聖日礼拝 2020年9月20日
説教題  「罪を犯した人間」
聖書箇所 創世記第3章1~21節
説  教 安井 光 師

 聖書は、人が神のかたちに創造された甚だ良いものであると同時に(1:26-31)、神に対して罪を犯した罪人であると伝えています(詩篇 14:1-3、ローマ 3:10-18)。人類の罪の起源はアダムとエバに遡ります◆アダムとエバはエデンの園で幸せに暮らしていました。神は二人に、「園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい」、ただ「善悪を知る木からは取って食べてはならない」と言われていました。ところが「へび」=サタン(黙示録 12:9、ユダ 6)が、神の言葉をゆがめ、また否定し、人の心に疑いを挟み込み、神への反抗心を抱かせようとしたのです(1、4-5 節)。エバはサタンに誘惑され、「食べると…きっと死ぬ」(2:17)と言われていた禁断の木の実を食べたのです。アダムも同じように食べて罪を犯し たのでした。

 禁断の実を食べた結果、アダムとエバの二人は「善 悪を知る者」となったのではなく、「目が開け、自分たちの裸であ ることがわかっ」て恥ずかしくなり、裸を隠そうとしました(7 節)。互いにやましさを覚えるようになり、神のことが急に怖くなって「神の顔を避けて…身を隠した」のです。神との関係が壊れてしまったのです。神が言われたとおり、二人は死ぬ者となったのです。神への信頼が失われたのです。神に背を向け、神を避ける結果、恐 れと不安が二人の心を支配したのでした。

 神はアダムとエバに罪を示されましたが、二人は自分の罪を素直に認めることができず、責任転嫁をしました(12-13 節)。私たち一人一人もアダムとエバと同じことをするのです。「あなたは罪人だ」と言われて嬉しい人はいませんし、罪の話を聞いて心地の良い人はいません。しかしこの現実と向き合わなくては、人は真に幸福には生きることはできません。罪に向き合うだけでなく、神に正しく向き直るのです。神はいつもこちらに御顔を向けておられ、「あなたはどこにいる か」と一人一人に呼びかけをなさるのです(9 節、参照ルカ 19:10)。

 神は罪のさばきとともに、贖いと回復の道筋をも示されました (15、21 節)。私たちは皆、アダムの性質を受け継いでいますし、現実に罪を犯すから罪人です。アダムにもたらされた死は避けられませんが、キリストは私たち罪人を神と和解させ、神への信頼と交わりを回復させて下さったのです。キリストは、アダムによる罪と 死の流れを断ち切り、義と永遠の命の流れに私たち罪人を導いて 下さるのです(ローマ5:12-21)。

聖日礼拝 2020年9月13日
説教題  「自分の日を数える」
聖書箇所 詩編第90章1節~17節
説  教 安井 光 師

 詩篇90篇は「神の人モーセの祈」です。モーセの晩年の作と考えられます。「われらのよわいは七十年…健やかでも八十年… その過ぎゆくことは速く、われらは飛び去る」とモーセは述べ、人 の一生の儚さを痛感しました。これはモーセの独白ではなく、「われら」とあるように、神の民を代表して神に告白しています。

 モー セはイスラエル民族の偉大な指導者ですが、また神を心から信頼する一人の信仰者でもありました。神は「世々われらのすみかでいらせられる」と確信し、どのような状況でも安んじていられました。それは信仰によるものであり、神は世界を創造なさる以前から神であり、永遠の神であるという真実に基づいていました(2節、出エジプト 3:14)。神にとっては千年も一時に過ぎないのに対し、人は70年、80年生きたとしても、死んで土に帰る有限な存在であることを覚えながら(4-7節)、神は人に語りかけられる方であり、人と向かい合う近しい関係にあり、親しい交わりを持たれることをモー セは知らされていたのです。

 モーセは80歳の時に神と出会いました(出エジプト3 章)。神との出会いは、モーセの人生に決定的な意味を与えました。もしも神と出会わなかったとしたら、「一生はただ、ほねおりと悩み」だったという思いを持ったまま生涯を閉じていたことでしょう。しかし神と出会い、神と交わりを持つように れてから、モーセは120歳で天に召されるまで神から与えられた 使命に生きる日を過ごしたのです(申命記34:7)。長寿を全うし、 大きな功績を遺すから、幸福な人生なのではありません。「み顔の光」で照らされ、罪を取り除かれて心健やかにされ、神との交わりに生かされるからこそ幸いなのです(8 節)。

