2018年12月2日
説教題 「主のお言葉どおりに」
聖書箇所 ルカによる福音書第1章26節~56節
説教者 安井 光 師

 マリヤはガリラヤの町ナザレに住む一処女で、ダビデの家系にあるヨセフと婚約していました。神はマリヤの許に御使を遣わし、イスラエルの民が久しく待ち望んだ救い主を受胎したことを告げ知らせました。救い主の母として選ばれたマリヤは「恵まれた女」であり、この告知は「おめでとう」と祝福せずにはおれないめでたい知らせでした。しかし「主が共におられ」るのでなければ、受けとめることができないような重大な告知でもありました。マリヤは動揺し、「どうして、そんな事がありえましょうか」と胸の内を訴えました。けれども主の御告げを退けてしまうのでなく、「神にはなんでもできないことはありません」と御使から励ましを受け、「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように」と告白し、全能者なる主にすべてを委ねたのです。

 マリヤは多くの人々から愛される女性です。それはイエス(神の御子・救い主)の母となったからですが、またマリヤが主の御言葉を信じ、主を信頼する人だったからなのです。マリヤは、「主のお語りなったことが必ず成就すると信じた女」でした。マリヤは、自分が主なる神の支配の下に生かされている身であることを自覚し、主の御心がなされることを願い、身も心も主に委ねました(38節)。マリヤは、主が本当に偉大な方で、人知を超えた計画を持っておられ、人と関わりを持たれ、御心を成し遂げられる真に力ある神であると信じていたのです(46-47節)。故にマリヤは、恵まれた女であり幸いな女なのです。

 「聖母マリヤ」と呼ばれ世界で賞賛されますが、彼女の素晴らしさは主の御言葉を信じ、主に委ねた信仰にあります。マリヤも私たちと同じ弱さを身に帯びた罪人なのです。マリヤ本人がそのことを自覚していました(48節)。そんなマリヤに神の御子、救い主が与えられたのです。いやマリヤだけではないのです。御使は、救い主の降誕の出来事はすべての人に与えられた大きな喜びであると告げています(2:10-11)。この知らせは人間の考えや常識を超えており、なかなか信じがたいことかもしれませんが、神の救いと祝福とが伴っています。主なる神は今も聖書の御言葉をとおして、救いのメッセージを私たち一人一人に語り続けておられるのです。御子を救い主として与えて下さった主の御心のままに、御言葉に従って歩ませていただきましょう。

2018年11月25日
説教題 「からし種一粒の信仰」
聖書箇所 マタイによる福音書第17章14節~23節
説教者 安井 光 師

 イエスは神の栄光を放棄して、苦悩する人間の現実世界へと向かわれました。イエスが山を降りると、ひとりの人が近寄ってきて跪き、てんかんで苦しむ我が子を治してほしいとイエスに懇願しました。弟子たちにお願いしたが、彼らには治せなかったというのです。

 「ああ、なんという不信仰な、曲った時代であろう」とイエスは言われました。イエスは弟子たちの失態を嘆かれたのでしょうか。そうではなく彼らの「不信仰」を嘆かれたのです。弟子たちは全能の神を信頼せず、苦しむ親子をそっちのけで律法学者たちと議論を戦わせていたのです(マルコ9:14)。周囲には大勢の群衆が野次馬のように取り囲んでいました。不信仰が世界全体を覆っていたのです。

 この世は神に対して反抗を続け、人の心と思いは神に真っ直ぐに向かっていません。神はそのような「不信仰な、曲った時代」を見捨てず、憐れんで救うために御子イエスを救い主としてこの世界に遣わされたのです(イザヤ46:4、使徒行伝2:40)。イエスは子どもを癒されました。世の人々の不信仰が正されるために、イエスは十字架の道を進んでいかれるのです(22-23節)。

 神は私たちに「信仰」を求めておられます(ヘブル11:6)。イエスは弟子たちに「信仰が足りない」と言われました。信仰は大きさとか量ではかられるものではなく、私たちの中で信仰が生きて働いているかではかられるのです。またイエスは弟子たちに、「もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら…」と言われました。からし種は吹けば飛んでしまうようなごく小さなものですが、それが畑に蒔かれれば、成長して鳥が宿るほどの大きな木となります(13:32)。山のような動かしがたい難題に直面しても、イエスに信仰を働かせるなら動かすことができるのです(20節、17:5)。

