2018年8月5日
説教題 「五つのパンと二匹の魚をもって」
聖書箇所 マタイによる福音書第14章13節~21節
説教者 安井 光 師

 この箇所は〝五千人の給食の奇跡〟と呼ばれ、四福音書すべてに記録されているただ一つの奇跡です。イエスは弟子たちの手を用い、弟子たちの手にあるものを用いてこの奇跡を行われたのです。

 イエスはひとり退いて神の御前に静まっておられましたが、大勢の群衆が後を追ってきました。イエスは群衆を深くあわれまれ、御国の福音を語り、治療を必要とする人々を癒されました。夕方となったので、弟子たちは「群衆を解散させ、めいめいで食物を買いに」行かせるようにイエスに提案しました。ところがイエスは、「あなたがたの手で食物をやりなさい」と弟子たちに言われたのです。
 
 けれども、それは弟子たちには到底成し得ないことでした。弟子たちの手には「パン五つと魚にひきしか」ありませんでした。イエスは、この問題はあなたがたの問題だから、あなたがたの手で解決すべきだと考えておられたのではないのです。イエスご自身が五千人の人々に食物を与えようとしておられたのです。ただお一人でそのことをならさず、弟子たちの手を必要とし、彼らの手にあるパンと魚とを用いようとなさったのです。

 イエスは「五つのパンと二ひきの魚とを手に取り、天を仰いでそれを祝福し、パンをさいて弟子たちに渡され」ました。弟子たちは「それを群衆に与えた」のです。弟子たちにはこれっぽっちしかないと思われたものでしたが、イエスは神が与えて下さったものとして感謝し祝福されたのです。そして弟子たちの手を用いて、群衆に配らせました。群衆は食べて満腹したばかりか、パンくずの余りが十二の籠(弟子たちの手)にいっぱいになったのです。

 主イエスによって始められた福音宣教は、現在、主の教会によって受け継がれ担われています。私たちの周囲には霊的に飢え渇いている人々が大勢います。様々な問題や課題を抱えた人々に対し、どうやって宣べ伝えればいいのかと思い、また自分たちの手にあるものが小さく思えて嘆いてしまうことがあります。しかし主はすべてを御手の中に置いておられるのです(詩篇95:4-7)。

 私たちの持てる信仰・賜物、私たちがなす伝道・奉仕・祈り・ささげもの・献身は、五つのパンと二匹の魚のように小さく、主のお役に立たないように思えるかもしれません。しかし主はあなたの手を必要とされ、またあなたの手の中にあるものを祝福して、主の御業のために豊かに用いられるのです。

2018年7月29日
説教題 「良い羊飼い」
聖書箇所 ヨハネによる福音書第10章7節~18節
説教者 岡野 智 師

 主イエスはご自身こそが、ほかのだれでもなく「良い羊飼い」であると自己紹介しておられます。他にも多くの人が「羊飼い」であると主張する人が多かったのでしょう。私どもはこの「良い羊飼い」ていて下さる主イエスに従って日々を過ごさなければなりません。そのように考えますとき、7節の「よくよくあなたがたに言っておく。わたしは羊の門である」という言葉が聞こえてきます。この門は明らかに道があることを示しています。私どもの歩むべき道に門があるのです。羊飼いはその門を通って、その羊の群れと共に出入りするのです。私どもはその門を通らなければ、9節にありますように「わたしは門である。わたしをとおってはいる者は救われ、また出入りし、牧草にありつくであろう」とはならないのです。

 更にこの門は私どもを守るための門でもあります。私どもの信仰の歩みを主は命を投げ出して守って下さるのです。11節には「わたしはよい羊飼である。よい羊飼は、羊のために命を捨てる」とさえ語られます。これは明らかに主イエスの十字架に於ける死を意味していると考えられます。主イエスは私ども一人一人を憶え、名前を呼んで下さいます。そして、私どもの罪の赦しのために、その命を父なる神の御旨によって、ご自身の自由意志において投げ出されたのです。そして、私ども一人一人が、主イエスの十字架によって罪ゆるされ、神の子とされ、ひとつの群れの仲間とされるのです。別の表現をすれば、私どもは洗礼を受けて教会の仲間になるのです。そして教会の一員として礼拝生活を続けるのです。その私どもの先頭に主イエスは立たれ、私どもを常に守り導いて下さるのです。

