2018年10月7日
説教題 「神の愛の力に支えられて」
聖書箇所 ローマ人への手紙第8章31節~39節
説教者 安井 光 師

 人は生まれてから死ぬまでの間、様々なものを受けます。長い人生においては良いものばかりではなく、悪いものも受けることでしょう。桑原教会の召天者の兄姉たちは、本当に良いものを受けておられました。それは神の救い、神の愛です。召天者たちは、大きくて深くて力強い神の愛をいっぱいに受け、神の愛の力に支えられてその生涯を歩まれたのです。

 パウロは、神が味方であるから、何者も私たちに敵することはできないと語っています(31節)。これは召天者たちの証しでもあります。キリストと出会う以前は、彼らは神に敵対していました。その頃は、心に平安はなかったと思います。愛する者と死別したり、自らも病気や事故や災害に遭遇して死の恐れを感じたり、人生の空しさや儚さを感じていたことでしょう。本当の敵は、神ではなく死の力(サタン)だったのです。人間の力では死に打ち勝つことはできません。ただ神が私たちのために、御子イエスの十字架の死をとおして私たちと和解をし、また御子の復活をとおして死に対して勝利を収めて下さったのです。召天者たちはイエス・キリストを救い主と信じ、神が味方となられたので、もはや彼らを打ち負かす敵がなくなって真の平安を得たのです。

 平安の土台は、神が彼らの味方となられたからですが、さらに言えば、キリストの十字架の死と復活をとおして罪が赦され、義とされていたからだとパウロは証言しています(33-34節)。たといサタンが彼らの罪を責めて訴えようとも、キリストがとりなして下さるので義とされるのです(ヨブ19:25-27)。罪人を救うために御子を与えた神の愛の力が、彼らに常に臨んでいたのです。人生において様々な困難に襲われて悩み苦しんだ時にも、キリストの愛が彼らを捕えていたのです(35-39節)。聖書の御言葉に、「愛には恐れがない。完全な愛は恐れをとり除く」(Ⅰヨハネ4:18)とあります。神の愛は完全な愛であって、私たちを死の力に打ち勝たせ、私たちの内から死の恐れを取り除くのです。召天者の兄姉たちは、この神の愛の力に支えられて人生を歩まれたのです。

 神の愛が、今も召天者の家族を、また私たち一人ひとりを覆っています。神は私たちを徹底的に愛しておられるのです。だから心配しなくてよいのです、恐れなくていいのです。神の愛の力によって、試練にも死の力にも打ち勝つことができるのです。神の愛の力に支えられて、人生の旅路を歩ませていただきましょう。

2018年9月30日
説教題 「天からのしるし」
聖書箇所 マタイによる福音書第15章29節~16章12節
説教者 安井 光 師

 イエスはユダヤ人のみならず、異邦人のためにも救い主として遣わされていました。イエスはデカポリス地方(マルコ7:31)において体の不自由な人々を癒されました。異邦人の群衆を深く憐れまれ、食物を与えようとされました(32節)。こんなにも大勢に食べさせるパンをどうやって手に入れようかと弟子たちは困惑しましたが(33節)、イエスは弟子たちの持っていた七つのパンと小さな魚を手に取り、それを用いて四千人以上の群衆を養われたのでした。

 弟子たちは二度もパンの奇跡(天からのしるし)を体験しましたが(14:13以下参照)、イエスのなされた御業の意義を十分悟っていませんでした。イエスが「パリサイ人とサドカイ人とのパン種を、よくよく警戒せよ」と言われた時、自分たちがパンを持ってこなかったことを咎めておられるのだと勘違いました(16:5-)。イエスはパリサイ人やサドカイ人の教えに惑わされず、ただご自身を信頼することを弟子たちに求めておられたのです。イエスを信頼しているならば、パンがなくても心配することはなかったのです。弟子たちが持っていたパンは小量でしたが、大勢の群衆を養い、パンくずのあまりがたくさん出るほどにされました。弟子たちはその恵みを正しく数える必要があったのです。

 イエスがパンの奇跡をとおして示そうとされていたのは、ご自分が永遠の命を与える「命のパン」であるということでした(ヨハネ6章)。弟子たちはこの事実を味わい知る必要がありました。それは彼らがイエスの賜わる真の命によって生かされ、またその幸いを証するためだったのです。イエスは十字架で肉を裂かれ、その命をもって私たちを真に生きる者として下さいました。私たちはイエスの十字架と復活の御業を思い巡らし、その恵みを味わい知り、救い主イエスを信頼して生きることが求められているのです。

