2018年6月10日
説教題 「百倍の実を結ぶ良い地」
聖書箇所 マタイによる福音書第13章1節~23節
説教者 安井 光 師

 教会の伝道の働きは「種蒔き伝道」と言われたりします。実にイエスご自身の宣教が「御言(福音)」の種蒔きでした。イエスは御許に集まった群衆に対し、「耳のある者は聞くがよい」と言われ、御言をどう受け取るべきなのかを種蒔きの譬を用いて説明されました。

 種蒔きが種を蒔きました。ある種は「道ばた」に、ある種は「石地」に、ある種は「いばらの地」に、ある種は「良い地」に落ちました。足で踏み固められた道端に落ちた種は、芽を出すことができず、鳥に食べられてしまいます。石地に落ちた種は芽を出しましたが、根を降ろすことができず枯れてしまいます。茨の地に落ちた種は地に根を降ろしますが、茨に塞がれて実を結べません。良い地に落ちた種は、すくすくと成長し豊かに実を結ぶのです。

 四つの所に蒔かれた種は、同じただの一粒でしたが、良い地に蒔かれた種は「百倍…六十倍…三十倍」もの実を結んだのです。蒔かれた「種」とは「御国の言」「御言」でした。イエスは一人一人の心に御言の種を蒔かれるのです。イエスの御言を信じて心に受け入れた人(弟子たちやイエスに従った人々)は、百倍ともいうべき人生の一大変化を経験したのです。イエスの御言、またイエスご自身には永遠に至る祝福の実を結ばせる命と力がみなぎっているのです(ヨハネ1:1-、12:24)。

 偏見、先入観、知識、自分の考えによって固められた心では、御言を聞いても「天国の奥義」を悟ることはできません(道端)。単なる教訓として御言を聞いていては、御言は心に根を降ろさず、人生に生きて働くことはできません(石地)。御言が心に奥底(魂)に語られているのに、生活のことで思い煩い、信仰の目が塞がれてしまうと、神の豊かな祝福を味わうことができないのです(茨の地)。罪の問題、生活の問題、死の問題も、イエスが解決を与えて下さいます。御言がその証(約束)です。御言を「良い地」に宿すことが求められるのです。

 「良い地」とは「御言を聞いて悟る人」であり、その心は神に明け渡され、神によってよく耕されています(マタイ5:3を参照)。御言を受け入れる砕かれた柔らかな心です。私たちは畑の主人や所有者であるのではありません。主イエスこそが畑の主人であり収穫の主であって、私たちは主の畑の働き人であり、また主の畑そのものでもあるのです。ですから自らを主に明け渡したいと思います。主が良い地として下さり、百倍の祝福の実を結ばせて下さいます。

2018年6月3日
説教題 「イエスの家族」
聖書箇所 マタイによる福音書第12章46節~50節
説教者 安井 光 師

 イエスが群衆に教えを語っておられた時、イエスの母マリヤと兄弟たちがイエスと話すためにやってきました。すでに親族らはイエスの気がおかしくなったのではと思い、イエスを取り押さえにもきていました(マルコ3:21)。マリヤらにとってイエスは大切な家族でした。息子であるイエスのことを心配し、イエスを呼び戻そうとしたのかもしれません。

 マリヤはイエスが神の御子であり、キリスト(油注がれた者=救い主)であることを知っていました(ルカ1:36-)。ところが、マリヤは〝わが子〟という情をイエスに抱くようになり、人間的な絆でイエスを自分と結び付けていたのです。血縁による絆は尊いものです。血縁は家族の中心にあるもので、あらゆる人間関係の中で最も太く強く深い結び付きと言えます。しかしこの結び付きが絶対化されてしまうと、本来第一とされなくてはならない神との関係を正しく結ぶことができなくなるのです。

 イエスは弟子たちを指しながら、「ごらんなさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる」と言われました。「天にいますわたしの父のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、また姉妹、また母なのである」と、血縁や人間的な結び付きを越えた神による新しい関係を示されました。イエスの父である神の御心を行う者とは、イエスを神の御子キリストと信じて、イエスを心に迎える人です(ヨハネ6:38-40)。イエスはそれらの人たちを兄弟姉妹、神の家族と呼ばれるのです。私たちはイエスによる契約と信仰をとおして神の家族の輪に加えられ、イエスの家族とされるのです(ヨハネ1:9-13、ガラテヤ4:4-7)。