 主イエスは更に言葉を続けられます。16節です。「わたしにはまた、この囲いにいない他の羊がある。わたしは彼らをも導かねばならない。彼らも、わたしの声に聞き従うであろう。そして、ついに一つの群れ、ひとりの羊飼となるであろう」と言われます。主イエスは、教会の外にいる人々をも導こうとされるのです。この主イエスの情熱が私どもの教会の伝道の業の根拠になります。私どもは主イエスを通って救われ、保護され、教会の仲間として生き続け、共に伝道に励むのです。

2018年7月22日
説教題 「聖霊によるキリストの誕生」
聖書箇所 ガラテヤ人への手紙第4章1節~7節
説教者 安井 光 師

 神は人類を罪の滅びから救うために、独り子を救い主として世にお遣わしになりました。救い主は人となって世にお降り下さいましたが、成人した人間の姿で天から舞い降りてきたのではありません。救い主は人間の赤ちゃんとして誕生しました。ただ成長して、大人になって救い主となられたのではありません。主は聖霊によって処女マリヤの胎内に宿り、救い主として誕生なさったのです。

 使徒信条に示されている「主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ」たことは、歴史上の事実として福音書に記されています(マタイ1:18-25、ルカ1:26-38)。聖霊によって処女が身ごもり、救い主が誕生するということは、旧約聖書に預言されていたことであり(イザヤ7:14)、神のご計画によることでした。天の御使は、聖霊によって神の御子が救い主として処女マリヤの胎に宿ったことを告げ知らせました。マリヤとヨセフは、戸惑いを覚えつつも、信仰によってそのことを受け入れたのです。このように救い主の誕生は聖霊によるものですが、このことを信じる信仰も聖霊の働きと導きによるのです。

 救い主の処女降誕は、人間的には受け入れ難いことであり、躓きとなるものかもしれません。人間の常識では考えられないことであり、人間には成し得ないことです。神は、人間には考えも及ばない方法で罪人である私たち人類を救おうとされたのです。聖書は、科学的にどのようなことがマリヤの身に起こり、主イエスが誕生したのかについては語っていません。ただこのことは神の御業であること、聖霊によることを告げています。主イエスが、「聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ」たのは、主が私たちに神の命・永遠の命を得させる救い主であることを示しているのです。

 イエス・キリストは、真に人間であり、真に神であられます(ピリピ2:7)。「主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ」という句は、そのことを証言しているのです。主は私たちを救うために、天から遠くから手招きをなさるのではなく、自ら人間世界に飛び込み、人となられ、喜怒哀楽を経験し、その肉体の死と復活を通して世の救いを成就して下さいました。だから主は、罪人である私たちを救い、弱い私たちを助けることがおできになるのです(ガラテヤ4:4-5、へブル2:17-18)。主はご自分を信じる者をも、聖霊によって新しく生れさせて神の子として下さるのです。

2018年7月15日
説教題 「香油を注いだマリヤ」
聖書箇所 ヨハネによる福音書第12章1節~11節
説教者 安井 直子 師

 イエスはベタニヤのマルタ、マリヤ、ラザロの兄弟姉妹の所で弟子たちと夕食を共にされました。その時、マリヤが香油を持ってきて、イエスの足に塗り、自分の髪の毛で拭いたのです。瞬くうちに部屋中が良い香りでいっぱいになりました。マリヤがイエスに注いだのは「高価なナルドの香油」でした。売れば「三百デナリ」にもなる香油で、マリヤの宝物であったのでしょう。それを数滴ではなく、香油の壺を壊し、全部惜しげもなくイエスの足に注いだのです(マルコ14:3)。この行為は、マリヤのイエスに対する愛と感謝の表れでした。これはマリヤがイエスのためになした奉仕であったのです。

 教会には様々な奉仕がありますが、すべては主のためになす奉仕です。私たちはマリヤのように、主を愛しているから、主に感謝しているから奉仕をするのです。奉仕はクリスチャンの務めということもあるかもしれませんが、私たちを奉仕に向かわせるのは、主に対する純粋な愛と感謝です。また主への奉仕は、精一杯のものであるはずです。ナルドの香油をイエスの足に塗り、髪の毛で拭いたという行為(奉仕)は、マリヤにとっての精一杯の奉仕でした。マルタは心を砕いてイエスのために給仕をしました。それはマルタにとっての精一杯の奉仕であり、彼女が主を愛し、主に感謝をささげたことの表れなのです。私たちはマリヤや他の人と同じことはできません。主は私たち一人ひとりが、心をこめて精一杯する奉仕を喜んでくださるのです。
 