 この世は「しるし」を求めます(6:1、Ⅰコリント1:21-)。イエス・キリストこそ「天(神)からのしるし」なのです。私たちはイエスの十字架の死と復活の御業をとおして、全人類に対する神の御旨を味わい知らなくてはなりません。父なる神は私たち罪人が滅びないで永遠の命を得るために、御子イエスを十字架で犠牲としてささげ、死からよみがえらせて下さったのです。神の御旨は、イエスを信じる者が尽く永遠の命を得ることなのです(ヨハネ6:40)。御言葉を繰り返して味わい、主の恵みを数え、主を信頼しつつ歩ませていただきましょう。

2018年9月23日
説教題 「一粒の麦の教え」
聖書箇所 ヨハネによる福音書第12章20~33節
説教者 安井 直子 師

 イエス様は「一粒の麦の譬え」を通して、ご自分がこれから何をなそうとしておられるのか、なぜ死ななければならないのかを人々にお示しになりました。イエス様は全人類の祝福のために、十字架の上で一粒の麦となられたのです。

過越しの祭で礼拝するために集まった数人のギリシャ人が、イエス様に会いたいとどリボに頼みに来ました。ピリボはアンデレに相談し、二人はイエス様にギリシャ人の来訪を伝えました。イエス様はこの出来事を契機として、ご自分の時が来たことを明らかにされるのです(23節)

「一粒の麦が地に落ちて死ななければそれはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。」(24節)。イエス様はご自分も一粒の麦のごとくに、ユダヤ人から踏みにじられ十字架で死なれ、世の罪の贖いとなり、信じる者に永遠の祝福と命を豊かにもたらすのであると示されました。イエス様が一粒の麦になられたことによって、福音の種は全世界に広がり、豊かに実を結んだのです。そして私たち一人一人も一粒の麦であるイエス様によって結ばれた実なのです。

イエス様にとって、一粒の麦となって死ぬということは、肉体的にはもちろん、精神的にも、霊的にも大きな苦しみを伴うものでした。(27節)。ヨハネ福音書にはゲッセマネの園での祈りが記されていませんが、ここでのイエス様の苦悩のお姿はそれに相当すると言えます。そしてこう祈られました。「父よ、み名があがめられますように」(28節)。すると、天から神様の声がしました「わたしはすでに栄光をあらわした。そして、更にそれをあらわすであろう」(28節)。イエス様はどんなに勇気づけられたことでしょう

一粒の麦となって十字架で死んでくださったイエス様は、私たちに永遠の命を与えるためにご自身をささげて下さいました。そして私たちも主の命を帯びた一粒の麦なのです。私たちもすべてを主に委ね、主に自分自身をささげていくならば、私たちを通して、さらに主を信じ救われる者を起こして下さり、宣教の実を豊かに結ばせて下さいます。これからも主を見上げて、主の御手の中に委ねて歩む者とされたいと思います。

2018年9月16日
説教題 「カナンの女の信仰」
聖書箇所 マタイによる福音書第15章21~28節
説教者 安井 光 師

 イエスは「ツロとシドンとの地方へ行かれ」ました。そこはカナン人の住む異邦人の地でした。すると、一人のカナンの女がイエスの許にやってきて、「主よ、ダビデの子よ、わたしをあわれんでください」と悪霊につかれた娘の癒しを願いました。ところがイエスは「ひと言もお答えにな」りませんでした。女が執拗に叫び続けるので、弟子たちは女の求めに応じて女を去らせるようイエスに提案しますが(23節)、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外の者には、つかわされていない」と、冷たくそっけない対応されたのです。

 〝冷たくそっけない対応〟とは失礼かもしれませんが、私たち読者はイエスのカナンの女に対する対応にそのような思いを禁じ得ません。もしカナンの女の立場だったとしたら、「ああ、そうですが、分かりました。もうあなたには頼みません」というふうになってもおかしくはありません。しかし女は「イエスを拝して」「主よ、わたしをお助けください」と訴え続けたのです。それくらい女の願いは切実でしたが、彼女の信仰の熱心さは、イエスがユダヤ人のみならず自分たち異邦人にも神の祝福をもたらす救い主と信じていたところにありました。

