聖日礼拝 2022年6月26日
説教題 「神による励ましの言葉」
聖書箇所 使徒言行録第13章13~43節
説  教 安井 光 師

 パウロとバルナバは、ピシディアのアンティオキアに到着し、安息日に会堂で行われた礼拝に出席しました。旧約聖書が朗読された後、会堂長らから「会衆のために励ましのお言葉があれば、話してください」と頼まれ、パウロは説教を語ることになりました。会堂には、ユダヤ人や神を畏れる異邦人たちが神を礼拝するために、また御言葉を聞くために集まっていました。パウロは「聞いてください」と会衆に呼びかけ、救い主イエスのことを宣べ伝えました。

 パウロはまず出エジプトからイスラエル建国までの歴史を語ります(17∼22 節)。神がイスラエルの民(ユダヤ人)を選ばれ、エジプトにおける奴隷生活から救い出されたこと、荒野の生活を導かれ、約束されたカナンの土地を相続したこと、王国が建てられてダビデが治めたことなど、民族的アイデンティティとも言うべき事柄を話しました。ユダヤ人の会衆は神の真実に感謝し、励ましを受けたことでしょう。

 ユダヤ人はダビデのようなメシア=救い主を求めていましたが、パウロは神がダビデにまさる救い主として御子イエスを遣わされたことをユダヤ人の会衆に訴えました(23 節)。パウロは異邦人の会衆にも呼びかけて、「この救いの言葉(イエス・キリスト)は私たちに送られました」と宣べ伝えました(26 節)。それは、イエスがユダヤ人のみならず異邦人の救い主でもあり、異邦人にも神の救いが必要だったからでした。

 イエスはユダヤの指導者らによって十字架につけられましたが、神はイエスを死者の中から復活させられ、世の罪の贖いを成就されたことをパウロは力を込めて会衆に語りました(27∼37節)。これは使徒たちが命を懸けて宣べ伝えた最も重要なメッセージでした(Ⅰコリント15:1∼10)。救い主イエスを信じる者は、ユダヤ人も異邦人も差別なく罪 を赦され義とされるのです(38∼39 節)。パウロは自らがそうされた恵みを喜びながら、神の励ましの言葉としてイエス・キリストの救いを語ったのです。

 私たちも聖日ごとに同じ神の言葉を聞いています。日々の生活においては戦いがありますが、御言葉を聞き、御言葉を信じて神の励ましを受けたいと思います。「恐れるな。私 はあなたを贖った。私はあなたの名を呼んだ。あなたは私のものだ」(イザヤ43:1)と、神は一人一人に語っておられます。私たちは神の子、神の民とされています。これは救い主イエスによる恵みです。この恵みに、この御言葉に生かされましょう(43節)。

聖日礼拝 2022年6月19日
説教題 「聖霊に送り出されて」
聖書箇所 使徒言行録第13章1~12節
説  教 安井 光 師

 アンティオキア教会は、初の異邦人教会として目覚ましい成長を遂げていましたが(11:19∼26)、イエス・キリストの救いを全世界に告げ知らせるために(1:8、マルコ 16:15)宣教師を送り出すことにしました。アンティオキア教会は、バルナバやサウロ(パウロ)の他、「ニゲルと呼ばれるシメオン、キレネ人のルキオ、領主ヘロデの幼なじみマナエン」らが指導する国際色豊かな教会でした。五人の中からバルナバとサウロが宣教旅行に送り出されることになるのです。

 バルナバとサウロの二人が志願したのではなく、くじ引きをして決めたのでもありません。聖霊が「バルナバとサウロを私のために選び出しなさい」と告げたのです。それはあらかじめ神がご計画しておられたことでもありました(9:15)。一同で神を礼拝し断食して祈っていた時に、神の召しがあり、宣教への召命が与えられたのです(2 節)。バルナバとサウロを異邦人宣教に遣わすことを聖霊なる神が二人に語り、また教会一同に示したのでした。

 宣教師や牧師となる召命も、献身して宣教に遣わされることも、個人のわざではなく教会のわざです。サウロとバルナバは、アンティオキア教会の祈りによって宣教に送り出されるのです(3 節)。前線に出て伝道するのは二人ですが、背後にあって教会全体がバックアップし、彼らの働きをサポートしていくのです。彼らは共同して宣教のわざに参加するのです。

