聖日礼拝 2021年5月2日
説教題 「苦難と祝福」
聖書箇所 創世記第31章1~21節
説  教 安井 光 師

 ヤコブは長旅を経てハランに近づいた時、井戸端で伯父ラバンの娘ラケルと出会い、ラバンの家に迎え入れられました(29:1∼)。 ヤコブはラバンの家に住み、仕事を手伝うようになりました。ヤコブはラケルと結婚することを望み、ラバンの許で7年間働きました。ところがラバンはヤコブを欺き、姉娘のレアを妻として与えました。ラケルも与える代わりにもう7年働くことを要求し、ヤコブはラバンの許で働き続けたのです。その間、ヤコブはレアとラケルと二人の仕え女との間に12人の子どもを授かりました。

 14年が経過し、ヤコブは妻と子どもたちを連れて故郷に帰ることをラバンに願い出ますが、ラバンはヤコブを去らせようとしません。ヤコブのおかげで家畜と財産を増やすことができたからでした(30:25∼)。すべてはラバンのものでしたが、ラバンはヤコブに対し報酬を与える約束をし、さらに6年間ヤコブを働かせました。ヤコブは知恵を働かせ特別な方法を用いて、自分の飼う家畜の群れだけが増えて強くなるようにしました。その結果、ヤコブは多くの家畜と財産を持つようになったのです(30:43)。

 ラバンはヤコブを騙して何度も報酬を変えましたが、ヤコブは力を尽くしてラバンに仕えました(31:6-7)。主はそれらすべてを御心に留めておられました。ヤコブは空手で故郷を旅立ちましたが、故郷に帰ろうとした今、家族が与えられ多くの僕や家畜を有するほどにされました。そればかりか目に見えない祝福にもあずかったのです。ヤコブにとってラバンに仕えた20年は苦難の時でしたが、苦難をとおして忍耐する力が内に培われたのです。主を信頼して苦難を耐え忍ぶことでヤコブは成長し、ラバンに仕えながら故郷に帰る日を待ち望むことができたのです(ローマ5:3∼5参照)。これは神の人ヤコブ(イザ ヤ43:1参照)にとってこの上なく大きな祝福でした。

 私たちもヤコブの如くに主に贖われ、神の子とされ、神の祝福を受け継ぐ者とされています(ガラテヤ 4:6∼7)。私たちは人生において様々な苦難を経験しますが、神はそれらをとおして私たち愛する子らを鍛錬されるのです。それは私たちが神の聖さにあずかり、苦難の中でも揺るがない神の平安を抱いて生きるためなのです(ヘブル 12:7∼11)。主なる神は苦難を祝福に変えて下さいます。苦難の中にあって尚、私たちが主を信頼して歩むことをとおして、家族や 周囲の人々にまで主の祝福は及んでいくのです(30:26、30)。

聖日礼拝 2021年4月25日
説教題 「神の国は近づいた」
聖書箇所 マルコによる福音書第1章14~15節
説  教 安井 直子 師

 イエス・キリストは宣教活動に入られ「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」と宣教を開始されました。これはイエスが最初に語られたメッセージであり、今も教会が語り続けている神の福音です。

 「ヨハネが捕えられた後、イエスはガリラヤに行」かれました。イエスはここから福音を宣べ伝え始めました。ガリラヤは異邦人の地と言われ、そこに住む人々は地の民と呼ばれ、ユダヤ人から軽蔑されていました。神は預言者を通じてガリラヤの人々が神の救いを見る 日が来ることを約束しておられたのです(イザヤ 8:23~9:1)。 イエスは「その時が来た」ことをお告げになり、古い時代が終わり、約束の救い主イエスによる新しい時代が到来したことを明らかにされたのです。

 「神の国は近づいた」とは、これまでこの世の罪や悪の支配下にあった私たちが「神の恵みによる支配」の中に生かされる時が、今、近づいたことを宣言されたのです。私たちは何かに支配され縛られていると思うことはありませんか。神は悪の支配から私たちを開放するために救い主イエス・キリストを送って下さいました。直接的に神と交わることができ、手を伸ばせば届くところに来て下さったということです。私たちは神によって、本当の自由と平安、喜びの中を生きることができる者とされたのです。