 イエスはカナンの女に、「子供たち(ユダヤ人)のパン(神の祝福)を取って小犬(異邦人)に投げてやるのは、よろしくない」と言われました。イエスは女の信仰をテストしておられたのです。神のご計画は、ユダヤ(イスラエル)人を神の民として選んで契約を結び(旧約)、彼ら(イスラエルの末なる者)をとおしてすべての国民に神の祝福をもたらされるということでした。カナンの女は、「主よ、お言葉どおりです。でも、小犬もその主人の食卓から落ちるパンくずは、いただきます」と最高の回答をしました。神の救いの計画の端っこに自分も加えられていると信じたのです(信仰の謙遜さ)。

 「あなたの信仰は(大きい)見あげたものである」とイエスはカナンの女の信仰を喜ばれ、彼女の娘を癒されました。信仰生活には、自分の意にそぐわないことがあったり、祈ってもなかなか答えられないこともあります。「なぜ」「どうして」と主に問うより、むしろ「何のために」「どんな目的で」と御旨を尋ねることを主は望んでおられるのです。信仰も祈りも一方的なものではありません。主を呼び求める、主に願い求める、主の語りかけを聞く、主の御旨を受け入れる。そのようにして信仰を最大限に主に向けて働かせましょう(ヘブル11:6)。

2018年9月9日
説教題 「人を汚すものと生かすもの」
聖書箇所 マタイによる福音書第15章1~20節
説教者 安井 光 師

 パリサイ人と律法学者たちは、イエスの弟子たちが食事の時に手を洗っていないのを見てイエスを非難しました(2節)。パリサイ人らは、「昔の人々の言伝え」を堅く守り、手を洗い、体を清めてから食事をしていました。それは元々、神に仕える祭司に求められた行為でした。衛生上の理由ではなく、宗教儀礼として慣例的に行われていたのです。パリサイ人らは「言伝え」を守ることに固執して、かえって「神のいましめを破っていた」のです。

 イエスは十戒を引き合いに出され、パリサイ人らが自分勝手に律法を解釈し、都合よく生活に適用していた間違い(罪)を指摘されました。神は十戒をとおして「父と母とを敬え」と教えられているのに、彼らは「だれでも父または母にむかって、あなたにさしあげるはずのこのものは供え物です、と言えば、父または母を敬わなくてもよろしい」としていたのです。イエスはそのような彼らの信仰(礼拝)姿勢を批判されました。口先では神を敬っていましたが、心は神から遠く離れてしまっていたのです(8-9節)。

 イエスも汚れときよめの問題の重要性をご存知でした。パリサイ人も民衆も誤解していたのです。イエスは、「口にはいるものは人を汚すことはない。かえって、口から出るものが人を汚すのである」と、何が人を汚すのかを教えられました。パリサイ人らはこの「御言を聞いてつまず」きました。弟子たちにもよく分かりませんでした。イエスは御言の真理を説き明かされます(17-20節)。外から入ってくるもので人は汚れるのではなく、心の中から出てくる悪い思いが人を汚すと言われたのです。心にある悪い思いは、言葉となり行動となって本人を汚し、周囲に害を与えます。きよめられなくてはならないのは、手ではなく「心」だったのです(箴言4:23)。

 心は水で洗いきよめることはできません。悪い思いが外から分からないように、心に蓋をして隠してしまえばよいのでしょうか。そうではありません。そうしていたパリサイらをイエスは「偽善者たちよ」と叱責されました。偽善に走って表面上を取り繕うのではなく、心の覆いを取り除き、汚いものを持ったままご自身の許に来ることを求められたのです。主イエスがきよくして下さるのです(Ⅰヨハネ1:7-9)。律法的になり形式的に主を礼拝するのではなく、御言を信頼して罪を告白する時、主が私たちの心をきよくして下さり、人を生かす良い言葉(ガラテヤ5:22-23)が私たちの口から溢れるようになるのです。 

