2017年10月8日
説教題 「イエスに従う道」
聖書箇所 マタイによる福音書第8章18~22節
説教者 安井 光 師

 イエスは、福音宣教の働きがご自身によって完了されるとは考えていませんでした。イエスは弟子を招かれ、彼らを教育して宣教に遣わされることにも思いを注がれました。イエスは弟子たちと交わりを持つために群衆を避けて向こう岸に行こうとされた時のこと。「ひとりの律法学者」が近づいてきて、「先生、あなたがおいでになる所なら、どこへでも従ってまいります」とイエスに言いました。彼は律法の専門家でありユダヤ教の指導者でした。彼はイエスの教えを聞いて目から鱗が落ちるような体験をし、イエスから学び指導を仰ぐこと、弟子となることを志願したのでした。

 イエスに従おうとする律法学者の姿勢は実に勇敢でした。ところがイエスは、「きつねには穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子にはまくらする所がない」と彼の情熱を冷ますかのような言葉をかけられました。動物のみならず、人間は我が家という安心して休める場所がありますが、イエスはこの地上には安住する場所をもっておられませんでした。私に従う者たち・弟子たちもそうだ、それでもあなたは私に従ってくるかという思いでそう語られたのです。

 旧約の族長たちは定住する場所を持ちませんでした。彼らは、主なる神が天に安住の場所を用意しておられると信じ、主こそが避け所・拠り所であることを心に留め、信仰に歩んだのでした(ヘブル11章)。イエスに従おうとする者は、目に見えるものや自分の何かを拠り所すべきではありません。弟子のペテロもそのことで失敗を犯しました(ルカ22:33、54-62)。自己過信せず、従い切れない弱さがあること自覚しつつ、主が負わせられる重荷を、主が共に負って下さる頸木を担いつつ、主を休み場とし拠り所として従っていくことが求められるのです(マタイ11:28-29)。

 また、「弟子のひとり」が、「主よ、まず、父を葬りに行かせて下さい」とイエスに申し出ました。父を葬ることは、最も大事な義務とされていました。ところがイエスは、「わたしに従ってきなさい。そして、その死人を葬ることは、死人に任せておくがよい」と言われました。無慈悲かつ非常識な言葉のようにも思えますが、イエスは肉親の葬りが大切であることを重々ご承知でした。当時、死者の葬りは大変煩雑で、すべてが終わるのに一年以上の歳月を要しました。イエスは弟子に対し、弟子としての使命(福音を宣べ伝えること―ルカ9:60)に生きるべきことを示されたのです。

 イエスに従う者たちは、親や家族のことは放っておいて伝道に励まなければならないのでしょうか。そうではありません。ここで問われているのは、このことが終わったらイエスに従おうとか、あのことが終わっていないのでイエスのお手伝いはできない…というようなあり方でよいのかということです。私たちが生かされている日本の社会、すなわち異教社会において、弟子として主イエスに従うことは簡単ではありません。後ろ髪を引かれる思いをすることもしばしばです。しかしそのなかで私たちは、「まず神の国と神の義とを求めなさい」と言われる主の御言葉に心を留めたいと思います。自分の置かれている状況や時をよく捉え、何が主の御旨なのかを教えていただき、主にお従いしたいと思うのです。

 主に従う者たちの道には、困難があり犠牲が伴うかもしれません。しかしそれにまさる大きな祝福が約束されています。主に従う道は真の命に至る道であり、主の祝福がもたらされる道です。主がご自身に従う者たちの生涯に全責任を持って下さいます。そのことを覚えつつ、私たちは主にお従いし、主の道を歩ませていただきましょう。



2017年10月1日
説教題 「私たちに与えられる希望」
聖書箇所 ヨハネによる福音書第11章17~44節
説教者 安井 光 師

 イエスと親しくしていたマルタとマリヤの兄弟ラザロが病気で亡くなりました。イエスがラザロの許を訪れたのは、彼が墓に葬られて四日後ことでした。「主よ、もしあなたがここにいて下さったなら、わたしの兄弟は死ななかったでしょう」。マルタとマリヤは、愛する家族を突然失い、やりきれない思いをイエスに訴えました。既に大勢の人々がラザロの死を悼み、マルタとマリヤの姉妹を慰めるために家に集まっていました。

