聖日礼拝 2020年11月22日
説教題  「主の導きを求めて」
聖書箇所 創世記第13章1~18節
説  教 安井 光 師

 アブラムがカナンのネゲブにいた時、激しい飢饉に見舞われました(12:10~)。そこで難を逃れるため、エジプトに寄留しようと考えました。妻サライが美しかったため、エジプト人が妻を奪い自分を殺すのではないかと心配し、サライに自分の妹と紹介させたのでした。その結果、サライはパロの家に召し入れられ、アブラムは手厚いもてなしを受けました。しかしながら、アブラムが行ったことは主の御心にかなうことではありませんでした。主はパロの家に激しい疫病を下され、アブラムをエジプトから去らせたのです。

 人間の目から見れば、アブラムの行動は間違っておらず、正しかったとさえ思えます。しかし主はどう見ておられたのでしょう? アブラムは祝福の基となるために主に召された人でした。アブラムは主の導きを求めることを最優先にすべきでしたが、飢饉の際に主の導きを求めなかったのです。主の約束(12:7)が台無しになるところでしたが、主がアブラムの失敗をカバーなさり、ご計画を進められるのです。

 アブラムはカナンに戻り、祭壇を築いて主を礼拝しました(4 節)。アブラムは主の恵みに感謝したとともに、 罪を悔い改め、主の導きを新たに求めたことでしょう。甥ロトとの間 で争いが起きた時、ロトに潤ったヨルダンの低地を譲り、カナンの地に住みました(9-12 節)。カナンは主がアブラムと子孫に約束しておられた地でした。主はカナンの隅々を行き巡らせ、アブラム に祝福の約束を確認させました。アブラムは主に祭壇を築き、主の導きを仰ぎつつ歩み続けたのです(14-18 節)。

 「信仰の父」と称されるアブラム(アブラハム)ですが、彼は失敗を犯し、主の御心にそぐわない行いをしたこともありました。それでも主はアブラムを愛され、ご計画のうちに彼の生涯を守り導かれました。いまやアブラムをとおして全世界に主の祝福が及んでいます(ローマ 4 章、ガラテヤ 3:6-18)。私たちもまたアブラム同様に、主の導きを仰ぎ求め、主の御心に従って歩む者とされているのです。

 主は何を願っておられるのか、主が良しとされることは何か、静まって御言葉に聴きましょう。自分の知恵や知識に頼るのでなく、むしろそれらを捨て去り、主の導きを祈り求めましょう。主が行く道筋を真っ直ぐにして下さいます(箴言3:5-6)。たとい解決し難い問題を抱 え途方に暮れたとしても、主に委ね、主の導きを求めていくならば、主が解決に至らせて下さいます。

聖日礼拝 2020年11月15日
説教題  「信仰による出発」
聖書箇所 創世記第12章1~9節
説  教 安井 光 師

 アブラム(アブラハム)は、義人ノア(6:9)の子孫でしたが、はじめから主なる神を畏れる人ではありませんでした。父テラは熱心な偶像崇拝者であり(ヨシュア 24:2)、郷里のウル、移住したハランは月神礼拝が盛んな町でした。アブラム自身、創造主ではなく自然物や人間の手で作られたものを拝む社会において、言い知れない不安や恐れを抱き、心虚ろに生活していたと思われます。主なる神は、そのようなところからアブラムを召し出されたのです。

 主はアブラムに、「国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい」と語りかけられました。これまで居た場所、自分の拠り所としていたものを後にして、出で立つよう命じられたのです。それは、主がアブラムを「祝福し、…祝福の基」とするためでした。祝福が家族に及ぶだけでなく、「地のすべてのやから」がアブラムをとおして祝福されることになるのです。

 「アブラムは 主が言われたようにいで立」ちました。妻サライと甥ロトと共に、僕たちを引き連れ財産をまとめて、主が示される地に向けて出発しました。元のところに留まったほうが安全だったでしょうし、さらに多くの財産を手にすることができたかもしれません。しかしアブラムは見えるものではなく、見えない神を信頼しました。召された方 は真実であると確信し、主の御言葉を信じて新しい場所に向けて旅立ったのです(ヘブル 11:8)。

 アブラムにとって主が示される地「カナン」への旅は、寄留者としてまた礼拝者として生きる旅でした(6-9 節、ヘブル 11:13-16)。クリスチャンの生涯もこれと同じでしょう。約束の地(神の国)に足を踏み入れつつも、それを完全に得ているのではないのです。ただ主を信頼し、御言葉の約束を信じ、すべてを主に任せ、主に導かれながら、人生の旅路を歩み続けることが求められます。主はその旅路(信仰生活)を豊かに祝福して下さるのです。