 イエスは「悔い改めて、 福音を信じなさい」と言われました。バプテスマのヨハネも人々に悔い改めを勧めていましたが、イエスの求められた悔い改めは、宣言されたお方が「神の福音」そのものでありこの イエスを救い主と信じて従うことを求められました。人は誰でもイエスの助けなしには、悔い改めることはできないのです。

 放蕩に身を持ち崩した息子は、我に返り、罪を悔い改めて父の家に帰った時、父はそんな息子を抱きしめ迎え入れてくれました。

 イエスはこの父のように自ら私たちに近づいて下さり、神の国に生きるために「悔い改めて福音を信じなさい」と言われました。そして神は、イエスの十字架の犠牲によって開かれた救いを受け取ることを願っておられます。「悔い改めて、福音を信ぜよ」とのイエスの招きの声に聞き従い、心の方向を転換し、イエスと共に歩む新しい生き方を始めましょう。そして神の恵みの支配に生きる者とされたいと思います。

聖日礼拝 2021年4月18日
説教題 「からだのよみがえり」
聖書箇所 コリントの信徒への手紙一第15章35~58節
説  教 安井 光 師

 古代ギリシャには、人間の肉体はやがて朽ちてしまうつまらないもので、霊魂のみが尊く不滅であるという思想がありました。ギリシャ人の多くは、知的高揚や恍惚状態に至ることに救いを見出そうとしていました。一方で快楽に溺れた不道徳な生活をしていました。そのような世にあってクリスチャンはキリストの復活を信じるとともに、使徒信条にも告白されているように自らの「からだのよみがえり」を信じる者たちでした。

 パウロは、人間は死ぬ者であること、死んだら肉体は朽ちてしまうことを知っていました。人間の体について「罪の体」「死の体」「卑しい体」と表現し、「罪深い肉」「肉の思いは死」「肉の思いは神に敵対する」と語り、人間の体は罪故に死ぬべきもの、滅び行くものと説明しています(ローマ 6∼8 章)。しかしキリストを信じる者は、「朽ちないものに復活し…霊の体に復活します」というのです。「からだのよみがえり」を信ずる私たちは、キリストが再びこの地上に来られる時に「終わりのラッパの響きとともに、たちまち、一瞬のうちに」変えられるのです。

 神は、人を神との交わりに生きる者として創造されました。精神も肉体も霊魂もすべてが神に属しています。神は私たちの全存在をお救いになるのです(Ⅰテサロニケ 5:23∼24)。神はキリストの尊い命をもって私たちを買い取られたのです。私たちの体はもはや自分自身のものではなく、神のものであり、聖霊が宿る神の住まいであるのです。自分の体も決して好き勝手してよいものではなく、神の栄光のために大切にしなくてはならないのです(Ⅰコリ ント 6:12∼20)。

 イエス・キリストは朽ちない体、栄光の体に復活されました。キリストは復活の体を弟子たちに顕されました。弟子たちが見たのは、キリストの霊や幻ではありませんでした。彼らは栄光の体に復活されたキリストにお会いしたのです(ルカ 24:36∼、他)。彼らは復活のキリストを宣べ伝えたのです(Ⅰコリント 15:1∼)。 キリストを信じて洗礼を受け、聖餐にあずかる者たちは永遠の命を得ています。終わりの日に、キリストと同じ栄光の体によみがえるのです(ヨハネ 6:53∼56)。

 私たちのこの体は、病を負い、傷つき、疲れを覚え、老い、誘惑に遭い、悩みを覚える体かもしれません。しかし神は私たちの体を常に顧みておられ、この体をもってご自身の栄光を現されるのです。終わりの日に、キリストと同じ栄光の体に、完全な体に変えて下さるのです。

聖日礼拝 2021年4月11日
説教題 「旅立つヤコブ」
聖書箇所 創世記第28章1~22節
説  教 安井 光 師

 ヤコブが長子の祝福を奪ったことでエサウは激しく怒り、ヤコブに殺意を抱くようになりました。リベカはヤコブを守るために、自分の兄の住むハランへ逃れさせることにしました。思わぬかたちでヤコブは生まれ故郷を離れることになりました。実はこれがヤコブにとっては、神に祝福される人生への旅立ちとなるのです。