 「おのが日を数え る」ことは、昨日今日と過ぎ行く日々を明日もまた同じように心空しく過ごすことではなく、神が与えて下さった人生、神が生かして下 さる一日一日を神の導きを祈り求めつつ歩み、恵みを数えながら感謝しつつ生きることではないでしょうか。クリスチャンの生涯は、 恵みを数えることの積み重ねによって作られていきます。恵みを数えるためには、神の導きを求め、神に委ねつつ生活することが求められるでしょう。モーセは、晩年にあって過去を省みるだけでなく、将来を望みながら主なる神に切に祈り求めました(12-17 節)。我らの望みは主だけにあります。年老いても、「神の人」として、困難な時代を生きる人々のために祝福を祈り続けたい。

聖日礼拝 2020年9月6日
説  教 安井 光 師

 神は人(アダム)を土(アダマ)から造られ、エデンの園に置か れ、食物として木の実を与え、地を耕させ、これを守らせられました(7—17 節)。すべてが整ったようでしたが、神は「人がひとりで いるのは良くない」と思われ、「彼のために、ふさわしい助け手」を 備えられました。

 神は野の獣や空の鳥を人の所に連れてきて、 それらに名を付けさせ、助け手を捜させました。けれども動物の中には、人にふさわしい助け手は見つかりませんでした(20節)。 動物はいにしえの時代から人間に飼われています。ペットは飼い主を慰め、家畜は飼い主の労働を手伝い産物を得させますが、「ふさわしい助け手」になることはできません。人間の補助的な役割を果たすものです。人間に支配される関係にあります。ふさわ しい「助け手(向かい合う者の意)」は、「神のかたち」に創造されたもの(27 節)、人格的な交わりを持ち、心を通わせ合うことができる 存在でなければなりませんでした。

 そこで、神は人=男の「あばら骨」を一つ取り、もう一人の人=女を造られました(21-22 節)。あばら骨は、心臓を守る大切な骨です。心臓は心を象徴するものであり、生命の源でもあります。その側にある骨から造られた助け手は、人と愛し合い心を通わせながら共に生きるに「ふさわしい」存在でした。人(男)は神が備えられた助け手(女)を喜んで迎えたのでした(23 節)。

 男性も女性も人生のパートナーとなる人は、神 が備えられた「ふさわしい助け手」であることを覚えなければなら ないでしょう。男と女の創造の物語に、聖書的結婚観が示されて います。結婚する時、人は父母を離れ、妻あるいは夫と結び合い、 一体とならなければなりません(24節)。家庭は夫婦関係を土台に築かれるのです。夫婦の交わりの中心に神がおられることを忘れてはなりません。夫婦は、互いに異なる人格と賜物を持つことを認 め合い、愛の交わりと信頼関係を深め、互いの不足を補い合いな がら実を結び 成熟を目指すのです。

 この奥義は、主イエスと私たち教会の関係をも示しています(エペソ 5:22-)。主は私たちの「ふさわしい助け手」ですが、主もまた御業を行うために私たちを 「ふさわしい助け手」として求められるのです。私たちは主と深 結び付き、密接な交わりを持たせていただく思います。主は私たちをひとりにしておかれません。私たちはまた主に結び合わされた兄弟姉妹として、互いに祈り合い、交わりを深めてまいりましょう。

聖日礼拝 2020年8月30日
説教題  「わたしを愛するか」
聖書箇所 ヨハネによる福音書第21章15節~25節
説  教 安井 直子 師

 主を三度も知らないと否定し裏切ったペテロを、イエスはどのように取り扱われたでしょうか。大きな失敗をしてしまったペテロにとって、どれ程大切な出来事であったかということと、イ エスの愛の大きさを覚えることができます。

