2017年8月6日
説教題 「狭い門から」
聖書箇所 マタイによる福音書第7章13節~14節
説教者 安井 光 師

 イエスは、山上において群衆に説教を、「御国の福音」(4:23)を語ってこられました。説教を締め括るあたり、イエスは「狭い門から入りなさい」と聴衆を招かれたのです。

 「狭い門(狭き門)」とは、一般社会でもよく使われる言葉です。難関大学や一流企業への進学・就職が「狭き門」と呼ばれるのは、多くの人々がそこに入りたいと願うけれども、入ることができるのは限られた僅かな人だからです。イエスが言わんとされた「狭き門(狭い門)」とはそのようなものではないのです。門は開かれているのです。この門は「命にいたる門」だと言われます。すべての人が招かれているのです。誰でも入ることができるのです。しかし、入ることに躊躇する。ある種の入りにくさを覚えてしまう…。イエスが言われる「狭い門」とは、そのようなものなのではないでしょうか。

 山上の説教を読み返すと、それらを実践するのが容易なことではないと感じます。神の御心を求め、神を第一にして生きることは簡単ではありません。なぜ、「命にいたる門は狭く、その道は細い」のでしょうか。一方、「滅びにいたる門は大きく、その道は広い」と言われるのです。神がそうなさっておられるのでしょうか。そうではありません。人間の側で、命にいたる門・御国の門の前や周りに色々なもの(先入観・偏見・疑い・見栄・傲慢な思い・頑なな心・利己心・恐れetc)を置いて門を狭くし、自ら入りにくくしているのです。

 「狭き門」「命にいたる門」、また「細い」と言われる「道」とは、イエスに従う道であり、イエスご自身のことを指していると言えるでしょう。イエスは「わたしは門である。わたしをとおってはいる者は救われ…」(ヨハネ10:9)、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみことに行くことはできない」(ヨハネ14:6)と語られ、ご自分が人を永遠の命に導く唯一の道、またその門であると宣言しておられます。イエスに従う道には、困難や苦労があり、時に呻くこともあるでしょう。でもそこには救いがあり、神の祝福が約束されているのです。

 イエスご自身、狭い門を入り、細い道を通られました。それは十字架への道程です。私たち罪人を救うため、私たちを神の国に導き入れるために、イエスは狭い道を進んでいかれたのです。私たちが狭い門から入るということは、私たちのために十字架で死んでよみがえられたイエスに従うことであり、このお方を信頼すること、このお方にすべてを委ねることなのです。

 私たちは何も持たずありのままの姿で、この「狭き門」から入らなくてはなりません。アレコレ考えて疑心暗鬼になり門の外で立っているのではなく、「入りなさい」と言われる主イエスを信頼して、幼子のように自分を小さくし(マタイ18:3-4)、すべてを主に委ねて入ればよいのです。「狭い門から入りなさい」と私たちを招かれるお方は、私たちと一緒に狭い門から入り、そこを通っていかれるのです。主と二人では狭くて通れないのではないか…などと心配する必要はありません。狭き門ですが、主が共に行かれるので私たちはその門を入り進んでいくことができるのです。



2017年7月30日
説教題 「天恵」
聖書箇所 イザヤ書第53章1節~6節
説教者 井原 博子 師

 著者のイザヤは、紀元前742年頃召命を受け、50年にわたって活動した預言者です。一説に彼は、2つの王朝の王の兄弟・親族とも言われ、歴代の王に忠告や助言を与える立場にあったとも言われています。

 イザヤ書は旧約でありながらメッセージは非常に福音的です。旧約聖書中、最も新約聖書への引用が多く、特にイエス・キリストのご降誕とご生涯についての預言は、クリスマスや受難週にも紐解かれることの多い、なじみのある箇所です。その中でも特に本日の53章は、神の御子であり救い主イエス・キリストがたどられた苦難が預言されています。

 一般的に「神の御子」「救い主」という言葉から連想されるイメージは、神々しく平安に満ち、人々に崇められる美しいお姿です。あるいは強いヒーローのように堂々とかっこいいお姿でしょう。ところが、イザヤ53章で描かれたお姿は、それとは正反対です。「そのお方」の有様は、誰もが救い主だとは信じがたく、貧しく困難な環境に生まれ育ったそのお方は、外面的には美しくなく威厳もない、と。

