2020年3月22日
説教題 「イエスを十字架に!」
聖書箇所 マタイによる福音書第27章11節~26節
説教者 安井 光 師

 祭司長や民の長老らユダヤの指導者たちは、死刑執行の.許可を得るためにイエスを総督ビラトに引き渡しました。ビラトには指導者らの訴えが妬みによることが分かっていました。

 一方で、ユダヤの民衆がイエスに大きな期待を寄せていたことを知っていたでしょう(11節、マタイ21:8-11)。ビラトは、イエスがローマに反逆し社会を混乱させる者ではないと判断し、無罪放免にしようと考えました(ルカ23:13-16)

 ビラトはユダヤの祭の特赦制度により、犯罪人バラバとイエスのどちらを赦してほしいかと群衆に問いました。群衆は「バラバの方を」と言いました。バラバは、暴動と殺人の罪で投獄されていた囚人で(ルカ23:19)、ユダヤの民衆から英雄視されていた人物でした(16節)。群衆には無抵抗の弱々しいキリストより、ローマに反逆したバラバの方が勇ましいと思ったかもしれません。イエスに対しては期待を裏切られたという反感や怒りもあったことでしょう。群衆はイエスを「十字架につけよ」と激しく叫んだのです。

 群衆はユダヤの指導者らに先導され、彼らに誘導されて、バラバを赦しイエスを十字架につけよと叫んだのでしょう(20節)。しかし心にもないことを口から発したのではありません。イエスを「十字架につけよ」という声は、群衆の心の内から発せられた叫びなのです。自分たちの期待に応えない王など要らない、我々の助けや求めに沈黙している救い主など無用だと退けるこの叫びは、私たち人類、私たち罪人の心の内にある思いなのです。「群集心理」とも言われますが、正しい判断とさばきさえ曲げてしまう恐ろしいものです。

 一人一人の中にイエスを十字架につけた罪があることを知らなくてはなりません。罪は人の内側に隠れていますが、神をなきものにするような激しいもの、手の付けられない、暴れ出したら収まりがきかないようなものだと思います(24節)。ビラトは「おまえたちが自分で始末するがよい」と言い、群衆は「その‥・責任は、われわれ…の上にかかってもよい」と言い放ちました。しかし人間にはどうすることもできないのです。ただイエス・キリストが、そのような私たち全人類の罪をすべて十字架でその身に負われたのです。ここに救いがあります(Iペテロ2:22-25)。

2020年3月15日
説教題 「仕える者を支える主の御腕」
聖書箇所 ルカによる福音書第22章24節~34節
説教者 安井 光 師

 最後の晩餐の席で弟子たちの間に、「自分たちの中でだれがいちばん偉いだろうか」という論争が起りました。弟子たちはこれまで熱心にイエスに付き従ってきました。しかしそれは、自分が偉くなりたい、人に仕えられる者となりたいという思いからくる熱心さでした(マルコ10:35-41)。

 自分を人よりも高い位置に置こうとする態度や心、それは人間の罪の本質だと言えます(創世記11:4)。イエスは弟子たちに対し、「誰が偉いか」という事柄に終始するのではなく、人に仕えられることを求めるのでなく、「いちばん若い者のように」謙り、「仕える者のように」命じられました。それがイエスに従う者のなすべき態度であり、神の祝福があるからでした(Ⅰペテロ5:5)。

 イエスは弟子たち(私たち)が仕える者となるために、自ら人に仕える者となられました(27節、ヨハネ13:4-)。イエスは弟子たちの罪を贖うために、彼らが謙って神に仕え、互いに仕え合う者となるために、謙って僕のようになられ十字架でご自分の命をささげられたのです(マルコ10:45)。

 イエスは、弟子たちが最後までご自分に仕える者となること信じ期待していました(28節)。ペテロは一番弟子の誇りにかけてそうする決意を表しましたが(33節、マタイ26:33)、サタンにふるいにかけられます。自分の力と頑張りで立っていたペテロは、サタンに弱い足元をすくわれ、躓いてしまうのです(34節)。しかしイエスは、「わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った」と言われ、躓き倒れても立ち上がって、尚、主に従い仕えていけるように、御腕をもってお支えになるのです。