 彼らが食事を済ませると、イエスはペテロに「ヨハネの子シモンよ、あなたはこの人たちが愛する以上に、わたしを愛するか」(15)と言われました。そこでペテロは「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存知です」と答えました。すると主はペテロ に「わたしの小羊を養いなさい」と言われました。もう一度主は 同じようにペテロにたずねられ、ペテロもさっきと同じように答 えました。イエスは「わたしの羊を飼いなさい」と言われました。そして三度目にもイエスは「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」とたずねられました。ペテロは主が三度も「わたしを愛するか」と言われたので心が痛くなり、「主よ、あなたはすべてをご存じです。わたしがあなたを愛していることは、おわかりになっています」と答えるのが精一杯でした。イエスはご自分のことを三回否定したペテロに、同じ数だけ「主よ愛します」と三回告白する機会を与えて、ペテロの信仰を立ち直らせようとしたのです。主は神の愛で私たちを包み、罪に気付かせて下さり、心の底から悔い改めるならば、神は私たちを新しく作り変えてやり直すことが出来る人生に導いて下さるのです。

 イエスはペテロに「わたしの羊を養いなさい」「わたしに従ってきなさい」と、キリストの羊の群れである「教会」を守り導く使命をお与えになりました。主はペテロに対して大切な使命を与えられたのです。しかし彼は振り返り、他の弟子(ヨハネ)のことが気になって、主に「この人はどうなのですか」とたずねました。するとイエスは「あなたとなんの係わりがあるか。あなたは、わたしに従ってきなさい」(22)と言われました。「誰かのことは 関係なく、あなたはあなたの使命を果たすこと。そしてわたしに従ってきなさい」と言われるのです。

 私たちの主に対する信仰は小さく持てる愛は欠けだらけかも知れません。しかし主は私たちの持てる精一杯の愛と信仰を喜んで受け入れて下さいます。神を愛し、自分の賜物に従って奉仕をし、神の使命 に生きる人生を歩む者とさせていただきましょう。

聖日礼拝 2020年8月23日
説教題  「人間とは何者なのか」
聖書箇所 創世記第1章26節~2章14節
説  教 安井 光 師

 「神のかたち」は、神のご性質を 指しています。三位一体の神は、本質的に愛のお方であり、交わりを持たれるお方です。神は人をご自分に似た者に造られ、 互いに心を通わせ、交わりに生きる存在とされたのです。男女の交わりは根源的なものと言えます(27節)。人間社会のあらゆる交わりに先立って、神と人との交わりがあるのです。私たちは神を 信頼し、神と交わりを持ちながら生きる者として造れているのです。私たちは神と交わりを持つことをとおして、自分の存在価値や生きる意味を知り、人生の目的を見出すことができるのです。

 人間が創造された時、神が「命の息をその鼻に吹きいれられた」 ことで、「人は生きた者」となりました。人間は「土(アダマー)」から造られた有限な存在ですが(3:19)、神の霊によって生かされる霊的な存在です。私たちは神に語りかけ(祈り、賛美など)、神 から語りかけられ恵みを注がれ(御言葉、御霊)、真に人間として生きることができるのです。神は六日で創造をなさり、七日目に休ま「人の命は地球よりも重い」と言われます。それは人間が他の生き物よりも優れているからでしょうか。人間は本当に尊い存在 なのでしょうか。「人間は何者なのか?」という問いが、私たちの心に生じます。私たちは人間の創造者である神に尋ね、答えをいただかなくてはなりません。

 「神は自分のかたちに人を創造 された」と言われます。神はご自分に「かたどって人を造」られたのです。芸術作品に作者の作風が表われるように、私たちは神 に似た者に、神の似姿に創造されているのです。神のかたちに造られた神の作品である故に、私たち人間は尊いのです。神は全被造物の管理を人間に託されました(1:26、28)。まことに驚きと感動を覚えます(詩篇 8:4-6)。
れ、この日を祝福し聖別されました(2:2-3、安息日の起源)。 礼拝において私たちは神と交わり、神は私たちの魂を満たされるのです。

 人類がこの世界を正しく治めることも、神との交わりを密にし、神の導きを求めていかなくては成し得ないでしょう。私 たちはまた自分の命や人生の賜物の管理を神から託されています。クリスチャンは、イエス・キリストによって新しく造られた神の 作品でもあります(エペソ 2:10)。神の最高傑作品として、神の愛と恵みを日々受け取りながら、神の栄光をほめたたえ、神の御業 を証しさせていただきましょう。

