2019年12月1日
説教題 「救い主は小さい者のところに」
聖書箇所 ミカ書第5章1節~4節
説教者 安井 光 師

 預言者ミカは、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤが南ユダ王国を治めていた時代(BC8世紀)に活動しました。その頃、イスラエルは南北に分裂し、南北両王国とも富と繁栄を誇っていました。ところが信仰的には荒廃し、人々は偶像礼拝に陥り、霊的に堕落し、危機的状況にありました。ミカは両国に押し迫っていた危機を察知し、エルサレムとサマリヤ(両国の首都)の人々に対して神のさばきについて語りました(1:1-9)。それとともに、神の救いのご計画を示され、救い主誕生の預言をしたのです(5章)。

 ミカは、救い主がベツレヘムに誕生することを預言しました(2節)。「ベツレヘム・エフラタ」は、エルサレムの南にある寒村でした。しかしその「小さい者」の中から、「イスラエルを治める者が…わたしのために出る」と神は約束されました。これは「昔から、いにしえの日から」神がご計画しておられたことでした。この救い主は神の民を平安のうちに導く者となり、その支配は「地の果てにまで及ぶ」と言われました(4節)。この預言のとおり、イエス・キリストはベツレヘムにお生まれになったのです。

 ベツレヘムはダビデ王の出身地でした。ダビデはエッサイの末息子で、自らも小さい者であることを自覚していましたが、神はそんな小さなダビデを選ばれました(Ⅰサムエル16:12、18:18)。ベツレヘムもダビデも小さい存在でしたが、神は御心に留められ、特別に憐れみをかけられました。神は御子イエスを世の救い主として、ダビデの家からベツレヘムに誕生させたのです(マタイ2:5-6、ルカ2:11)。イエス・キリストは、小さい者、取るに足りない者、無きに等しい者、私たち罪人を救うために、小さい者のところにお生まれになったのです(Ⅰコリント1:26-28)。

 新聖歌84『ああベツレヘムよ』の四節に、「ああベツレヘムのきよき御子よ 今しもわれらに降り給え 心をきよめ宮となして 今よりときわに住まい給え」とあります。この歌詞には、私たちがクリスマスをどのように迎えるべきかが示されています。ベツレヘムの羊飼たちのように、謙って救い主イエスを心にお迎えしようではないでしょうか。今からのち永久に、わが心に、小さき者の中にお住み下さいと祈りたいと思います。また、救い主誕生の良き知らせを告げ知らせてまいりましょう。

2019年11月24日
説教題 「イエスの逮捕」
聖書箇所 ヨハネによる福音書第18章1節~11節
説教者 安井 直子 師

 イエスがケデロンの谷の向こうにある園に行かれた時、裏切り者のユダがローマの兵士や祭司長・律法学者の下役どもを引き連れ、イエスを逮捕するために来ました。イエスはすべてを承知しておられて、ご自分の方から進み出て彼らに言われました。「だれを捜しているのか」。彼らが「ナザレのイエスを」と答えると、イエスは「わたしが、それである」(6節)と答えられました。彼らはイエスの毅然とした言葉と態度に驚き、圧倒されて地に倒れた者もいました。

 ヨハネ福音書だけが、イエスが弟子たちを守るために毅然として敵に立ち向かわれた様子を記しています。今この時も、悩み・苦しみの中にいる方がおられるでしょう。イエスは、暗闇の中で敵に取り囲まれているように、私たちがどんな状況に置かれるようなことがあっても、私たちの前に立って「わたしが、それである」「わたしこそ神である」とご自身を表し、私たちを悪から守り救って下さるお方です。

 イエスと共に死ぬ覚悟であったペテロは、イエスを守ろうとして剣を抜き、大祭司の僕に切りかかりその僕の右耳を切り落としました。主をお守りしたいというペテロの熱意と勇気は立派と言えますが、やはり浅はかで衝動的行動に過ぎません。するとイエスは「剣をさやに納めなさい。父がわたしに下さった杯は、飲むべきではないか」と言われ、神のご計画がなるように、神に委ねなさいと言われたのです。