 バルナバとサウロは「聖霊によって送り出され」宣教旅行に出発し、キプロス島において伝道を開始します。ユダヤ人の会堂を拠点にしながら、人々にイエスの福音を告げ知らせました(5 節)。また地方総督セルギウス・パウルスに招かれ、福音を語るチャンスが与えられました。魔術師(バルイエス=エリマ)に妨害されそうになりましたが、サウロは聖霊の力で悪魔に対抗しました。総督はパウロの語る「主の教えに驚き」、主イエスを救い主と信じるに至ったのです(6∼12 節)。

 現在も多くの宣教師が国外で活動しています。アンティオキア教会がサウロとバルナバを送り出したように、世界宣教は今も教会のわざとして聖霊なる神が導いておられます。私たちが現地に行けなくても、宣教師たちが教会の手となり足となって現地の人々に福音を 宣べ伝え、神の愛のわざを行ってくれています。彼らは命懸けで宣教の働きに携わっています。宣教師たちのために祈りましょう。私たちもまた主の証人として、聖霊に送り出されてまいりましょう。

聖日礼拝 2022年6月12日
説教題 「神に対して富む」
聖書箇所 ルカによる福音書第12章13~21節
説  教 安井 光 師

 イエスが群衆に教えておられた時、ひとりの人がイエスに遺産相続の調停役を求めました。遺産相続の問題は、いつの時代にも醜い争いを引き起こします。富(物質、金銭)そのものは悪いものではありませんが、人はそれを自分のものにする欲望にかられ、罪を犯すことがあります。イエスは群衆に対し、貪欲に心を支配されることがないように注意を促されました。それは「有り余るほどの物を持っていても、人の命(人を真に生かしめる霊的な命)は財産によらない」からでした。

 イエスは、貪欲に心を支配された人間の姿を示されます。それが「愚かな金持ち」と呼ばれる譬です(16∼21 節)。ある金持ちの畑が豊作になりました。採れた「作物をしまっておく場所がない」ほどでした。彼は古い倉を取り壊し、新しい大きな倉を建て、そこに穀物や蓄えを全部しまい込もうとしたのです。神は「愚かな者よ」と彼に言われました。人間の目から見れば、彼は賢い者のように思えます。彼の愚かさは、神を抜きにしてすべ てのことをしていたことにありました。豊作だったのに、彼は神に感謝をせず、自分の力でそうなったかのような思い違いをしていたのです。ひたすら自分中心で、物事を相談したり祝福を共有したりする相手がいないのです。神を無視し、ひたすら自分のため に生きようとしていたことが、「愚かな」ことだったのです。

 人生においてまた日々の生活において、神を認めず、神を崇めず、神を無視して生きようとすることに人間の愚かさがあると、聖書は告げています(詩編14:1)。どれだけ頑張って財をなしたとしても、それによって真の命も平安も得ることができないのです。死の現実がすべてを取り去ってしまうのです(20 節)。そうしたら「お前が用意したものは、一体誰のものになるのか」と神は厳かな声で言われるのです。傲り高ぶらず、人間の生と死を支配しておられる方、人生を導かれる永遠なる神に目を注ぐべきことを使徒ヤコブも教 えています(ヤコブ 4:13∼17)。

 イエスは私たちに「神に対して」「神のために」富みまた豊かになることを求めておられます。自分の持ち物も財産も、また命も知恵も力も、すべてのものを神から受け取り、それを自分が使う時も「これは神のために」と使っていく。それが真の富であり、そこに真の豊かさがありましょう。神は御子イエスにより、私たちを永遠の資産を受け継ぐ者としておられます。私たちは受けているものを神のために用いてまいりましょう。

聖日礼拝 2022年6月5日
説教題 「聖霊に導かれる神の子」
聖書箇所 ローマの信徒への手紙第8章12~17節
説  教 安井 光 師

 使徒パウロは私たちキリスト者(クリスチャン)に対し、あなたがたは「神の子」であると告げています。私たちが神の子と呼ばれるのは、内に「神の霊」、聖霊を与えられており、聖霊に導かれて生きる者だからです(14 節)。イエス・キリストが十字架で死なれ復活されたことにより、この方を信じる者は「肉に従って生きる」生活から贖い出されたのです。聖霊に導かれて生きる現在の自分の立場を私たちは心に留めなくてはなりません。私たちがイエスから 受けたのは、「人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、子と してくださる霊」であるのです。