2018年9月2日
説教題 「波の上に立つイエス」
聖書箇所 マタイによる福音書第14章22~36節
説教者 安井 光 師

 イエスは弟子たちの手と手にあるもの(五つのパンと二匹の魚)をもって五千人の空腹を満たされました。群衆はパンの奇跡の意味を悟らず、イエスを捕えてユダヤの王にしようと考えました(ヨハネ6:15)。弟子たちは伝道のチャンスと考えたでしょうが、「それからすぐ、イエスは群衆を解散させ…しいて弟子たちを舟に乗り込ませ、向こう岸におやりになった」のです。ご自分は「祈るためにひそかに山へ登られた」のでした。

 弟子たちの舟は岸から数キロほど来ていましたが、逆風が吹いてきて思うように進めなくなり、夜明け頃まで漕ぎ悩みました。人生も船の航海のようなものではないでしょうか。私たちは人生の航路を向こう岸を目指して進んでいます。人生は順風満帆の航海であるとは限りません。逆風が吹き付けることや突然の嵐が襲うことがあります。逆風が長く続くと漕ぎ悩んでしまい、立ち往生してしまいます。苛立ったり不安になったりしますが、私たちの人生の舟は神の御手にあり、その航路は神のご計画の中にあるのです。

 イエスは波の上を歩いて、漕ぎ悩んでいる弟子たちの許へ行かれました。弟子たちはそれがイエスだと分からず、「幽霊だと言っておじ惑い、恐怖のあまり叫び声をあげ」ました。逆風にさらされて、五千人の給食の御業の感動と喜びがすっ飛んでしまったのでしょうか。弟子たちは、どんな状況においてもイエスが共におられることを知るべきでした。イエスは「しっかりするのだ、わたしである。恐れることはない」と語りかけられ、弟子たちを励まされました。ご自分が「神の子」であり救い主であることを示されたのです。

 ペテロは波の上に立っているのがイエスだと分かると、「わたしに命じて、水の上を渡ってみもとに行かせてください」と願いました。主イエスの招きを受けて、ペテロは波の上を一歩二歩と歩き出しましたが、「風を見て恐ろしくなり」溺れそうになりました。主が求めておられたのは、波の上を大胆に歩こうとする信仰ではなく、波の上に立つ主を見続ける信仰でした。主はペテロを捕まえて一緒に舟に乗り込まれました。すると風は止み、舟は向こう岸に着いたのです。

 逆風に漕ぎ悩むだけでは、人生航路は辛くしんどいものになってしまいます。主の臨在を覚え、主に目を注ぎ続ける時、主と共に行く航路そのものに幸いを味わうことができるのです。私たちは心落ち着いて、主に守られて祝福に至ることができるのです。

2018年8月26日
説教題 「もうひとりの息子」
聖書箇所 ルカによる福音書第15章24節~32節
説教者 安井 光 師

 弟息子の帰還は、失われたものの回復、新しい人(神の子)としての霊的誕生の出来事でした(31)。それは父にとって喜びの極みでありました。「わたしと一緒に喜んでください」と語った羊飼(6)や女性(9)と同様、周囲の人々と喜びを共有するために、父は弟息子のことで祝宴を行いました。

 ところが、もうひとりの息子・兄息子は、弟が家に戻り、父が彼のために肥えた子牛を屠ったことを聞いて怒り、家に入ろうとしませんでした。兄息子は、一度も父の言いつけに背かず、何か年も父に仕えてきました。ただ彼は自由な気持ちで、喜んで父に仕えてきたのではなかったのです(29節の「仕えて」は「奴隷のように仕える」の意)。兄は、自分のように父に仕えなかった弟を迎え入れた父に対し怒りを覚えたのです。父が自分にではなく、遊女と戯れ、父の身代を食いつぶした弟のために、肥えた子牛を屠ったことに怒りを感じたのです。兄息子は喜びの外にいたのです。

 私たちは、しばしば兄息子のような態度をとってしまいます。聖書には「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい」(ローマ12:15)と言われていますが、共に喜ぶことができず、自分のことでもなかなか喜ぶことができません。神が喜んでおられるのに、また天には喜びがあるのに(7)、自分のことで喜べず、人のことでは尚更喜ぶことができないのです。神の喜び・父の喜びの中心はどこにあるのでしょう。「むすこが死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった」という、私たちの救いの出来事に、天の父の喜びの源があるのです。

