聖日礼拝 2021年2月21日
説教題 「アブラハムのささげた礼拝」
聖書箇所 創世記第22章1~14節
説  教 安井 光 師

 主なる神はアブラハムを試みられました。「愛するひとり子イサクを…燔祭としてささげなさい」と言われたのです。それはアブラハムにとって人生最大の試練でした。イサクはかけがえのない存在でした。生きがいそのものだったでしょう。アブラハムにとってイサクがどれほど大事なのかは、主が一番ご存知だったでしょう。主は、アブラハムが何を第一とするのか、アブラハムが真実に主を礼拝する者であるかを知ろうとされたのです。

 何故イサクをささげよと主が言われるのか、アブラハムには理解できなかったでしょう。しかしアブラハムは主を信頼し、イサクを連れてモリヤの山に出かけました。その行動は、ハランから主が示される地に旅立った時(12:1-9)や、子孫を星の数ほどに多くするという途方もない主の約束を信じた時(15:1-6)と変わらぬ態度でした。アブラハムはこれまでの人生を振り返り、主の恵みを一つ一つ数えながら、「主は真実である」と思わされたに違いありません。アブラハムは主にすべてを委ね、イサクを主にささげるのです(9-10 節、ヘブ ル 11:17-19)。

 主はアブラハムの真実な礼拝をご覧になりました(12節)。イサクをささげた行為は、アブラハムが自らを主にささげる献身を表わしています。主なる神はそのような礼拝を御子の十字架の犠牲をもって贖った者たちにも求めておられるのです。それは無理な要求ではなく、「理に適った礼拝」(ローマ 12:1 共同訳)です。主は私たちを試練に遭わせます。試練の中ですべてを主に明け渡すことも大きな試みでしょう。主は私たちを苦しめ、大事なものを私たちから奪おうとなさるのではありません。信仰の成長のために私たちを試みられるのです(Ⅱコリント 10:13)。

 主はアブラハムのために燔祭のいけにえを備えておられました(8、13- 14 節)。アブラハムはイサクを主にささげ、また主からイサクを返されることをとおして、イサクが主のものであることを悟るともに「アドナイ・エレ(主の山に備えあり)」という恵みを経験したのです。

 主なる神は、私たちを罪の支配から贖うために、惜しまずひとり子イエスを十字架で犠牲としてささげて下さいました(ローマ8:32)。私たちは主に贖われ、主のものとされています。主は人知を超えた祝福を備えておられます。ですから、自分の手にある大切なものも抱えている問題や課題も、すべてを主にお返しし明け渡しましょう。試みに遭う時lこそ、真実な礼拝を主にささげましょう。

聖日礼拝 2021年2月14日
説教題 「真実:神のご計画」
聖書箇所 創世記第21章1~21節
説  教 安井 光 師

主は真実な神です(Ⅱテモテ 2:13)。アブラハムとサラ、またハガルやイシマエルに抱かれたご計画にそのことが証されています。

主は「サラを顧み」られ、サラは男の子を出産しました。そのことはアブラハムとサラに対して主が約束しておられたことでした (1-2 節、15:4、17:16)。主は二人に対する約束を果たされた(ご計画を成し遂げられた)のです。アブラハムは生まれた男の子を「イサク」(「笑う」の意)と名付けました。「神がわたしを笑わせてくださった」とサラは喜び、主に感謝をささげました。

かつてアブラハムとサラは、主が告げられたことを信じられず笑い飛ばしたことがありました(17:17、18:12)。主が自分たちに子を賜わらないので、僕エリエゼルや仕え女ハガルの子イシマエルを後継者にしようとしたのです(15:3、16:2)。アブラハムの信仰は後継者問題で試みられ、不信仰に陥ることもしばしばでした。主は彼らの不信仰と不真実な態度にもかかわらず、アブラハムとサラに対するご計画を実行し実現なさったのです(箴言 19:21)。

アブラハムとサラは賞賛すべき信仰者ですが(ヘブル11:8-11)、自己中心的であり罪や過ちを犯しました。サラはイシマエルがイサクと遊ぶのを見ながら、イシマエルが後継者の座を横取りするのではないかと心配し、ハガルとイシマエルを追い出すようアブラハムに迫りました(9-10 節)。サラがハガルに命じてアブラハムの子イシマエルを産ませたのですが、アブラハムとサラは彼らを荒野に去らせたのです。