 私たちの信仰は具体的に祈りをとおして働きます。神に祈る時、私たちの心を真っ直ぐに神に向かっているでしょう。祈りは私たちと神を結ぶライフラインです。熱心に祈れば神は何でも願いを叶えて下さるのか、祈りが聞かれないのは願い求めが足りないからなのでしょうか。そうではありません。祈りは一方通行ではありません。主の語りかけを聞くこと、主の御心を受け入れることも祈りであり、生きた信仰を正しく働かせることなのです。

 私たちには、イエスにより聖霊によってからし種一粒の信仰が与えられています。この生きた信仰を真実に神に向けて働かせましょう。

2018年11月18日
説教題 「イエスの栄光」
聖書箇所 マタイによる福音書第17章1節~13節
説教者 安井 光 師

 イエスはで弟子たちに十字架の道(16:21-28)について語られた後、ペテロ、ヤコブ、ヨハネを連れて高い山に登られました。すると、彼らの目の前でイエスの姿が変わりました。「その顔は日のように輝き、その衣は光のように白くなった」のです。この世のものとは思えない輝きでした。弟子たちはイエスの栄光の姿を目撃したのです(ルカ9:32)。それは、神の独り子としてのイエスの本来の姿でした(ヨハネ1:14)。ペテロは目撃者として、後にこの出来事の意義について証言しています(Ⅱペテロ1:16-19)。

 イエスが栄光の姿に変えられた時、モーセとエリヤが現われてイエスと語り合っていました。モーセは旧約の律法を、エリヤは旧約の預言を象徴し、言わば旧約を代表してイエスと面会したのです。「イエスがエルサレムで遂げようとする最後のことについて話していた」(ルカ9:31)のです。それは、聖書全体に貫かれた神のご計画についてであり、イエスの十字架の死と復活(22節)をとおして成し遂げられる世の罪の贖いのことでした。イエスは私たち罪人を救うために、神の御子としての栄光を放棄し、僕の姿となって十字架の道を進まれるのです(ピリピ2:6-11)。

 ペテロはイエスの栄光を目撃し、イエスとモーセとエリヤのために「小屋(幕屋の意)を三つ建てましょう」と提案しました。彼はこの時、状況がよく飲み込めなかったのでしょう。しかしその提案は、イエスが十字架の道を進まれるのを阻む行動であり、ひいては十字架に進まれるイエスの後に従うことをためらう弟子たちの心情を示していたとも言えます。そんな弟子たちに対し、天から語りかけがなされました。「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。これに聞け」と。神は、十字架の道を進む御子イエスに聞き従うことを弟子たちに命じられたのです。

 主イエスに従う歩みとは、人間的に見れば輝かしく華やかなものではないかもしれません。神は、私たちが素晴らしい人間になり輝かしい生活を送って、人々から賞賛されることを求めておられるのではありません。主に聞き従う生活をとおして、主の御名が崇められほめたたえられること、そして私たちが主の栄光にあずかることを願っておられます。主は私たち弟子たちを置いて、ひとり進んでいかれるのではありません。主は私たちに近づき、手をおいて私たちを励まされ、私たちを伴い行かれます(7節)。主を信頼し、主に聞き従いましょう。

2018年11月11日
説教題 「弟子の足を洗うイエス」
聖書箇所 ヨハネによる福音書第13章1節~17節
説教者 安井 直子 師

 いよいよイエスが十字架にかかる時が近づいてきました。そしてイエスはこれから起こるであろうユダや弟子たちの裏切りをご存知でした。しかしイエスは、そんな弱い彼らのことを「最後まで愛し通された」のです。

