ました。イエスはふたりから「信仰」を引き出そうとなさったのです。公衆の面前ではなく、隠れたところで彼らと関わりを持とうとされたのでした。

 イエスはふたりの盲人に、「わたしにそれができると信じるか」と尋ねられました。「それ」とは、ふたりを見えるようにすることでしょう。正確には、イエスが「ダビデの子」としてふたりをあわれむことだったのです。「ダビデの子」、救い主が到来する時には、盲人は見えるようにされるなどの神の御業がなされると預言されていました(イザヤ35:5、マタイ11:5)。イエスはふたりの盲人に対し、私はあなたがたの救い主としてこれらのことを行うことができると信じるかとお尋ねになったのです。ふたりは、「主よ、信じます(はい、主よ)」と答えました。イエスが自分たちをあわれんで下さると信じて即答したのです。イエスは、「あなたがたの信仰どおり、あなたがたの身になるように」と言われ、ふたりの盲人の目を開かれたのでした。

 新約聖書には、最初にイエスの系図とイエスの誕生の次第が記されています(マタイ1章)。人間は神のかたちに創造され、この世界を治める者とされましたが、罪を犯し、神から離れて生きるようになり、闇を恐れ、死を恐れる存在となりました。人間には真の導き手・助け手が必要です。自分で自分を救うことはできないからです。「わたしたちをあわれんで下さい」という叫びは、まさに私たちすべての人間の魂の叫びなのです。イエスはダビデの子として生まれ、「おのれの民をそのもろもろの罪から救う者」となられたのです(1:21)。

 イエスは救い主として降誕され、十字架の死と復活により、世の罪の贖いの御業を成就して下さいました。それでも尚、「わたしたちをあわれんで下さい」と主に訴えるのは、ふたりの盲人のように個別の問題や課題を抱えながら生活しているからではないでしょうか。主イエスは、「わたしにそれができると信じるか」と私たちにお尋ねになります。私たちはその折々に、「主よ、信じます」と救い主への信仰を告白したいと思います。主は信じる者たちに対して、「あなたがたの信仰どおり、あなたがたの身になるように」と宣言して下さるのです。

 「信仰どおり…身になる」とは、私たちの信じた事柄が都合よく実現することではありません。主が私たちの身になされる救いと、主ご自身が切り離されてしまうことがないように注意しなくてはなりません。私たち人間は目覚ましい奇跡を求めがちですが、主は信仰によってもたらされる私たちとの関係性を重要視しておられるのです(30-33節)。主は、罪によって破壊された私たちとの交わりを回復し、救いの恵みを豊かに得させ、これを永久に保つために、私たちに信仰をお求めになられるのです(ヘブル11:6)。主は、人間の考えや願いを越えて信仰どおり(御心=最善)に私たちの身になされることを覚えて、真心から主を礼拝したいと思うのです(ルカ1:38)。

2017年12月10日
説教題 「命の源であるイエスを信じる」
聖書箇所 マタイによる福音書第9章18~26節
説教者 安井 光 師

 この箇所には、イエスによる二つの奇跡物語が記されていますが(並行記事マルコ5:21~、ルカ8:40~を参照)、一つのメッセージを聴き取ることができます。絶望的な状況にあった二人の人(会堂司と長血の女)が、真の命を与える救い主イエスに希望(信仰)を抱くことによって救われたということです。

 会堂司は、ユダヤ教の会堂の管理者で指導的な立場にある人でした。彼はイエスの福音に心を開かれ、この方こそ「きたるべきかた(救い主)」(マタイ11:3)であるという思いが起されていたのでしょう。イエスによってもたらされた喜びを打ち消すかような出来事が会堂司の身に起こりました。12歳になる一人娘が病気で死んでしまったのです。しかしながら会堂司は望みを失わず、イエスを拝し「おいでになって手をその上においてやってください。そうしたら、娘は生き返るでしょう」と申し上げました。これは、会堂司のイエスに対する信仰告白でした。

 「死」は、人間にはどうすることもできない究極的な問題です。しかしイエスは死を克服する権威と力を持っておられました。会堂司はそのことを認めていたのです。だから彼はイエスに望みを抱くことができたのです。イエスは会堂司の信仰に応えて、彼の娘の許に向かわれるのです。イエスはご自分を信頼する者を決して失望させることはないのです。

 長血を患う女も、切なる求めをもってイエスに近づきました。彼女は不浄な者と見なされて社会的な差別を受け、12年間も苦しんでいました。医者にかかり、財産も費やしましたが良くならず悪くなる一方でした。望みを失いかけていた時、彼女はイエスに望みを抱き、「うしろからみ衣のふさにさわった」のでした。「み衣にさわりさえすれば、なおしていただけるだろう、と心の中で思っていた」のです。彼女は、イエスの衣に不思議な力が宿っていると信じたのではなく、救い主であるイエスそのお方(詩篇18:2)に信仰をもって寄りすがったのです。

 イエスは、「娘よ、しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです」と言われ、長血の女を癒されました。彼女の身に起こった救いの出来事が、「信仰」によることを明らかにされたのです。イエスがなされたのは、肉体の癒しにとどまるものではありませんでした。彼女は信仰によって、死の力を打ち破る真の命を与える救い主(コロサイ3:4)と結び合わされたのです。

 イエスが会堂司の家に到着すると、娘の死を悼んで人々が集まっていました。「少女は死んだのではない。眠っているだけである」とイエスが言われると、人々はあざ笑いました。人は死ねば葬る以外ないからです。しかしイエスを信じる者の死は、やがて目覚める(復活)ためのしばしの眠りでもあるのです(Ⅰコリント15:20-58)。会堂司は、イエスに望みを抱いていました(18節)。イエスは、手をとって会堂司の娘を起され、生き返らせたのでした。会堂司は喜んだことでしょう。娘が助かるためにイエスにすがっただけでなく、彼自身がイエスの命にあずかり、命の源であるイエスと結び合わされているならば(ヨハネ11:25-26)、その喜びは永久保証なのです。

 命の源であるイエスに信仰によって結び合わされることによって、私たちは恐れることなく安んじて前に向かって進んで行くことができます。イエス・キリストは、私たちの人生と日々の生活、現在のこと将来のことにおいて、命に関わるすべての事柄に心を割かれるお方です。私たちの命となるために、十字架でご自身の命をささげられ、死んでよみがえって下さったのです。