 主は私たちを祝福の基にして下さいます。祝福は私たちだけにとどまらず、私たちをとおして家族や周囲の人々に、さらに全世界にもたらされ、受け継がれていきます (ヨハネ 3:16)。まだ主の語りかけに応答していない方は、主を信じて主と共に歩む旅を始められますように。あなたが踏み出す一歩目から主が導いて下さいます。既に主と共に歩んでいる兄弟姉妹は、すべてを主に任せ、これからも主に従う旅を続けましょう。試練やチャレンジもある旅ですが、主の祝福が用意されています。

聖日礼拝 2020年11月8日
説教題  「神の子イエス・キリストの福音」
聖書箇所 マルコによる福音書第1章1~8節
説  教 安井 直子 師

 マルコは、ローマにいるクリスチャンのために、イエス・キリストこそが唯一の真の神であることを伝えるために、この福音書を書 きました。

 イエスの生涯を書き記すにあたって「神の子イエス・キ リストの福音のはじめ」と書き出しこの福音書の結論を示しています。マルコはこの福音書をとおして、読者にイエス・キリストのもたらす福音の素晴らしさを伝えたいと願っていました。「福音」とは「良い知らせ」という意味があり、永遠の命に関わる重要な価値と 重みを持ち、罪からの勝利と解放の宣言を含んでいます。「福音のはじめ」とは、教えが始まるということではなくイエス・キリストの言葉と行為そのものが福音であり、イエス・キリストそのお方が良き知らせであるとしてこの題をつけました。

 マルコの福音書は、 バプテスマのヨハネの記事で始まります(2-8 節)。イエス・キリストの福音が届けられる前に、道を備える人物が登場することが旧約聖書に預言されていました(2-3節⇒マラキ3:1、イザヤ40:3参照)その人物がバプテスマのヨハネです。ヨハネは、神に背を向けている人生から、神を見上げて生きる人生へ向きを変えるようにと人々に語り、その言葉を信じ信仰告白した人にバプテスマを授けたのです。それが救い主(キリスト)の来られるための道備えでした。またヨハネはイエスを指差し「彼こそが救い主である」と人々に証ししたのです。

 ヨハネは、「わたしは水でバプテスマを授けたが、このかたは、聖霊によってバプテスマをお授けになるであろう」(8節)と語り、イエスの働きの偉大さを人々に示しました。旧約聖書においては、聖霊が人々に注がれることは、神の恵みの支配の訪れを意味していました。聖霊とは神の霊、人を生かす神の命です。神は、救い主をとおしてすべての人に聖霊を注ぐと約束されたのです(エゼキエル 36:25-27、イザヤ 44:3)。イエスによる聖霊のバプテスマを受けるならば、誰でも新しく造りかえられるのです。

 私の父の救いと召天の証しから。父の生涯を思い起こしながらこれまでのクリスチャンとの出会いを通し、その人の内にあるイエス・キリストの福音や信仰の姿によってキリストと出会い、心が主に向けられて、父も福音に希望を見出すことができ、洗礼の恵 みに与ることができました。そして父も最期には家族たちにイエ ス・キリストを指し示す者とされました(感謝)。

 私たちもキリストの福音の素晴らしさを知り、その祝福に与る者となりたいと思います。

聖日礼拝 2020年11月1日
説教題  「わたしのところにつれてきなさい」
聖書箇所 マルコによる福音書第9章14~29節
説  教 安井 光 師

 イエス様は山に登ってお祈りをされました。イエス様のお父様、天の父なる神様にお祈りをされました。イエス様はいつもそのようになさいました。天のお父様にお祈りして、思うことや願うことを何でもお話して聞いていただき、天のお父様から力をいただいていたのです。

 一方、山の下では、お弟子さんたちがとても困ったことになっていました。悪い霊につかれ病気だった子どもを、自分たちの力で治そうとしましたが、それができずにいて困っていたのです。子どものことはそっちのけで、またイエス様のことも忘れてしまって、あーだこーだと言い合いをしていたのです。なぜ 天のお父様にお祈りしないのかと、イエス様は思っておられたことでしょう。「その子をわたしの所に連れてきなさい」と、イエス様は言われました。子どものお父さんは、お弟子たちにはできなかったし、もしかしたらイエス様にも無理かもしれないと思いました。イエス様はお父さんに、「私を信じなさい」「信じる者には、どんな事でもできる」と言われ、信じることを求められたのです。