 「過越の祭の前」に、イエスは12人の弟子たちと夕食を共にされました。するとイエスは夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを腰に巻き、水をたらいに入れて、弟子たちの足を洗い、腰に巻いた手ぬぐいでふき始められました。弟子たちはどんなに驚いたことでしょう。このように足を洗うのは奴隷の仕事でした。だからイエスがなぜこのような事をなさるのかわからず、唖然としていたのです。しかしペテロは自分の番になった時、イエスに言いました。「わたしの足を決して洗わないで下さい」と。なぜペテロは拒んだのでしょうか。イエスに対する申し訳なさや謙遜から出た言葉のように聞こえますが、イエスの御業を無理解のまま妨げようとする傲慢な言葉でもあるのです。私たちも無理解さの故に主の恵みを妨げないように、ただ主に従う者でありたいと思います。拒んだペテロにイエスは「もしわたしがあなたの足を洗わないなら、あなたはわたしとなんの係わりもなくなる」と言われました。焦ったペテロは「主よ、では、足だけではなく、どうぞ、手も頭も」とお願いします。しかしイエスは「あなたがたはきれいなのだ」と言って下さるのです。私たちはいつも主の愛と赦しの恵みに留まるべきです。

 弟子たちの足を洗い終えてイエスはもう一度席に戻り、そして彼らに教え始められます。「主であり、また教師であるわたしが、あなたがたの足を洗ったからには、あなたがたもまた、互に足を洗い合うべきである。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしは手本を示したのだ」(14,15節)。師であるイエスが僕の姿になられたことは、イエスがなさったように、弟子たち一人一人も互に足を洗い合うべきであり、仕え合う僕となるようにと手本を示されたのです。このあとイエスは、本当に十字架にかかってくださいました。ご自身の命を捨てて下さり、究極の愛を現わして下さいました。
 
 私たちも主の愛と罪の赦しの恵みを体験した者として、主の愛から離れないで、周りの人々を愛し、互いに足を洗い合うこと、自分から進んで仕える者とならせていただきたいと思います。

2018年11月4日
説教題 「マナとうずら」
聖書箇所 出エジプト記第16章9節~31節
説教者 安井 光 師

 イスラエルの人々は、神様が与えると約束された地を目指して旅を始めました。旅の途中で食べるものがなくなってしまいました。すると人々は、飢えて死にそうだ、こんなことになるならエジプトで死んだほうがマシだ…、と呟きました。神様は人々の呟きを聞かれ、天から食物(マナとうずら)を降らせ、人々のお腹を満たされました。そのようにして、神様は約束の地に向かう長い旅を守られたのです。

 神様は人々に日々必要な食物を与えられました。神様は私たちにも必要な食物を日々与えて下さっています。お食事を用意してくれるのはお母さん(奥さん)ですが、その基となる穀物や野菜や果物を実らせ、動物や魚を育てるなど、すべてのものを私たちに備えておられるのは、天地を造られ統べ治めておられる神様です。そのことを覚えなくてはいけません。十分に与えていただいているのに感謝することを忘れて、もっとおいしいものが食べたい、コレじゃあ満足できない、アレも欲しい、アレも自分のものにしたいと…となってしまってはいけません。神様が与えて下さるものを感謝していただかなくてはなりません(お母さんや奥さんにも感謝しましょう)。そうすることができなくなると、人と争ったり、人から奪い取ったり、人のものを盗んだりするようになってしまいます。欲しいものがあるなら、自分の力で手に入れようとするのではなく、神様に祈り求めていくべきです。本当に必要ならば、神様が必ず与えて下さいます。

 神様は私たちの必要なものを知っておられます。体のことだけでなく、心と魂に必要なものもご存知です。心に必要な食物は、神様のお言葉、聖書の御言葉です。御言葉は神様が与えて下さる心のマナ、心のごはんです。神様はイスラエルの人々に、毎朝その日に必要なマナを天から降らせ、その日食べる分を集めさせました。それと同じように、私たちは毎日心のごはんを神様からいただかなくてはいけません。日曜日の礼拝の時にいただくのも大事ですが、お食事をいただくように毎日心のごはんをいただきたいと思います。

 神様は私たちの心と体と魂に必要なものを知っておられ、私たちに与えて下さるお方です。私たちは神様が与えて下さるものを感謝しましょう。また必要なものは神様に祈り求めましょう。心のごはんである御言葉を毎日神様からいただきましょう。