理不尽な対応ですが、主が許されたことでした(12 節)。主はハガルとイシマエルに対してもご計画を持っておらました(13、18節)。 主は祝福の継承者イサクだけではなく、イシマエルとも共におられ、彼を祝福されました。イシマエルは荒野に住む遊牧の民となるのです(イシマエルはアラブ人の父祖)。主はハガルに対しても真実な神であられました(17-19 節、16:10-13)。

主は私たち一人一人にご計画を持っておられます。それは私たちに平安を与え、将来と希望を与える祝福のご計画です(エレミヤ 29:11)。実現に至るまで、主が責任を持たれ全責任を負われます。主のご計画は只今進行中です。主は万事を益にして下さり、最善に導かれます(ローマ 8:28)。私たちは悩んだり思い煩ったりしますが、主は「心配することはない」と励まして下さいます。主の御顔を拝し、主の導きを仰ぎ求めつつ歩ませていただきましょう。

聖日礼拝 2021年2月7日
説教題 「アブラハムのとりなし」
聖書箇所 創世記第18章16~33節
説  教 安井 光 師

 主は旅人の姿になってアブラハムの天幕に行かれました。それはサラに男の子が生まれることを伝えるためでした(10 節)。主はソドムに向かおうとした時、ご自分がなそうとしておられることをアブラハムに明かされます。それは罪に満ちたソドムとゴモラに対するさばきに関することでした(16-21 節)。ソドムには甥のロト家族が住んでいました。アブラハムは、ロトに危険が迫っていることを知らせるためにソドムに向かうのではなく、主の御前に立ち、主に近づいてとりなしを始めたのです。

 「まことにあなたは正しい者を、悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。…あの町に五十人 の正しい者があっても…」とアブラハムは主に訴えかけました。主は「五十人の正しい者があったら、その人々のためにその所をすべてゆるそう」と言われました。尚もアブラハムは「もしそこに四十五人いたら」「四十人…三十人…二十人…十人いたら」と、まるで値切り交渉をするようにして主に訴えたのです(24-32 節)。不敬虔ではなく、主を恐れ、心から主を信頼していたからこそ、アブラハムは率直で大胆なとりなしを成し得たのです。アブラハムは、主が義なる神であることを知っていたとともに、寛大であわれみ深い方であると信じていたのです(参照エレミヤ 5:1)。

 クリスチャ ンも他者のためにとりなしの祈りをささげます。その人に心を向け、その人を心にかけているので、その人のための具体的な祈りとなるのです。主なる神はアブラハムと永遠の契約を結ばれ、この上なく親密で近しい信頼関係に彼を置かれていました(17:1-8、イザ ヤ 41:8)。イエス・キリストの十字架の贖われた者たちも、神との契約関係にあり、神と信頼関係に置かれています。主は贖われた者たちが、他者のためにとりなす祈りを心に留められるのです。私たちもまた、どなたかにとりなされて救いの恵みにあずかることができたのです。

 ソドムは滅びてしまいました(19:1-28)。でもアブラハムの祈りは聞かれなかったのではありません。ロトと娘たちが 滅びの中から救い出されました。主がアブラハムのとりなしの祈りを覚えておられてそうされたのです(19:29)。アブラハムのとりなしは、イエス・キリストのとりなしの雛形です(ルカ 23:34、ヘブル 7:25)。私たちのとりなしの祈りも、イエスによって天の父に確実に 届いているのです。家族や身近な人たちをとりなすことはもとより、コロナ禍にある世界の人々の救いのために祈り続けましょう。

聖日礼拝 2021年1月31日
説教題  「人となられた神」
聖書箇所 マルコによる福音書第1章9~13節
説  教 安井 直子 師

 イエス・キリストによって福音宣教が開始されようとしていましたが、その前に大事な二つの出来事がありました。この二つ出来事は、神の子イエスが人となって神のご計画を成就されたことを示しています。