 「信じる者には、どんな事でもできる」。これはイエス様を信じれば、私たちがスーパーマンのようになって、何でもできるということではあ りません。私たちの天のお父様父なる神様が、またイエス様が私たちのお祈りを聞いてくださり、私たちを助けてくださるのです。イエス様は、「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、 またわたしを信じなさい」と言われます(ヨハネ 14:1)。神を信じるなんて、神に祈るなんて弱い人のすることだと思っている人が、周りにはいるかもしれません。でも生活していると、色々な問題や困難にぶつかります。人間の知恵や力ではどうにもならないことが多くあります。困った時には「助けてください」「お願いをかなえ てください」とお祈りする人たちもいます。でも本当の神様ではなく、人間が作ったものに手を合わせてお祈りをしたり、拝んだりし ています。

 本当の神様は、この世界を造り、私たち人間をお造りになった神様です。目には見えませんが、私たちのことを愛しておられ、私たちのお祈りを聞いて下さる神様です。神様は人となって、救い主として私たちの所に来て下さったのです。救い主イエス様は、「神を信じ、わたしを信じなさい」と言われます。困った時でも、そうでない時にも、いつでも「わたしのところに来なさい」とおっしゃるのです。イエス様が私たちを助けてくださるのです。

聖日礼拝 2020年10月25日
説教題  「聖徒の交わり」
聖書箇所 コリント人への第一の手紙第1章1~9節
説  教 安井 光 師

「聖徒の交わり…信ず」と、私たちは使徒信条で唱えます。「聖 徒」とは聖人君子ではなく、教会に集う私たち全クリスチャンを表わしています。パウロはコリントの教会の教会員たちを「聖徒」と呼びました。コリントの教会は分裂分派や不品行などの諸問題を抱 えており、聖なるものとは呼べない人たちでしたが、パウロはコリ ントの教会を「神の教会」と呼び、コリントの信徒たちを「聖徒」と呼んだのです(2節)。それは彼らがイエス・キリストによって贖われ、神の御前に聖なるものとして受け入れられていたからでした。

 私たちに聖なる性質があるのではありません。むしろあるのは罪の性質でしょう。ただ聖なる神が、御子イエスの十字架の血をもって、 聖霊によって私たちの罪を赦しきよめて下さったのです(Ⅰヨハ ネ 1:7、ローマ 15:16)。私たちをこの世から召し出され、聖別して 下さったのです。私たちが聖徒(世と分離したものの意)と呼ばれるのは、神に贖われて神のものとされているからなのです。このことを自覚しなければなりません。

 教会はキリストの体、私たちはその肢体であると言われます。私たちはキリストとつなぎ合わされるとともに、互いに結び合うのです。キリストの恵みと賜物にあずかり、またそれを分かち合いながら生きるのです(Ⅰコリント 12 章、 エペソ 4 章)。それが「聖徒の交わり」なのです。「交わり」(ラテン 語:コムニオ、ギリシャ語:コイノニア)には、「結合」「関係」「共有」「持ち分」などの意味があります。

 初代教会に実例を見ることがで きるでしょう。初代教会の信徒たちは、以前は互いに交わることのない他人同士でしたが、洗礼をとおして聖徒の交わりに加えられました。そして一堂に会し、共に聖書を学び、祈りをし、聖餐にあずかり、恵みや賜物を分かち合い、神に礼拝をささげ、共に食事をし、賛美をささげました(使徒行伝:2:41-47)。これら一つ一つの信仰の営みが聖徒の交わりでした。このような交わりを可能にされたのが聖なる神、三位一体の神なのです(9節)。私たちは聖徒として互いに愛し合い、赦し合い、仕え合うのです。

 聖徒の交わりを通じて、主の働きは進められ、主の御業がなされていきます。 私たちの信仰は個々で成り立っているのではありません。交わりを必要としています。主との交わりが必要ですし、主にある兄弟姉妹、聖徒であるお互いの交わりが必要なのです。聖徒の交わりをとおして、私たちは共に育てられていくのです(エペソ4:16)。