 ユダはマリヤの行為を批判しました。弟子たちにはマリヤの奉仕が愚かな行為に思えました。私たちも他の兄姉の奉仕を見て、自分の損得勘定ではかり、評価したり、批判してしまうことがあります。あるいは人と自分を比べて、優越感に浸ったり、自己卑下してしまうことがあるのではないでしょうか。でも奉仕は主にささげ、主のためになるものです。人ではなく主を見つめ、主に思いを向けるべきなのです。主は私たちの喜びと感謝のささげものとしての奉仕を求めておられるのです。

 イエスはマリヤの奉仕を喜ばれ、最高に評価なさいました(マルコ14:6-9)。それはマリヤが真の奉仕者である主イエスからの奉仕を受け、自分にとっての精一杯の奉仕を愛と真心を込めて行ったからです。イエスは私たち罪人のためにご自身の尊い命を十字架でささげてくださいました。その愛と恵みにお応えして、心から精一杯の奉仕をさせていただきましょう。

2018年7月8日
説教題 「洗礼者ヨハネの死」
聖書箇所 マタイによる福音書第14章1節~12節
説教者 安井 光 師

 マタイはバプテスマの(洗礼者)ヨハネの死の経緯をここに書き留めています。

 ガリラヤの領主であったヘロデは、兄弟の妻ヘロデヤを娶ったことをヨハネが咎めたため、彼を捕えて獄に閉じ込めました(マタイ4:12参照)。実はヘロデはヨハネが神の預言者であることを認めて、彼に保護を加え、その教えを喜んで聞いていました。しかし罪を悔い改めるには至りませんでした。ヘロデヤはヨハネを憎み、彼を殺したいと思っていましたが、ヘロデが群衆を恐れたのでできないでいました(マルコ6:19-20参照)。

 ヘロデの誕生日の宴席が設けられた時、ヘロデヤの娘(サロメ)が舞を披露し、ヘロデを喜ばせました。ヘロデは上機嫌になり、願うものは何でも褒美として与えようと娘に約束しました。すると娘は母にそそのかされ、「バプテスマのヨハネの首を…」を求めたのです。ヘロデは困りましたが、いったん誓ったのと列席者の手前、その要求を呑み、バプテスマの首を切らせ、娘に与えたのでした。ヨハネは無残にも命を奪われたのです。

 ヨハネは「荒野で呼ばわる者の声」として、人々に悔い改めを迫り、神に立ち返るように命じ、イエスこそが「世の罪を取り除く神の小羊」であることを証した預言者でした(マタイ3:1-、ヨハネ1:29-)。そんな神の人ヨハネが理不尽なかたちで人生の終わりを遂げたことに、私たちは少なからず疑問を抱きます。もしも身近にヨハネのような人がいたら、人生はいったい何の意味を持ち、人は何のために生きているのか?という問いが心に沸いてくるのではないでしょうか。

 ヨハネの人生は、キリスト(救い主)の道備えをするもの、キリストを指し示すものでした。ヨハネはイエス・キリストのために生きたのです。神が彼の人生を御手に握っておられ、彼の人生に目的を持っておられたのです。ヨハネは自分の行く末を神から示されていたのかもしれません(ヨハネ3:30)。使徒パウロも、自分の存在の根拠と人生の目的が自分にではなく、キリストにあったことを証ししています(ピリピ1:20-21)。

 人は自分の思うように生き、自分の考えるように死んでいけるわけではありません。誰も無意味で無駄な人生を生きているのではありません。生きることも死ぬこともすべては主の支配の中にあります。私たちの人生・この命は主のものなのです(ローマ14:8)。この事実が、私たちの人生もまた信仰も、それを意味のあるものとし、真に価値のあるものとするのです。

