2019年8月18日
説教題 「真心からのささげもの」
聖書箇所 ルカによる福音書第21章1節~4節
説教者 安井 光 師

 イエスは神殿で人々に教えを語られた後、人々が献金箱に献金を投げ入れているのをご覧になりました。金持ちはたくさんのお金を投げ入れました。ジャラジャラと大きな音が鳴り響いたことでしょう。その後、貧しいやもめが来て、レプタ二つを投げ入れました。それはわずかな額のお金でした(1レプタは1デナリ-労働者日当-の130分の1)。金持ちは見栄を張ってたくさん献金を入れ、得意顔でした。

 一般社会において、多く金額を募金・寄付したほうが評価されます。人間の評価はそうかもしれません。しかし神の評価は異なっているのです。イエスはやもめのレプタ二つの献げものを見て、「よく聞きなさい。あの貧しいやもめはだれよりもたくさん入れたのだ」と賞賛されました。金持ちと比べて「たくさん」というのでなく、貧しいやもめにとっての「たくさん」だったのです。やもめにとっては「持っている生活費全部」であったとしても、神殿からすれば目にも留らないような献金だったことでしょう。しかしイエスは献げもののみならず、献げるその人を、その生活と心をご覧になるのです。

 「よく聞きなさい」は原文では「アーメン」(真実である、そのとおりである)となっています。イエスはやもめの真心からのささげものに、「これは真実な献げものである」と言って喜ばれたのです。真心のからのささげものとは、痛みが伴っています。詩篇51篇17節に「神の求められるいけにえは砕けた魂です。神よ、あなたは砕けた悔いた心をかろしめられません」とあります。神は、神に対して開かれた心、神の前に謙った心を求められるのです。自然にというより意識的にそうする心がけが必要です。

 宣教師にして探検家であったリビングストンは、少年時代に集会で献金するお金がなく、自分の身を献金のお盆の上にのせ、「私自身を神さまにささげます」といって、自らの生涯・将来を神に献げたと言われます。けれども忘れてはなりません。私たちが何かを献げる以前に、神が私たちのために御子イエスの十字架の死という高価な献げものをおささげになったことを(エペソ5:2)。神への献げもの・献金は私たちの善き行いでもなく、強いられてするものでもありません。ただ神の恵みに感謝し、その応答としてレプタ二つを献げたやもめのように真心から精一杯するものなのです。神はそのような献げものを「アーメン」と喜んで受け入れて下さるのです。

2019年8月11日
説教題 「私たちの立つ所」
聖書箇所 マタイによる福音書第23章1節~12節
説教者 安井 光 師

 イエスは律法学者とパリサイ人のあり方を厳しく批判されました。それは、彼らの信仰のあり方を示しながら、弟子たちや民衆に対し、イエスに信じる者たちがいかにあるべきかを教えるためでした。

 律法学者やパリサイ人は、律法を非常に重んじていました(2節)。律法学者は、律法の専門家として民衆に律法を教え、神の戒めに従って生活するよう指導していました。パリサイ人は、律法を厳格に守ることに注意を払いながら生活していた熱心なユダヤ教徒でした。イエスは弟子たちや民衆に対し、神の戒めを守り行うことを求めましたが、「彼らのすることには、ならうな」と言われました。それは「彼らが言うだけで、実行していないから」でした。

 安息日や清めに関する戒めは、細かく守っていたことでしょう。しかし「あなたの隣り人を愛せよ」という大切な戒めを実行できていなかったのです(ルカ10:25-37)。自分たちも実行できない戒めを「重い荷物」のように民衆に背負わせ、守れない者たちをさばいていたのでした。また神の戒めを唱え、神に祈りをささげる時に彼らが用いた「経札」や「衣のふさ」は(申命記6:4-、民数記15:38-)、自分の敬虔さを「人に見せるため」の道具となっていました。彼らは「上座…上席を好み、人々から先生と呼ばれること」求めたのです。