 ペテロは後に、初代教会の偉大な指導者となりました。イエスの御腕に支えられたペテロは、試練や困難に遭い、信仰を失いかけていた兄弟姉妹たちを慰め力づけました。大きな失敗を犯しながらも、主の執り成しによって立ち直り、主に従い仕えていこうとした姿が、多くの信仰者たちを励ましたのです。

 主は自らを低くし、謙って主に仕え、隣人に仕える者を引き上げ高くされます。主の御腕は謙る者の下にあってその人を支えるのです。主に従い仕えていこうとする私たちを、サタンは激しくふるいにかけるかもしれません。自分の弱さ、罪深さを自覚するとともに、そのような私たちを主が御腕をもって支えておられ、慰めの器として用いられることを覚えましょう。

2020年3月8日
説教題 「自己完結しない」
聖書箇所 マタイによる福音書第26章69節~27章10節
説教者 安井 光 師

 シモン・ペテロとイスカリオテのユダ、二人はイエスの弟子でしたがイエスを裏切り 罪を犯しました。両者の犯した罪に大きな違いがあったわけではありません。罪を犯した後の両者の対応に違いがありました。

 ペテロは実直な人でしたが自信家でもありました。「あなたを知らないなどと、決して申しません」と彼は豪語しましたが(26:35)、イエスとの関係を完全否定してしまいました(26:69-74)。ペテロの姿は、人間のすることに絶対はなく、人は誰でも罪を犯してしまう無力な存在、罪人であることを示しています。それが私たち人間の実像でもあります。ペテロは罪深い自分の実像を示され「激しく泣いた」のでしょう。自分には自分をどうすることもできない現実を示されたのです。

 ユダは「イエスが罪に定められたのを見て後悔し」ました。「後悔」は「悔い改め」とは異なります。悔い改めは、自分の罪を認め、神に向き直ることですが、ユダは自分で罪の処理しようとしたのです。彼は「銀貨三十枚」を返して罪の償いをしようとしましたが、祭司長らは「それはわれわれの知ったことか、自分で始末するがよい」と言って取り合おうとしませんでした。ユダは「銀貨を聖所に投げ込」み、自らの命を絶ち、自分で決着をつけてしまったのです。

 ペテロとユダのそれぞれのあり方を比べた時、自分の犯した過ちについて自分で責任を取ったユダは潔いと日本人は評価するかもしれません。しかし神が求めておられたのは、ペテロのあり方でした。ユダは罪を犯し「後悔」しましたが、ペテロは「悔い改め」をしたのです。第二コリント7章10節に、「神のみこころに添うた悲しみは、悔いのない救を得させる悔改めに導き、この世の悲しみは死をきたらせる」とあります。ペテロは罪を犯して悲しみ泣いた後、自分の義を貫かず、自分で決着をつけませんでした。十字架で死なれ復活された主イエスの許に向かい、主から愛と赦しを受けたのです(ヨハネ21章)。

 悔い改めと共に信仰によって私たちは救われますが、信仰とは信じる心の強さとか潔さではありません。信仰とは主イエスの真実です。不真実で不義なる私たち罪人を救うために、主は十字架で死なれ復活されたのです。主が罪の贖いを完結して下さったのです。自分に向かう時、私たちは苦悩し失望してしまいます。ただ主に向かい、主を仰ぎつつ歩ませていただきましょう。

2020年3月1日
説教題 「力ずくの抵抗」
聖書箇所 マタイによる福音書第26章47節~68節
説教者 安井 光 師

 イエスはユダヤ当局に逮捕され、裁判にかけられました。この箇所には、人々が力ずくで神の愛の力に抵抗しているさまを見ることができます。

 イエスがゲッセマネで祈りをされた後、当局から送られた人々が武器を手に持ってイエスを捕らえにやって来ました。彼らは力ずくでイエスを捕らえようとしたのです。その先頭には、イエスの側にいなければならないはずのユダが立っていました。ユダはイエスに近寄り、接吻をもって愛すべき方を裏切るのです。イエスは「友よ、なんのためにきたのか」と愛をもって悔い改めを促されますが、ユダは抵抗し心を閉じてしまうのです。