 「天の…父のみこころ」は、私たちがイエスの愛のうちにとどまって、神を愛し、隣人を愛し、互いに愛し合うことも含まれています(ヨハネ15:9-17)。まことの神を知らず、互いに無関係で愛の無かった者たちが、そのような愛に生きるようにされていくのです。このことが、ただ神の恵みにより信仰によってなされていくのが、イエスの兄弟姉妹であり、イエスの家族なのです。

 イエスは母マリヤを捨て、肉の兄弟たちと縁を切ったのではありません。イエスは十字架上で弟子ヨハネにマリヤを託しました。また兄弟たちはイエスの昇天後、イエスをキリストと信じて真の意味での家族とされたのです(使徒行伝1:14、実弟ヤコブは初代教会の指導者となった)。私たちの肉の家族関係も、イエスによって新しく結び付けられることをとおしてより良くされていくのです。 

2018年5月27日
説教題 「しるしを求める時代」
聖書箇所 マタイによる福音書第12章38節~45節
説教者 安井 光 師

 律法学者とパリサイ人たちはイエスに「しるし」を求めました(38節)。神の国の到来を告げるイエスが本当にキリスト(メシヤ=油注がれた者)であるのか、その証拠を求めたのです。既にイエスは大勢の群衆の前で様々なしるし(奇跡―病人の癒しなど)を行ってこられました。パリサイ人らもそれを目撃していましたが、彼らは一向にイエスを信じようとしなかったのです(14、24節)。

 「邪悪で不義な時代は、しるしを求める。しかし、預言者ヨナのしるしのほかには、なんのしるしも与えられないであろう」とイエスは言われました。ヨナは三日三晩、大魚の腹の中にいましたが、神によって大魚の腹から出されました。そのヨナがニネベの人々にとってしるしとなり、ヨナの宣教によってニネベの人々は罪を悔い改めたのです(ヨナ3章)。「ヨナにまさる者がここにいる」と、イエスはご自身が十字架の死から三日目に復活する出来事こそ神のしるしだと暗示なさり(40節)、御国の福音を信じることを求められたのです。

 当時、イエスがなされた奇跡を目の当りにした人々は大勢いましたが、イエスを信じたのは十二弟子たちと僅かな人々でした。目の前で幾つもの奇跡を目の当りにした弟子たちでさえ、それらによってイエスを信じ切ることはできなかったのです。イエスが十字架で死なれ復活され、聖霊が注がれた時、彼らはイエスがキリストであることを大胆に証するようにされたのです(使徒行伝2章)。かつてはパリサイ人の先頭に立ってクリスチャンを迫害していたパウロも、十字架と復活による贖いを宣べ伝える宣教者となりました。イエスの十字架こそ神の知恵と悟ったのです(42節、Ⅰコリント1:18-25)。

 神の国、神の救いの恵みは、イエスによって私たちの世にもたらされたのです。私たちは自分の知恵や力で体裁を整えようとするのでなく、また目に見えるしるしばかり求め続け、他のもので埋め合わせようとするのでなく、イエスを心に迎え入れ、聖霊によって満たされる必要があるのです。決して「汚れた霊」(「肉の欲」―ガラテヤ5:16)に心を明け渡してはなりません(43-45節)。イエスの救いの恵みを証しするしるしとして聖霊が与えられています(ヨハネ15:26)。聖霊は御言葉を示し、イエスの救いを私たちに証ししています。「見よ、ヨナにまさる者…ソロモンにまさる者がここにいる」と。

2018年5月20日
説教題 「御霊によって歩む」
聖書箇所 ガラテヤ人への手紙第5章16節~26節
説教者 安井 光 師

 「御霊によって歩きなさい」とパウロは私たちに命令しています。パウロがこう命じるのには根拠がありました。私たちイエス・キリストを信じる者には御霊(聖霊)が注がれており、私たちの内側には御霊が与えられるからなのです(ガラテヤ4:6)。
 
 ペンテコステにイエスの弟子たちや祈っていた人々に御霊が降りました。御霊によって弟子たちはイエスがキリスト(救い主)であることを大胆に証し始めました。ペンテコステの日だけで、三千人もの人々が罪を悔い改め、イエスを救い主と信じてバプテスマを受け、教会が誕生したのです(使徒行伝2章)。御霊なしには、教会の存在はあり得ませんし、クリスチャンは存在し得ないのです。