聖日礼拝 2020年10月18日
説教題  「神の永遠の契約」
聖書箇所 創世記第9章1~17節
説  教 安井 光 師

 いにしえの時代、未曽有の大雨が降り大洪水が起こる中で、神はノアの箱舟を守られました(7:11-24)。ノアは丸一年の間箱舟の中にいました。退屈で不自由さを覚え、息の詰まる思いもしたでしょう。しかしノアは神を信頼し、神にすべてを委ねていました。舟の中の生活は毎日同じことの繰り返しだったかもしれませんが、ノアは神から日毎に新しい力を与えられ、感謝をもって過ごしていたのではないでしょうか。神はいつもノアとその家族を御心に 留めておられたのです(8:1)。

 雨は止み水が引いた時、ノアは地が乾いているかを知るために鳩を放ちました。留まれる所がない ので鳩は戻ってきましたが、七日後もう一度放つと鳩はオリーブの葉をくわえて戻ってきました。さらに七日後、放つと鳩は戻ってきませんでした。これで上陸しても大丈夫と判断できましたが、ノアは神の言葉を待ちました。「箱舟から出なさい」と神が命じられたので、ノアは家族と箱舟を出て祭壇を築きました(8:13—20)。新たな生活を始めるにあたり、まず神に向かい神を礼拝したのです(マタイ 6:33 参照)。大洪水から救われたこと、箱舟での日々が守られたことを神に感謝するとともに、これからの歩みの上に神の 導きを求めたのでした。

 神はノアとその子らを祝福され、地とすべての生き物を任せられました(9:1-7)。人類の罪故に神は世をさばかれましたが、神のご計画(1:28)は変更されなかったのです。 神は憐れみと忍耐をもって、罪人である人類と向き合っていく覚悟でした(8:21)。神はノアと家族だけでなく、後の子孫とのために契約を立てられました(9:9-11)。「契約(ペリート)」には、二つの者を繋ぎ合わせる頸木という意味があります。契約とは本来、それを結ぶ両者が互いに責任と義務を負い合いますが、神が人と結ぶ 契約は神が主導され、神が全存在をかけて守られる恵みの契約なのです。

 神は大空に現われた「にじ」を「すべての肉なるもの」との契約のしるしとされました(9:12-16)。神は虹をご覧になる時に「永遠の契約を思いおこす」と言われたのです。神の契約は、旧約全体を経て、イエス・キリストをとおして新しくされ、いま私 ちに与えられています。イエスの十字架の贖いが契約のしるしなのです(Ⅰコリント 11:25、ヘブル 9:15)。神の契約は、神の私たち罪人に対する一方的な愛と、私たち罪人を救うために神が払われ た犠牲とに裏打ちされた永遠の契約なのです。

聖日礼拝 2020年10月11日
説教題  「御言葉に従ったノア」
聖書箇所 創世記第6章1~22節
説  教 安井 光 師

「生めよ、増えよ、地に満ちよ」という御言葉に従い、人類は全地に増え広がっていきました。ところが罪も増大し、「人の悪が地に はびこり、すべてその心に思いはかることが、いつも悪い事ばかり」になっていきました。ノアの時代には、「世は神の前に乱れて、暴虐が地に満ち…すべての人が地の上でその道を乱し」ていたのです。

 神は人々の様子をご覧になりながら、とても心を痛めておられました(6 節)。神は人々が悔い改めて、ご自分に正しく心を向けて生きることを忍耐して待っておられました。ところが人々は悔い改めず、罪の深みに自ら落ち込んでいくのです。そこで、神は「人を地のおもてからぬぐい去」り、「すべての人を絶やそう」と決断をされたのです。

 ノアは「その時代の人々の中で正しく、かつ全き人」でした。ノアは神の前にいつも恵みを見出していました(8 節)。ノアも弱さを持ち、罪を犯す人間だったでしょう。でも弱さや罪を神に隠すのでなく、神に向かい、神のあわれみを請い求め、ただ神の恵みによって赦され受け入れられて、神を全面的に信頼て歩んでいたのです。ノアは神と関係が「正しく、かつ全き」であったのです。神はノアにご計画を示されました(6:13- 7:5)。

 ノアは「すべて神が命じられたように」箱舟を造りました。それは非常に大きな箱舟でした。現代のような技術も機械もありませ ん。ノアと家族だけで造ったでしょうから、相当の労力と年月を要したことでしょう。周りの人たちから冷やかされたり、嘲笑われたりしたと思います。それでもノアは神を疑わず、御言葉に従い箱舟 を造ったのです(6:22、7:5)。ノアは家族と共に箱舟に入り、動物を種類ごとに箱舟に乗せました。四十日大雨が降り続く中、また大洪水が起こる中で、神はノアの箱舟を守られ、ノアと家族を救われ たのです。