 第一に、イエスがバプテスマのヨハネから洗礼を受けられたことです(9-11)。罪のない神の御子が、なぜ初めに「罪の赦しを得させる悔い改めのバプテスマ」を受けられたのでしょうか。罪に悩み苦しんでいる人間に、遠くから神様が「がんばれ、努力して天国まで来なさい」と言っても人は救われません。人は自分を救うことはできないのです。神様はそれをご存じで独り子イエスを罪人の中に遣わして下さったのです。それは罪に溺れている 私たちを救うためであり、イエスは罪人が受ける洗礼を受けて、罪人と同じ所まで飛び込んで来て下さったのです。イエスが洗礼を受けて水から上がられるとすぐ「天が裂けて、聖霊が鳩のように」イエスの上に降りました。神は天から「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」と宣言されました。三位一体の神の御姿が現わされました。イエスが神から遣わされた救い主であると共に、神に愛され、喜ばれているお方かがわかる言葉です。

 第二に、イエスは洗礼を受けて「すぐに」荒野でサタンの試みに遭われたことです(12-13)。「御霊がイエスを荒野に追いやった」とありますが、なぜイエスはサタンの試みに遭う必要があったのでしょうか。それは、神の僕として救いの計画(十字架の死と復活による救い)を成し遂げるために避けられない戦いでした。イエスは罪を犯されず御言葉によって誘惑に立ち向かう手本となられたのです(マタイ4:1-11)私たちの人生にも荒野と思えるような試練(誘惑)があります。「主ご自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練の中にある者たちを助けることができる」のです(ヘブル 2:18)荒野 には「獣」もいますが、「御使」がイエスに仕えたように、イエスを信じる者には神の守りと勝利が約束されているのです。

 人となられた神イエス・キリストは、私たちと同じに罪人の側に立って下さり、私たちの罪をその身に負われました。イエスは私たちの受けるべき罪のさばきを受けて十字架の死にも勝利されました。人生の中で試練を通されますが、サタンの試みに勝利されたイエスがいつも共におられます。私たちは恐れることはありません。このお方を仰いで日々歩んでいきたいと思います。

聖日礼拝 2021年1月24日
説教題  「罪の許しを信ず」
聖書箇所 エペソ人への手紙第1章7節
説  教 安井 光 師

 使徒信条にも告白されているように、「罪の赦し」とは、神が私たちに成される救いの最初にあり、また中心にある事柄です。イエス・キリストは、罪の赦しを得させる救い主として世に来られ(マタイ 1:21、ルカ 5:32)、使徒たちによって宣べ伝えられました(使徒行伝2:38、13:38)。私たちは罪の赦しによって、「聖なる公同の教会、聖徒の交わり」に加えられています。また罪の赦しをとおして、「身体のよみがえり、永遠の生命」の保証を得ているのです。

 イエスは罪が人類にとって最も深刻な病であることをご存知でした。罪の赦しは神にしか成し得ないことでしたが、イエスは中風を患う人に「人よ、あなたの罪はゆるされた」と言われ、中風を癒すことをとおしてご自分に罪を赦す権威が与えられていることを示されました(ルカ5:17-26)。また姦淫の罪を犯した女が、律法の規定によって裁かれようとしていた時、「罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」と言って女を守られ、「わたしもあなたを罰しない」と女に赦しの言葉をかけられました(ヨハネ 8:1-11)。これらの赦しの宣言は、イエス・キリストの十字架の犠牲に基づいています。イエスはご自分を十字架につけた者たちの 罪の赦しを祈られたのです(ルカ 23:34)。

 イエス・キリストの十字架の贖いによる罪の赦しは完全で徹底的な赦しです(エレミヤ 31:31-34、Ⅰヨハネ 1:7-9)。十字架で流される血をもって、罪の赦しを得させる永遠の契約を私たちと結ばれたのです(マタイ 26:28、ヘブル 9:11-15)。イエスの十字架の贖いによって、私たちは返済不可能だった罪の負債を帳消しにされたのです(マタ イ 18:27、ローマ 6:23)。イエスはご自分の命を十字架で犠牲としてささげ、その代価をもって私たちの罪を贖い、罪の重荷から私たちを解き放ち、まことの自由を得させて下さったのです。

 罪を赦された恵みは、神が私たちの罪を赦され、神と和解し神との関係が回復したこととともに、私たちが他者の罪を赦すことができるという複層的な恵みでもあるのです(マタイ 6:14-15、エペソ 4:32)。イエスは罪の赦しの福音を教会に託されました(ヨハネ 20:23)。福音を宣べ伝えること、イエス・キリストの名による罪の赦しを宣言することを使命として私たち罪赦された者たちに託しておられます。イエス・キリストによる罪の赦し(エペソ 1:7)を信じて日々歩ませていただきましょう。