 しかしながら、私たちは御霊ではなく「肉の欲」「肉の欲するところ」(本能的欲望、自己中心的性質)に従って生活していないでしょうか。御霊と肉は共存(共立・共生)できないので、私たちの内側では霊的な格闘が起こります(17節)。例えば隣人を愛する場合(13-14節)、愛さねばと思っても、相手に辛く当たられたり嫌な態度をとられたりすると、怒りや敵意や憎しみという抑えられない感情が湧いてきます。その感情を正しく処理し愛に生きるためにも、御霊によって歩むという選択をしなくてはならないのです。

 もしも肉の欲するところに従って生きるならば、尚 罪と律法の支配下に身を置くことになってしまうでしょう。しかし私たちはイエスの十字架の贖いによって救われ、神の恵みの支配のもとに生かされているのです。罪の奴隷ではなく、罪の鎖を解かれ、悪魔と律法の檻から出たのです(24節、ガラテヤ5:1)。このことを認めて、元の所(「肉の欲」⇒「肉の働き」)に留まるのではなく、そこから全く解き放たれて御霊に身を委ねなくてはなりません。

 御霊によって歩むならば、「愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制」という実が結ばれます。私たちが働くのではなく、御霊が働かれるのです。御霊に導かれて歩むその生活の中で、私たちはこれらの神の祝福にあずかることができるのです。隣人への愛(慈愛)も御霊が私たちに実行させて下さるのです。

 人間の思いも力も及ばない困難な問題や課題に、御霊は働いておられ御業を成して下さいます。御霊は私たちの助け主であり慰め主なるお方です。私たちは御霊によって生かされ導かれているのですから、命じられるままに御霊によって歩ませていただきましょう。 

2018年5月13日
説教題 「その石をとりのけなさい」
聖書箇所 ヨハネによる福音書第11章17節~44節
説教者 安井 直子 師

 ヨハネによる福音書・七つのしるしの最後である第七のしるしが今日学ぶラザロの生き返りの奇跡です。このしるしはイエスを十字架につける決議を引き出す直接の契機になった出来事です。またイエスの自己紹介(エゴ-・エイミ)をこれまでのように譬えではなく、「わたしはよみがえりであり、命である」(25)と宣言されました。

 イエスの友であったラザロは病に倒れ、瞬く間に亡くなってしまいました。イエスがラザロの所に訪れたのは、彼が死んで墓に葬られ四日も経ってからでした。ラザロの姉妹マルタとマリヤは愛する兄弟を失い、まことにやりきれない様子です。マルタもマリヤもイエスに「主よ、もしあなたがここにいて下さったなら、わたしの兄弟は死ななかったでしょう」(21・32)と訴えました。しかしイエスは「あなたの兄弟はよみがえるであろう」(23)と告げられます。そして「あなたはこれを信じるか」と尋ねられました。イエスは姉マルタに、ご自身がラザロを生き返らせることを信じるか、その御業に期待する信仰があるかを問われました。しかしマリヤや一緒にきたユダヤ人たちが泣いているのを見て、イエスも涙を流されました。主は死の支配下にある人間を憐れみ、私たちのために涙を流して下さるお方です。

 イエスはラザロの墓に行かれ、「石を取りのけなさい」と言われました。先に「主よ信じます」と言ったマルタも「主よ、もう臭くなっております。四日もたっていますから」(39)とやっぱり常識的に考えて答えます。しかしイエスは語られます「もし信じるなら神の栄光を見るであろうと、あなたに言ったではないか」(40)と。口先だけで立派なことを言うのではなく、私たちの常識を超えて語られるイエスのお言葉に従えるかどうかが、試されます。取り除くべきは私たちの心にある人間的常識と不信仰の石なのです。

 人々はイエスの言われる通りに石を取りのけました。イエスは天を仰いで父なる神に祈られた後、大声で「ラザロよ、出てきなさい」と叫ばれ、その声に従って、ラザロが墓から出てきました。死んでいたラザロが生き返ったのです。