 続く各節に繰り広げられるのは、そのお方が誰にも理解されず捨てられて、傷つけられ追い詰められるどん底です。黙して無抵抗、無罪のまま侮辱と暴力を受け、最後には人にも神にも捨てられて取り去られた(8節)、つまりみじめに死んでいった、と。

 このイザヤ53章と新約聖書の四福音書を並行して拝読すると、イザヤ53章の示す「そのお方の苦難」が、福音書に記されている「イエス・キリストがご生涯を通じて受けた迫害」を予告していることがうかがえます。特に、十字架前後にイエス・キリストは、裏切られ憎しみ侮辱にさらされ、弟子にさえ捨てられた、さらに暴虐の限りを尽され、十字架刑に処せられた(マタイ27章、マルコ14~15章、ルカ22章、ヨハネ18章)、それらすべてを、その約700年も前に生きたイザヤが預言しているのです。

 イザヤ書53章は、その出来事が私たちと無関係ではないこと、それどころか、私たちのためであったと、繰り返し語ります。
 「まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった」(4節)
 「…彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。
  彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ」(5節)
 「主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた」(6節)

 マタイによる福音書27章46節には、イエス・キリストが十字架上で、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれたとあります。あるCSの生徒がここを読んで、「イエスさまが神様に捨てられてくれんかったら、僕が神様に捨てられて叫ばんといかんかったんじゃな」と言いました。なんと的確な信仰告白でしょうか?イザヤが預言し、イエス・キリストが受けてくださったご苦難は、恵みと憐れみによって、私たちに注がれる祝福となったのです。



2017年7月23日
説教題 「求めよ、そして与えよ」
聖書箇所 マタイによる福音書第7章7節~12節
説教者 安井 光 師

 イエスは私たちに対して、「求めよ」と父なる神に祈り求めることを勧めておられます。実際、私たちがささげる祈りとは、天におられる父への率直な訴えであり、願い求めでもあります。イエスご自身、父なる神に対して具体的に「~して下さい」と祈り求められました。ルカの福音書では、イエスは主の祈りについて教えられた時に「求めよ…」と語られました(ルカ11:1-13)。

 「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう」とイエスは言われます。「求めよ」「捜せ」「門をたたけ」とは別々の動作ではなく、神への求めがより深くより熱心になる様を示しています。原文では現在命令形になっていて、継続的な求めをすべきことが示されています。「すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえる」と、イエスは天の父が私たちの祈り求めに応えて下さることを約束しておられます。

 ルカの福音書の並行記事(11:5-8)において、イエスは譬を用いて天の父に求めることの大切さを教えておられます。ある人が旅先から到着した友のために、真夜中に近所の友人にパンを求めました。「しきりに願うので」、友人は起き上がって必要なものを出してくれたのです。神は、いと近くにおられる私たちの天の父として、しきりに求める子どもたちに恥をかかせないために、その求めに応えて下さるのです。人間の父親が、子どもが求めるパンや魚を与えるように、天の父は求める者に良いものを与え、最善のことを成して下さるのです(マタイ7:9-11)。

 「何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ」。この御言葉は〝黄金律〟と呼ばれますが、イエスが5章17節から述べてこられた教えの結論とも言われます。「これが律法であり預言者である」と言われますが、別の所(22:34-)で神を愛することと隣人を愛することに律法全体と預言者がかかっていると教えておられます。自分がしてほしいことを隣人に行うことは愛を要することです。

 「求めよ」というイエスの勧めも、単に神と自分のとの関係として捉えるだけでなく、隣人と自分との関係において考えていくべきではないでしょうか。私たちは「~を与えて下さい」「~して下さい」と神に祈り求めますが、神は私たちの求めに応えて必要なものを与え、また必要なことを成し遂げて下さいます。神がそうして下さるのは、私たちがまた隣人に与えるため、神から与えられた愛や祝福を隣人に共有するためなのです。

 私たちが神に求めるのは、自分の中に欠けたところがあり不足しているものがあるからだと思います。必ずしも、満ち足りているから他者に思いが向けられ、与えることができるのではありません。自分に欠けたところや不足しているものがあるからこそ、欠けがあり不足している隣人の気持ちを理解でき、必要なものが分かるのではないでしょうか。私たちは愛においても欠けており愛の不足している者ですが、父なる神は愛においても豊かであって、私たちを愛し、ご自身の愛を惜しみなく与えて下さいます。ですから、私たちは天の父に求めたいと思うのです。