聖日礼拝 2021年1月17日
説教題  「全能者の前を歩む」
聖書箇所 創世記第17章1~14節
説  教 安井 光 師

 主はアブラムが99歳の時、「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ」と語りかけられました。「全能の神」は、アブラムに「全き者」となることを求められたのです。主はご自分のように完全な者となることをアブラムに求めたのではありません。能力的意味や道徳的意味での完全ではなく、全能者なる主の御前を歩むこと、主の臨在を覚え、主に全幅の信頼を寄せて生きることを求めておられたのです。

 「全能の神(エル・シ ャダイ)」は、「乳房を持ちたもう神」とも訳すことができます。ある聖書学者は、「全能」とは「祝福を注ぎ出す力」と説明しています。赤ちゃんはお母さんのお乳をとおして祝福にあずかることができます。赤ちゃんにとってお母さんは全能の存在でしょう。必要なことは何でもしてくれます。赤ちゃんはお母さんを全く信頼しており、お母さんに完全に依存しています。一方、お母さんが赤ちゃんに求めるのは、自分の保護の許で元気にすくすくと成長することです。赤ちゃんとお母さんの関係に見られるように、神が人間に求 められる「全き」とは、神との関係における健全さであるのです。

  主なる神はアブラムと契約を結ばれました(2-8 節)。それは主が主導権を取られ、主が責任を負われる契約でした。主は「アブラハム(多くの国民の父)」という新しい名を与え、多くの子孫を得させ、カナンの地を永久の所有として与えることを約束されました。これは「永遠の契約」であり、アブラハムと家にいる男子は皆、奴隷たちまで「契約のしるし」として割礼を受けました(9-14 節)。後の子孫も子孫ではない者も皆、割礼を受けることによって神の民 に加えられたのです。

 主がアブラハムと結ばれた契約は、イエ ス・キリストにより新しい契約として私たちに受け継がれています (ローマ4章、ガラテヤ3章)。イエスを信じて洗礼を受けた者たちは、アブラハムに約束された祝福を受け継ぐ者とされています。 洗礼が神の子・神の民とされた契約のしるしです。「あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ」と主がアブラハムに語られ、アブラハムが「ひれ伏した」(3 節)とあるように、私たちには主を全く信頼し主に聞き従うことが求められています。主の契約を感謝し、主との生きた交わりを日々絶やさずにいましょう。コロナ禍において人間の無力さを痛感しますが、全能者なる主の御顔を拝し、主の愛と恵みの御力によって歩ませていただきましょう。

聖日礼拝 2021年1月10日
説教題  「泣かないでいなさい」
聖書箇所 ルカによる福音書第7章11~17節
説  教 安井 光 師

 イエスは弟子たちとナインに行かれました。大勢の群衆も一緒でした。町の門の近くに来た時、葬列と鉢合わせになりました。癒しの奇跡(10節)を目撃した群衆は、歓喜に満ちてイエスについて来ていたことでしょう。けれども葬列に対面した時、群衆は声を落とし、悲痛の雰囲気に包まれたのではないでしょうか。寡婦にとってのひとり息子が死んだのです。

 町の大勢の人々は寡婦に付き添い、涙を流してその死を悼みました。しか し死の悲しみを解決する力にはなりませんでした。人間がどんなに大勢よってたかっても、解決することできないのは死の問題です。名医であっても、死を前にしている人を救うことはできません。どんなに大きな権力や知恵や富を持ってしても、死に抵抗することはできない、死の列に連なるほかないのです。

 イエスは寡婦をご覧になり、「深い同情を寄せられ」、「泣かないでいなさい」と言われました。死の悲しみに泣き伏す者に対して、イエスは「泣かないでいなさい」と言われるのです。泣くことを禁じておられるのではありません。もう泣き続ける必要はないと言われるのです。イエスが悲しみ泣く者の涙を拭われるからです。

 イエスは寡婦の信仰は問題にされません。ただ寡婦を深く同情された(深く憐れまれた)故に、イエスは近寄って棺に手を置いて葬列を止め、「若者よ、さあ、起きなさい」と言わ れました。すると息子は起き上がり(生き返り)、母の手に渡されるのでした。人々は、「神はその民を顧みてくださった」と歓喜の声をあげ、主を賛美しました。主イエスは死人を生き返らせ、 悲しみを喜びに変えられたのです。