 人生には辛いこと、悲しいこと、涙することがありますが、愛する者との死別以上に辛く悲しいことはありません。人がどんなに大勢よってたかっても解決することができないのが死の問題です。すべての人が死に直面(近親者の死、自らの死)しますが、死に対して私たち人間はまったく無力です。

 イエスは、私たち人間を苦悩させ人生を虚しくさせる死の力に真正面から相対峙されたのです。イエスは、人類をこれほどまでに悩ませ苦しめている死の力に対峙し、霊的な憤りを覚えられました。また死の力に屈服し狼狽えている人間の現実を目の当りにして、激しく心を震わせ、深く憐れまれて涙を流されたのです(33-34節)。イエスはマルタに対し、「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない」と言われました。イエスご自身に希望があることを示されたのです。

 イエスは、死に打ち勝たせる確かな希望を私たちに与えて下さるお方です。イエスは、十字架で死なれ、墓に葬られ、陰府に下られました。死の恐れや苦しみ、死がもたらす絶望など、すべてを味わわれたのです。死んで終わりませんでした。「わたしはよみがえりであり、命である」と宣言されたとおり、イエスは死人の中からよみがえられたのです。「わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる」と、ご自身を信じる者にもこの命と希望を与えると約束なさったのです。

 桑原教会の召天者たちも、それぞれ人生において死の問題に直面しました。死の力が一人一人を襲いました。そのなかで主の語りかけを聞き、「あなたはこれを信じるか」との問いかけに、「主よ、信じます」と身も心も魂もすべてを主に委ねたのです。主は永遠の命に至る確かな希望を一人一人に賜わり、その希望をもって召天者の兄姉らの生涯を導かれたのです。私たちにもこの確かな希望が与えられているのです。

 人生には終わり・終末があります。終活も必要でしょう。しかし死に対する大事な備えとは、死に向けての身辺整理ではなく、死にどう向き合うかということに本題があるのではないでしょうか。「人間は死ねば終わり」とするのではなく、死の先にある真のゴールに心を向け、主を信頼して生きることによって、人生は本当に豊かなものとなるのです。主が私たちのために天の故郷、永遠の世界を用意しておられると信じるからこそ、私たちは死を恐れないで、自分に与えられている命と人生を大切にし感謝と喜びをもって、また希望を抱いて生きることができるのです。

 死の力に打ち勝ち、永遠の命に生きるために、イエスはマルタとマリヤに対して信仰をお求めになりました(25-26、39-40節)。私たちも彼女たちや召天者の兄姉たちが抱いた信仰と希望、イエス・キリストが私たちに賜わる確かな希望によって歩ませていただきたく思うのです。



2017年9月24日
説教題 「我は信ず」
聖書箇所 ローマ人への手紙第10章8節~17節
説教者 安井 光 師

 使徒信条は、プロテスタント、カトリック両教会において用いられているキリスト教会最古の信条です。 私たちは礼拝の中で使徒信条を唱えますが、「信条」という語はラテン語の「クレド(我は信ず)」から来ており、信仰告白を意味します。使徒信条の基調をなしているのは「我は信ず」という言葉ですが、私たちが唱える信条とは何か、私たちがなす信仰告白とはいかなるものなのかをローマ書のパウロの言葉から学ぶことができます。

 「人は心に信じて義とされ、口で告白して救われる」(10節)とパウロは説明しています。信じることと、口で告白することは一つなのです。信仰とは、言葉にしてはっきり言い表わすことができるのです。パウロが語るように、キリスト教信仰の中心には、「イエスは主である」こと、「神が死人の中からイエスをよみがえらせた」の二つがあります(9節)。初代教会では、そのように信仰告白する者たちが洗礼を授けられ教会に加えられました。それは今日も同じです。救いの経験は一人一人異なりますが、「信仰は一つ」(エペソ4:5)なのです。私たちは使徒信条を唱えるごとに、自分がキリストに属する者であること、キリストの体なる教会の一員であるという信仰を新たにするのです。