 神は私たちを子どもとして扱われ、関わりを持たれ交わりを持たれます。あたかも養子縁組をするようにして、神はイエス・キリストの十字架による新しい契約により、罪の奴隷となっていた私たちを贖い、御子の霊を与え、子として迎えて下さったのです。神は神の子どもたちに真の自由を得させて下さったのです。だから「御霊によって歩きなさい」と、パウロは私たちキリスト者に命じています(ガラテヤ 5 章)。神の子どもたちは悪霊に脅かされて、卑屈になったり人を羨んだりしながら生きるのではありません。聖霊の力と助けをいただきながら、神を愛し、自分を愛し、隣人を愛する神の子どもとして生きるのです。

 神の子どもとして生きられること、それは「アッバ、父よ」と神に親しく呼びかけて祈れることにあります。私たちは主の祈りで「天にまします我らの父よ」と神に呼びかけます。「天のお父様」と呼びかけて神に祈ります。日々の生活において、事あるごとに遠慮することなく、親しく神に呼びかけるのです。内に与えられた聖霊によって、そうすることができるのです(15 節)。御子イエスが父なる神に「アッバ、父よ」と祈られたほどに、私たちは神と近しい関係に置かれています。天におられる私たちの父は、いつでも親身になって私たち子どもたちの話を聞いて下さるのです。

 また神の子どもたちは、「神の相続人」にもされています。朽ちることのない天の資産を受 け継ぎます(Ⅰペトロ 1:4)。「キリストと共同の相続人」として、私たちは地上においては良いものばかりでなく、試練や苦しみも受けます。天の父は子である私たちを御子と似たものとするために、ご自身のきよさにあずからせるために鍛錬なさるのです(29 節、ヘブライ 12:5∼11)。聖霊が私たちを助け導いて下さり、苦難から栄光へと至らせて下さるのです。

聖日礼拝 2022年5月29日
説教題 「教会の祈り」
聖書箇所 使徒言行録第12章1~19節
説  教 安井 光 師

 アンティオキアに異邦人教会が創立され成長を遂げていた頃、エルサレム教会に対する迫害が激しさを増していました。ヘロデ王は使徒ヤコブを殺害し、それがユダヤ人の意に適ったのを見て、今度はペトロを捕えて牢に入れました。ヘロデは、各地から大勢のユダヤ人がエルサレムに集まる過越祭に合わせ、初代教会のリーダーであるペトロを民衆の前で殺害しようとしたのです。

 これは教会にとって危機的なことでしたが、剣を手にとって力ずくでペトロを助け出そうとしたのではなく、ペトロのために「熱心な祈りを神に献げ」たのでした。何もできないので仕方なく祈ったのではなく、これ以外のまたこれ以上の方法はないと信じて神に祈ったのです。使徒パウロは「神の武具を身に着けなさい。私たちの戦いは…闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊に対するもの」と語っています(エフェソ 6:11∼12)。祈りこそ教会に与えられている最大の武器なのです。

 神は教会の祈りを聞かれました。神は天使を遣わしてペトロを救い出されます(7∼10 節)。最初ペトロは幻を見ているのだと思いましたが、牢から救い出された後、神がそうして下さったと悟ったのでした(11 節)。ところが、教会の人たちはペトロが釈放されるとは思っていなかったようです(12∼16 節)。いったい何を祈っていたのだろう?と疑問に思いますが、彼らはペトロが脅え臆することなく大胆にイエスを証できるようにと祈 ったのではないでしょうか(参照エフェソ6:18∼20)。殉教するかもしれない状況でペトロが穏やかに眠ることができたのは、教会の祈りがあり、ペトロ自身が主に委ねていたからなのです。

 私たちは 様々な課題を神に祈り願いますが、祈り願ったようになるのを待つのではありません。結果は神にお任せし、御心がなされることを祈り待ち望むのです(イエスのゲッセマネの祈り)。私たちが祈り願ったことと違う結果がもたらされることがありますが、神に祈りが届いていないのではありません。祈りは常に神に届いています。結果を見て、すぐに判断すべきではありません。ヤコブはヘロデに殺害されましたが、古代教会教父クレメンスはヤコブが死をもって主の栄光と愛を証した事実を伝えています。

 それぞれの信仰 生活においても、教会の歩みにおいても課題があり闘いがありますが、私たちの思いや願いを超えて豊かなことをなされる神を信頼し、互いのために根気よく祈り続けてまいりましょう。