 しかし神が人々に求めておられたのは全く逆のあり方でした。「先生」と呼ばれて高慢になったり、「教師」だからと弟子に高圧的な態度をとらないように、また宗教的、民族的指導者を「父」と崇めて絶対視するような歪な関係を持たないように、イエスは注意を促されました(8-9節)。弟子たちに対し、むしろ「仕える人」「自分を低くする者」となること、上の立場に自分を置くのでなく下に置くように求められました(11-12節、マタイ20:25-27)。

 イエスが弟子たちに示されたのは、イエスご自身のあり方でした(20:28)。イエスは、私たち罪人を救うために神の立場を捨てて人となられ、御子の力を放棄して十字架でご自身を犠牲にされました(ピリピ2:6-9)。イエスの御前に私たちは身を低くする(平伏す)のです。十字架のイエスの御許こそ、私たちの立つべき所なのです。

 自分を低くすることは、また隣人に対してなすべき態度でもあります(ピリピ2:3)。自分が無力な者であり赦された罪人であることを覚え、イエスの十字架の愛を居場所とし避難所としていく、その生活において、神は私たちを高く引き上げて下さるのです(12節、Ⅰペテロ5:1-6)。 

2019年8月4日
説教題 「ダビデにまさるキリスト」
聖書箇所 マタイによる福音書第22章41節~46節
説教者 安井 光 師

 「あなたがたはキリストをどう思うか。だれの子か」とイエスはパリサイ人たちに尋ねました。パリサイ人らは「ダビデの子です」と答えました。ユダヤの人々は、「キリスト(救い主)」がダビデの子孫から起こると信じていました(イザヤ11:1-5)。

 ダビデはイスラエル統一王国の初代の王で、戦いに長けた武将であり、政治手腕に優れ、指導者として比類なき人物でした。ダビデのような王が再び現われることを人々は待望していました。イエスこそ「ダビデの子」と考え、イエスに救いを求めたのです(マタイ9:27、12:24、21:9)。

 しかしながら、イエスは人々が思い描いているような政治的な救済者ではありませんした。イエスはダビデにまさるお方でした。イエスはダビデの詩を引用され(44節、詩篇110:1)、ダビデがキリストを「わが主」と呼び、真の王である神の御子の出現を待ち焦がれていたことをパリサイ人らに示されました。

 イエスは病人を癒したり、悪霊を追い出したり、五千人の人々の飢えを満たすなど、ダビデには成し得なかった力ある御業を行われました。しかしながらイエスがダビデにまさっていたのは、神の御子としての華々しい力ではなく、むしろのその力を放棄して僕のように無力になってご自身をささげたことにありました(ピリピ2:6-8)。真の救いを人に得させるために、イエス・キリストは十字架でご自身を犠牲にされたのです。

 イエスの弟子たちは、後の日に聖霊を注がれて、イエスがダビデにまさるキリスト、王の王、主の主であることを悟り、人々にそのことを証ししました(使徒行伝2:29-36)。イエスがもたらされる救いは、人間の想像にも及ばないようなスケールの大きなものでした。イエス・キリストはユダヤ人のみならず私たちすべての者を、人間の究極的な課題である罪と死と悪の支配から贖い出されるのです。

 「あなたがたはキリストをどう思うか」、あなたがたはわたしをどのような者として見ているのかと、イエスは私たちも問われるのではないでしょうか。あなたこそ、我らの主キリスト、我らを贖い、神の子とし、永遠の命と御国を与えて下さる方。私たちの慰め、助け、望み、すべては、主よ、あなたにあります…とお答えしたいと思います。イエスは天の御座で私たちのために日夜とりなしをしておられます。終わりの日には、私たちの救いを完成させるために御座から降りてこられるのです。

2019年7月28日
説教題 「天でとりなしをするキリスト」
聖書箇所 使徒行伝第2章29節~36節
説教者 安井 光 師

 イエス・キリストは十字架の死から復活され、天に昇り、神の右に座られたということは二千年前の出来事ですが(使徒行伝1:9、ルカ24:51)、私たちはイエスが今も天の御座におられることを信じて使徒信条を唱えます。

 イエスが天に昇られたのは、聖霊を私たち信じる者たちに降すためでした。聖霊を注がれた弟子たちは、イエスが天に昇り、父なる神から聖霊を受けて、自分たちに注がれた事実を旧約の預言からユダヤの人々に説明しました(32-33節)。