 「信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来る」(17節)のです。キリスト教信仰とは、心に自然に生じた信念や信心のようなものではなく、神の言葉を聞くことによって、キリストの福音をとおして私たちに届けられたのです。神は、イエス・キリストの十字架の死と復活をとおして世の罪の贖いを成し遂げられ、この世にご自身の勝利を告げ知らせられました。福音の内容が凝縮されている信条とは、それを聞き、心に受けとめる者に信仰を与え、また信仰をもってこれを言い表わす人々の生活に勝利をもたらすのです。

 アブラハムは信仰の父と称せられる人物ですが。不信仰に陥ったこともありました。アブラハムが「望み得ないのに、なおも望みつつ信じた」(ローマ4:18)というのは、彼自身に信仰の根拠となるものがあったのではなく、ただ神の側にあったことを示しています。信仰とは、真実である神を信頼することなのです。使徒信条は、これを唱える者に堅い信念を要求するものではなく、時に揺れ動いてしまう自らの信仰の弱さを認めさせながら、真実で変わらない主にすがりつく・・・というような、主なる神への信頼を求めるものなのです。

 信じ仰ぐべきお方が、私たちに信仰を賜わるのです。信仰は、イエス・キリストにより私たちに与えられるのです。ヘブル書12章2節に、「信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか」とあります。信仰の創始者であり、完成者である主を仰ぎながら、「主よ、私は信じます」と主に寄り添いつつ歩む。それが私たちの抱く信仰であり、キリスト者の信仰生活(信仰生涯)なのです。



2017年9月17日
説教題 「いやし主イエス」
聖書箇所 マタイによる福音書第8章14節~17節
説教者 安井 光 師

 イエスは熱病で床に伏していたペテロの姑を癒されました。イエスが彼女の手に触られると「熱が引いた」(15節)とありますが、原文では「熱が彼女を去った」となります。当時、人々は病気を悪霊の仕業であると考えていました。日本語では重い病を「病魔」と呼んだりしますが、イエスはペテロの姑を苦しめていた病魔を去らせるようにて彼女を癒されたのでした。またイエスの許には大勢の病める人々が連れてこられましたが、イエスは御言葉をもって悪霊を追い出し、彼らを皆お癒しになりました(16節)。

 聖書によれば、私たち人間とは霊と肉からなる存在です。どちらも人間にとって重要ですし、どちらが欠けても人間とは成り得ません。どちらか一方に異常が来しても人は苦しむのです。イエスは、肉体においてまた霊魂において患い苦しんでいた人々、一人一人に臨まれたのです。イエスは、すべての病の背後に人間の力ではどうすることもできない死の力・悪魔の力を見据えておられました。神による癒し(救い)が必要であることが分かっておられました。イエスは、父なる神から託された権威と権能をもって悪霊を追い出し、病める人々を尽く癒されたのです。

 悪霊とは悪魔の霊、神に敵対する霊、神に敵意を抱かせる霊です。悪魔(サタン)は、私たち人間を脅かして不安や恐れを抱かせる霊的な存在です。あらゆる病も、神に不信仰を抱かせ、神から私たちを引き離すために悪魔はこれを利用するのです。しかし神は悪魔の思うようにはさせません。神の御子・救い主であるイエスは、力ある御言葉をもって悪魔に打ち勝たれ、病める人々をお癒しになるのです。

 「彼は、わたしたちのわずらいを身に受け、わたしたちの病を負うた」(17節)。福音書記者マタイはイザヤ書53章4節の聖句を引用し、イエスの癒しの御業はイザヤの預言の成就だと説明しています。イザヤ53章はイエスの十字架の苦難を預言した聖句です。イエスが負われた「病」とは罪の病であります。罪の病は、私たち人間には癒すことができない不治の病でした。イエスは十字架において私たちの罪の病をその身に負われ、十字架において打たれ苦しまれました。「その打たれた傷によって、われわれはいやされた」(イザヤ53:6)のです。