 私たちも試練や危機的状況に置かれた時、自分から行動を起こして、無理やり決着をつけようとしてしまうことはないでしょうか。しかし私たちはまず、神を信頼し、神にお任せすること、お委ねすることが大切です。イエスご自身が「敵を愛し、迫害する者のために祈れ。」(マタイ5:44)と語られたように、最後まで徹底して父なる神の愛と平和を貫き通されたことを覚えたいと思います。

 イエスは、父なる神から与えられた使命のため、私たちの罪を背負って十字架にかかるために、自ら進み出て「わたしがそれである」と言われました。そしてエルサレムを目指して進まれ苦難を受け取られました。仕方なくでも嫌々でもなく、後になって全ての人を罪から滅びから救う喜びに変わるものだと確信しておられたからです。災いと思えるようなことがあっても、必ず素晴らしい祝福に変わるのです。イエスの教えに感謝し、神から与えられる杯を、信仰を持って受け取ることができるようになりたいと思います。

2019年11月17日
説教題 「小さき者のひとりに」
聖書箇所 マタイによる福音書第25章31節~46節
説教者 安井 光 師

イエスは再臨なさる終わりの日に、「羊飼が羊とやぎを分けるように」、御国を受け継ぎ 永遠の生命に入る者とそうでない者に選り分けると言われます(31-35、45節)。生きている者も死んだ者も、ユダヤ人も異邦人も、信者も未信者も、「すべての国民」を御前に集めて審きを行われるのです。

 何を判断基準に選り分けるのでしょうか。それはイエスに対してなされた愛のわざによってでした。全世界を統べ治めておられる「王」なるイエスは、すべての国民が小さな愛のわざに生きたかどうかを見ておられるのです(35-36節、42-43節)。本人たちも気づいていないような小さな愛のわざを、この王は見ておられるのです。「小さい者のひとり」にしたわざを、ご自身にしたのと同じこととして見ておられるのです(40節)。

 聖書は信仰義認を教えていますが(ローマ3-4章)、結局は愛のわざや善い行いによって、天国に入るかどうかがはかられ、振り分けられてしまうのでしょうか。そうではありません。イエスが求めておられるのは信仰です(ヨハネ3:16、14:1、ヘブル11:6)。ただその信仰を吟味なさるのです。イエスを信じるというのは、イエスの十字架の贖いを信じ、復活の命と希望を信じることです。「信じた」という過去の出来事で終わらず、今現在、私の神、私の救い主と信じて生きること、終わりの日に世に来られるのを待ち望みながら生活することです。信仰は小さい者を愛し敬うという生き方となり生活となるということを、イエスは教えておられるのです。

 小さい者を愛されたのは、他ならぬイエスご自身でした。イエスを信じる者はイエスを愛します。イエスを愛し敬うなら、小さい者たちを自ずと愛し敬うことなる。イエスにしていると思わないまでに、そうするはずなのです。私たちがそうする前に、イエスが私たち(小さい者)を愛し尊んでおられる事実を忘れてはいけません。主を愛し、隣人を愛することは、主の命令ですが、強いられてではなく、愛された者としてさせていただけるのです(申命記10:12-22)。

 主イエスは私たちが主の愛を信じて生きることを求めておられます。私たちの生涯に目を注ぎ、小さい愛のわざに心を留めておられます。意識しないままに小さいひとりを愛し重んじることができますように、私たちは主の愛を信じ、主の愛に生かされてまいりましょう。

2019年11月10日
説教題 「タラントを用いる」
聖書箇所 マタイによる福音書第25章14節~30節
説教者 安井 光 師

 イエスは、弟子たちが終末に向けてどう生きるべきかを教えるために、自分の財産を僕たちに預けて旅に出る主人の譬を語られました。

 主人は僕たちに「自分の財産」=「タラント」を預けました。1タラントは当時の労働者の20年分の給与に相当する大金でした。5タラント預かった僕と2タラント預かった僕は、それを資本金にして商売をし、それぞれ5タラント、また2タラントを儲けました。ところが1タラント預かった僕は、そのお金を用いず土の中に隠してしまいました。やがて主人が帰ってきて僕たちと清算をしました。主人は、5タラントの僕と2タラントの僕を「良い忠実なしもべよ、よくやった」と褒め、さらに多くのものを任せました(21、23節)。1タラントの僕に対しては、「悪い怠惰なしもべよ」と叱り、家から追い出してしまうのでした(26-30節)。