聖日礼拝 2020年8月16日
説教題  「永遠の命のパン」
聖書箇所 ヨハネによる福音書第6章22~40節
説  教 安井 満 師

 コロナ禍で日本中のイベントが規模縮小に追い込まれています。 教会も例外ではありません。ヨハネ福音書6 章は、主イエスの周辺でも群衆に変化があったことを伝えています。五千人のパンの給食は、群衆の目には大イベントに映りました。その真の意味を主イ エスから告げられた時、群衆は主イエスの側から離れていきました。

 パンの給食に与った群衆は、主イエスにパンの問題(経済問 題)の解決を期待しました。ユダヤの王になってローマの支配から 解放してもらいたい。働くことに意味を見出せる国家にしてほしい。 そのような期待が群衆にありました。パンの給食に込めた主イエス の真意を群衆は理解していませんでした。

 パンの給食は四福音書に記されていますが、ヨハネ福音書には聖餐の意味が込められています。23 節には、「主が感謝されたのちパンを人々に食べさせた場所・・・」とありますが、「主が感謝された」という言葉は、後の教会で「聖餐をともなう礼拝」を意味する固有名詞となりました。主イエスはパンを裂きながらご自分の肉が裂かれる十字架に思いを寄 せながら、パンの給食がなされたことをヨハネ福音書は伝えてい ます。

 パンを食べて満腹し、パンの問題の解決を期待する群衆に対して主イエスは語っています。「朽ちる食物のためではなく、永遠の命に至る朽ちない食物のために働くがよい」(27 節)と。ここで主イエスは朽ちる食物のために働くことを否定してはいません。朽ちている体(肉体)を支えるための食物の必要性を認めています。 そのために働くことを認めています。この地上の生活を否定的に考えているのではありません。むしろこの地上の生活を前向き・積極的に生き抜くためには、「永遠の命に至る朽ちない食物」を大切 にしなさいという勧めの言葉であります。

 「永遠の命に至る朽ちない食物」とは、「わたしが命のパンである」(35 節)と語られている主イエスご自身であります。さらに主イエスは、「わたしは天から下ってきた生きたパンである。それを食べる者は、いつまでも生きるであろう」(51 節)と語っています。この言葉に躓いた群衆は去って行きますが、ペテロは「主よ、わたしたちは、だれのところに行きましょう。永遠の命の言をもっているのはあなたです」(68 節)と踏みとどまっています。これはペテロの信仰告白であり、この告白を土台 として教会が存在しています。聖日礼拝での聖餐と聖書からの説教 こそが、永遠の命に至る朽ちない食物であります。

聖日礼拝 2020年8月9日
説教題  「神の創造された世界」
聖書箇所 創世記第1章1~31節
説  教 安井 光 師

 「はじめに神は天と地とを創造された」。聖書はこの御言葉で始まります。初めに神がおられたのです。すべては神から始まったのです。神は永遠なるお方です(イザヤ 44:6、黙示録 22: 13)。天地は自ずと生じたのではなく、神が創造されたのです。 神によって宇宙は存在し、世界の歴史は神によって開始されたです、

 聖書の原著者は、天地創造の出来事を目撃し、それを 記録したのではありません。天と地、生き物や人間が存在している事実から、これらを創造した方、すなわち創造主=神がおられると、神ご自身から啓示されたのです。「はじめに神は天と地とを創造された」と。偶然ではない、神が創造された世界に生 かされている事実を知る時、その人は価値観が変えられ、人生に明確な目的が与えられるのです。

 世界が存在しなかった時、 虚ろな状態で闇がありましたが、神の霊が全面を覆い、神の支 配が及んでいました(2 節)。神は、何もないところに光を生み出され、混沌とした状態に秩序を設けて光と闇を分けられました (3-5 節)。太陽や月やあらゆる天体を造られ、時間や季節の区分を設けられました。天と地を分けられ、海と陸を造られ、そこに植物や動物、あらゆる生き物を造られました(6-25 節)。神は最後にご自分に象って人間を創造なさったのです(26-27 節)。