 イエスによって癒された者は、イエスに仕えるようにされます。ペテロの姑はイエスに病を癒され、「起きあがってイエスをもてなした」(15節)とあります。彼女は喜んでイエスのために奉仕したのです。イエスによって罪の病を癒された者たちは、癒していただいた方に仕えるようにされるのです。そうされることこそ、イエスが十字架で「わたしたちのわずらいを身に受け」られ、「わたしたちの病を負」われた目的であるのです。

 私たちの教団が掲げる「四重の福音」の中に「神癒」があります。霊肉からなる私たち人間の全存在・全人格的な癒しを表わしています。主は私たちを真に健やかな状態に回復させて下さるのです(Ⅰテサロニケ5:13)。主は今も私たちの肉体の病も癒して下さるお方です。主は不思議な方法で癒されますが、医療をもお用いになって私たちを癒されます。ただ、主に祈っても完全に癒されないこともあります。けれども主は私たちの病めるところに大きな恵みを注いで下さるのです(Ⅱコリント12:7-9)。そのような経験をとおして、私たちはいよいよ主と深く結び付けられ、主を真心から礼拝し、主に仕えるようにされるのです。

2017年9月10日
説教題 「ただ、お言葉を下さい」
聖書箇所 マタイによる福音書第8章5節~13節
説教者 安井 光 師

 カペナウムはイエスがガリラヤ伝道の拠点とされた町でした。カペナウムにはローマの軍隊が駐屯していました。軍隊の百卒長がイエスの許に訴えをもって訪ねてきました。彼の「僕(奴隷)が中風でひどく苦しんで」いたというのです。ただ異邦人が、しかもローマの兵卒の長たる者がユダヤ人に直接お願いすることは通常考えられないことでした。立場的には、お願いではなく命令することも可能だったでしょう。しかし彼はそうしないで、謙ってイエスに窮状を訴えたのです。

 イエスは、「わたしが行ってなおしてあげよう」と言われました。当時、ユダヤ人が異邦人と交際したり、異邦人の家に出入りすることは禁じられていましたが(使徒行伝10:28)、この百卒長はユダヤ人の間で大変評判が高く、信頼され尊敬されていました(ルカ7:1~)。イエスに僕を癒してもらうことについても、ユダヤ人の長老たちから「あの人はそうしていただくねうちがございます」と言われていた人でした。ただ、イエスが百卒長の僕を癒そうとされたのは、異邦人の許に行くことが神の御旨であったからでした(マタイ4:15-16)。イエスは、彼の信仰にお応えになられたのです(12節)。

 「主よ、わたしの屋根の下にあなたをお入れする資格は、わたしにはございません。ただ、お言葉を下さい。そうすれば僕はなおります」。百卒長は、イエスを真の権威者と認めていました。イエスの御言葉の力を信頼して、「ただ、お言葉を下さい」と願いました。百卒長は「権威の下」に服しており、上官の言葉が絶対的なものであることを理解していました(9節)。「主」であるイエス、彼は上官の上の上、ローマ皇帝よりも上におられる方、すなわち天の神、万物の支配者から権威を与えられたお方であり、そのお言葉には力がある。もし「病気に去れ」と命じられるならば、たちまち僕の病気は癒されると百卒長は信じていたのです。

 イザヤ書55章11節に、「わが口から出る言葉も、むなしくわたしに帰らない。わたしの喜ぶところのことをなし、わたしが命じ送った事を果す」と神は宣言しておられます。神にとって御言葉をお語りになるとは、それを必ず行われるということなのです。私たち人間の力で御言葉を実現させるのではありません。私たちに語られる御言葉を主ご自身が成し遂げて下さると信じて、主を信頼し主の御言葉の権威に服従するのです。百卒長はそうしたのでした。旧約の聖徒たちは、神の御言葉に聞き従い、神の恵みと祝福を経験しました(アブラハムの生涯)。主を信頼し、主の御言葉に聞き従うならば、ユダヤ人と異邦人の区別なく主の救いと祝福にあずかるのです。

 「ただ、お言葉を下さい。そうすれば僕はなおります」。イエスは百卒長の僕の信仰に「非常に感心され」、「イスラエル人の中でも、これほどの信仰を見たことがない」と驚かれました。この「信仰」とは、御言葉に基づいて神を信頼するということではないでしょうか。自分の知識や力に頼るのではなく、かといって盲目的に信じるのでもなく、真の権威を有しておられる真実なる主を信頼すること、主が語られる御言葉を土台にして歩み、主ご自身が御言葉の約束を成し遂げられると信じるのです。