2018年7月1日
説教題 「天国の証言者」
聖書箇所 マタイによる福音書第13章47節~58節
説教者 安井 光 師

 イエスは神の国(天国・御国)について譬によって教えてこられましが、最後に「天国は、海におろして、あらゆる種類の魚を囲みいれる網のようなものである」と、神の国の宣教を海の魚を捕る網に譬えられました。海(全世界)にいる様々の種類の魚(人々)を捕る(救う)ために、イエスは天国の網を降ろして(福音を宣べ伝えて)おられたのです。

 網が「いっぱいになると引き上げ」、「良いのを器に入れ、悪いのを外に捨てる」と言われます。「世の終り」に選別がなされるのですが、義人か悪人かの審判は神がなさいます。神の判断基準は人間のそれと異なっていることを知らなければなりません。イエスは罪人を救うためにこの世に来られたのです(Ⅰテモテ1:15)。イエスに導かれ、神の国に生きる者とされていた弟子たちにも、御国の網を海に降ろす働きを共になしていくことをイエスは願っておられたのです。

 「あなたがたは、これらのことが皆わかったか」と、イエスは弟子たちに尋ねました。弟子たちは「わかりました」と答えました。イエスは彼らのことを「天国のことを学んだ学者」と称されました(11節も参照)。天国についての知識を得たのではなく、そこに生きる者とされたのです。彼らはイエスからさらに学び、神の国の素晴らしさを人々に紹介(証言)する者となるのです。

 「新しいものと古いものとを、その倉から取り出す一家の主人」と言われますが、イエスから学んだことは頭や心の中に溜め込むものではなく、生活に生かしていくことができるのです。辛い体験や苦い経験も、福音の光があてられることによってそれらを捉え直し意味が見出され、現在(将来)の自分に役立てていくことができるようになるのです。それらのことを神の恵みとして、他の人に証しすることができるようにされるのです。

 イエスは郷里ナザレの会堂でも人々に神の国の教えを語られました。郷里の人々はイエスの知恵と力ある業とに驚きましたが、イエスの人間的側面にばかり目がいき、イエスを神の立てられたキリストと認めることができませんでした。私たち(主の弟子)も、郷里や近しい人々に自分の信仰を理解されないことがしばしばあります。しかし彼らの中では、私たちは神の国の専門家です。彼らの知らないことを知らされているのです。私たちは天国の証言者として生かされているのです。私たちが主を信頼して行う一つ一つの事が御国の証しとなり、主の御業がなされていくのです。

2018年6月24日
説教題 「隠された宝」
聖書箇所 マタイによる福音書第13章44節~46節
説教者 安井 光 師

 「宝」は人を魅了し夢中にして止まないものです。人はそれを得るために熱心に捜し求めます。イエスは、「天国(神の国、御国)は、畑に隠してある宝のようなものである」と言われます。イエスが宣べ伝えておられた神の国こそ、人が見つけ手にすべき真の宝であることをイエスは譬によって説明されました(44-46節)。

 ある農夫が畑を耕していました。彼を思いもかけず、地の中に宝を見つけました。彼は「喜びのあまり…持ち物をみな売りはらい」、地主からその畑を買うのです。それは全財産をはたいても買えないような宝だったのでしょう。しかし畑を買うことはできました。彼は畑を買い、地の中に隠されていた宝を自分のものとしたのです。

 地上には様々な宝があります(金、銀、宝石、骨董品、芸術品、世界遺産、特別な技能など)。それらの宝は永遠ではなく、朽ちて無くなってしまうものです。あるいは、そうならないように人間の保護を必要とします。地上の宝の周辺には、欲望や嫉妬心や隠謀が付きまとい、破壊、略奪、殺人、戦争を引き起します。しかしそれと違う宝があると聖書は教えています。それは天の宝、イエスによってもたらされる神の国です。この宝は朽ちることのない永遠の価値を持つのです。

 この宝は畑に隠されています。「畑」とは聖書であり、生ける神の言であるイエス・キリスト、またイエスと共に歩む生涯であると言えます。その中に天の宝が隠されているのです。聖書を読み、イエスに尋ね求めるならば、必ず天の宝を見つけそれを手にすることができるのです(マタイ7:7)。そのためには、神にすべてを明け渡さなくてはなくてはなりませんが、この宝の絶大な価値を知れば喜んでそうしたくなるのです(ピリピ3:5-9)。