2017年7月16日
説教題 「人をさばくな」
聖書箇所 マタイによる福音書第7章1節~6節
説教者 安井 光 師

  「人をさばくな」とイエスは命じておられます。「自分がさばかれないためである」と言われます。人をさばけば、自分もさばかれるというのです。これは厳かな真理です。人をさばいている自分自身も同じことをしているからです。人をさばくことによって、自分を罪に定めているのです(ローマ2:1-2)。

 「さばく」と訳されるギリシャ語「クリノー」には、物事の評価や価値判断を下すという肯定的意味がある一方、批判する・中傷する・有罪判決を下すという否定的な意味があります。イエスが「人をさばくな」と言っておられるのは、他者を自分の思いで罪に定める行為を示しています。一般社会においては、人を罪に定めることができるのは裁判官です。裁判官も、法律に基づいて託された職務権限の範囲の中で人を罪に定めることができます。イエスが言われるのはそのような公的なさばきでなく、各自がプライベートに他者をさばくこと、自分勝手に相手を判断し罪に定めることを戒めておられるのです。

 私たちは自分の「はかり」で人をさばくものです。各自、善悪の判断基準が違うだけではなく、自分に対するはかり方と他者に対するはかり方が異なっています。同じはかりでさばくのに、人には厳しく自分には寛大になりがちです。「あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ」るとイエスは言われます。単に自分がさばいた分だけ相手からさばかれるというのではなく、公正かつ公平なさばきをなさる神にさばかれることになるのです。神のさばきに耐え得る人はいないのです。

 私たちは簡単に人をさばいてしまいやすい者ですが、果たして相手のこと(生活や心の内側)をどれだけ見えているだろうかと思います。よく見えていない・分かっていないのに、分かっているかのように人をさばいているのではないでしょうか。自分のことは棚に上げて、些細なことで人を責めたりさばいたりするものです。偽って自分を正しい者としないで、自分の目にある梁(自分を正しいとする誤った思い・見方・判断)を認めそれを取り除けるようにと、イエスは言われるのです(3-5節)。

 私たちはひたすら、唯一正しい方であり完全である神に目を向けなくてはなりません。神は人を偏り見ず、ありのままを見られます。神の目には、私も他の人々も罪故にさばかれても仕方のない者として映っていることでしょう。しかしまた神の目には、高価で尊い愛すべき者として映っているのです。神はあわれみの眼差しを注いでおられるのです。神は私たち罪人を、すなわち私と他者をさばいて滅ぼしてしまうのではなく、救うために御子イエスを十字架につけられたのです。神の御心は、人をさばくことではなく、人を救うことなのです(ヨハネ3:16-17、8:1-11)。イエスの十字架を仰いで生きる時、私たちの目にある梁は取り除かれていくのです。

 イエスはまた「真珠を豚に投げてやるな」と言われますが、律法学者やパリサイ人はイエスの福音(十字架による罪の赦し)の恵みと価値を理解せず、受け入れることを拒んで人をさばくことはやめようとしませんでした。私たちはそうするのでなく、「人をさばくな」と言われるイエスの勧めを受け入れ、神の恵みとあわれみによって生かされていきたくと思うのです。



2017年7月9日
説教題 「わたしもあなたを罰しない」
聖書箇所 ヨハネによる福音書第8章1節~12節
説教者 安井 直子 師

 イエスは宮へ出かけられ、集まってきた人々を教えておられました。その時イエスを待ち構えていたように、律法学者とパリサイ人が姦淫の現場で捕えられた一人の女を引きずるようにして連れて来て、彼女を真中に立たせて「先生、この女は姦淫の場でつかまえられました。モーセは律法の中で、こういう女を石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか」と言いました。6節には、彼らの意図がイエスを試して告発する理由を得るためであったと記されています。女はそのための格好の材料として使われ、イエスがどのように答えようとその答えを元にその立場を不利にし、訴えることができるように仕組まれていたのでした。