2018年10月28日
説教題 「歴史に刻まれた十字架」
聖書箇所 ヨハネによる福音書第19章1節~16節
説教者 安井 光 師

 イエス・キリストは「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」たことを、我は信ずると私たちは告白します。なぜ使徒信条にローマの役人の名前が出てくるのでしょうか。それはイエスの十字架の苦難は歴史的な出来事であるからです。

 ポンテオ・ピラトは、パレスチナ全土がローマ帝国の統治下にあった頃、紀元26-36年の期間、ユダヤの総督を勤めていた人物でした。ユダヤの指導者である祭司長たちがピラトの許にイエスを連れてきたのは、イエスを十字架につける許可をもらうためでした。一切の権限をもつピラトは、「十字架につけされるために、イエスを彼らに引き渡した」のでした。

 イエスが「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」たことは、イエスの受難が、古代ローマ帝国が織り成していた歴史の一コマとして起ったということ、歴史上の出来事として起った事実であることを強く物語っているのです。二千年の歴史を隔て、遠い国で起った出来事と考えると、自分と関係性の薄い事柄のようにも思えるかもしれません。しかし私たちは「ポンテオ・ピラトのもとに…」と唱えるごとに、神の愛が出来事となって私たち人類の歴史に刻まれたことを覚えるのです。

 イエスがピラトによって十字架に渡されたのは、イエスがさばかれ罪に定められ、罪の刑罰を受けたことを示しています。イエスを十字架の死に定めた罪は「自分を神の子とした」冒涜罪ではありません。ユダヤの指導者たちの妬み、「イエスを十字架につけろ」叫んだ群衆の無知、自己保身のためにさばきを曲げたピラトの態度に現われている、この罪、すべての人の罪なのです。ピラトは私たち罪人の象徴なのです。人は誰一人として、イエスの十字架の苦難と死と無関係ではあり得ないのです。

 イエスがピラトのもとに受けられた十字架の苦しみは、私たち罪人に対して下さるべき神のさばきでした。神は私たちを救うために、私たちの身代わりとして御子イエスに十字架の死の刑罰を下されたのです。イエスの苦しみは、決して他人事ではないのです。私たちのための苦しみだったのです。「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」と唱えるごとに、私たちのためにイエスが十字架で御苦しみを受けられたことを胸に刻み、この恵みを感謝しつつ、悔改めと信仰をもって救い主イエスを仰がせていただきましょう。

2018年10月21日
説教題 「自分の十字架を負って」
聖書箇所 マタイによる福音書第16章21節~28節
説教者 安井 光 師

 イエスはペテロの信仰告白(16節)を受けて、ご自分がエルサレムで苦しみを受け十字架で死なれ三日目によみがえるという、神の救いのご計画を弟子たちに明かされました。ペテロは理解できず、「そんなことはあるはずはございません」と打ち消しました。イエスは、「サタンよ、引きさがれ」とペテロを激しく叱責されました。ペテロをはじめ弟子たちは、人間的な思いでキリスト(救い主)の理想像を思い描いていたのです。それは神の御心とは異なっていました(23節)。

 イエスが私たちに示しておられるのは十字架から復活へと続く道筋です。イエスが十字架で苦しみを受けられ、死んでよみがえられたことに私たちすべての者の救いがあります(Ⅰコリント15:1-4)。神はこの出来事をとおして、私たちに対する愛を明らかにされました。人生の長い道程において、自分の思いが先立ってしまう時、なぜ?と悩み苦しんでしまいますが、その中で私たちはイエス・キリストが十字架の道を進まれたことを覚え、このキリストを信頼しなければなりません(Ⅰコリント1:23)。

 イエスは弟子たちに、「自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」と言われました。自分本位のキリスト理解を捨て去り、十字架に向けて歩まれるイエスに自分の人生も心の思いも明け渡して従うことを求められたのです。自分を捨てるとは、神が与えて下さった救い主イエスを内に持つことなのです。自分ではなく神によって生きること、神主導の生き方に変えていただくのです。

 イエスが進まれた十字架の道には多くの苦難がありました。イエスに従う道にも苦難が伴います。サタンはバラ色の道を描いて見せますが、それは見せかけの束の間のものです。イエスに従う道は試練や困難がありますが、決して色あせることのない神の栄光へと続いているのです。