 神は無目的に万物を創造されたのではありません。神は御言葉をもって天地を創造なさいました(3 節他、ヨハネ 1:1-3)。 神が創造された世界には神の意志が宿っており、被造物は存在の意義と価値を有しています。神が一つ一つ目的をもって、良いものとして造られたのです(31節他)。私たち人間においては言うまでもありません。世の中には科学的な数多くの学説がありますが、私たちは御言葉から神による創造を確信することができます(ヘブル 11:1-3)。

 神はこの世界を人間が神と共に生きる舞台として造られました(イザヤ 45:18)。神は人類に全被造物の管理を委ねておられます。各自の命も人生もそうです。そ れらの管理の仕方が問われています。創造者のご計画(目的)は何かを覚えなければなりません。私や周りの人々が、人間の思いではなく自分の思いのままにではなく、創造者なる神の 御心を知り、神の導きを求めて生活することができるようにと祈り つつ歩ませていただきましょう。

聖日礼拝 2020年8月2日
説教題  「芳しい香りのささげもの」
聖書箇所 ピリピ人への手紙第4章10~20節
説  教 安井 光 師

 パウロはピリピの教会からのささげものに感謝していました。贈り物を送られてただ嬉しかったのではなく、ピリピの信徒たちが伝道者の自分に心をかけ、ささげものによって福音宣教に共に参加してくれていたことを喜んでいたのです(10 節)。そのささげものは、神の受け入れられる「かんばしいかおり」であり、神の喜ばれる「供え物」でした(18 節)。

 パウロは教会からの経済援助を当てにしていたのではありません。パウロは天幕造りで生計を立てていた自給伝道者で(使徒行伝18:3)、「貧に処する道」も「富におる道」も両方知っており、「ありとあらゆる境遇に処する秘けつを心得て」いました。ユダヤ教徒だった頃は多くのものを持っていましたが、それらを手放しまた取られていくことで無一物になってしまうのではなく、むしろ豊かになり富むようになっていたのです(Ⅱコ リント6:10)。それは富んでおられるキリストと太いパイプでつながっていたことによりました。

 パウロの宣教は神の力によりましたが (13 節)、彼の働きを助ける同労者たちがおり、また背後で彼を祈り支えている兄弟姉妹たちがいました。ピリピの教会のささげものも、福音が前進し拡大し多くの実が結ばれるためになくてはなら ないものでした。ピリピの信徒たちはささげものをとおして、パウ ロの宣教の働きに参加していたのです(14-15節)。福音宣教は個人的なわざではありません。前線で働いているのは限られた人かもしれませんが、その働きを支える祈りがあり、働きを助けるささげものがあるのです。

 ピリピの教会からの愛のこもった贈り物は、神が受け取られ用いられるとともに、ささげた者たちに祝福となって戻っていく性質を帯びていました(17 節)。まさにそれは 「かんばしいかおりであり、神の喜んで受けて下さる供え物」でありました。私たちは福音宣教の働きのために様々なかたちでささげものをします。具体的な誰かを支援する献金であったとしても、 それは神に向けられており、神の許に届けられるのです。ささげものが私たちの信仰と一つになり、「かんばしいかおり」となって 天に立ち上るのです。

 感謝と愛を込めてささげる者たちを神はご自身の「栄光の富」をもって、すべての必要を「キリスト・イエスにあって満たして下さる」のです。ささげものを用いて飢え渇いた 人々を満たされ、ささげる私たちをも満たされるのです。主の御 業のために、芳しい香りのささげものをささげていきましょう。

聖日礼拝 2020年7月26日
説教題  「教会を信じる」
聖書箇所 エペソ人への手紙第1章15~23節
説  教 安井 光 師

 使徒信条には、父・御子イエス・聖霊についての信仰に続き、教会についての信仰が告白されています。私たちは「聖なる公同の 教会」を信じるのです。

 「聖なる」教会とは、教会は清らかな場所、神聖な建物ということでしょうか。清く正しい人間、聖人たちの集まるところでしょうか。そうではありません。「聖」とは神の属性を表わ 言葉です(イザヤ 6:3)。「聖なる」には、世のものと「区別する」「分離する」という意味があります。聖なる教会とは、神の主権で世 から召し出された人々を表わします。自分たちの理想や目的を実 現するためでなく、神の御旨により神のご計画に従って召し集め られた群なのです。