 神は私たちを救うために御言葉を語られます。ノアはすべてのことを知り得たわけではないですし、先に起こることを見てはいませんでしたが、神を信頼し御言葉に聞き従い、豊かな救いにあずかりました(ヘブル 11:7)。終末の時代にあって、私たちはいかに御言葉を聞き、御言葉を信じて従っていくべきかが問われています(マタイ 24:37)。私たちは主イエスの十字架の贖いによって義とせられ、神と共に生きる者とされています。私たちは今の時代をノアの如くに生きているのです。神はクリスチャンに対して、福音宣教と教会形成という箱舟造りを命じておられます。

聖日礼拝 2020年10月4日
説教題  「神と共に歩んだエノク」
聖書箇所 創世記第5章1~32節
説  教 安井 光 師

 創世記5章の「アダムの系図」は、「アダムの歴史の記録」(新改 訳)でもあり、人類の始祖がどのような人生を歩んだのかを垣間見 ることができます。

 12節に、「神が人を創造された時、神にかたどって造り、彼らを男と女とに創造された」(参照 1:26-27)とあります。人は神と向き合い、神との交わりに生きる霊的な存在として造られたのです。神は人を祝福なさり(2節)、世界とそこに生きるすべてのものを人に治めさせたのでした(1:28)。3節には、「アダム は…自分にかたどり、自分のかたちのような男の子を生み」とあります。息子セツは父アダムから罪の性質(参照3-4章、ローマ5:12) だけでなく、神を慕い呼び求める性質をも受け継いだのでした。

 アダムの系図は、また人生の儚さを伝えています。「○○は~歳になって、□□を生んだ。○○は□□を生んで~年生きて、男子と女子を生んだ。○○の年は合わせて~歳であった。そして彼は死んだ」と繰り返されています(3-31節)。人はたとえ千年近く生きたとしても、必ず死ぬ者であるということ、人類はこの世の英知を結集しても、永遠に生きられる者ではないことを私たちに教 えているのです。

 似たような人生の営みが繰り返される中で、「エノク」はそれらと異なる人生を過ごしました。エノクは65歳の時、長子メトセラを授かったことが人生の転機となり、「神とともに歩み」始めたのです(21-22節)。桑原教会の召天者の中にも家族や親 族をとおして、創造主なる神を知るようになり、神と共に歩むようになった方が多くおられます。神は人をとおしまた人を用いて、私たちの人生に関わりをも持たれ、人生を導こうとなさるのです。

 神と共に歩むとは、礼拝者として生きることでもあります。召天者一人一人も、エノクの如くに神と共に歩み、礼拝者として生涯を歩まれました。教会堂に集い、神に礼拝をささげ神に力づけられて、神 に委ねつつ翌聖日に向けて一日一日、神と共に過ごしていかれたのです。

 神はエノクを喜んでおられました。アダムの系図の他の人々はただ「彼は死んだ」で人生を閉じているのに、エノクは「神とともに歩み、神が彼を取られたので、いなくなった」(24節)とあります。神はエノクが「死を見ないように天に移された」(ヘブ ル 11:5)のです。クリスチャンは死ぬことを「天に召される」と表現しますが、神は永久に私たちと共にいるために私たちを天に召されるのです。神と共に歩めることこそ、人生の真の幸いなのです。

聖日礼拝 2020年9月27日
説教題  「神の求められる供え物」
聖書箇所 創世記第4章1~16節
説  教 安井 光 師

 アダムとエバの夫婦に二人の男の子が与えられました。同じ親から生まれても、子どもたちの性格や賜物はそれぞれ異なります。二人はそれぞれ自分の持ち味を生かし、地と生き物とを治めよと神が命じられたとおりにし(1:28)、兄カインは「土を耕す者」となり、 弟アベルは「羊を飼う者」となりました。

 二人は働いて得たものの中から神に供え物をすることにしました。カインは「地の産物を持ってきて、主に供え物とし」ました。アベルもまた「群れのういごと 肥えたものを持ってきた」のでした。ところが、神は「アベルとその 供え物とを顧みられ…カインとその供え物とは顧みられなかった」のです。アベルは得たものの中から〝良いもの〟を神に供えました。神は供え物のみならず、供え物をした二人の内側を見られ たのです。神はアベルの「信仰」に目を留められたのでした(ヘ ブル 11:4)。