 「自分の十字架」とは、イエスに従っていく人生や生活において各自に負わせられる課題や責任や試練です。ペテロには彼が負うべき十字架が与えられました(ヨハネ21:15-22)。周りを気にするのではなく、自分の十字架を負ってイエスに従うことに集中しなければなりません。私たちキリスト者は自分で「自分の命を救おう」とする生き方から贖われました。イエスのために「自分の命を失う(明け渡す)」のです。イエスは十字架で命を捨られ、私たちが「どんな代価を払って」も買うことのできない永遠の命を与えて下さったのですから。

2018年10月14日
説教題 「信仰の上に建てられる」
聖書箇所 マタイによる福音書第16章13節~20節
説教者 安井 光 師

 イエスが弟子たちと共にピリポ・カイザリヤの地方に行かれた時のこと。イエスは弟子たちに「人々は人の子(イエス)をだれと言っているか」と尋ねました。バプテスマのヨハネ、あるいはエリヤやエレミヤなど偉大な預言者の再来と人々は呼んでいますと、弟子たちは答えました。ピリポ・カイザリヤは、偶像礼拝や人間崇拝が盛んに行われていたところでした。人々はイエスを高く評価し、相当な人物として認めていました。でも、それはイエスに対する正しい評価・見方ではありませんでした。

 イエスは弟子たちにも同じ問いを投げかけられました。「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」。イエスが真に問いたかったのは、世の人々のご自身の評価ではなく、弟子たちがご自分をどう見ているのかということでした。シモン・ペテロはイエスの問いかけに、「あなたこそ、生ける神の子キリストです」と答えました。イエスよ、あなたは命のない虚しい偶像や人間の手で造られた神々とは違います。また偉大な指導者や預言者などでもありません。主よ、あなたこそ生ける神の子です、私たちの救い主です…と、ペテロは弟子としてイエスに抱いている思いを、その信仰を告白したのでした。

 私たちの生きている日本もピリポ・カイザリヤと似た土壌にあります。主イエスは私たちに対しても、「あなたがたはわたしをだれと言うか」と問われるのです。私たちが入信する時だけではなく、クリスチャン生涯において主は問いかけられるのです。日々の生活の隠れた所において、いったい誰が人生の主導権を取られるのか、誰が神として崇められるべきなのか自らに問いつつ、「あなたこそ、生ける神の子キリストです」と主の前に告白しなくてはならないのです。

 イエスは、ペテロのなした信仰告白(「この岩」)を土台にしてご自身の教会を建てることを宣言されました(18節)。私たちの教会も「イエスこそ生ける神の子キリスト」と信じる信仰の上に建てられているのです。主イエスはご自身の教会に対して、「黄泉(死)」に打ち勝つ力を与えて下さいました。さらに「天国の鍵」、すなわち主イエスによる罪の赦しを得させる権威を教会に託しておられるのです(19節)。

 この世にあっては、人々は死の力と罪の重荷に苛まれています。主イエスを神の御子・救い主と信じ、その信仰を告白する私たち・教会は、福音を宣べ伝え、罪の赦しを得させ、御国へ導く使命のためにこの世に置かれているのです。

2018年10月7日
説教題 「神の愛の力に支えられて」
聖書箇所 ローマ人への手紙第8章31節~39節
説教者 安井 光 師

 人は生まれてから死ぬまでの間、様々なものを受けます。長い人生においては良いものばかりではなく、悪いものも受けることでしょう。桑原教会の召天者の兄姉たちは、本当に良いものを受けておられました。それは神の救い、神の愛です。召天者たちは、大きくて深くて力強い神の愛をいっぱいに受け、神の愛の力に支えられてその生涯を歩まれたのです。

 パウロは、神が味方であるから、何者も私たちに敵することはできないと語っています(31節)。これは召天者たちの証しでもあります。キリストと出会う以前は、彼らは神に敵対していました。その頃は、心に平安はなかったと思います。愛する者と死別したり、自らも病気や事故や災害に遭遇して死の恐れを感じたり、人生の空しさや儚さを感じていたことでしょう。本当の敵は、神ではなく死の力(サタン)だったのです。人間の力では死に打ち勝つことはできません。ただ神が私たちのために、御子イエスの十字架の死をとおして私たちと和解をし、また御子の復活をとおして死に対して勝利を収めて下さったのです。召天者たちはイエス・キリストを救い主と信じ、神が味方となられたので、もはや彼らを打ち負かす敵がなくなって真の平安を得たのです。