 ユダの合図で、人々はイエスに手をかけて捕らえました。弟子のひとりが応戦し、剣をもって抵抗しましたが、イエスは剣を鞘に収めるように命じられました。イエスには神の力で敵を一網打尽にすることも可能でしたが(53節)、そうなさらなかったのです。イエスが抵抗なさらなかったのは、聖書に預言された神のご計画(イザヤ53章など)が成就しなければならないと考えておられたからでした(42、54節)。

 ユダヤの指導者たちは、夜中に議会を招集し、「イエスを死刑にするため」に裁判を行いました。証人が次々と立てられ、イエスに不利な証拠をあげようとしますが、「偽証」であり互いにかみ合いませんでした。偽証は十戒で禁じられていましたが、律法を重んじているはずのユダヤの指導者たちはイエスを亡き者にするために躊躇せず律法を破るのです。裁かれなくてはならないのは、本当は彼らの方ではなかったでしょうか。

 イエスは沈黙しておられましたが、「あなたは神の子キリストなのか」という大祭司の問いに対し、「あなたの言うとおりである」と告白されました。大祭司は、これは冒涜罪だと議場に諮ると「彼は死に当たるものだ」と同調しました。イエスはいっさい反論や抵抗をなさらず、不当な裁きと仕打ちを受けられたのです(イザヤ53:7-9)。

 神は御子を救い主として世に遣わされました。ユダヤ人のみならず、すべての国民を愛をもって救おうとしておられます。しかしこの世は尚も力ずくの抵抗を続けています(ヨハネ1:11)。抵抗を続ける人々が、悔い改めてイエスを救い主として信じ仰ぐことができるように祈りましょう。私たち自身が、人間の弱さ、無力さ、愚かさを認め、自分の力を捨ててひたすら主を信頼し、主に従わせていただきましょう。

2020年2月23日
説教題 「祈りの格闘」
聖書箇所 マタイによる福音書第26章36節~46節
説教者 安井 光 師

 イエスは慌しい宣教の働きの合間に、しばしば一人退いて静まって神に祈る時を持っておられました。過越の食事の後、イエスは弟子たちを伴って祈るためにゲッセマネに行かれましたが、いつもと様子が違いました。イエスは「悲しみを催しまた悩み始められた」のです。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである」と弟子たちに告白なさり、十字架を目の前にしてご自身の苦悩を露にされたのです。それは弟子たちが見たことのないイエスの姿でした。

 イエスは父なる神に「この杯をわたしから過ぎ去らせてください」と祈り願いました。イエスの目の前には、罪人である全人類に向けられた神のさばき、罪に対する刑罰としての十字架の死が置かれていたのです。人は死に直面すると、恐れを抱いたり取り乱したりしますが、イエスの場合はそれと違いました。罪のない神の御子が、全人類の罪を一身に背負い、罪人として神のさばきを受けられるのです。神に呪われ、神に捨てられるのです。それは御子イエスにしか分からない途方もない苦しみでした。

 イエスにとって十字架という杯は、過ぎ去らせてほしい事柄でした。人として歩まれたイエスは、その願いを押し通す誘惑に駆られたかもしれません。十字架の死以外にも人類を救う方法があるのでは? 人類は十字架に磔にされるメシヤなどを求めていないのでは? そういった悪魔からの激しい誘惑を受けられたのではないでしょうか。イエスは「誘惑に陥らないように」祈られたのです。「わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」と祈って、誘惑(死の力)に打ち勝たれたのです(45節)。

 「目をさまして祈っていなさい」と言われたように、イエスは弟子たちにも祈ることを求めておられました。イエスはゲッセマネの祈りをとおして、私たちがどう祈るべきかを教えておられます。自分の思いや願いを率直に神に申し上げること、神のなさることが最善と信じて委ねることです。色々と神に申し上げても、「みこころが行われますように」と祈りを結ぶことが大事です。そのように祈っていくなら、具体的な結果を見る前に、私たちは平安な心で確信をもって歩んでいけるのです。

 私たちは弱い存在です。だからこそ「誘惑に陥らないように」祈ることが必要です。決死の覚悟で祈ることも必要ですが、神に委ねる心でいつも祈りを結びましょう(詩篇31:5)。