 私たち各自にも、神から様々なタラント(タレント=才能)が与えられています。各自同じではありません。他の人とは違うタラントが与えられています。周りと比べるのではなく、自分に与えられたタラントに目を注ぎ、その大きさと豊かさを知るとともに、それを託された主なる神の御心を心に留めなくてはなりません。1タラントの人は、5タラントや2タラントを持つ人を羨ましく思い、不公平に感じるかもしれません。しかしタラントは各自の占有物ではなく、主の財産であり、主は各自に管理責任を託しておられるのです(14節)。

 主人が僕たちに求めていたのは、タラントを正しく管理することでした。同じことを行うことや同じ成果を求めたのではありません。1タラントの者に対して、5タラントや2タラントを求めたのではないのです。ただ自分に託されたものに「忠実」であることを求めていたのです。私たちの主人であるイエス・キリストは、私たちに無理難題を押し付け、理不尽な要求をする酷な方ではありません。居眠りをし失敗を犯す弟子たちを愛し貫かれるお方です。主を不必要に恐れたり、卑屈になったりするのでなく、主が自分に託されたタラントに誠実であるべきなのです。

 才能や能力をはじめ、命、人生、時間、お金、課題など、主は多くのものを各自に託され、その管理を委ねておられます。各自が置かれているところで、主を信じ仰ぎ、託された事柄に向き合うことを求めておられます。主が戻ってこられる日、終わりを迎えるその時まで、託されたタラントを精一杯用いていきましょう。

2019年11月3日
説教題 「名前を呼ばれたザアカイ」
聖書箇所 ルカによる福音書第19章1節~10節
説教者 安井 光 師

 ザアカイは取税人でした。町の人から余計にお金を集めては、自分のものにしていました。名前は「ザアカイ=きよい人」でしたが、わがままな思いや欲張りな気持ちで心の中がいっぱいでした。ザアカイは町中の嫌われ者でした。誰にも相手にされず、ひとりぼっちでした。取税人の頭で金持ちでしたが、心は虚しく、寂しい思いをしていました。

 ある日、ザアカイのいたエリコの町をイエスが通られました。ザアカイはイエスを見たいと思い、いちじく桑の木に登りました。ちょうど木の下に来られた時、イエスは上を見上げて「ザアカイよ、急いで下りてきなさい。きょう、あなたの家に泊まることにしているから」と呼びかけられました。初対面でしたが、イエスはザアカイのことを知っておられ、彼のことを心にとめておられたのです。ザアカイに会いたいと考えておられたのです。

 ザアカイは下りてきて、喜んでイエスを家に迎え入れました。イエスは罪人ザアカイの家の客となられました。イエスを心にお迎えした時、ザアカイの心は変わりました。罪が除かれ、心がきれいにされたのです。心が喜びで一杯になり、神の愛で満たされたのです。イエスがそうして下さったのです。イエスは言われました、「人の子がきたのは、失われたものを尋ね出して救うためである」。「人の子」とはイエス、「失われたもの」とは天の父ある神から離れて、迷子になっている人のことです。聖書は「罪人」と呼んでいます。

 ザアカイは神の許から離れ、迷子になって、欲張りな心になり、わがままに振る舞い、人々を苦しめ、嫌われ者になっていました。お金持ちになっても、心に喜びがなければ、心に平安がなければ、幸せだとは言えません。イエスは、神の許から離れて迷子になっていた罪人ザアカイを尋ね出して救うために来られ、ザアカイの家に入られました。イエスはザアカイの心の中に入られたのです。ザアカイはイエスを心にお迎えしたのです。