 試練や困難に遭い、「主よ~」と祈りをささげる時、聖書に向き合い、「お言葉を下さい」と御言葉を求めたいと思います。御言葉には力があります。主は御言葉をとおして、私たちの行く道を照らし導いて下さいます。御言葉をとおして、主の深い恵みを味わうことができるのです。



2017年9月3日
説教題 「汚れをきよめるイエス」
聖書箇所 マタイによる福音書第8章1節~4節
説教者 安井 光 師

 イエスは山から降りられると、一人の「重い皮膚病」を患う人に出会われました。重い皮膚病(ヘブル語「ツァーラト」はらい病・ハンセン病と異なる)の人々は、宗教的な意味で汚れていると見なされていました。町の外れに隔離され、自ら「わたしは汚れた者、汚れた者です」と呼ばわらなくてはなりませんでした(レビ記13:45-46)。彼らは肉体的に苦しんでいただけでなく、社会的に疎外されて精神的な苦痛を味わっていたのでした。

 重い皮膚病の人は、イエスに近寄り、ひれ伏して「主よ、みこころでしたら、きよめていただけるのですが」と言いました。彼はイエスを医者や先生と考えたのでなく、「主」(万物の主権者)であるお方として信じて、病気が治るだけでなく、汚れをきよめていただくことをイエスに願いました。彼は聖なる神の前にある自分が、汚れた者であることを自覚していました。神に対する恐れは、神への信頼と希望を彼のうちに呼び起こしたのです。もしもできるのならきよめて下さいと、半信半疑な気持ちでイエスに求めたのではありません。一方的な願い求めやご利益信仰ではなく、「みこころでしたら」(主がそうしようと願われるなら)私はきよめていただけますと、イエスを信頼しつつ願い求めたのです。

 イエスは「手を伸ばして彼にさわり、『そうしてあげよう(私の心である、私は欲するの意)、きよくなれ』」と言われました。律法の規定(レビ記5:3)によると、重い皮膚病の人に触れると汚れるとされていました。そのことをイエスはご承知でしたが、彼を深くあわれみ手を伸ばされて(マルコ1:41)、癒しがたい内側の傷に御手を置くようにして、彼の病を癒しきよめられたのです。それは、この人にとって神の国・御国に招き入れられる出来事でありました。彼は社会的な交わりを回復しただけでなく、イエスにきよめられて神との交わりが回復されたのです(4節)。

 イエス・キリストは、全人類の罪を贖うため、私たちの罪をきよめて神の国に導き入れるために、この世に来られました。「罪」と「汚れ」について聖書を見ると、人は罪によって汚されることが分かります。罪は神が憎まれるものであり、神との関係と交わりを破壊するものです。罪は人の内側から出て来て人を汚すとイエスは教えておられます(マタイ15:18-19)。罪を取り除いて私たちをきよめることができるのはイエス・キリスト、このお方だけなのです。

 私たちは日常生活のなかで罪に苛まれることがあると思います。神は私たちが罪の重荷をかかえたまま生きることを望んでおられません。神の御心は、私たち罪人をきよめること、神の民・聖徒とすることです。そうするために、神は御子イエスを十字架で犠牲としてささげて下さいました。イエスの許に罪の重荷を解き降ろす時、イエスの十字架の血によって即座に私たちをきよめて下さるのです(Ⅰヨハネ1:7-9)。
 


2017年8月27日
説教題 「岩を土台にして」
聖書箇所 マタイによる福音書第7章24節~29節
説教者 安井 光 師

 イエスは、山上の説教の最後に一つの譬を語られました(24-27節)。イエスは人生を家造りに譬えられました。一人は「岩の上に自分の家を建てた」と言われます。彼は「地を深く掘り、岩の上に土台をすえて」(ルカ6:48)家を建てたのです。家を建てる上で土台がどれほど大事なのかは周知の事実です。ところがもう一人は「砂の上に自分の家を建てた」のです。「土台なしで、土の上に家を建てた」(ルカ6:49)のです。大事な土台を軽んじて安易に家を建ててしまったのです。これ以上の手抜き工事はないと言えるでしょう。