2020年2月16日
説教題 「裏切る者を赦すために」
聖書箇所 マタイによる福音書第26章14節~35節
説教者 安井 光 師

 イスラカリオテのユダは祭司長らの所に行き、イエスを引き渡す話を持ちかけました。ユダは何故イエスを裏切ったのでしょうか。ユダは、イエスがイスラエルの新しい王となることを期待していたのでしょう。ところが、「人の子は十字架につけられる」とイエスは言われます(2節)。ユダはイエスの御心を理解できず、また貪欲さが高じて(ヨハネ12:6)、銀貨三十枚でイエスを売り渡してしまうのです。

 イエスは弟子たちと過越の食事をされました。その食卓にはユダも一緒でした。イエスはユダの裏切りを予告されました。それはイエスとユダのみが知ることでした。ユダは席を立ち、事を実行に移すのです(ヨハネ13:21-30)。

 〝裏切り者〟はユダだけなのでしょうか。他の弟子たちも、程度やかたちは違いますがイエスを裏切るのです。「今夜、あなたがたは皆わたしにつまづく」と、イエスは弟子たちに言われました。ペテロは「わたしは決してつまずきません」「あなたを知らないなどとは、決して申しません」と豪語しましたが、イエスとの関係を完全否定するのです(70-74節)。他の弟子たちも、イエスが当局に捕らえられるとイエスを捨てて逃げ去るのです(56節)。

 愛する人や信頼している人に裏切られることほど、辛く恨めしいことはありません。愛や信頼が大きいほど、悲しみや失望も大きいでしょう。「裏切り者は赦さない」というのが世の常でしょう。しかし、イエスはご自分を裏切る者たちが滅びないために、その罪に赦しを得させるために十字架に架かられるのです。

 イエスは過越の食事の席で、ご自分がお架かりになる十字架の意義をしめされました(26-28節)。十字架の血は、「罪のゆるしを得させるようにと、多くの人のために流」されるのです。イエスは愛する者がご自分を裏切るその夜に、ご自分が十字架で流される血をもって新しい契約を結ばれたのです(Ⅰコリント11:23の「渡される」は、「裏切られる」と同じ語句が使われている)。

 私たちは皆、イエスを裏切ったユダや他の弟子たちと同じ性質を身に帯びています。自分の都合でイエスから離れたり、イエスとの関係を否定してしまったり…。私たちはただ主イエスの十字架の前に額ずくほかない罪人ですが、主は私たちと永久の赦しの契約を結ばれ、復活の命と新たな希望を与えて私たちを導いていかれるのです(32節)。

2020年2月9日
説教題 「良いことをした女」
聖書箇所 マタイによる福音書第26章1節~13節
説教者 安井 光 師

 イエスがベタニヤにおいて重い皮膚病の人シモンの家の食事の席に着いておられた時、一人の女が香油を入れてある壷を持ってイエスに近寄り、イエスの頭に香油を注ぎかけました。それは非常に高価な純度の高いナルドの香油(マルコ14:3)で、女はそれを一滴 手にとってイエスの頭に塗ったのでなく、惜しげもなく「注ぎかけた」のです。

 それを見ていた弟子たちは憤って、「なんのためにこんなむだ使いをするのか。それを高く売って、貧しい人たちに施すことができたのに」と、女の行為を強く非難しました。ある意味で当然の反応ですが、弟子たちはこの行為が〝誰のために〟なされたのかを心に留めなくてはなりませんでした。無駄遣いだとか、勿体ないとか、もっと別のことに使うべき…という彼らの思いは人間的な評価でした。損得勘定による、第三者的で身勝手なものでした。

 〝イエスのために〟という一心の思いで、女はイエスの頭に油を注いだことでしょう。弟子たちが「むだ使い」と非難した女の行為を、イエスは喜んでお受け入れになりました。「わたしによい事をしてくれたのだ」と高く評価されました。女がイエスの頭に香油を注ぎ、また「イエスの足にぬり、自分の髪の毛それをふいた」(ヨハネ12:3)という行為は、ある意味一方的で独りよがりな行為でした。しかしイエスはご自身の葬りの備えとして受け取られ、「全世界のどこででも…この女のした事も記念として語られるであろう」と最上の評価をされたのです。