 天の宝(神の国)は、宝石商人が自分の持っているすべての宝石を手放しても得たいと願う「高価な真珠」のように、この世に一つしかないユニークな宝なのです。これは人類が捜し求めてやまない真実な宝なのです。

 天の宝は、人間の持っている宝と同等の価値があるとか、またそれと引換に得られるのではありません。この宝に相応しい値を支払うことなど人間には不可能なのです。必要な値は主イエス・キリストが支払って下さったのです(十字架の代価)。自分は本来何も持っていない、空しく貧しく無力な罪人であることを認め、すべてを主に明け渡し、主を信頼することをとおして、この宝にあずかることができるのです。

2018年6月17日
説教題 「天国のたとえ」
聖書箇所 マタイによる福音書第13章24節~43節
説教者 安井 光 師

 イエスはガリラヤにおいて神の国の福音を宣べ伝えておられました(4:23)。神の国がイエスご自身によってこの世にもたらされたことを宣言なさいました(12:28)。「天国(神の国、御国」とはどのようなものなのかを、譬(たとえ)によって人々に示されました(34節)。

 イエスは二つの譬をもって神の国の素晴らしさ、その大きさ、豊かさを示しておられます(31-33節)。「天国は、一粒のからし種のようなものである」と言われます。吹けば飛ぶような小さなからし種も、それが畑に蒔かれると人知れず成長して、大きな野菜となり鳥の宿る木となると言われるのです。神の国は、それが来たと宣言されたイエスを、イエスの御言葉を信じて心に受け入れることでその大きさや豊かさが分かるのです(23節)。実体とある本当に大きな力となって、私たちの人生や生活に影響をもたらし豊かにするのです。

 神の国と信仰とは一体になっています。イエスによる神の国もそれを信じる私たちの信仰(17:20)も、外側から見ると小さなものに見えます。しかし神の国(神の支配)を信じる者、それを受ける者の心で大きなものとなり、大きな力となってその人の全存在に働くことができるのです。

 「天国は、パン種のようなものである」とイエスは言われます。パンを焼くためにはパン種が欠かせません。たとい「三斗」という大量の粉でも、わずかなパン種が加えられると生地は大きく膨みます。神の国はパン種のように、私という人間存在の全体に隅々まで浸透し、至るところに良い影響をもたらしていくのです。ゆっくり時間をかけてパン種が生地を膨らませるように、神の恵みは私たちの中でじっくりと確実に全体に行き渡り、心を喜び平安とで充満させるのです。

 イエスはまた神の国を麦の種蒔きと収穫に譬えています(24-30節)。畑の主人(イエス)は畑(世界)に良い種(御国を受け入れる者)を蒔きますが、敵(悪魔)は毒麦(神に逆らう者)を蒔くのです。世の終わりに神によって収穫が行われます。神が良い麦と毒麦を選別なさるのです。畑の主人が僕たちに望んでいるのは、毒麦を抜き集めることではなく、良い種を畑に蒔くことです。御国に生きる者たちは、神による刈り入れを待ち、良い種の力と命を信頼しつつ種蒔き続けるべきなのです(37-39節)。

 私たちがいただいている天国の良い種(神の国の福音)には、人を真に生かす豊かな命と大きな力が宿っているのです。

2018年6月10日
説教題 「百倍の実を結ぶ良い地」
聖書箇所 マタイによる福音書第13章1節~23節
説教者 安井 光 師

 教会の伝道の働きは「種蒔き伝道」と言われたりします。実にイエスご自身の宣教が「御言(福音)」の種蒔きでした。イエスは御許に集まった群衆に対し、「耳のある者は聞くがよい」と言われ、御言をどう受け取るべきなのかを種蒔きの譬を用いて説明されました。

 種蒔きが種を蒔きました。ある種は「道ばた」に、ある種は「石地」に、ある種は「いばらの地」に、ある種は「良い地」に落ちました。足で踏み固められた道端に落ちた種は、芽を出すことができず、鳥に食べられてしまいます。石地に落ちた種は芽を出しましたが、根を降ろすことができず枯れてしまいます。茨の地に落ちた種は地に根を降ろしますが、茨に塞がれて実を結べません。良い地に落ちた種は、すくすくと成長し豊かに実を結ぶのです。