 旅立つためには家を離れなくてはなりません。父祖アブラハムは、神から「あなたは生まれた地と親族、父の家を離れ」るように命じられ、そのようにして旅立ちました(12:1)。神はヤコブにも同じことを求められたのです。ヤコブの父イサクと母リベカは、創造主なる唯一の神を信じていました。ヤコブは精神的にも信仰の面でも両親に依存していたことでしょう。主なる神はヤコブに対してその状況を後にし、ただ主を頼りにして生きる人生を歩み始めることを求められたのです。

 一人で行く旅にヤコブは不安と孤独を感じたことでしょう。ある夜、荒野に石を枕して眠りました。夢の中で、天から地へと階段が据えられ、天使が行き来しているのを見ました。主がヤコブの側に立たれ、「私はあなたと共にいて、あなたがどこへ行くにしてもあなたを守り、この土地に連れ戻す。私はあなたに約束したことを果たすまで、決してあなたを見捨てない」と語りかけられました。孤独を感じる時にも困難な時にも、主がいつも共におられることを示されたのです。ヤコブは主の臨在を実感しました(16-17 節)。これから先も主が私と共におられると信じることができ、心に平安が与えられ力付けられたのです。

 主なる神は目には見えませんが、主を礼拝する場所におられ、主を信じる者に臨んでおられます。主の臨在を覚えつつ過ごすなら、信仰生活は祝福され豊かになります。孤独になること、一人になることは悪いことではありません。むしろ主と出会い、主との交わりを持つための大切な機会となります。ヤコブは父母を離れ旅立つことをとおして、自分と共におられる神を、どこへ行くにしても自分を守り、約束したことを果たす神を、自分を見捨てない神を信じることができたのです。

 主は私たちの人生の旅路を支え守り導いて下さいます。日々の生活の中で、主の臨在を覚えつつ、御言葉を心に留めて祈り、主と交わりを持たせていただきましょう。主が私たちを整え、恵みと力に満たして新しく歩み出させて下さいます。その歩みの中に主が共におられ、主が共に行かれるのです。

聖日礼拝 2021年4月4日
説教題 「キリストの復活」
聖書箇所 コリントの信徒への手紙一第15章1~11節
説  教 安井 光 師

 コリントの信徒への手紙一15章は「復活」について論ぜられている箇所ですが、使徒パウロは「きょうだいたち、私はここでもう一度、あなたがたに福音を知らせます」と語り始めます。「福音」とは、イエス・キリストの十字架の死と復活のメッセージです(3∼5節)。パウロはこのことを「最も大切なこととして…あなたがたに伝えた」と言っています。これは使徒たちの宣教によって人から人へと伝えられ、代々の教会が受け継いでいる変わらないものです。

 使徒たちが宣べ伝えていたことは、すべて「聖書に書いてある」(旧約聖書に預言されていた)ことでした(参照ルカ 24:27、32)。使徒たちはイエスの十字架の死と復活について、聖書を説き起こしながらイエスがキリスト(救い主)であると証しました。そのメッセージ(福音)を聞き、悔改めて信じた人々は皆、洗礼を受け、ここに人生の拠り所を見出しました(使徒言行録2:22∼42、8:26∼40)。コリントの信徒たちも同じでした。私たちもまた聖書をとおして、使徒たちが宣べ伝えたイエス・キリストの福音を聴き、それを信じて救われたのです。

 当時はイエスの復活を否定する人が大勢いました。今もそうでしょう。弟子たちも最初は信じられませんでした。そんな彼らが大胆にイエス・キリストを宣べ伝える者に変えられたのは、 復活されたキリストが弟子たちや信じる者たち一人一人に現われたからでした(5∼8 節、ヨハネ 20:19∼29)。「月足らずで生まれたような私にまで現れました」とパウロは自身のことを証しています。パウロは厳格なユダヤ教徒で教会を迫害する者でしたが、復活 のキリストの語りかけを受け、回心してキリストの証人になりました。自分を頼みとする生き方から、キリストを頼みとし神の恵みに生きる生き方に変えられたのです(10節、フィリピ3:5∼9)。

 御言葉が説き明かされる時、聖霊の臨在をとおして「イエスは生きておられる」と実感することができます。イエス・キリストの十字架の死と復活の出来事、またそのことを証言する聖書の御言葉、そして信仰生活における様々な経験をとおして、神の救いは大きな恵みとして私たちに心に届き、また留まるのです。この「神の恵み」が信じる者たちにとって「よりどころ」となり、喜びと平安を与えるもの、希望によって私たちを生かす力となるのです。この福音が人々の心に慰めを与え、希望を与えるものとなることを信じます。私たちをとおし教会をとおして、この福音が宣べ伝えられていきますように。