 イエスが天に昇られたのは、また私たちが永遠に住むべき場所を用意しにいくためでもありました。イエスは十字架に架かられる前夜、心を騒がせていた弟子たちに対し、「あなたがたのために場所を用意しにいくのだから」と十字架の死と復活、さらにその先の昇天を示し、彼らを励まされました(ヨハネ14:1-3)。

 イエスは天に昇り、天の父なる神の右に座られました(Ⅰペテロ3:22、マルコ16:19)。使徒(弟子)たちは、神がイエスを死人の中からよみがえらせて、天に昇り、栄光の王として神の御座におられるとユダヤの人々に証言しました(34-35節、詩篇110:1)。

 イエスは、私たちの弁護者として神の右に座しておられます(Ⅰヨハネ2:1)。私たちの罪のために十字架で犠牲となられたイエスは、今も天において私たちの犯す罪のために弁護をしておられるのです。

 イエスはまた、私たちを神にとりなす仲保者として天の御座でとりなしをしておられます(ヘブル4:14-16)。私たちは父なる神に祈りをささげますが、「イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン」とその祈りを結びます。イエスがとりなして下さるので、私たちの祈りは天の神に届くのです。私たちと同じように悩み苦しまれたイエスは、試練の中にある私たちの祈りとうめきを神にとりなして下さるのです。

 教会最初の殉教者となったステパノは、イエスが神の右に座し、そこから立ち上がっておられる姿を見ました(使徒行伝7:55)。イエスは御座でステパノを支え、彼の霊を御許に引き寄せられたのです。

 イエスは世の終わりまで私たちを弁護しとりなして下さるのです(ローマ8:34)。主イエス・キリストこそ、我らの神、我らの救い主であると告白し、主を信頼しつつ歩ませていただきましょう。

2019年7月21日
説教題 「一番大切な戒め」
聖書箇所 マタイによる福音書第22章34節~40節
説教者 安井 光 師

 律法学者がイエスに質問をしました。「律法の中で、どのいましめがいちばん大切なのですか」と。これは、聖書の中でどの教えが一番大切かという問いでもありました。法律や規則ではなく、人として生きていくうえで何が一番大事なのかという、私たち人間の根源的な問いであったと言えるでしょう。

 イエスはこの問いに、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである」と答えられました。この戒めは、ユダヤの家庭では最初に子どもに覚えさせる言葉(シェマー)で、ユダヤ人は皆これを一日に二度唱え、安息日の礼拝でも唱えていました(申命記6:4-9)。思いと力の限りを尽し、全身全霊をもって神を愛しなさいという戒めでした。

 神の戒めだから、神の命令だから、神を愛さなくてはならないのではありません。神の愛を知らなければ、神との関係がなければ、誰も神を愛することはできません。神は私たちを愛し尊び重んじおられます。そのような神と私たちの特別な関係性は、神が私たち人間を神のかたちに創造されたことや、私たち罪人を贖われる出来事に明らかにされています(創世記1:27、イザヤ43:1-4、ヨハネ3:16、ローマ8:28、32、Ⅰヨハネ4:8-10等)。神が私たちを愛されたから、私たちは神を愛するのです。隷属的にではなく自発的に、神を愛する思いと行動へと導かれていくのです。

 イエスは続けて、「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」と言われました(レビ19:18)。律法学者は、これが第一の戒めと一対であり大切であることを理解していました(ルカ10:27)。ただ「隣り人」とはユダヤ人だけでなく、彼らが敵と見なし蔑んでいた異邦人も含まれていました。そういう隣人を愛することが、神を愛するのと同様に一番大切な戒めであることをイエスは示されたのです。

 隣人を愛する根拠は、神が私たちのことを愛された愛にありますが、どのように愛するかについては「自分を愛するように」しなさいと言われます。神の目には我々は高価で尊いのです。神の愛で自分を愛し、隣人を愛するのです。

 心と力の限りを尽して神を愛することと、自分を愛するように隣人を愛することは一体であり、聖書全体がこころからが始まりここに結ばれています(40節)。愛の戒めは私たちに強制されるものではありませんが、この戒めに真実に向き合っていくならば、神の私たちに対する御心が全うされるのです。