 女がイエスの頭に油を注いだ行為は、主イエスへの奉仕でありました。女は主の恵みに感謝し、主を愛する思いから、自分にできる精一杯のことをしたのです(参考ルカ7:47)。主イエスのためになされる最高の奉仕は礼拝です。私たちは主のために様々な奉仕をしますが、それは教会における奉仕に限りません。仕事や勉強、家事や育児や介護、種々の問題の対処、人への対応であっても、「これは主のためにしている」と感謝して行っていくなら、主は喜ばれるのです。

 〝主のために〟といっても、実際は一方的で的外れな行動をしているかもしれません。それでも主は「わたしによい事をしてくれた」と愛をもって受け入れて下さるのです。主は私たち罪人を救うために十字架でご自身の命をささげて下さいました。感謝をもって、心を尽くして主にお仕えしてまいりましょう。

2020年2月2日
説教題 「私たちが背負う重荷」
聖書箇所 マタイによる福音書第11章28節~30節
説教者 安井 満 師

 礼拝堂の説教壇の後方にマタイ11章28節のお言葉が掲げられています。礼拝出席者の誰もが、最初に目にしてホッとするお言葉ではないでしょうか。主イエスは招いておられます。人生の重荷を背負って苦労している方々に対して、招きの言葉をかけておられます。主イエスの招きに素直に応じましょう、主イエスのもとに重荷を降ろしましょう。主イエスから休息をいただきましょう.

 主イエスは招いておられますが、私たちに対する期待が込められた招きでもあります。主イエスのご期待に応えるためには、私たちの信仰が成長する必要があります。成長のためには適度な重荷が必要です。自分の努力や頑張りで重荷を背負い、成長するのではありません。「成長させて下さるのは神」(今年の標語)であります。主イエスは、「わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい」(29節)と勧めています。「くびき」は、牛馬が農耕具を容易に動かして畑を耕すために身に付ける道具でした。モーセの律法を農耕具の「くびき」に例えられています。モーセの律法は、イスラエルの民が約束の地カナンで祝福された生活をするためのルールでした。

 祝された生活の手段であったモーセの律法が、主イエスの時代にはユダヤ教徒の誤った解釈と適用によって、当時の人々の重荷になっていました。人々の生活を律法主義的な考え方が縛っていました。主イエスはモーセの律法に代わる新しい「くびき」を与えようとされていました。それが主イエスの十字架であります。十字架はイエスの身代わりの死を意味しますが、主イエスの身代わりの死を自分のためのものと受けとめる者にとっては、私たちの自我の死を意味します。私たちの信仰の成長のためには、背負うべき重荷があります。主イエスの十字架を崇め、自我の死を確認しつつ重荷に向かうことができるなら、その重荷を軽々背負うことが可能になります。主イエスは、「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(30節)と語っています。

 ガラテヤ6章2節には、「互に重荷を負い合いなさい」と書かれています。自分の重荷だけではなく、他者の重荷を自分の重荷として背負うことを、主イエスは私たちに期待しています。他者の重荷を背負うことは、私たちの積極的な働きだけを意味しません。例えば介護される側の者が、笑顔で感謝の意志を示すならば、介護者の重荷を軽くすることになります。

2020年1月26日
説教題 「聖霊を信じる」
聖書箇所 ガラテヤ人への手紙第5章16節~26節
説教者 安井 光 師

 「我は聖霊を信ず」と、私たちクリスチャンは使徒信条を唱えます。神は目には見えません。神は天におられますが、私たちと共におられ、私たち一人一人に臨まれ、一つの目的のために働いておられます。

 私たちがイエスを信じ、その信仰を告白して洗礼を受け、教会に加えられたのは、聖霊の助けと導きによるのです。聖霊によらなければ、誰も「イエスは主である」を信じることはできません(Ⅰコリント12:3)。聖霊なる神が、イエスの「神の子キリスト」であることを証しし、悟らせて下さったのです(マタイ16:13-)。イエスの御霊なる聖霊が内に与えられたことによって、私たちは罪と死の支配から解放されたのです(ローマ8:1-11)。聖霊は私たちを神の子とし、神を「父よ」と私たちが親しく呼べる関係を築いて下さったのです(ローマ8:14-17)。