 四つの所に蒔かれた種は、同じただの一粒でしたが、良い地に蒔かれた種は「百倍…六十倍…三十倍」もの実を結んだのです。蒔かれた「種」とは「御国の言」「御言」でした。イエスは一人一人の心に御言の種を蒔かれるのです。イエスの御言を信じて心に受け入れた人(弟子たちやイエスに従った人々)は、百倍ともいうべき人生の一大変化を経験したのです。イエスの御言、またイエスご自身には永遠に至る祝福の実を結ばせる命と力がみなぎっているのです(ヨハネ1:1-、12:24)。

 偏見、先入観、知識、自分の考えによって固められた心では、御言を聞いても「天国の奥義」を悟ることはできません(道端)。単なる教訓として御言を聞いていては、御言は心に根を降ろさず、人生に生きて働くことはできません(石地)。御言が心に奥底(魂)に語られているのに、生活のことで思い煩い、信仰の目が塞がれてしまうと、神の豊かな祝福を味わうことができないのです(茨の地)。罪の問題、生活の問題、死の問題も、イエスが解決を与えて下さいます。御言がその証(約束)です。御言を「良い地」に宿すことが求められるのです。

 「良い地」とは「御言を聞いて悟る人」であり、その心は神に明け渡され、神によってよく耕されています(マタイ5:3を参照)。御言を受け入れる砕かれた柔らかな心です。私たちは畑の主人や所有者であるのではありません。主イエスこそが畑の主人であり収穫の主であって、私たちは主の畑の働き人であり、また主の畑そのものでもあるのです。ですから自らを主に明け渡したいと思います。主が良い地として下さり、百倍の祝福の実を結ばせて下さいます。

2018年6月3日
説教題 「イエスの家族」
聖書箇所 マタイによる福音書第12章46節~50節
説教者 安井 光 師

 イエスが群衆に教えを語っておられた時、イエスの母マリヤと兄弟たちがイエスと話すためにやってきました。すでに親族らはイエスの気がおかしくなったのではと思い、イエスを取り押さえにもきていました(マルコ3:21)。マリヤらにとってイエスは大切な家族でした。息子であるイエスのことを心配し、イエスを呼び戻そうとしたのかもしれません。

 マリヤはイエスが神の御子であり、キリスト(油注がれた者=救い主)であることを知っていました(ルカ1:36-)。ところが、マリヤは〝わが子〟という情をイエスに抱くようになり、人間的な絆でイエスを自分と結び付けていたのです。血縁による絆は尊いものです。血縁は家族の中心にあるもので、あらゆる人間関係の中で最も太く強く深い結び付きと言えます。しかしこの結び付きが絶対化されてしまうと、本来第一とされなくてはならない神との関係を正しく結ぶことができなくなるのです。

 イエスは弟子たちを指しながら、「ごらんなさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる」と言われました。「天にいますわたしの父のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、また姉妹、また母なのである」と、血縁や人間的な結び付きを越えた神による新しい関係を示されました。イエスの父である神の御心を行う者とは、イエスを神の御子キリストと信じて、イエスを心に迎える人です(ヨハネ6:38-40)。イエスはそれらの人たちを兄弟姉妹、神の家族と呼ばれるのです。私たちはイエスによる契約と信仰をとおして神の家族の輪に加えられ、イエスの家族とされるのです(ヨハネ1:9-13、ガラテヤ4:4-7)。

 「天の…父のみこころ」は、私たちがイエスの愛のうちにとどまって、神を愛し、隣人を愛し、互いに愛し合うことも含まれています(ヨハネ15:9-17)。まことの神を知らず、互いに無関係で愛の無かった者たちが、そのような愛に生きるようにされていくのです。このことが、ただ神の恵みにより信仰によってなされていくのが、イエスの兄弟姉妹であり、イエスの家族なのです。

 イエスは母マリヤを捨て、肉の兄弟たちと縁を切ったのではありません。イエスは十字架上で弟子ヨハネにマリヤを託しました。また兄弟たちはイエスの昇天後、イエスをキリストと信じて真の意味での家族とされたのです(使徒行伝1:14、実弟ヤコブは初代教会の指導者となった)。私たちの肉の家族関係も、イエスによって新しく結び付けられることをとおしてより良くされていくのです。