 父は兄息子に、「子よ、あなたはいつもわたしと一緒にいるし、またわたしのものは全部あなたのものだ」と告げました。天の父は、私たちのことを「子よ」と呼んで下さり、また私たちは「アバ、父よ」呼ぶ者とされています。神はいつも私たちと共にいて下さり、愛する息子・娘として私たちを取り扱っておられるのです(イザヤ43:1-4)。私たちが正しい行いをし、熱心に奉仕するからではなく、ご自分の子である故に私たちにご自身の持てるすべてを下さるのです(ローマ8:32)。

 天の父は私たちと一つであると考えておられるからこそ、ご自身の喜びの中に私たちが共におることを願われるのです(31-32)。弟息子を迎えたように、家から「出てきて」私たちを喜びの祝宴に迎えようとされるのです。私たちになされた救いを、兄弟姉妹の救いを、天の父と一緒に心から喜びましょう。

2018年8月19日
説教題 「永遠の命に至る水」
聖書箇所 ヨハネによる福音書第4章1節~29節
説教者 安井 巌 師

 主イエスは、サマリヤの地で疲れを覚えられた。それは、長旅のゆえの肉体的な疲れであると共に、ご自身の働きについてパリサイ人たちの無理解、サマリヤとユダヤとの憎しみ合いによるところからくる魂の深い部分の疲れであった。また、主イエスは、井戸のそばに座ってのどの渇きをじっと耐えておられた。そのように、主イエスは弱さを覚えられた。そして、主イエスはご自身の弱さを持って私たちを尋ねてくださるのである。

 サマリヤの女は、誰もいない時間帯に人目を避けて、町から離れたところにあるヤコブの井戸に水を汲みにくる。ユダヤ人である主イエスはその弱さを持って、サマリヤの女に差別と偏見と憎しみの壁を超えて、自由に声をかけてくださる、「水を飲ませてください」。サマリヤの女にとって、この主イエスの語りかけは、驚きでありつまずきであった。しかし、すでにそこで、主イエスとの命への対話へと巻き込まれていくのである。私たちが神の言葉の聖書を読むときにも、まず最初は、疑い、反発、問いであるかもしれない。しかし、そのようにして、自分の中に起こった反応に導かれながら、更に聖書の言葉に触れていくときに、思いもかけないかたちで真理が示されることがいかに多いことか。

 主イエスとサマリヤの女の対話の中で、女は主イエスが差し出す永遠の命に至る水を、「わたしにください」と求めるまでに変えられる。その時、主イエスは女の問題の核心部分に触れられる。「夫をここに連れてきなさい」。結婚という最も祝福された出来事が、女にとって大きな重荷の種となっていた。魂の深い渇きの現れとなっていた。主イエスはその女の状況を何の評価も与えないかたちで言い当てられる。そのとき女は自分の求めは父なる神を礼拝することにこそあることに思いが導かれる。私たち人間は、創造者である神のもとに憩う時、初めて満ち足りる、まことの平安を得る。私たちが神に憩う場所、それが礼拝である。礼拝を通して、神の愛から自分の人生を始めることこそ、私たち人間の最も自然な姿、健やかな生き方である。そのようなまことの憩いを与えるために主イエスは来られ、十字架上で「渇く」という言葉を持ってまことの渇きを経験し、私たちに永遠の命の湧き水を与えてくださったのである。

 サマリヤの女は、永遠の命に至る水を自覚的に与えられた時、水瓶を主イエスのもとにおいて、町に出て行って自分の姿を人々の前に晒し、喜んで福音を宣べ伝える者へと変えられたのである。

2018年8月12日
説教題 「罪人を憐れんで走り寄る神」
聖書箇所 ルカによる福音書第15章11節~24節
説教者 安井 光 師

 主イエスは三つの譬話(15章)をもって、失われた罪人を捜し求め、またその帰還を待たれる父なる神の姿を示されました。

 ある人に二人の息子がいました。弟息子は父に財産を分けてくれるよう頼みました。父は何も言わず弟息子に財産の持分を与え、彼はそれを持って遠い所に出かけました。彼には志の高い目的があったわけではなく、ただ父の支配から離れ、自由気ままに生活することを望み、「そこで放蕩に身をもちくずして財産を使い果たした」のでした。ひどい飢饉が起り、彼は食べることにも窮し、豚の餌で空腹を満たしたいと思うほどに、惨めな状態に陥ってしまうのです。