 カインは、神がアベルの供え物を顧みられたのに、自分の供え物を顧みなられたので、「大いに憤って、顔を伏せ」ました。不当に扱われたと思ったのです。神はカインに声をかけら れ、「なぜあなたは憤るのですか、なぜ顔を伏せるのですか」と問われました。カインは天を仰ぎ、心にある思いを素直に打ち明けたらよかったでしょう。罪を犯さないよう神の御前に静まるべきでしたが(7節、エペソ 4:26)、怒りと嫉妬を爆発させて、弟アベルを殺してしまったのです。

 カインの罪は弟を殺害したことにあるのは言うまでもありません。しかしカインの根本的な罪は、彼が〝 神は正しい〟とできず、自己を正当化してしまったところにありました。神は正しく評価していない、神の判断は間違っている、自分のしていることが正しい…という自分中心の思いに身を任せてしまったのです(Ⅰヨハネ 3:12)。神の祝福を呪いに変えてしまったカインは、「地上の放浪者」となりました(11-12 節)。カインは絶望し死の力に脅えましたが、神は彼を憐れまれて、彼の命を守るた めに「一つのしるし」を付けられたのです(13-15 節)。

 全人類はアダムの末であり、カインの罪と死の問題を受け継いでいます(ロ ーマ 5:12)。神は私たち罪人を憐れまれ、御子イエスを完全な供え物として十字架でささげて下さったのです。御子の供え物が、私たちの罪を贖い、憤怒や嫉妬を取り去り、呪いを祝福に変えるものとなりました。この救いの御業を感謝し、霊と真とをもって神を 礼拝することこそ、神の求められる供え物なのです(詩篇51:17)。

聖日礼拝 2020年9月20日
説教題  「罪を犯した人間」
聖書箇所 創世記第3章1~21節
説  教 安井 光 師

 聖書は、人が神のかたちに創造された甚だ良いものであると同時に(1:26-31)、神に対して罪を犯した罪人であると伝えています(詩篇 14:1-3、ローマ 3:10-18)。人類の罪の起源はアダムとエバに遡ります◆アダムとエバはエデンの園で幸せに暮らしていました。神は二人に、「園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい」、ただ「善悪を知る木からは取って食べてはならない」と言われていました。ところが「へび」=サタン(黙示録 12:9、ユダ 6)が、神の言葉をゆがめ、また否定し、人の心に疑いを挟み込み、神への反抗心を抱かせようとしたのです(1、4-5 節)。エバはサタンに誘惑され、「食べると…きっと死ぬ」(2:17)と言われていた禁断の木の実を食べたのです。アダムも同じように食べて罪を犯し たのでした。

 禁断の実を食べた結果、アダムとエバの二人は「善 悪を知る者」となったのではなく、「目が開け、自分たちの裸であ ることがわかっ」て恥ずかしくなり、裸を隠そうとしました(7 節)。互いにやましさを覚えるようになり、神のことが急に怖くなって「神の顔を避けて…身を隠した」のです。神との関係が壊れてしまったのです。神が言われたとおり、二人は死ぬ者となったのです。神への信頼が失われたのです。神に背を向け、神を避ける結果、恐 れと不安が二人の心を支配したのでした。

 神はアダムとエバに罪を示されましたが、二人は自分の罪を素直に認めることができず、責任転嫁をしました(12-13 節)。私たち一人一人もアダムとエバと同じことをするのです。「あなたは罪人だ」と言われて嬉しい人はいませんし、罪の話を聞いて心地の良い人はいません。しかしこの現実と向き合わなくては、人は真に幸福には生きることはできません。罪に向き合うだけでなく、神に正しく向き直るのです。神はいつもこちらに御顔を向けておられ、「あなたはどこにいる か」と一人一人に呼びかけをなさるのです(9 節、参照ルカ 19:10)。

 神は罪のさばきとともに、贖いと回復の道筋をも示されました (15、21 節)。私たちは皆、アダムの性質を受け継いでいますし、現実に罪を犯すから罪人です。アダムにもたらされた死は避けられませんが、キリストは私たち罪人を神と和解させ、神への信頼と交わりを回復させて下さったのです。キリストは、アダムによる罪と 死の流れを断ち切り、義と永遠の命の流れに私たち罪人を導いて 下さるのです(ローマ5:12-21)。