2019年7月14日
説教題 「生きている者の神」
聖書箇所 マタイによる福音書第22章23節~33節
説教者 安井 光 師

 サドカイ人は「復活はない」と主張していました。目に見えないこと、見えない世界を信じませんでした(使徒行伝23:8)。彼らは現実主義者であり現世主義者でした。今日の多くの人々が心に抱いているのも、彼らと同じ思いかもしれません。しかし将来に不安をかかえ、死への恐れを抱きつつ生活しているのではないでしょうか。

 サドカイ人たちはイエスを陥れようと、律法のある規定(24節、申命記25:5-6)を引き合いに出して、イエスに質問を投げかけました。七人兄弟の長男が結婚し、子がないまま死ねば、次男が兄の妻と結婚する。ところが次男も子ができないまま死に、三男、四男と次々に同じことが起こり、ついに七人とも子がないまま死に、その妻も死んでしまった。その場合、復活の時にはいったい誰の妻となるのか、説明できますか? という具合に、イエスを困らせてやり込めようとしたのです(25-28節)。

 「あなたがたは聖書も神の力もしらないから、思い違いをしている。復活の時には、彼らはめとったり、とついだりすることはない」とイエスはサドカイ人たちに言われました。彼らは聖書読みの聖書知らずになっていたのです。聖書を読み、神の力を信じるなら、「復活はない」ということにはならず、あなたがたが心配するようなことにはならないことを彼らに示されたのです。

 私たちは、やがて天において愛する家族や友と再会することを願いますが、すべては神の恵みの力によってなされることを覚えなくてはなりません。神が私たちすべてのもの父であり、御子イエスが私たちの兄上、もしくは花婿という関係が、聖書に示されています。また私たちはイエスの復活と同じ姿に変えられることが聖書に約束されています。私たちはまだその事実を見ていませんが、信仰をもって受けとめましょう(ヘブル11章)。

 「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」という神の宣言こそ、死者の復活の証明であることをイエスは示しておられます。神はアブラハムらの生涯の一定期間、彼らの神であったのではなく、彼らが天に召された今も彼らの神であり続けているのです。「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である」とイエスは言われます。イエスは、私たちすべての罪人のために十字架で死なれ、陰府に降り、死の力を打ち破って復活されました。イエスは、私たち今生きている者たちを死の絶望ではなく復活の希望によって生かされるのです(ヨハネ11:25)。

2019年7月7日
説教題 「神のものは神に」
聖書箇所 マタイによる福音書第22章15節~22節
説教者 安井 光 師

 パリサイ人とヘロデ党の者たちは、結託してイエスを陥れようとしました。彼らはイエスに、「カイザルに税金を納めてよいでしょうか、いけないでしょうか」と尋ねました。「納めるべきだ」と言えばユダヤ人の敵と見なされ、「納めるべきでない」と言えばローマに反逆する者と見なされ、どちらに答えてもイエスが不利な状況に追い込まれることは避けられませんでした。イエスは彼らの悪巧みを見抜き、カイザルの肖像と銘が刻まれたデナリ銀貨(税を支払うために使われた)を示して、「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」と言われたのです。

 イエスは「カイザルのものはカイザルに」と、カイザルに税金を納めるようにと言われます。聖書を読むと、クリスチャンも社会の一市民として、神の支配下に置かれたこの世の権威や規則に従うことが勧められています(ローマ13:1、Ⅰペテロ2:13-)。しかし世と妥協したり、世から遊離したり、世の権威に盲目的に従うのではありません。信仰を守るためには、神を恐れない世の権力と対決することもあるでしょう。それだけでなく、クリスチャンとして混乱している世の中、この社会でどう役に立てるのか、どうすればキリストの福音の恵みが証しされるかを考えながら生きることが求められるのではないでしょうか。