聖日礼拝 2021年3月28日
説教題 「十字架の七つの言葉」
聖書箇所 コリント人への第一の手紙第1章18節
説  教 安井 光 師

 パウロは、「十字架の言は…救にあずかるわたしたちには、神の力である」と告げています。主イエスが十字架上で発せられた七つの言葉に、主が私たち罪人を救うために語られたメッセージを聞くことができます。

 ①「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」(ルカ 22:34)。イエスは、神が救い主として遣わされたご自身を拒み、十字架につけた人々(罪人)の罪の赦しを第一に祈られたのです。

 両隣には二人の犯罪人が十字架につけられました。そのひとりが、「御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」とイエスに願いました。その時イエスは彼に、②「あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」(ルカ 23:43)と言われました。死んで滅びに向かおうとしていた罪人に語られたこの言葉 は、主に寄りすがる者を永遠の命に移される約束なのです。

 ③ 「これはあなたの子です…これはあなたの母です」(ヨハネ 19: 26-27)と、イエスは母マリヤと愛弟子に言われました。主は苦しみの最中にありながら、最後まで愛する者たちに心を配られたのです。

 ④「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ 27:46)。父なる神から捨てられた時、耐え難い苦しみと絶望がイエスを襲いました。神にさばかれ、捨てられること、これは私たち罪人が受けなければならない刑罰でした。イエスはそれを私たちの身代わりに受けられたのです。

 旧約聖書に預言された神の救いのご計画がここに成就したことをあらわして、イエスは⑤「わたしは、かわく」と言われ、ぶどう酒をお受けになり、⑥ 「すべてが終った」と救いの完成を宣言されました(ヨハネ 19:28∼ 30)。イエスの生涯のすべてはここに向けられていたのです。これは勝利の叫びでもありました。

 イエスは、⑦「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」と言われ、最後まで父なる神を信頼し通されたのでした。この姿・態度に、全人類の救いがかかっているのです。イエスが神にすべてを委ね、信頼しきったことによって、神と人間との隔ての中垣は取り除かれたのです(マルコ15:38)。

 十字架を見上げて立っていた百卒長は、「まことに、この人は神の子であった」と告白しました(マルコ 16:39)。十字架の言葉は私たちにも語られている、神の救いのメッセージです。十字架の言葉に示された神の愛と救いを宣べ伝えましょう。

聖日礼拝 2021年3月21日
説教題 「ヤコブを祝福したイサク」
聖書箇所 創世記第27章1~30節
説  教 安井 光 師

 祝福がイサクから彼の子へと受け継がれる時になりました。イサクは長子のエサウを祝福しようとしました。それは当然のように思えますが、神の御心は「兄(エサウ)が弟(ヤコブ)に仕える」 (25:23)ということでした。イサクは鹿の肉が好きで、巧みな狩猟者であったエサウを可愛がっていたようです(25:28)。エサウを祝福しようとしたのは、イサク自身の思いによるところが大きかったと言 えるでしょう。

 一方リベカは、イサクがエサウを祝福しようとしていることを知り、ヤコブに祝福を受けさせるためにある策略をヤコブに告げました。それは、父を騙し兄から祝福を奪うという方法でした。神はヤコブを選んだわけですから(リベカはそのことを知っていた)、リベカの行動は間違っていないようにも思います。しかし決して肯定されるものではありません。リベカもまた利己的な思いからヤコブに祝福を得させたいと願い、そのような行動に及んだのです。本来なら夫婦で主の導きを祈り求め、思いを一致させるべきではなかったでしょうか。

 ヤコブはリベカに言われたように、兄になりすまして父の許に行き、祝福を求めました。イサクはそれがエサウだと信じ込み、ヤコブを祝福したのです(18-29節)。リベカの策略どおり事は運びましたが、将来のことまで彼女には予測できなかったでしょう(27:41~)。たとい予測したとしても、そのとおりにはならないのです。人が考えること、人が計画することは、その人自身には良く思えることでも一面的で浅はかです。神は人の思惑や計画を超越され、人の過ちや失敗さえも益に変えてご計画を成し遂げられるのです。