 主はこの奇跡を通してイエスの十字架と復活を信じる私たちにも、永遠の命を与え、死に対する勝利を得させて下さる神であることを教えています。私たちもこのイエスを信じる者となりましょう。

2018年5月6日
説教題 「神の国は来ている」
聖書箇所 マタイによる福音書第12章22節~37節
説教者 安井 光 師
 
 イエスは「悪霊につかれた盲人で口のきけない人」を癒されました。群衆は皆驚いて、「この人が、あるいはダビデの子ではあるまいか」と期待しました。ところがパリサイ人たちは、「この人が悪霊を追い出しているのは、まったく悪霊のかしらベルゼブルによる」とそれを打ち消し、イエスの働きを無理矢理サタンと結び付けたのです。イエスはパリサイ人たちの言っていることの矛盾を示されました(25-27節)。イエスは「神の霊によって悪霊を追い出して」おられたのです。このことは、イエスが確かにダビデの子、キリスト(油=御霊を注がれた者)であること、またイエスによって神の国が到来したことを証明する出来事だったのです。

 「神の国」とは「神の支配」を意味します。神の支配(神の救い)がこの世界にイエスによってもたらされたのです。イエスはサタンのかしらを縛り上げ、サタンの虜にされている者(罪人)を奪い返し、その支配から解放して神の支配に導き入れるお方なのです(29節)。私たちはイエスによって神の国が来たこと、いま神の支配が私たちに、私たちのすべての領域に及んでいることを知らなくてはなりません(詩篇139:1-10)。この世界や自分の身の周りに起こる出来事、幸いなことも災いと思えることも神の支配の下にあること、神がそれら事柄に関わりを持っておられることを覚えたいと思います。

 神の支配を認めず、聖霊の働きと導きを受け入れないパリサイ人や群衆の態度をイエスは憂いておられました(30-32節)。神の支配は、イエスによって聖霊をとおして現実のものとして、今 私たちに臨んでいます。イエスを救い主と信じて歩み始めた生涯、イエスを信じて歩む生活の中で、神の支配を受け入れること、聖霊の導き仰いで生きることが求められるのです。自分の思いのままにではなく、神を意識しながら、御霊の臨在を覚えながら生活していくのです。

 イエス・キリストは、今尚 御霊によって私たちと関わりをもたれ、愛をもって私たちを導いて下さるお方です。聖書を読む時、日常の出来事やそこにある問題や課題に、私たちは信仰の目を注いで丁寧に観察(黙想)しながら、神の恵みと救いがそこにあることを確認し、救いと恵みを味わい知りたいと思います。イエスの愛のご支配の下に私たちが生きるなら、必ず祝福の実が結ばれていくのです(33節、ヨハネ15:5-11)。神の国は来ているのです。

2018年4月29日
説教題 「独り子イエス・キリストを信ず」
聖書箇所 マタイによる福音書第章13節~20節
説教者 安井 光 師

 神が万物の創造者であり全能者であることを信じるのは難しくないかもしれませんが、歴史上のイエスその人を神として信じるのは易しいことではありません。しかしイエスを「神の子キリスト」と信じる信仰なしにキリスト教はあり得ませんし、キリスト教信仰はこの信仰の上に成り立っています。そのことがペテロの信仰告白の記事にも示されています。
 
 聖書は、イエスが「神の独り子」であり、天の父である神を現されたこと(ヨハネ1:18)、神は独り子を世に遣わされ、彼によって救いを成就されたことを証言しています(ヨハネ3:16、Ⅰヨハネ4:9)。またイエスご自身、神を父と呼ばれ(ヨハネ17章他)、神もイエスを子と呼ばれました(マルコ1:11)。主イエスによって救われたパウロは、「神の御子を信じる信仰によって、生きているのである」と(ガラテヤ2:20)証ししています。

 神の独り子は、聖霊によって身籠もったマリヤとダビデの家系だったヨセフの子として生れました。「彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となる」という神の約束を信じて、二人は幼子の名を「イエス」(神は救いの意)と名づけました(マタイ1:18-)。イエスは十字架と復活により世の罪の贖いを成し遂げて、人々から「キリスト」(油注がれた者・救い主の意)と呼ばれたのでした。誰でもイエス・キリストの御名を信じる人々は、神の子とせられ、神の命によって新しく生きる者とされるのです(ヨハネ1:12、Ⅰヨハネ5:1)。