 キリストは、教会をきよめて聖なるものとするため、ご自身の花嫁として迎えるためにご自身をささげて教会を 愛されました(エペソ 5:25-27)。教会は聖なる神の宮であり、聖霊 が宿られ、聖霊が働かれる場です(Ⅰコリント3:16-17)。このことを 教会は自覚しなければなりません。神に明け渡し、御霊の導かれて生きることによって、教会をとおして神の偉大な恵みが世に証しされていくのです。私たちはそのことを信じるのです。

 「公同の 教会」は、原文では「エクレシア・カトリカ」という語句でカトリック教会を意味します。しかし私たちは、ローマ・カトリック教会を指して 「我は聖なる公同の教会を信ず」と告白するのではありません。地 上にはたくさんの教会があるけれども、使徒信条を告白する一つ一つの教会は、いずれも一つのキリストの体に属していることを 言い表しています。公同の教会は、全世界に全時代につながっているキリストの体を示しているのです。教会は多様な側面を持 ちながらも、「イエスは主である」という信仰のもとにキリストの体を形成しているのです。

 世に置かれている現実の教会を見ると、不完全で弱さを持ち、様々な問題や課題を抱えています。教会は赦された罪人の集まりとも言われます。しかしそんな者たちを神が 召されたことを感謝しており、召された神の恵みと愛と力に信頼し ているのです。それが世のものとは異なる教会の姿なのではないでしょうか。宗教改革者たちは目に見える地上の教会を「戦闘の教会」と呼び、目に見えない天の教会を「勝利の教会」と呼んで 仰ぎ見ていました。

 私たちが聖なる公同の教会を信じるのは、主 が教会を愛し、主が教会を聖なるものと見ておられるからにほか なりません。主の愛と召しに応え、完成を目指して進みましょう。

聖日礼拝 2020年7月19日
説教題  「主にあって」
聖書箇所  ピリピ人への手紙第4章1~9節
説  教 安井 光 師

 パウロは手紙の終わりにさしかかって、信仰生活における種々の勧告をしています。大事なのは「主にあって」するということです。「主にあって」または「キリストにあって」という言い回しは、パ ウロの手紙の中に40回以上使われています。聖書の一つ一つの勧告を受けとめる上での鍵の言葉でもあります。

 「主にあって」に は、「主につながって」「主に根ざして」「主に結びついて」という意味があります(ヨハネ15:1-5 参照)。「主にあって堅く立ちなさい」とパウロが命じるのは、次々と困難がクリスチャンを襲い、その生活や心を激しく揺さぶるからでした。私たちは激動の時代を生きています。世界が今後どうなるのか予測できない状況に、多くの人々が不安と恐れを抱いています。何を信頼するのかが問われます。堅く立つためには、堅固な土台が必要です。クリスチャンの土台は主イエス・キリストです(Ⅰコリント 3:11)。主を生活の基盤とし、主に信頼の根を張りましょう。主が私たちを堅く立たせて下さいます。

 パウロはユウオデヤとスントケに対し、「主にあって一つ思いになってほしい」と勧めました。二人はピリピの教会の中心的な信徒で、パウロと共に福音宣教のために労していた姉妹たちでした。イエスを愛する熱心さの故に、意見が衝突し仲違いしてしま ったようです。教会は一つ思いになることが求められます(ピリピ 1:27、2:2)。主が愛されたように互いに愛し合うことが、教会に与えられた第一の戒めであることを二人は心に留めなくてはなりませ んでした(ヨハネ 13:34)。多様化する社会にあっては、一つ思いになるのは難しいことですが「主にあって」可能なのです。

 「い つも喜びなさい」とパウロは教会全体に命じています。これもまた 「主にあって」成し得ることです。パウロはこの手紙の中で「喜ぶ」「喜び」という語を何度も用いています。パウロは獄中にいました が、「主にあって」心の深いところに喜びを湛えていたのです。喜べない現実が私たちを取り巻いていますが、すべてのことを打ち 明けることができる方がおられます。八方塞のような状況でも、天の扉は常に開かれています。信頼関係に基づく太い祈りのパイ プが主と結ばれているのです。主が私たちの心と思いを守り、平安で心を支配なさるのです(6-7節)。「主は近い(主が共におられる、主がやがて来られる)」と信じるからこそ、思い煩うことなく一つ 一つのことを「主にあって」していくことができるのです。