 イサクは、自分がエサウでなくヤコブを祝福したことを知った時、それが神によるものだと悟りました(33 節、民数記23:20 参照)。神のご計画は、人の思いや策略、また人の知恵や力の及ばないところで粛々と進行しているのです。 私たちは、人間の悪しき行いによってイエスが十字架の死に追いやられた現実を聖書に見るとともに(マルコ14-15章他)、イエスが十字架につけられることは神の御旨であり、十字架の死によって神が私たちの罪咎を贖われたという事実を見ています(イザヤ 53 章他)。

 神のご計画はまことに遠大です。それは、神が私たち罪人を憐れみ祝福しようとなさる救いのご計画なのです。神が罪深いヤコブを贖って祝福とされたように、私たち罪人を贖い祝福の 器とされたことも、また人知を超えた神のご計画によるのです。

聖日礼拝 2021年3月14日
説教題 「祝福の継承者イサク」
聖書箇所 創世記第26章12~33節
説  教 安井 光 師

 イサクの生涯は、偉大な信仰の父アブラハムと波乱に満ちた生涯を送る息子ヤコブの間に挟まれてあまり目立ちません。しかしこの箇所には、祝福の継承者としてのイサクの存在感がキラリと光っています、

 神の祝福はアブラハムからイサクへと継承されました(25:11)。それは右から左へ、上から下へと自動的にそうされたのではありません。イサクは試練に遭い、主なる神を信じ仰ぐ(信仰)経験が必要でした。飢饉の時、イサクは主に命じられたとおり、エジプトに下らずカナンに留まります(2節)。一方で、妻を妹だと偽って自己保身に陥りました(7 節)。失敗も犯す罪人でしたが、主に守られ導かれながら、祝福を受け継いでいくのです。

 イサクが受け継いだ祝福は豊かで、ペリシテ人に妬まれるほどでした(12-14 節)。妬みの故にイサクはゲラルの谷に追いやられました。イサクはそこに天幕を張り、ペリシテ人が埋め塞いだアブラハムの井戸を掘り返していきました。井戸を掘ると、ゲラルの羊飼たちに横取りをされるなど苦労が絶えません。けれどもイサクは無用な争いを避け、新しい井戸を次々と掘り進めるのです(18-22 節)。イサクは自分の財産や井戸を信頼したのではありません。ただ主を信頼していたのです。主はイサクにさらなる祝福を約束なさるのでした(24 節)。

 イサクは主の御前に従順に歩み、人々の前に謙遜に生きました。イサクは泉のように尽きることない祝福にあずかっていたのです。イサクが受け継いだ主の祝福は私たちにも及んでいます。私たちはイエス・キリストにあってイサク同様、祝福の継承者なのです(ガラテヤ 3:9、14)。祝福は人と争って勝ち取るものではなく、 主が賜わるのです(Ⅰペテロ 1:3-4)。この祝福は、私たちをとおして家族や隣人にもたらされていくのです(Ⅰペテロ 3:9)。

 やがてペリシテの王アビメレクらは、主なる神がイサクと共におられること、神がイサクを祝福しておられることを認めるに至りました(28-29 節)。イサクは彼らのために振る舞いを設け、祝福して去らせたのです(30-31 節)。イサクをとおして祝福は子孫に受け継がれ、周囲へ拡大し、今やイエス・キリストにより地の果てにまで及んでいます。主は私たちに祝福を受け継がせ、祝福 の継承者として私たちを立てておられます。主が置かれている ところで、主の祝福を取り次がせていただきましょう。

聖日礼拝 2021年3月7日
説教題 「神の祝福の重さ」
聖書箇所 創世記第25章19~34節
説  教 安井 光 師

 イサクはリベカと結婚し、二人の息子エサウとヤコブが与えられました。二人は成長し、兄エサウは「巧みな狩猟者となり、野の人」となりました。弟ヤコブは「穏やかな人で、天幕」で過ごすようになりました。二人は双子の兄弟でしたが、対照的で異なるパーソナリティを持つ人となりました。イサクは「しかの肉が好きだったので、エサウを愛し」、リベカは「ヤコブを愛した」のでした。イサクの家庭は今日の一般的な家庭を象徴しています。