 「カイザルのものはカイザルに」ということも大事ですが、それ以上に「神のものは神に返しなさい」と言われたイエスの言葉に心を留めなくてはなりません。私たち人間は神に造られ、神によって生かされています。私たちは「神のもの」なのです。私たちには、神の像(かたち)が刻まれています(創世記1:27)。罪のためにそれは壊れてしまっていますが、イエス・キリストは神の像を回復するために、神から離れてしまった私たち人類を神の許に返すために十字架の苦難の道を進まれたのです。

 「わたしはあなたをあがなった。…あなたはわたしのものだ」(イザヤ43:1)と、神はイエス・キリストにある私たちに言われます。ですから自分の存在、自分の持っているもの(能力、時間、お金etc)を神に正しくお返ししていく必要があります。「私は私」と自分を固持していては、不安や恐れに苛まれてしまうでしょう。神に自らを明け渡し、神の栄光のために用いてこそ(Ⅰコリント6:19-20)、平安と喜びがあり、神の祝福があるのです。

2019年6月30日
説教題 「山頂と山麓」
聖書箇所 出エジプト記第23章1節~6節
説教者 浅野 孝幸 師

 イスラエルはヤコブの時代に飢饉に遭い、民はエジプトに移住しました。430年後、エジプトの奴隷とされていた民は、指導者モーセによってエジプト脱出に成功しました。3ヶ月後、神はモーセをシナイ山に召しだし十誡を与えました。今日のタイトルは「山頂と山麓」です。シナイ山の山頂と山麓で、何が起こっていたのでしょうか。

 十誡には「~してはならない」「~せよ」という戒めが多く書かれ、裁きを連想しますが、その内容は「愛の教え」です。主イエスが律法学者から、律法の中でどの戒めが一番大切かを問われた時、神を愛し、人を愛することです、と答えられました。それは十誡の内容と合致します。十誡の第1戒~第4戒には神への愛が、第5戒~第10戒には人への愛が書かれ、愛で貫かれています。

 シナイ山頂で十誡の授与があった時、シナイ山麓ではイスラエル人がいつ帰るか分からぬモーセを、40日間もジリジリしながら待っていました。待つことは苦痛が伴います。不安を感じた民はアロンに、『さあ、わたしたちに先立って行く神を、わたしたちのために造ってください。わたしたちをエジプトの国から導きのぼった人、あのモーセはどうなったのかわからないからです』(1節)と訴えました。これは単なる不安からの言葉ではなく、こんな所で野垂れ死にしないよう、自分たちのために導く神を造ってください、という不信仰です。

 シナイ山頂においてモーセは、神との真剣勝負のうちに偶像を造ってはならないとの十誡の第2戒を与えられていた時、シナイ山麓において民はアロンに対して、偶像を造ってくださいと要求していたのです。今日のタイトルにある「山頂と山麓」で、愛の神の教えに反することが起こっていたことが分かります。

 私たちの周りにも似たようなことはないでしょうか。親の心が子に通じなかつたり、先生の意図が生徒に伝わらなかったり、教会での態度と家や職場での態度に隔たりがあったり、山頂では安息日を覚えて、これを聖とせよ(第4戒)と言われているのに、山麓では午後からでも十分に処理できうることに心奪われ、折角の安息日をミスし、山頂と山麓にギャップのある生活をしているとするならば、愛なる神様はどんなに悲しまれるか分かりません。

 もし神の教えと私たちの信仰生活にギャップがあるならば、キリストの十字架を橋渡しし、聖霊と、すでに注がれている神の愛によって(ローマ5:5)、この二つを近づけさせていただきたく思います。

2019年6月23日
説教題 「天の祝宴への招き」
聖書箇所 マタイによる福音書第22章1節~14節
説教者 安井 光 師

 ある王が王子の婚宴を催し、関係者を招きました。婚宴の準備が整ったので、王は僕たちを遣わして招待客を呼ばせました。ところが、招待されていた人々は婚宴に来ようとしなかったのです。王は、再度 僕たちを遣わし、「すべて用意ができました。さあ、婚宴へおいでください」と人々を招きました。ところが、人々は無視を決め込み、ある人は畑仕事に行き、他の人は商売に出かけたのです。あり得ない無礼な行動です。さらに別の人たちは、僕たちを捕まえて辱め、殺してしまったのです。もう無茶苦茶です。王への反逆行為です。王は怒り、軍隊を送って僕たちを殺した者を滅ぼし、その町を焼き払ってしまうのです。