 「御霊の実」(22-23節)は、聖霊が私たちに結ばれる具体的な祝福の数々です。聖霊は私たちを神の子として新しく誕生させて下さいました。そして今 神の国に生きる聖徒として、聖化の歩みを導いておられます。聖霊に導かれて歩むことで「御霊の実」が結ばれていきます。聖霊は、私たちが抱える悩みや問題や課題にも、解決に導くために共に働いておられるのです。将来においては、聖霊によって復活のイエスと同じ姿に、栄光の姿にされる希望が私たちに与えられています(ローマ8:26-30)。聖霊は私たちを全き救いに至らせて下さるのです。

 聖霊は信じる心を起こさせるとともに、聖霊を求める心に、聖霊を信じるところに働かれます。イエスは聖霊を私たちの「助け主」として遣わしておられます(ヨハネ14:16、15:26)。イエスは御業をなされるために信仰を求められましたが、また聖霊が私たちに豊かに働かれるためにも、聖霊に期待し、聖霊に明け渡すことを求めておられるのです。弟子たちが聖霊を切に祈り求めたように、聖霊の助けと導きを求めていく時に、聖霊は豊かに働かれるのです(ルカ11:13、使徒行伝1-2章)。

 聖霊は既に私たちに親しく臨んでおられ、私たちの内に宿っておられます。そのことを認めなくてはいけません(Ⅰコリント3:16、6:19)。聖霊が働かれるために必要なのは、聖霊を信じることです。聖霊を信じるとは、聖霊によって歩くこと、聖霊の導きを仰いで生きることです(16、25節、使徒行伝16:6-34)。聖霊によって歩ませていただきましょう。

2020年1月19日
説教題 「恵みの深みへ」
聖書箇所 ルカによる福音書第5章1節~11節
説教者 安井 光 師

 イエスがゲネサレ湖畔(ガリラヤ湖)におられた時、群衆が御言葉を聞こうとして押し寄せてきました。イエスは岸辺で網を洗っているシモン・ペテロをご覧になり、彼の舟に乗り込み、そこから人々に語られました。イエスは不漁で心身共に疲れ切っていたペテロをご存知でした。

 イエスはペテロに「沖へこぎ出し、網をおろして漁をしてみなさい」と言われました。ペテロは「先生、わたしたちは夜通し働きましたが、何も取れませんでした」と、イエスに現状を訴えました。ペテロにはイエスの言われることが無意味に思えたでしょう。「しかし、お言葉ですから、網をおろしてみましょう」とペテロは、イエスの御言葉に従いました。そうしたところ、「おびただしい魚の群れがはいって…船が沈みそうにな」るほどの大漁となったのです。

 私たちの日々の生活にも、夜通し働いたが何も取れず、空しく網を洗うというような徒労があります。そのような現実の只中で、主は御言葉を私たちに語られます。その多くは主の招きの言葉や勧告ですが、すべての御言葉に祝福の約束が伴っています。御言葉を信じて従う時に、驚くような祝福を経験することになるのです。主は私たちを恵みの深みへと導かれるのです。

 御言葉による大漁を経験したペテロは、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者です」とイエスの足元にひれ伏しました。ペテロは神の聖なる臨在に触れて、自分が何者であるのかを示されたのです。そして「先生」から「主」に、イエスとの関係に変化が生じました。イエスは罪の赦しを宣言する如くに、「恐れることはない」とペテロに言われ、「今からあなたは人間をとる漁師にとなるのだ」と神による新しい使命に生きるよう召されたのです。

 ペテロは「いっさいを捨てて(握っていたものを明け渡して)イエスに従」いました。イエスと共に歩む全く新しい人生をスタートさせたのです。ペテロは使徒となり、初代教会の指導者となりましたが、一足飛びにそうされたのではありません。イエスの弟子として、神の子として成長していくことが必要でした。御言葉に従い、神の恵みを深く味わい知ることをとおして霊的に成長していったのです(ヨハネ21章、使徒行伝10章等を参照)。

 主は私たちも恵みの深みへと召されます。主の恵みは、人知で測り知ることができないほどに深いのです。主に明け渡し、恵みの深みへと導いていただきましょう。