 しかし「イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられ」ました。一体何を書いておられたのでしょうか。はっきりしたことはよく分かりません。人々は無言のイエスに執拗に問い続けるので、遂にイエスは沈黙を破られ、彼らに「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」と言われました。しかし、彼らには反論の言葉もありませんでした。そして年長者から始めて一人去り、二人去り、全部の者がそこを去って行ったのでした。彼女を罪に定め、罰することのできる者はいなかったのです。なぜでしょう。主が私たちの心に問いかけられるならば、私たちは誰でも、きっと自分の心の中に罪があることがわかるのです。

 結局、女とイエスだけがそこに残されました。イエスは「女よ、みんなはどこにいるか。あなたを罰する者はなかったのか」と尋ねると「主よ、だれもございません」と答えました。すると「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」と言われました。イエスは決して彼女の罪を見過ごしにしたり、是認したのではなく、ただ罪の裁きを彼女の上に置かず、ご自身の身に負うという方法で罪の赦しを宣言されました。

 主は私たちの罪のために、罪の身代わりとなって十字架で死なれ、よみがえられました。私たちは罪赦されて、裁く者とならず、主の愛と赦しに生きる者とならせていただきたいと思います。



2017年7月2日
説教題 「思いわずらうな」
聖書箇所 マタイによる福音書第6章25~34節
説教者 安井 光 師

 イエスは群衆たちに、何を食べようか、何を着ようかと考えて思いわずらうなと語られました(35節)。衣食住は、生活になくてはならないものです。現代人は、美味しいもの食べ、素敵な衣服を身に着け、いい家に住むことなど、より豊かな生活を求め、それを得ることを人生の目的としているのではないでしょうか。そのような生活を送るなかで「思いわずらい」が生じてきます。「命は食物にまさり、からだは着物にまさる」とイエスは言われます。生きるために衣食住が必要ですが、そのことについて思いを働かせる前に、生きている(神に生かされている)事実に心を向けるべきことを示しておられるのです。

 イエスが譬で語られた〝愚かな金持ち〟(ルカ12:13~34全体を参照)は、畑が豊作だった時に色々と心に「思いめぐらし」ました。彼は、新しい大きな倉を建ててそこに作物を蓄え、心に安心を得ようとしましたが、彼の命は突如取り去られてしまうのです。人の命(人生)は自分の持ち物や得たものによってではなく、それらすべてを人に与えておられる神によって成り立っています。にもかかわらず神を認めず、神に心を向けないで、見えるものに心を奪われ、自分中心に様々なことを思い巡らすならば、心に思いわずらいも生じてくるのです。結局のところ、思いわずらっても何もよいものはもたらされないのです(27節)。

 イエスは、私たちの心と思いが持ち物や得るものにではなく、それらすべてを私たちに与えておられる神に向かうように、私たち人間と同じように神に創造され、神に生かされている動物や植物に目を向けるように言われています(26~30節)。空の鳥は、種を蒔くことも刈入れをすることも、収穫物を倉に蓄えることもしません。でも思いわずらわず、ちゃんと生きています。「あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる」とイエスは言われます。野の花は、自ら美しさや優雅さを求めませんが、野に美しい花を咲かせます。神がそのように装っておられるのです。「あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者」であり、神は「あなたがたに、それ以上よくしてくださ」るとイエスは私たちにおっしゃるのです。

 イエスが私たちに「思いわずらうな」と言われるのは、私たちの心が色々なものに掻き乱され引き裂かれてしまって、神に向けられないで悩み苦しむことがないためなのです(ルカ10:40~42)。天の父なる神は私たちの真の理解者であり、物質的なことのみならず、私たちの心の隠れた所、私たちの過去と現在、そして将来のことまで見通しておられます。神は私たちの人生にご計画を持っておられ、私たちの人生に深く関わりを持たれるのです。私たちに必要なものを与え、真の必要に応えて下さるためにです。思いわずらわないで、神を信頼し、神に委ねることをイエスは私たちに願っておられるのです(33節)。

 私たちには将来のことは分かりません。明日のこともよく分からぬ身です。しかし神が知っていて下さいます。ですから、私たちは神を信頼し、明日のことは神に委ねて、今日を生きることが大事です。一日の労苦も、思い悩みもいっさいを神の前に持っていくのです(34節)。一日を終えて休む時、悩み事や心配事を神に申し上げたいと思います。次の日もし同じ悩みや心配が心に起こってきたら、「このことは神にお委ねした」と心に確認し、神に祈りましょう。そうすることで、思いわずらいから解かれていくのです。