聖日礼拝 2022年5月22日
説教題 「キリスト者と呼ばれて」
聖書箇所 使徒言行録第11章19~30節
説  教 安井 光 師

 エルサレムに起こった迫害により散らされた信徒たちは、逃れた町々で福音を宣べ伝え、イエス・キリストを信じる人々が各地に起こされていきました(8章)。ただそれらはユダヤ人が主で、異邦人伝道が本格化したのはシリアのアンティオキアにおいてでした(19∼20節)。キプロス島やキレネで信仰を持った異邦人が、アンティオキアのギリシア人に「イエスの福音を告げ知らせ」、「信じて主 に立ち帰る者」が数多く起こされたのです。

 エルサレム教会は、アンティオキアに異邦人の教会が誕生したことを知り、バルナバを代表使節として派遣しました。バルナバはアンティオキアになされた神の御業を見て喜び、アンティオキア教会の信徒たちにイエス・キリストにとどまっているよう励ましました(22∼23節)。アンティオキア教会は急激に成長し、バルナバの手に負えなくなったので、タルソスにいたサウロを協力者として教会の指導をさせました。アンティオキア教会はサウロを世界宣教に派遣する拠点となり、エルサレム教会を支援するほどになるのです(27∼30 節、13:1∼)。

 また「アンティオキアで初めて、弟子(教会の信徒)たちがキリスト者(クリスチャン)と呼ばれるようになった」のでした。信者たちが自ら「キリスト者」と名乗ったのではなく、周りの人たちがそう呼び始めたのです。当初はユダヤ教の一派の者と見られていましたが、人数が増えて大きな集団となり無視できない存在となった時に、もっともらしい呼び名が付けられたのです。「キリスト者(クリスティアノス)」は、「キリスト党員」という意味を持ちます。いつもキリストの名を口にし、キリストにのぼせている輩だ…と、人々はキリスト教徒を揶揄するようにして「キリスト者」と呼んだのでした。

 異教社会にあってはキリスト者として生きることに戦いがありますが、「あの人はキリスト者だ」と認知される存在でいたいと思います。キリスト者は「小さなキリスト」とルターは言っています。私たちには弱さや欠点や不足しているところが多々ありますが、キリストの恵みで満たされ、キリストによって生かされ、キリストが内に生きておられるなら、 正真正銘のキリスト者です。キリストの名を持って呼ばれることは、幸いなことであり誇らしいことではないでしょうか。私たち教会をとおして、イエス・キリストの名が人々に知られ覚えられ、キリストの名が崇められていくようにと願います。キリストに満ちている祝福が周囲の人々に届くよう、イエス・キリストにとどまっていましょう。

聖日礼拝 2022年5月15日
説教題 「神のなさることは」
聖書箇所 使徒言行録第11章1~18節
説  教 安井 光 師

 エルサレム教会の人々は、ペトロの伝道によってカイサリアに住む異邦人がイエスの福音を受け入れたことを知りました。これは嬉しいニュースです。ところが、ユダヤ人キリスト者たちはペトロの行動を非難しました。それはペトロが「割礼を受けていない者たち」、すなわち異邦人の家に行き、一緒に食事をしたという理由でした(1∼3 節)。ユダヤ人は律法の規定で禁止された動物を食べませんでた。異邦人はそれらの動物を食べるので、ユダヤ人は 異邦人を蔑視し交際しなかったのです。

 イエスはどうなさったのでしょうか。イエスが「異邦人と食事をされた」とは聖書に書かれていません。しかしユダヤ人がローマの手先と見て蔑んでいた取税人たちとイエスが共に食事をされたこと、またその行動をファリサイ人が非難した時に「私が来たのは…罪人を招くためである」とイエスが言われたことを鑑みると、神の御心が何であるかが分かり ます。神は、ユダヤ人だけの神ではなく異邦人の神でもあり、ユダヤ人も異邦人もイエス・キリストを信じる信仰によって義となさるのです(ローマ 3:29∼30)。

 ペトロは、エルサレムの教会の兄弟姉妹たちに神の御心(10:28、34)を明らかにするために、事の次第を順序正しく説明しました(4∼17 節)。ペンテコステに自分たちに起こったの同じように、ローマ人コルネリウスらの上に聖霊が降った事実(10:44∼45)を伝え、異邦人でもイエスを信じた者には神から同じ賜物が与えられると語りました。異邦人伝道はペトロの計画したことではありませんでしたが、たとい人の考えに及ばないことでも神がなそうとしておられることであれば、人がそれを止めたり邪魔したりはできないとペトロは訴えました。エルサレム教会の人々はペトロの説明を聞き、神がローマ人をローマ人のままで救われた事実を受けとめ、神を賛美したのでした(18 節)。