 イエスはこのような譬話をとおして、神が私たち人類を天の祝宴、神の国に招いておられることを教えておられます。「婚宴の用意はできているが、招かれていたのは、ふさわしくない人々であった」とありますが、何が「ふさわしくない」のでしょうか。招待されていたのに、無視をして婚宴に行かなかったことがふさわしくない態度だったのです。神はイスラエルの民を選び、神の国に生きるように招いておられましたが、預言者たちの再三の呼びかけを無視し、自分勝手な理由をつけて応じませんでした。準備ができたので、神は御子イエスを世に遣わされたのです。しかし彼らはイエスを捕らえて殺そうとしていました。そこで神は異邦人や罪人を神の国に招れたのです(9-10節)。

 私たち一人一人も、王の婚宴、神の国の祝宴に招かれています。神はユダヤ人が招きに応じないので、仕方なく寄せ集めるようにして私たちを招かれるのではありません。神はいにしえの時代からご計画をもって私たちを選び、神の国に招いておられます(イザヤ25:6-9)。御子イエスによってこの世に神の救いと祝福がもたらされたのです。「わたしのもとにきなさい」と、イエスは私たちをご自身の食卓に招かれ、重荷を降ろさせ、渇いた魂を満たして、真の安らぎを得させて下さるのです(マタイ11:28、詩篇23:5)。

 王が招いた宴席に着くためには、「礼服」を身につけることが必要でした(11-12節)。神は私たちに礼服を用意しておられます。それはイエス・キリストという救いの衣です(イザヤ61:10、ガラテヤ3:27)。罪に汚れていても、そのままで来なさいとイエスは言われるのです。主イエスを信じ、主を身にまとうことをとおして誰でも神の国に入り、天の祝宴の席に着くことができるのです。

2019年6月16日
説教題 「勝利者イエス」
聖書箇所 ヨハネによる福音書第16章25節~33節
説教者 安井 直子 師

 これまでのイエスの話は、解釈の助けを必要とする比喩によるものが多くでした。しかしイエスの死後、弟子たちが真理の御霊に導かれ、十分な霊的理解力が与えられ、比喩ではなく、はっきりと福音を聞くようになり、また、弟子たちが直接的に父なる神に近づき祈り求めることができるようになると言われました。それは、御子イエスの十字架と復活のゆえに、ただそのことのゆえに、私たちの祈りが聞かれるのです。このように、イエスこそ弟子たち、さらに私たちと父なる神との、生きた交わりを与えて下さるお方なのです。

 弟子たちは、イエスが話されたことを、今ここに至って理解できるようになり、「わたしたちはあなたが神からこられた方であると信じます」と言いました。それは素晴らしい信仰ではありましたが、その信仰はまもなく直面する激しい試練によって揺すぶられる、弱さを持った信仰でした。イエスは弟子たちがその試練に遭うと、イエスを一人残して散っていくことを告げられたのです。イエスは弟子たちの弱さを知った上で、最後まで彼らを愛し通されたのです。イエスが弟子たちの苦難や失敗を語られたのは、彼らを失望させたり、落胆させたりするためではなく、彼らが真の平安を持つ事が出来るためでした。「これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」(33節)。

 どうやって平安を持つ事ができるでしょう。それは、失敗を通してイエスの赦しと大きな愛を知り、真の望みを神に置くことが出来るようになります。こうして心の内に真の平安を見出すことができるのです。イエスの十字架は罪と死に対する決定的な勝利の出来事です。この勝利者イエスを信じる者に、神は罪と死に対する勝利を約束されました。この何よりも価値のある賜物をいただいている私たちは、何を恐れる必要があるでしょうか。イエスは死の力、罪の力に勝利されたお方です。私たちの生涯においても、多くの患難や試練に出会うことでしょう。しかしイエスを神の子と信じる私たちは、信仰によってイエスにつながれ、結び合わされている限り、神の愛によって、私たちも世に勝つ者としていただけるのです。私たちも愛と信仰を身に帯びて、勝利の主と共に歩む者となりましょう。