 死んだ者に向かって「起きなさい」と言われるイエスは、私たちを悲しませ、絶望に追いやる死の力に勝利して下さいました。イエスは十字架の死なれ、三日目に死人のうちよりよみがえられて、死に勝利されたのです。死人の列に身を置かれ、眠っている者の初穂としてよみがえられた主は、私たちにも復活の希望を与えて、死に対する勝利を得させて下さるのです(Ⅰコリント 15:20-58)。

  私たちに深い同情を寄せられ、「泣かないでいなさい」と言われる主イエスは、私たちの目から完全に涙を拭いとって下います(黙示録 21:3-)。だから、人生に悲しみや憂いがあり泣くことがあっても、主に望みを置いて歩ませていただきましょう。

聖日礼拝 2021年1月3日
説教題  「わが魂よ、主をほめよ」
聖書箇所 詩編第103編1~5節
説  教 安井 光 師

 詩篇は、神に向ってささげられた賛美であり、祈りの言葉です。「わがたましいよ、主をほめよ」と、詩篇の記者は賛美しています。 自分の心・魂に向って、「主を賛美せよ」と促しています。賛美は周りから「しなさい」と言われてするものではなく、内側から涌いてくるものです。ただ自然発生的に生まれてくるのでなく、「主を賛美せよ」と自分の心に訴えて、意志的になされるのです。

 賛美をするのは口だけではありません。「わがうちなるすべてのものよ …」とあります。賛美は口先から出てくるものではなく、私たちの魂から、体全体・全神経から発せられるのです。私たちの心と信仰、生活をとおして生まれてくるのです。楽譜どおり上手に賛美歌を歌っていても、それで賛美となるのではありません。真心から信仰をもってささげるからこそ、神に届く賛美となるのです。自然界の生き物らも、その存在をもって神を賛美しているかもしれません。しかし心の奥底から、「たましい」から賛美をささげるのは私た ち人間だけです。

 マリヤは、「たましい」から賛美を神にささげた人でした(ルカ1:46-55)。神は処女マリヤを選んで、その胎内に神の御子(救い主)を宿らせなさいました。その告知はマリヤにとって信じ難く、受け入れ難いことでした。神の計画は彼女の思いや考えを超えていたからです。しかし彼女は全知全能の神を信頼して、「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救主なる神をたたえます…」と主を賛美しました。「この卑しい女をさえ、心にかけてくださった」「力あるかたが、わたしに大きな事をしてくださった」 …。主の恵みを心にとめた時、彼女の内側から賛美が溢れたのです。

 主をほめたたえる、主を賛美するとは、私たちが「主を大きくする」ことです。神は偉大な方ですからそうされて当然ですが、 罪深い性質を生まれながらに持つ私たち人間にはなかなかそうできません。自分を大きくして(傲慢になって)、主の恵みを心にとめることができないのです。私たちは、本当は小さく弱く卑しい者たちです。しかし神はそのような私たちを「わが目に尊い」と言い、 私たちの罪のために御子を救い主として与えて下さったのです。

 これらの主の恵みを心にとめると賛美が沸き起ってきます。主の恵みは過去や現在の事柄だけでなく、将来、主が私たち成そうとしておられる大きな約束(3-5節)も含まれます。一つ一つの恵 みを心にとめ、主を賛美しつつこの年も歩ませていただきましょう。

聖日礼拝 2020年12月27日
説教題  「私を顧みられる神」
聖書箇所 創世記第16章1~16節
説  教 安井 光 師

 ハガルは、アブラムの妻サライに仕える女奴隷でした。主はアブラムを祝福し、彼の子孫を星の数のようにすると約束されましたが、いまだ子が与えられないでいました。サライは主が自分に子を授からないので、ハガルによって子を得ようとアブラムに持ちかけました。アブラムはハガルの提案を聞き入れました。ところが、 ハガルはアブラムの子を身ごもると、サライを見下げるようになりました。サライは嫉妬し、アブラムに怒りと不満を爆発させました。 アブラムが無責任な態度をしたので、サライはハガルをいじめるようになりました。ハガルは苦しみに耐えきれず、サライの許から逃げ出しました。