 人はそれぞれ人生を築きます。お互いに築いてきた人生の評価は、各自の価値観の違いもあり善し悪しの判別はできないでしょう。イエスは、二人がどんな家を建てたのかを言及しておられません。何を土台にして家を建てたのか、人生を築くのかを語っておられるのです。人生の土台は、家の土台がそうであるように隠れていて周囲には見えません。しかし、「雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家を打ちつける」時、すなわち人生の嵐、試練や困難が襲う時、その違いは歴然とするのです(25、27節)。

 イエスの話を聞く時、私たちは「岩を土台にして自分の人生を築きたい」と願わされるのではないでしょうか。イエスはそのような積極的な応答を求めておられるのです。岩を土台にするためにご自身に聞き従うことを求められます。「わたしのこれらの言葉を聞いて行う」とは、イエスが教えられたように生きるということです。イエスは、私たちが御言葉(福音)を信じること、それに生きることをお求めになるのです。

 イエスは「権威ある者のように、教えられ」、群衆は教えの素晴らしさに感心しましたが、私たちはイエスを人生の教師とし、御言葉を人生にためになる教訓として実行していくというのではありません。イエスを自分の主(人生の主人)とし、イエスを信頼し自分のすべてを委ねて生きるのです。僕が主人の言うことを行うのは当然ですが、イエスは私たちを友としてあるいは兄弟姉妹として見ておられます(ヨハネ11:11、マタイ12:50)。そのような親しい関係・信頼関係のなかで、私が語ったように生きよ、と私たちに迫られるのです。

 イエスは十字架で命を捨てられ、私たちが神の家として新しく生きるための土台となられました(Ⅰコリント3:11)。イエスこそ、山上の説教で語られたことを成就なさるお方なのです(マタイ5:17)。常に真実であるイエスを信頼して生きることが、岩の上に人生に土台を据えることであるのです。「岩の上に自分の家を建てた賢い人」の賢さとは、イエスとの信頼関係の上に自分の人生を築いていくところにあるのです(箴言1:7)。

 イエスの御言葉に生きようとする時、自分は「聞いても行わない者」の方だと思うこともあるかもしれません。聞いても行えない現実にぶつかるかもしれません。実は御言葉に真摯に向き合っていくことが、岩の上に家を建てる大事な作業なのです。兄弟に対して怒るな、敵を愛し迫害する者のために祈れ、人をさばくな、人の過ちを赦せetc。御言葉に向き合う時、自分にはできないこれらのことをなされたイエスを思い知るのです。只々イエスを仰ぎ、お頼りするほかないのです。そういう歩みのなかで、自分にはできなかったことをイエスがさせて下さるようになる、福音の力を体験するのです。イエスとの交わりをとおして、私たちは神の家として建てられていくのです。



2017年8月20日
説教題 「満ち溢れる恵み」
聖書箇所 ローマ人への手紙第5章12節~21節
説教者 安井 巌 師

 「このアダムは、きたるべき者の型である」。

 「このアダム」とは、罪と死とに支配されている私たち人間の代表であります。「来たるべき者」とは、「来るべき主イエス・キリスト」ということです。「型」というのは、鋳型を思い浮かべていただけるとよいと思います。鋳型に鉄の溶かしたものを注ぎ込んで同じ形のものを作る、あの「型」です。ここでパウロは言うのです。来たるべき主イエス・キリストは、罪と死とに支配された私たち人間の代表であるアダムの型にぴったりと重なってくださった。つまり、私たちと同じ型に、主イエスご自身が天から降って来られて身体をぴったりと重ねてくださった。どこで重ねられたのでしょうか。それは十字架においてです。十字架にご自身のお身体を上げて、手と足とに釘を打たられ、罪と死の型にぴったりその身を重ね合わせてくださったのであります。