 イエスは神の一人子、救い主です。イエスは私たち一人一人を愛され、一人一人のことを思っておられます。イエスは一人一人の名前を呼ばれるのです。ザアカイの名を呼ばれたように、イエスは私たちの名前を呼ばれます。私たちの心の扉をノックされます。イエスは私たちの心の中に入りたいと願っておられるのです。イエスはいつも私たちに呼びかけておられます。喜んでイエスを心にお迎えしましょう。

2019年10月27日
説教題 「再び来られるキリスト」
聖書箇所 コリント人への第一の手紙第1章4節~9節
説教者 安井 光 師

 使徒信条に、主は「かしこより来りて」とあります。主イエスが昇天された時、神は御使をとおしてイエスが再び天から地上に来られることを弟子たちに告げられました(使徒行伝1:11)。イエスご自身、「わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない。あなたがたのところに帰って来る」(ヨハネ14:18)と約束しておられます。主の再臨の約束は、迫害や試練の中にあるクリスチャンたちに大きな励ましと希望を与えました(ヤコブ5:8)。実に新約聖書には三百以上も再臨に関する記述があるほどに、主が再び世に来られることは、私たちにとって重要な事柄なのです。

 「生ける者と死にたる者とを審きたまわん」ために、イエスは再びこの世に来られます。世の中には悪や不正が蔓延っていますが、最後にすべての清算がなされるのです。イエスが再臨され、終わりの日が訪れる時、すべての人が神の審きを受けるのです(Ⅱコリント5:10、ローマ14:10)。この世では見逃され、無視される小さなことでも一つ一つ確かめられ、悪は悪とされ、最終的な神の審判が下されるのです。誰も言い逃れや言い開きはできません。

 私たち各自は罪人であるので、神から有罪判決を受けて罪の報いを受けなければならない者たちです。けれども、それに先立ってイエスが私たちの身代わりとなって罪に定められ、十字架において刑罰を受けて下さいました。イエスを救い主と信じる者は、この事実、この恵みに留まることによって、死と死の後にある審きを恐れることなく、感謝と喜びをもって迎えることができます。その日に、イエスが彼を贖う者として来られ、弁護者として立たれるからです(ヨブ19:25-27)。

 初代教会のクリスチャンたちは、「わたしはすぐに来る」と言われた主イエスの約束を心から信じて、「アァメン、主よ、きたりませ」と主の来臨を心待ちにしながら生活をしていました(黙示録22:20)。世を審くために来られる主を待ち望むことができるのは、主は私たちを滅ぼしに来られるのではないからです。主は私たちを天の御国に招き入れるために来られるのです(ピリピ3:20)。主イエスを信じる者には、この確信が与えられています。最愛の主を待ち望む生活は決して退屈ではありません。信仰を抱き、備えをして主をお迎えしましょう。

2019年10月20日
説教題 「油を絶やさない」
聖書箇所 マタイによる福音書第25章1節~13節
説教者 安井 光 師

 終末の時代をいかに生きるべきか、イエスは花婿の到着を持つ十人のおとめに譬えられました。十人のおとめは婚宴に招待されていた花嫁の友人たちでした。おとめたちは、「あかりを手にして」花婿の到着を待っていました。ところが花婿の到着が遅れたため、彼女たちは「みな居眠りをして、寝てしまった」のでした。

 「待つ」ことは人間にとって日常的な行為です。通学や通勤の時間には、バスの到着を待ちますし、青信号になるのを待つでしょう。人々は政治経済が安定を待ち望み、世界的平和の実現を待望しています。人生とは待つこと、待望の連続ではないでしょうか。待つことには忍耐を要します。時には長く待たされることがあります。「その日その時が…わからない」ため、備えが必要です。

 夜中に「さあ、花婿だ、迎えに出なさい」と呼ぶ声がしたので、十人のおとめたちは起きて灯を手にしますが、火が消えかかっていました。思慮深い五人は「あかりと一緒に、入れものの中に油を用意して」いました。思慮の浅い五人は「油を用意していなかった」ので油を分けてくれるよう頼みますが、お互いに足りるだけはありませんでした。そこで油を買いに出かけますが、その間に花婿が到着し、思慮深い五人だけが婚宴の部屋に招き入れられ、戸が閉じられてしまったのです。