 ヤコブは「長子の特権」を得たいと思いました。長子には他の兄弟の二倍の相続権があり、父の後を継いで家長となることができました。ヤコブが求めたものは、アブラハムから受け継がれた神の祝福を意味していたのです。ある日、ヤコブがレンズ豆の煮物を作っていると、エサウが飢え疲れて野原から帰ってきました。それを食べさせてくれとエサウが求めたので、ヤコブは一杯の煮物と交換に長子の特権を譲るようエサウに持ちかけるのです。エサウは「長子の特権などわたしに何になろう」と言い放ち、一杯の煮物と交換に長子の特権をヤコブに売ってしまったのです。

 ヤコブは卑怯だ、エサウが可哀想…と思うかもしれません。ところが、聖書はエサウが長子の特権を軽んじたことを厳しく非難しています(34節、ヘブル12:16-17)。ヤコブの行為が神に喜ばれ、全面的に受け入れられたということではありません。ただヤコブは神の祝福を重く見て、なりふり構わずその祝福にあずかろうとしたのです。神はヤコブを選んで「イスラエル」という名を与え、祝福の継承者とされるのです。それは神のご計画でしたが、神の主権により、あわれみによる選びでした(23 節、ローマ 9:6-16)。

 神は、ご自分の愛とあわれみを証しさせるために、あえてヤコブのような小さく欠けた器を選ばれたのかもしれません(ヨハネ 15:16 参照)。神の祝福は重く、大きく立派な器こそ相応しいと思います。しかし小さく欠けた器だからこそ、見栄えの良い姿を周りに見せることができず、また祝福を内に溜め込んでとどめておくことができず、かえって器の欠けた所から祝福が漏れ出し、また小さな器から祝福が溢れて外に流れ出すです。

 私たちは神のあわれみによりイエス・キリストの十字架の贖いによって、神の子とされ御国の祝福を受け継ぐ相続人とされました(ガラテヤ 4:7)。これはあわれみであり、非常に重い特権です(Ⅰヨハネ3:1)。決して軽んじることができないのです。

聖日礼拝 2021年2月28日
説教題 「天を目指す旅人」
聖書箇所 創世記第23章1~20節
説  教 安井 光 師

 この箇所はアブラハムの妻サラの死と葬りについての記述です。アブラハムの物語ではあまり光のあてられない所ですが、彼の人生観のようなものが示されています。その鍵となるのが、「わたしはあなたがたのうちで旅の者で寄留者です」(4節)というアブラハムの告白です。ヘブル書11章13節以下には、アブラハムら旧約の信仰者は「地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いらわした」とともに、彼らが「望んでいたのは、もっと良い、天のふるさとであった」と説明されています。

 サラは127年の生涯を全うし天に召されました。サラは罪を犯し失敗もありましたが、信仰深く従順な女性でした(ヘブル11:11、Ⅰペテロ 3:6)。夫であるアブラハムが主の召しを受けて見知らぬ地に向けて旅立った時、 夫の後に従い、生涯信仰の歩みを共にしました。アブラハムは妻サラとの別れを悲しみ、妻を葬るための墓地を求めました。アブラハムは60年余カナンで生活してきましたが、墓地はおろか自己の所有地を持っていなかったのです。カナンの先住民はアブラハムに無償で墓地を提供してくれようとしました。ところがアブラハムは必要な代価を払って土地を譲り受けてサラを葬りました。アブラハムがカナンで得たのは、実にこの土地だけでした。

 普通ならば、十分な土地を取得し領地を広げ、そこに根を下ろそうとするものでしょう。アブラハムにはそうすることが可能でしたが、彼は地上のものがすべてとは考えておらず、その先にあるものに心を向けていたのです。それは「ゆるがない土台(主の真実と主への全き信頼)の上に建てられた都」(ヘブル11:10、16)でした。「地上では旅人であり寄留者である」ことをいつも心に留めながら、アブラハムは主の導かれる一日一日を感謝しつつ精一杯 生きたのです。

 信仰の先達が抱いた旅人意識、寄留者意識を私たちは身につけたいと思います(詩篇39:12)。私たちクリスチャンは神の国に生きる民として、天に国籍を持つ者として、この地上に生活しています。それは浮世離れした生活ではありません。地上では旅人であり寄留者ですが、天に目標が定まっているので、今担わされている問題や課題にも前向きに全力で向き合うことができますし、奮闘しながらも心軽やかに生きることができるのです(ピリピ 3 章参照)。すぐ先のこと、数年先のことは分からないとしても、 私たちには将来に確かな見通しが与えられています。