 しかし、それで終わらなかった。父なる神が、主イエス・キリストを甦らせてくださることによって、罪も死の支配も完全に打ち破ってくださいました。そして、甦えられた主イエスのいのちが、私たちの上に注がれて続けているのです。

 パウロは第5章15節以下から、神の恵みの賜物について、「豊かに多くの人々に満ちあふれたではないか」とか、17節「あふれるばかりの恵みと義の賜物」とか、「いのちにあって、さらに力強く支配する」とか、きわめつけは20節「罪の加わったところには、恵みもますます満ちあふれた」と、溢れに溢れる恵みとして語ります。それはちょうど、ケーキでもパンでも何でもいいのですが、そのような型を思い浮かべていただいて、そこに生地を流し込むのですけれども、型よりも用意した生地の量が多くてどんどんはみ出ていく。そのように、「ひとりの人イエス・キリストの恵みの賜物」は、私たちの罪と死との型から全くはみ出てしまい、私たちをそのはみ出た恵みと義の賜物によって包み込み、永遠のいのちに預かる者としてくださるのです。そのいのちが、すでに私たちを生かすいのちとなっている。その現実にしっかりと目を向けようとパウロは言うのです。溢れに溢れでたキリストの恵みがあなたの上に注がれ続けているのではないか。昨日も、今日も、明日も、世の終わりまで注がれ続けるではないかと。この恵みは尽きることがありません。何と素晴らしいことではないでしょうか。何と驚くべきことではないでしょうか。本当に嬉しくなります。喜びが溢れてきます。生きる希望が満ち満ちてきます。まさに、私たちは既に、キリストのものとして生かしていただいているのです。



2017年8月13日
説教題 「良い実を結ぶために」
聖書箇所 マタイによる福音書第7章15節~23節
説教者 安井 光 師

 ワンマンで好戦的な指導者の動向に世の中の警戒が強まっている昨今ですが、イエスは山上の説教を締め括る部分で「にせ預言者に警戒せよ」と語られました。「にせ預言者」とはいったい何者でしょうか。前段落(13-14節)のイエスのお言葉からすれば、命にいたる門ではなく、滅びにいたる門に人々を導く存在だと言えるでしょう。彼らは、相手に警戒させない姿や態度で近づいてくるのです(15節)。

 キリスト者でないのに、聖書の言葉やキリストの名を借りて自分の教えを語る宗教指導者たちがいます。どうしてニセモノのほうに行ってしまう人が多いのだろうかと不思議に思いますが、判別がなかなか難しい。言葉が巧みで、真実性を帯びているように聞こえてしまうのです。世の中には様々な教えがあり、教師や指導する者たちがおり、それぞれに「これが正しい道だ・真理だ」と信じ、「これに従って歩め」と熱心に教えています。そういう人たちからは、かえって正統なキリスト教信仰に対して、「あれは偽りだ」と言われるかもしれません。

 「あなたがたは、その実によって彼らを見わけるであろう」とイエスは言われます。それぞれが結ぶ実によって、真実かそれとも偽りかが見分けられると言われるのです。良い木は良い実を実らせ、悪い木は悪い実を結ぶのです。結実を見れば、それが良い木か悪い木かが判別されるのです(16-18節)。こう語られるイエスは、ご自身が良い木(まことのぶどうの木)であり良い実を結ばせる者であることを宣言されました(ヨハネ15:5)。イエスの教え(神の言、御国の福音)を信じ、イエスにつながっているならば、その人(枝)は必ず実(良い実)を結ぶようにされるのです。「にせ預言者」は良い実を結ばせることはできず、その言葉に従い、その人につながっても良い実を結ぶことはできないのです。

 イエスは「あなたがたはその実によって彼ら(にせ預言者)を見わける」と言われますが、私たちは単に見分ける立場にあるだけでなく、見分けられる立場にもいることに心を留めなくてはなりません。「見わける(見わけられる)」といことですから、イエスにつながることによって結ばれる「良い実」は外側に現われてくるのです。それは私たちの生き方や生活に現われてくるもので、使徒パウロは「御霊の実」として紹介しています(ガラテヤ5:22-23)。