 十人のおとめたちの明暗を分けたのは、花婿を出迎えるために灯の油を用意していたか、どうかということでした。その違いが、両者の賢さと愚かさを決定づけることになったのです。終末の時代にあって、いつ花婿なるキリストが来られても慌てず迎えられるように、私たちは「油」を用意していなくてはなりません。この「油」とは、御霊、神の愛、恵み、希望、喜び、信仰、またらそれらから生じる愛の行いであると言われます。

 四六時中、主の再臨や終末のことを考えることは無理でしょう。イエスは「目をさましていなさい」と注意喚起しておられる一方、私たちが「居眠りをして、寝て」しまう弱さを持つことを受けとめておられます。油の用意があるか、そのことを私たちに問われるのです。聖日礼拝は、私たちのうちに「油」を蓄える大切な時間です。また日々の生活の中で御前に静まるひと時をとおして、私たちは主から油の供給を受けるのです。闇が覆うこの世にあって灯を燃やし続けるためにも、油を絶やさないでいましょう。

2019年10月13日
説教題 「堅く立つ御言葉」
聖書箇所 マタイによる福音書第24章29節~51節
説教者 安井 光 師

 「天地は滅びるであろう」とイエスは言われます。天体にも寿命があることが分かっていますが、地球も人間もいつかは過ぎ去ってしまうのです。すべてのことに始まりがあるとともに、終わりがあります。歴史は終末に向かっては進んでいます。各自も人生を終える日がやってきます。「天地」は神が造られたものだからです(創世記1章)。人間が作り出してきたものも、永遠ではなく過ぎ去るのです。私たちはこのことをわきまえていなくてはなりません。

 イエスは終末について教えを、ご自身の再臨と密接な関わりを持つ事柄として述べておられます。世の終わりが来る、天地は滅びると、煽っておられるのではないのです。家の主人が自分の家に帰ってくるように、イエスはご自分が再びこの世に戻ってこられることを予告しておられるのです。いちじくの木の様子から収穫の時が近いことを人々が悟るように、世の中の様々な事象に注視しながら、終末が近づいていることを悟るように教えておられるのです(32-33節)。

 ではそれは何時なのでしょうか。「その日、その時は、だれも知らない。…ただ父だけが知っておられる」、それは「ノアの時のようであろう」とイエスは教えておられます。飲食をし、幸せな家庭生活を営んでいるような日常であるというのです(38節)。ノアの時代の人々は、自分たちが滅びてしまう者であることを悟らず、神に背を向け、ひたすら自分たちの力で生き続けようとしていたのです。

 すべてが滅びる現実を直視する一方で、「滅びることがない」とイエスが教えておられることに心を向けなくてはなりません。「わたしの言葉」、神の言、御言葉は「滅びることがない」のです。神の言(御子イエス)は天地の造られる前から神と共にあります。天地は御言葉によって造られたのです(ヨハネ1:1-4)。天地を造られた方は永遠不滅であり、すべての初めと終わりを支配しておられます(黙示録1:17-18)。この方を信じる者も滅びないのです(ヨハネ3:16)。

 聖書は神の言です。救い主イエスを証しする書です。人は初めから神の言を必要とする存在として造られているのです(マタイ4:4)。御言葉を信じ、御言葉によって生かされる時、私たちは滅びることはないのです。終末の時代を生き抜くためにも、御言葉に生きることが大事です。御言葉に生かされ、主を待ち望む生活(44-45節)を送らせていただきましょう。

2019年10月6日
説教題 「天に国籍を持つ」
聖書箇所 ピリピ人への手紙第3章17節~21節
説教者 安井 光 師

 「兄弟たちよ。どうか、わたしにならう者となってほしい」とパウロは呼びかけています。私たちが倣うべき完全な模範はイエス・キリストですが、パウロは一人のキリスト者として「わたしにならう者となってほしい」と勧めているのです。そうパウロが言うのは、彼が完全な人間とされていたからではありません。彼はただイエスに目を注ぎ(ヘブル12:2)、天を仰ぎながら生活していたのです(13-14節)。