 イエスが語られた「放蕩息子」は、神から離れた罪人の姿を表しています。神は人間にとって、天の父であるお方です。人は神のかたちに造られ、神との愛と真実の交わりの中に生きるように造られています。ところが人は神から離れ、神に反抗し、神を否定して、自分勝手な道を生きているのです。人はお金と自由さえあれば幸福になれると考えるかもしれません。しかし物質的には満ち足りていても、霊的には貧しく飢餓状態にあるのです。神から離れて歩む人は皆、霊的に放蕩息子なのです。

 放蕩息子は飢えと空しさの中で「本心に立ちかえって」、父の家に帰る決心をしました。自分のやってきたことの間違い、自分の思い違いを示されたのです。ただ自分を責め、自己嫌悪に陥るのでなく、父の家を思い起し、「天」を見上げました。そうすることに、唯一の解決があったからです。「立って、父のところへ帰」ることは、心の変化にとどまらず、回復と真に祝福された新しい生活への確かな第一歩でありました。

 父は息子の帰りを待ってくれていました。「まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、哀れに思って走り寄り、その首をだいて接吻し」ました。父は、もはや「むすこと呼ばれる資格」のない彼を「雇人のひとり」として迎え入れるのでなく、かけがえのない愛する息子として迎え入れたのです。父は「むすこが死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった」ことを心から喜び、祝宴を催したのでした。

 私たちがどんな失敗や過ちを犯し、罪を犯したとしても、それを赦し、私たちを受け入れて下さる神が、私たちの父として天におられるのです。天の父は私たちの罪を赦すために、神の子として新しく生かすために、自ら走り寄って私たちを迎え入れて下さるのです。

2018年8月5日
説教題 「五つのパンと二匹の魚をもって」
聖書箇所 マタイによる福音書第14章13節~21節
説教者 安井 光 師

 この箇所は〝五千人の給食の奇跡〟と呼ばれ、四福音書すべてに記録されているただ一つの奇跡です。イエスは弟子たちの手を用い、弟子たちの手にあるものを用いてこの奇跡を行われたのです。

 イエスはひとり退いて神の御前に静まっておられましたが、大勢の群衆が後を追ってきました。イエスは群衆を深くあわれまれ、御国の福音を語り、治療を必要とする人々を癒されました。夕方となったので、弟子たちは「群衆を解散させ、めいめいで食物を買いに」行かせるようにイエスに提案しました。ところがイエスは、「あなたがたの手で食物をやりなさい」と弟子たちに言われたのです。
 
 けれども、それは弟子たちには到底成し得ないことでした。弟子たちの手には「パン五つと魚にひきしか」ありませんでした。イエスは、この問題はあなたがたの問題だから、あなたがたの手で解決すべきだと考えておられたのではないのです。イエスご自身が五千人の人々に食物を与えようとしておられたのです。ただお一人でそのことをならさず、弟子たちの手を必要とし、彼らの手にあるパンと魚とを用いようとなさったのです。

 イエスは「五つのパンと二ひきの魚とを手に取り、天を仰いでそれを祝福し、パンをさいて弟子たちに渡され」ました。弟子たちは「それを群衆に与えた」のです。弟子たちにはこれっぽっちしかないと思われたものでしたが、イエスは神が与えて下さったものとして感謝し祝福されたのです。そして弟子たちの手を用いて、群衆に配らせました。群衆は食べて満腹したばかりか、パンくずの余りが十二の籠(弟子たちの手)にいっぱいになったのです。

 主イエスによって始められた福音宣教は、現在、主の教会によって受け継がれ担われています。私たちの周囲には霊的に飢え渇いている人々が大勢います。様々な問題や課題を抱えた人々に対し、どうやって宣べ伝えればいいのかと思い、また自分たちの手にあるものが小さく思えて嘆いてしまうことがあります。しかし主はすべてを御手の中に置いておられるのです(詩篇95:4-7)。

 私たちの持てる信仰・賜物、私たちがなす伝道・奉仕・祈り・ささげもの・献身は、五つのパンと二匹の魚のように小さく、主のお役に立たないように思えるかもしれません。しかし主はあなたの手を必要とされ、またあなたの手の中にあるものを祝福して、主の御業のために豊かに用いられるのです。