 ハガルは弱い立場に置かれ、アブラムの家庭問題に巻き込まれ、やりきれない思いだったでしょう。ハガルは身重の体で孤独に荒野をさ迷うのです。主はそんなハガルを顧みられておられました。主は「サライのつかえめハガルよ」と語りかけられ、彼女に対して自分が何者であるのかを問われ、自己の所在を確認させられました(8 節)。ハガルをサライの仕え女としてアブラムの家に置いておられたのは主だったのです。「あなたは 女主人のもとに帰って、その手に身を任せなさい」と主はハガルを諭されました。主はハガルがサライの仕え女として生きる道に祝福を備えておられたのです(10-11 節)。「あなたはエル・ロイ (わたしを顧みられる神)です」とハガルは主に信仰を告白し、主 人サライの許に戻り、イシマエルを出産するのです(13-16 節)。

 アブラムやサライやハガルの人間模様に、私たちは自らの姿を映し見るのではないでしょうか。弱く愚かで自己中心かつ不誠実な姿を見させられ、失望するかもしれません。たとい私たちが失望し絶望したとしても、主なる神は私たち罪人の世を見放さず見 捨ててはおられません。主はどんな人にも、またその人が置かれているいかなる状況にも御目を注いでおられます。あなたがこれまで歩んできた日々も、今置かれているところも、これから後の将来も、すべては主のご支配にあり、主の導きの御手の中にあります。主は私たちに抱いておられる祝福のご計画を実現するために、私たちの人生を導かれるのです。私たちに注がれている主の愛の眼差しを心に留め、すべてを主にお任せしたいと思います。「あなたはわたしを顧みられる神です」と主に呼びかけ、主 を仰ぎ見つつ歩ませていただきましょう。

聖日礼拝 2020年12月20日
説教題  「私たちに与えられた喜び」
聖書箇所 ルカによる福音書第2章1~20節
説  教 安井 光 師

 クリスマスは「すべての民に与えられた大きな喜び」の日ですが、イエス・キリストの降誕の記事を読むと、そこには戸惑いや恐れがあり、また喜べない状況があったことが分かります(ルカ 1:26-、マタイ 1:18-)。

 マリヤとヨセフに対してなされた告知は、人間の常識を超えた驚くべき内容で、信じ難くまた受け入れ難いものでした。二人は恐れ戸惑いつつも、自分たちに語られた神のメッセージを信じたのです。皇帝の勅令により、ヨセフと身重のマリ ヤは住民登録をするために遠路はるばる旅をしました。やっとの思いでベツレヘムに辿り着くと宿屋はどこもいっぱいで、マリヤは家畜小屋で出産し、初子を飼葉桶の中に寝かせました(1-7 節)。 喜べない状況でしたが、マリヤとヨセフはわが子の誕生を喜び、 その幼子が聖なる神の御子であり、救い主となることを喜んだことでしょう。

 今年私たちは例年と違うクリスマスを過ごしています。 コロナ禍で喜べない状況が続いています。神は、憂いのある所や喜びの見出せない状況に真の喜びをもたらすために、御子をお与えになったのです。御子イエスは、悲しみや憂いを心に抱 えている者たちに、真の喜びを与えるために救い主としてこの世 に来られたのです(イザヤ 61:1-、ルカ 4:16-)。

 救い主降誕の知らせは、まず羊飼たちに告げられました。羊飼は「地の民」と呼ばれ、人々から蔑まれていました。そんな彼らの許に神の喜びが届けられたのです。それは「福音」(喜びをもたらす知らせの意)でありました(10-12 節)。羊飼らは天使から福音を聞かされると、救い主として誕生した幼子に会いに出かけました。そして飼葉桶の中に寝かせてある幼子イエスを捜しあてました。羊飼らは喜びに心を満たされたばかりか、その喜びは他の人に伝える言葉となり、 神をたたえる賛美となって、彼らの内側から溢れ出たのです(17、 20節)。

 羊飼は私たち人間の象徴的な存在です。人は誰でも、内側に卑しい思いや憂いを持っています。世の何ものによっても埋 められない虚しさを心に抱えています。そんな私たちの心を真の喜びで満たすために、イエスは救い主としてお生まれになったのです。私たちは神からの大きな喜びのプレゼントを受け取りま しょう。心の真ん中にイエス・キリストをお迎えして、この喜びにあずからせていただきましょう。救い主イエスは私たちの心を喜び で満たし、私たちの人生を導いて下さいます。