 桑原教会の召天者たちは、私たちに模範を示して下さいました。彼らが示された模範は、イエス・キリストを信じる者だけが示し得る模範です。その模範とは、救い主であり真の模範者であるイエスに寄りすがりながら、「わたしたちの国籍は天にある」と確信し、また天に希望を見出して生きる人生そのものです。パウロ同様に召天者たちも、「どうか、わたしにならう者となってほしい」と私たちに呼びかけているのではないでしょうか。

 かつてパウロは、「キリストの十字架に敵対して歩いている者」の一人でした。「地上のこと」ばかり考え、「滅び」に向かって歩んでいたのです。しかし天からキリストの語りかけを聞いて(使徒行伝9:3-)、神の愛と自らの罪を示され、悔い改めて十字架のキリストを信じて救われ、十字架を誇りとして生きるようにされたのです(3-9節)。人生観の大転換が起こり、天を想い、天を仰いで生きるように変えられたのです。召天者たちの生涯にも同様のことがなされたのです。

 国籍が天にあるということ、それは私たちが永遠に生きる住まいが天に用意されているということです(ヨハネ14:1-6)。「国籍」と訳される言葉(ポリテューマ)には「市民権」という意味もありますが、天に国籍を持つことは、また揺るがない確かな所在を私たちが持つことなのです。国籍が天にあるという事実が人生の確かな土台となり、希望と喜びと平安に満ちた幸いな人生を私たちに送らせる力となるのです。

 桑原教会の召天者たちは、イエス・キリストを信じ、「わたしたちの国籍は天にある」と確信して生涯を全うされ、天の御国・神の国に生きる民の模範を私たちに示して下さいました。私たちもやがて天に召されますが、召天者たちに倣い、「我らの国籍は天にあり」と証ししつつ、人生の旅路を歩ませていただきましょう。

2019年9月29日
説教題 「イエスの祈り」
聖書箇所 ヨハネによる福音書第17章1節~5節、11節~13節、20節~26節
説教者 安井 直子 師

 17章はイエスが十字架にかけられる前の最後の祈り、遺言の祈りで、それは残される弟子たちが一つであるように、また弟子たちが建て上げる教会が一つであるようにということでした。しかし「一つである」ということは、なかなか難しいことです。そのためにイエスは特別に祈られたのではないでしょうか。この祈りは大きく分けて三つの祈りからなっています。

 第一は、イエスご自身のための祈りで、父なる神とイエスの栄光が現わされるようにとの祈りです。イエスの栄光とは、イエスの十字架の死と復活を通して、イエスを救い主と信じる者すべてが永遠の命をもつこと、父なる神がご計画された世の救いの御業が完成することがご自身の栄光であったのです。

 第二は、弟子たちのための祈りです。この世において弟子たちを守って下さるように、この後に起こってくるクリスチャンへの迫害ということを思いにいれて、「彼らを悪しき者から守って下さい」と祈られたのです。また、弟子たちが一つになるために、彼らを守って下さいと祈られました。そして弟子たちを世に遣わすために、真理の御言葉によって聖別して下さいと祈られました。それは弟子たちが患難に遭遇する中にあって、主の証人として生き抜いていくためでした。

 最後、第三は、神様・御子なるイエス様・聖霊なる神が一つであられるように、教会が一つであるように、一致するようにと祈りをささげられました。それはイエスを救い主と信じ告白する者が互いに愛し合うことによって一つになり、教会が一致するようになるためです。そのためにはイエス・キリストの御名によって、キリストの愛のゆえにひとつとなることです。「Ⅰコリント12:20∼」の体の肢体がそれぞれ異なった働きを持っているように、クリスチャンも多種多様な存在であるけれどキリストの体とされていることのゆえに一つなのです。私たちはなかなか兄弟姉妹を愛することができない、赦すことができない者ですが、教会のかしらであるイエス・キリストが祈っておられ、期待しておられるのは、「わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためであります。」というこの言葉です。私たちのために今も祈っていて下さいます。私たちは主の祈りに支えられて、この世にあってもすべての悪から守られ、兄弟姉妹と主にあって一つであることを大切にしながら、福音を宣べ伝えていこうではありませんか。