 平安の土台は、神が彼らの味方となられたからですが、さらに言えば、キリストの十字架の死と復活をとおして罪が赦され、義とされていたからだとパウロは証言しています(33-34節)。たといサタンが彼らの罪を責めて訴えようとも、キリストがとりなして下さるので義とされるのです(ヨブ19:25-27)。罪人を救うために御子を与えた神の愛の力が、彼らに常に臨んでいたのです。人生において様々な困難に襲われて悩み苦しんだ時にも、キリストの愛が彼らを捕えていたのです(35-39節)。聖書の御言葉に、「愛には恐れがない。完全な愛は恐れをとり除く」(Ⅰヨハネ4:18)とあります。神の愛は完全な愛であって、私たちを死の力に打ち勝たせ、私たちの内から死の恐れを取り除くのです。召天者の兄姉たちは、この神の愛の力に支えられて人生を歩まれたのです。

 神の愛が、今も召天者の家族を、また私たち一人ひとりを覆っています。神は私たちを徹底的に愛しておられるのです。だから心配しなくてよいのです、恐れなくていいのです。神の愛の力によって、試練にも死の力にも打ち勝つことができるのです。神の愛の力に支えられて、人生の旅路を歩ませていただきましょう。

2018年9月30日
説教題 「天からのしるし」
聖書箇所 マタイによる福音書第15章29節~16章12節
説教者 安井 光 師

 イエスはユダヤ人のみならず、異邦人のためにも救い主として遣わされていました。イエスはデカポリス地方(マルコ7:31)において体の不自由な人々を癒されました。異邦人の群衆を深く憐れまれ、食物を与えようとされました(32節)。こんなにも大勢に食べさせるパンをどうやって手に入れようかと弟子たちは困惑しましたが(33節)、イエスは弟子たちの持っていた七つのパンと小さな魚を手に取り、それを用いて四千人以上の群衆を養われたのでした。

 弟子たちは二度もパンの奇跡(天からのしるし)を体験しましたが(14:13以下参照)、イエスのなされた御業の意義を十分悟っていませんでした。イエスが「パリサイ人とサドカイ人とのパン種を、よくよく警戒せよ」と言われた時、自分たちがパンを持ってこなかったことを咎めておられるのだと勘違いました(16:5-)。イエスはパリサイ人やサドカイ人の教えに惑わされず、ただご自身を信頼することを弟子たちに求めておられたのです。イエスを信頼しているならば、パンがなくても心配することはなかったのです。弟子たちが持っていたパンは小量でしたが、大勢の群衆を養い、パンくずのあまりがたくさん出るほどにされました。弟子たちはその恵みを正しく数える必要があったのです。

 イエスがパンの奇跡をとおして示そうとされていたのは、ご自分が永遠の命を与える「命のパン」であるということでした(ヨハネ6章)。弟子たちはこの事実を味わい知る必要がありました。それは彼らがイエスの賜わる真の命によって生かされ、またその幸いを証するためだったのです。イエスは十字架で肉を裂かれ、その命をもって私たちを真に生きる者として下さいました。私たちはイエスの十字架と復活の御業を思い巡らし、その恵みを味わい知り、救い主イエスを信頼して生きることが求められているのです。

 この世は「しるし」を求めます(6:1、Ⅰコリント1:21-)。イエス・キリストこそ「天(神)からのしるし」なのです。私たちはイエスの十字架の死と復活の御業をとおして、全人類に対する神の御旨を味わい知らなくてはなりません。父なる神は私たち罪人が滅びないで永遠の命を得るために、御子イエスを十字架で犠牲としてささげ、死からよみがえらせて下さったのです。神の御旨は、イエスを信じる者が尽く永遠の命を得ることなのです(ヨハネ6:40)。御言葉を繰り返して味わい、主の恵みを数え、主を信頼しつつ歩ませていただきましょう。