 神は今もこの世界に愛をもって臨んでおられます。私たちは自分の狭い枠の中で神の救いを捉えたり、罪の中にある人々を排除したりしないようにしたいと思います。むしろ一人でも多くの罪人が神に立ち返ることを喜びたいと思います(参照ルカ 15 章)。神は、イエス・キリストの十字架の贖いによって罪人を赦し聖め、神の子、神の民となそうとしておられます。神は御業をなされるために、福音を宣べ伝え、執り成す者を必要とされます。神は私たち先に贖われた 者たち、すなわち教会と共に御業をなそうとしておられます。

聖日礼拝 2022年5月8日
説教題 「安息日の主であるイエス」
聖書箇所 マルコによる福音書第2章23~28節
説  教 安井 直子 師

 「安息日」の由来は神の天地創造の御業までさかのぼります(創 世記2:1‐3)。また神は十戒の中で聖なる日として安息日を覚えるよう命じておられます(出エジプト 20:8)。安息日とは、神の創造の御業に感謝し、救いの恵みを喜ぶ日です。しかし安息日を厳格に守り行おうとするあまり、細分化された千か条以上の細則が付け加えられていました。そのため不自由を我慢して過ごす日になっていたのです。

 ある安息日にイエスと弟子たちは麦畑を通りました。弟子たちは空腹のために麦の穂を摘み始めました。するとファリサイ派の人たちが安息日の規則違反だとイエスと弟子たちに抗議したのです。彼らは人の揚げ足を取るために意固地になり自由のない心になって、安息日の本当の意味を理解し損なっていました。

 それに対してイエスはダビデに起こったことを例に語られました「25‐26」。神様が願われることは、人が安息日に束縛され苦しむことではなく、自由と豊かな思いを持って心から神様を礼拝し、安息日の祝福に与るようになることでした。ファリサイ派の人にも喜 びのある安息日を過ごして欲しいと願われたと思います。

 イエスは私たちの罪を赦すために十字架で死んでよ みがえって下さいました。イエスの十字架と復活を祝う日が安息日・日曜日です。そしてイエスはご自身を指して「だから、人の子は安息日の主でもある」(28)と言われたのです。人間の本当の安息は好きなことをしてストレスを解消することではありません。大嶋重徳牧師は『大切なことは、礼拝に出続けることです…礼拝の場に居続けることです』と言われていました。安息日の主が恵みを 注いでくださるように。

 では、神様が私たちに期待しておられる ことは何でしょうか。私たちは、毎週日曜日に教会に集まり一緒に神様を礼拝します。強いられてでもなく、規則だからというのでも ありません。イエスを信じて歩むことを喜び、共に礼拝することで本当に安らかに過ごすことができるのです。安息日とは、自分と共に周りの人達も主によって自由になり、満たされ生かされる日です。私たちは「安息日」をどのように過ごしていたでしょうか。イ エスは私たちの罪が赦され、神様との親しい交わりの中で本当の安息を得て、喜びを持って生きる道を与えるために来られたことを忘れないでいたいと思います。本当の安らぎを下さる神への礼拝をささげることから始まることを覚えていきましょう。

聖日礼拝 2022年5月1日
説教題 「分け隔てされない神」
聖書箇所 使徒言行録第10章34~48節
説  教 安井 光 師

 コルネリウスと彼の家に集まっていた親類や友人たちは、ペトロ から神の言葉、イエスの福音を聞こうとして神の前に出ていました (33 節)。ペトロは彼らの姿を見て、「神は人を分け隔てなさらない」と確信したのでした。ただ聖書を読むと、神はユダヤ人を他の民族と区別し、特別扱いしておられると感じることがあります。

 神はユダヤ人(イスラエル人)を聖なる国民、神の民とされました(申命 記 7:6)。それは彼らをとおして神の祝福がすべての国民にもたらされるためでした(創世記 12:2∼3)。イエス・キリストによって使徒とされたペトロも同じ所に立たされていたのです。神はユダヤ人と異邦人を分け隔てされたのではないのです。ペトロをとおしてイエスの福音を、イエスによる祝福を異邦人コルネリウスに届けようとしておられたのです。