 ローマ皇帝が世を支配していた頃、皇帝は自分のことを「主(キュウリオス)」と呼ぶことを人々に強要し、人々は彼を主と崇めていました。しかしクリスチャンは、迫害を受けながらも命がけでイエスを「我らの主」と告白したのでした(ローマ10:9)。彼らは、平穏無事な生活を送っている時だけイエスを主と崇め、また困難な時だけイエスを神として信じたのではありませんでした。順境の時も逆境の時も変わることなく、イエスを我が主、我が神と崇めたのです。そしてイエスは彼らの救い主として、彼らを助け、守り、祝福されたのです

 イエスは日々私たちに、「あなたがたはわたしを誰と言うか」と問われます。私たちは聖霊に委ねて、あなたこそ、我らの主、我らの神、我らの救い主ですとお答えしようではないでしょうか。主はこの信仰告白の上に、ご自身の教会を建て、私たちの人生を形成して下さるのです。黄泉の力、死の力も、この信仰に打ち勝つことはできないのです。

2018年4月22日
説教題 「よい羊飼であるイエス」
聖書箇所 ヨハネによる福音書第10章1節~18節
説教者 安井 直子 師

 主イエスはユダヤ人たちに対して「羊の囲い」の比喩を話されました。しかし彼らはイエスが何を言おうとしておられるのか、その意味を正しく理解することができませんでした。そこでイエスはご自分について「わたしは羊の門である」と言うことを語られています。それはご自分こそが羊の安全を保障し、羊を保護する「門」であるということです。そしてイエス・キリストという「門」を通って「羊の囲い」(神の国・神の支配)に入る者は救われ(神と正しい関係になる)、牧草(神の恵み・祝福)にありつけるのです。「わたしは羊の門である」と言われる主イエスだけが、神の国、神の真理への門であり、この方を通してでなければ、私たちは神の国に入ることはできないということを覚え、主に従って行きたいと思います。

 また次に「わたしはよい羊飼である」と言われるイエスは、ご自分を「羊飼」に譬え、イスラエルの人々そして私たちのことを「羊」に譬えて語られました。私たちも羊のように迷いやすく、目先のことに心を奪われやすく、自分が道から離れて迷っているかどうかもわからないような愚かな者です。そんな私たちを導いてくれる「よい羊飼」イエスは、①羊のために命を捨てるイエス(11節)。よい羊飼であるイエスは、羊のために命を捨てる覚悟ができておられ、そして実際、十字架にかかって私たち罪人の身代りになって下さいました。②自分の羊を知り、羊にも知られているイエス(14節)―父なる神と主イエスが互いに知り合っているような知り方で、羊のことを個別に心にかけ、それぞれのことをよく知っていて、羊もよい羊飼のことを知っていて、声を聞き分けて従うのです。

 「わたしがきたのは、羊に命を得さえ、豊かに得させるためである。わたしはよい羊飼である。よい羊飼は、羊のために命を捨てる」と主イエスは言われます。主イエスは、羊の囲いから離れ彷徨っていた私たちを探し出し、神の恵みの支配へと導くために、その命を救うために十字架で命を捨ててくださいました。主は十字架の死からよみがえり、今も私たちの羊飼いとして共にいてくださり、その豊かな命と恵みをもって導いてくださいます。私たちはよい羊飼である主イエスの御声に聴き従い、これからも主と共に歩む者とならせていただきましょう。

2018年4月15日
説教題 「異邦人の望みであるキリスト」
聖書箇所 マタイによる福音書第12章9節~21節
説教者 安井 光 師

 「安息日に人をいやしても、さしつかえないか」。パリサイ人は、安息日に会堂にいる片手のなえた人を横に見ながらイエスにそう尋ねました。同情の思いからではなくイエスを訴える目的で、イエスが癒しを行うかどうか試したのです。安息日に医療行為を行うことは、命に危険がない場合を除き 禁じられていました。
 
 当時のユダヤ人たちは、安息日の意義を見失っていました。イエスは安息日の意義を回復なさるお方でした。安息日は神が人のために与えておられたのです(マルコ2:27-28)。あなたがたは安息日でも穴に落ちた羊を助けてやるではないか。神が家畜より人間の方をはるかに重んじておられるのだから、「安息日に良いことをするのは、正しいことである」とイエスは言われ、片手のなえた人を癒されたのです。