 但し「良い実」とは、イエスの教え(山上の説教)を実践し達成することで得られる成果ではありません。「主よ、主よ」と唱えながら自分の力で必死に良い実を結んでいくのではなく、良い木であるイエスが結ばせて下さるのです。実を結ぶために、私たちは良い木であるイエスを信頼し、自分自身を委ねるようにしてイエスにつながる必要があるのです。「天にいますわが父の御旨を行う」(21節)とは、イエスを救い主と信じ、イエスにつながることなのです。イエスは、「イエスを主である」と信じる私たちが「愛」という実を結んでいくことを願っておられますが、そのために私たちはイエスの愛のうちにとどまらなくてはならないのです(ヨハネ15:9-12)。

 世の中には、人々を引きつけ魅了する言葉があり、また人々を先導しようとする者たちがいます。イエス・キリストは、その中で真理を語る預言者・指導者の一人というのではありません。イエスは私たちの主であり、真の神、救い主なるお方です。イエスが、イエスを信じる(イエスにつながる)者に結ばせて下さる実をとおして、そのことを確信することができるのです。



2017年8月6日
説教題 「狭い門から」
聖書箇所 マタイによる福音書第7章13節~14節
説教者 安井 光 師

 イエスは、山上において群衆に説教を、「御国の福音」(4:23)を語ってこられました。説教を締め括るあたり、イエスは「狭い門から入りなさい」と聴衆を招かれたのです。

 「狭い門(狭き門)」とは、一般社会でもよく使われる言葉です。難関大学や一流企業への進学・就職が「狭き門」と呼ばれるのは、多くの人々がそこに入りたいと願うけれども、入ることができるのは限られた僅かな人だからです。イエスが言わんとされた「狭き門(狭い門)」とはそのようなものではないのです。門は開かれているのです。この門は「命にいたる門」だと言われます。すべての人が招かれているのです。誰でも入ることができるのです。しかし、入ることに躊躇する。ある種の入りにくさを覚えてしまう…。イエスが言われる「狭い門」とは、そのようなものなのではないでしょうか。

 山上の説教を読み返すと、それらを実践するのが容易なことではないと感じます。神の御心を求め、神を第一にして生きることは簡単ではありません。なぜ、「命にいたる門は狭く、その道は細い」のでしょうか。一方、「滅びにいたる門は大きく、その道は広い」と言われるのです。神がそうなさっておられるのでしょうか。そうではありません。人間の側で、命にいたる門・御国の門の前や周りに色々なもの(先入観・偏見・疑い・見栄・傲慢な思い・頑なな心・利己心・恐れetc)を置いて門を狭くし、自ら入りにくくしているのです。

 「狭き門」「命にいたる門」、また「細い」と言われる「道」とは、イエスに従う道であり、イエスご自身のことを指していると言えるでしょう。イエスは「わたしは門である。わたしをとおってはいる者は救われ…」(ヨハネ10:9)、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみことに行くことはできない」(ヨハネ14:6)と語られ、ご自分が人を永遠の命に導く唯一の道、またその門であると宣言しておられます。イエスに従う道には、困難や苦労があり、時に呻くこともあるでしょう。でもそこには救いがあり、神の祝福が約束されているのです。

 イエスご自身、狭い門を入り、細い道を通られました。それは十字架への道程です。私たち罪人を救うため、私たちを神の国に導き入れるために、イエスは狭い道を進んでいかれたのです。私たちが狭い門から入るということは、私たちのために十字架で死んでよみがえられたイエスに従うことであり、このお方を信頼すること、このお方にすべてを委ねることなのです。

 私たちは何も持たずありのままの姿で、この「狭き門」から入らなくてはなりません。アレコレ考えて疑心暗鬼になり門の外で立っているのではなく、「入りなさい」と言われる主イエスを信頼して、幼子のように自分を小さくし(マタイ18:3-4)、すべてを主に委ねて入ればよいのです。「狭い門から入りなさい」と私たちを招かれるお方は、私たちと一緒に狭い門から入り、そこを通っていかれるのです。主と二人では狭くて通れないのではないか…などと心配する必要はありません。狭き門ですが、主が共に行かれるので私たちはその門を入り進んでいくことができるのです。