 ペトロはコルネリウスらに、「イエス・キリス トこそ、すべての人の主」であることを告げ知らせました。コルネリウスらはカイサリアにいたので、ユダヤ全土でなされたイエスの働きについて知っていました。ナザレ人イエスは病気や悪霊に苦しむ人を次々と癒されましたが、それはイエスに神の霊と力を注がれ、神がイエスと共におられたことによるとペトロは証しました。そしてイエスにおいて起こった出来事の中心である、十字架の死 と復活を宣べ伝えたのでした(37∼40 節)。

 私たちが伝えるのはイエス・キリストについての知識ではなく、イエスの救いを経験して いる者でなければ分からないこと、イエスに救われた者でなければ語り得ないことなのです(41 節)。私たちがイエスのことを隣人に伝える時には、イエスを救い主と信じてどうされたのか、神の恵みを具体的に証することが大事でしょう。私だけでなく、あなたも イエスによってそうしていただけると伝えるのです。

 正しい人で 評判の良い人だったコルネリウスも(22 節)、神の前に罪の赦しが必要な罪人でした。人は誰でも神の前に罪の問題を抱えており、イエス・キリストによる罪の赦しが必要なのです。ですから、私たちキリスト者は福音を宣べ伝え、イエスを「信じる者は誰でも…罪の赦しが受けられる」ことを証しなくてはならないのです。ユダヤ人キリスト者は異邦人が救われると思っていませんでしたが(45 節)、神の御心は違っていました。「神は人を分け隔てなさらない」のです。神から遠く離れており、救われるのが難しいと私たちが 思う人たちをも、神は教会の仲間に加えようとしておられるのです。

聖日礼拝 2022年4月24日
説教題 「神の前に」
聖書箇所 使徒言行録第10章1~33節
説  教 安井 光 師

 イエス・キリストの福音は、ユダヤから異邦人の世界に伝えらえていきます。10∼11 章の記述はその契機となった出来事でした。カイサリアにコルネリウスという百人隊長がいました。彼はローマ人でしたが、一家そろってユダヤ人の会堂に熱心に集い、創造主なる神を畏れ敬っていました(2 節)。神はコルネリオのもとに天使を遣わされ、幻の中で「ヤッファに人を送って、ペトロと呼ばれるシモンを招きなさい」と命じられました。それはコルネリウス一家にイエスの福音を聞かせ、イエスの救いにあずからせるためでした。 人間が救われるのは、イエス・キリストを信じる信仰(キリストの真実)によりますが、神は私たち人間の祈りや行いを御心に留めておられないのではありません。それらは「神の前に届き、覚えられ」ています。4節)。

 神はペトロに幻を見させられ、律法で汚れたものと見なされた動物を屠って食べるようにと命じられました(11∼13 節)。「神が清めた物を、清くないなどと言ってはならない」と語られ、ペトロはイエスの教え(マルコ7:1∼23)を思い出したに違いありません。コルネリウスの使者が到着し、聖霊から使者と共にコルネリウスの所に行くよう促された時、ペトロは御心を悟りました(28節)。ユダヤ人は異邦人との交際を長年避けていましたが、神はペトロに対しコルネリウスのもとに行き、イエスの福音を宣べ伝えることを求められたのです。ペトロもコルネリウスも、神の前に同じ(神のかたちに造られた)人間だったのです(26 節)。清いとか清くないとか、互いに人間同士で区別することなどできなかったのです。ただイエスの十字架の血が、すべての人の罪を清めることができるです。ペトロを聖められた神は(Ⅰペトロ 2:9 参照)、異邦人をも御子の十字架の血で聖めようとしておられたのです。

 コルネリウスの家に 集まった者たちは、神の言葉を、イエスの福音を残らず聞こうとし て神の前に出ていました(33 節)。このように、ペトロとコルネリウスを引き合わされたのは神でした。ペトロが御言葉を伝えるために、コルネリウスが御言葉を聴くために、聖霊が彼らに働かれたのです。福音宣教は神の御業であり、福音を宣べ伝える者と聞く者との相互の業です。「神の前に」すべてがなされています。神はただ見ておられるのでなく、私たちを導かれ、信じることと従うことを私たちに求められます。神の御前にあることをいつも心に留め、神の語りかけに聞き従いながら歩ませていただきましょう。