 ルカの記述には(ルカ6:6-11)、彼の「右手」が「元どおりになった」とあります。聖書において右手は力の象徴であり、生活を営むための重要な器官とされていたことからすると、力を必要とする彼の心や魂もなえていたのではないでしょうか。イエスは安息日の主として、人の心と魂も健やかにされるお方だったのです(マタイ11:29)。私たちが聖日に主にささげる礼拝は、主が私たちに良いことをして下さる時であり、私たちが主によって元どおりにしていただく場でもあるのです。

 マタイは、この出来事がイザヤの預言の成就であると説明しています(17-21節、イザヤ42:1-4)。神は御子イエスをユダヤ人だけではなく、異邦人に福音を宣べ伝え、救いを得させるために遣わされていたのです(ローマ10:12)。「異邦人」は、ユダヤ人にとっては蚊帳の外の存在でした(片手のなえた人も異邦人のような扱いを受けていた)。しかしイエスは「いためられた葦を折ることがなく」、むしろ癒して力を与え、「煙っている燈心を消すこともな」く、むしろそのような魂に希望の光を灯されるお方なのだとマタイは証言しているのです。

 私たちもかつては真の神を崇めない異邦人なる罪人で、恐れと不安を抱え心休まらず生きていました。しかし今や主イエスに信仰を抱いて、真の安息を与えられて生活することができます。魂の安息も折に適った助けも、すべてはこのお方から与えられるのです。主イエスこそ私たちの望みです(ローマ9:30-33)。だから私たちはこのお方に礼拝をささげるのです。主がすべての人々の望みとなって下さることを信じて主を礼拝しましょう。

2018年4月8日
説教題 「安息日の主」
聖書箇所 マタイによる福音書第12章1節~8節
説教者 安井 光 師

 ある安息日にイエスと弟子たちが麦畑を通られた時のこと、弟子たちは穂を摘み、手で揉んで食べていました。パリサイ人たちはそれを見て、「安息日にしてはならないことをしています」とイエスに抗議しました。当時、安息日に関する様々な禁止規定が設けられていました。それによると、弟子たちの行為は労働行為と見なされたのです。安息日の規定を厳格に守っていたパリサイ人たちは、イエスの弟子たちのしていることが許せなかったのです。

 イエスはダビデの出来事をとおして、パリサイ人の思い違いを示されました。ダビデはノブの祭司からパンを与えられました(サムエル記上21章)。それは安息日の供えのパンで、祭司以外食べることは禁じられていました。ダビデは神聖なパンを受けて食べ、命をつなぐことができたのです。ダビデの窮乏は律法の規定に優先されたのです。「安息日は人のためにあるもので、人が安息日のためにあるのではない」ことを、イエスはパリサイ人らに示されたのです(マルコ2:27)。

 安息日は、神が天地創造を成し終えて七日目に休まれ、この日を聖別されたことに起源しています(創世記2:3)。神がご自身の民に贖いの恵みを覚えさせるため、彼らを祝福するために設けておられたのです(出エジプト20:11、申命記5:15)。パリサイ人たちは安息日を(その禁止規定を)守っていましたが、それは神の喜ばれない形ばかりの「いけにえ」となっていました。「人の子は安息日の主である」と宣言されたイエスは、安息日の意義を回復なさるお方だったのです。

 イエスは私たち罪人を贖うために、ご自身を完全な「いけにえ」として十字架でささげて下さいました。私たちクリスチャンは、主イエスが復活された日曜日を安息の日・聖日として礼拝をささげます。それは、主が成し遂げられた救いの御業を覚えるためであり、「魂に休み」を与えていただくためもあります(11:29)。主の「あわれみ」を心に抱きつつこの日を過ごすことを、主は私たちに求めておられるのです(7節)。

 礼拝は、英語では「サービス」(奉仕)と呼ばれます。私たちが主にささげる奉仕であるとともに、主が私たちに奉仕して下さる時でもあります。主は私たちに安息させるために、「あわれみ」をもって毎聖日私たちを礼拝に招いておられます。最善の努力を払い、真心を込めて主を礼拝させていただくとともに、礼拝を守れない方々をも心に覚えて祝福を祈らせていただきましょう。