2017年6月25日
説教題 「天に宝を」
聖書箇所 マタイによる福音書第6章19~24節
説教者 安井 光 師

 「宝」は私たちをワクワクさせ、私たちの心を魅了するものです。宝とは、いわゆる金銀財宝のみならず、私たちにとって本当に大事なもの、かけがえのない大切なものを指すのではないでしょうか。

 イエスは、「虫が食い、さびがつき、また、盗人らが押し入って盗み出すような地上に、宝を蓄えてはならない」と言われます。「地上」とは、私たちが生きている世界・この世のことです。イエスはこの世が完全で完成されたものと見ておられず、地上の事柄が人間にとってすべてであるとは考えておられなかったのです。聖書は、この世界・この地上は永遠ではなく、限りがあるものだと教えています。この地上に存在するものも、また限りがあり移りゆくものなのです。失われてしまうかもしれない、無くなってしまうような所に、大切なものを・宝を蓄えてはならないとイエスはおっしゃるのです。むしろ、「天に、宝をたくわえなさい」と言われます。「天」とは、神がおられる所です。神の所に宝を蓄えるのですが、「自分のため」にそうしなさいとイエスは言われるのです。

 命もお金も私たち人間にとっては大事ですが、聖書はそれら以上に大事なものがあると教えています。使徒パウロは、いつまでも失われることがないものとして、「信仰」と「希望」と「愛」の三つをあげています(Ⅰコリント13:13)。「信仰」とは、神を信頼する心です。「希望」とは、神から与えられる将来への望みです。「愛」とは、神の愛であり、いつまでも絶えることがないものです(Ⅰコリント13:4-8)。「最も大いなるものは、愛である」とパウロは語りますが、これら三つは一つに結び付いている神の宝として、最も大切なものとして私たちに示されているのです。

 宝とはこれら三つだけで、私たち各々が宝だと思い大切にしているものが否定されてしまうのではありません。「あなたの宝のある所には、心もある」とイエスは言われます。聖書によれば、人間(「顔を上に向けた者」の意)というのは神に心を向けて生きる存在です。つまり、私たちは自分の宝と心とを神の所に持っていくべきなのです。「コレは私の宝、私の大切なもの」と自分の手に握りしめ、自分でそれを守り保とうとするのではなく、私たちの宝を私たちの心と一緒に神に明け渡すことをイエスは勧めておられるのです。私たちの宝は私たちの心とともにあります。澄んだ目、純真な心(信仰)をもって神に向かい、天に宝を蓄えていくなら、私たちは明るく生き生きと祝福された人生を過ごすことができるのです(22節)。

 私たちは各々、自分にとっての大切な宝を持つかもしれませんが、失われることのない宝、宝の源である主イエス・キリスト(コロサイ2:3、ヘブル10:34、Ⅰペテロ1:3-4)との関わりのなかでその宝のあり方を考えるべきです。私たちが宝のように大切に思ういっさいのもの(家族、友人、財産、思い出、健康、命etc)を、神との関係のなかで捉え受けとめていきたいと思うのです。かけがえのないものを失う時、心にいたみを覚えます。宝のある所に心もあるからです。しかし、宝の宝である主がおられるなら、その宝が目の前から失われたとしても、心の中で失われることのない宝として私たちを生かすものとなるのです。

 私たちの主となって私たちの人生を導かれるのは、ただお一方です(24節)。真実な宝を私たちの宝とし、第一とさせていただきたく思うのです。



2017年6月18日
説教題 「国と力と栄えは神に」
聖書箇所 エペソ人への手紙第3章14~21節
説教者 安井 光 師

 「国と力と栄とは限りなく汝のものなればなり」。主の祈りは、三位一体の神に栄光を帰し、神をほめたたえる頌栄で閉じられます。この句は、主イエスが弟子たちに教えられた祈り(マタイ6章、ルカ11章)には出てきませんが、旧新約聖書を貫いている、神への賛美であり、また祈りなのです(歴代志上29:10-13、詩篇145:11-12)。「国と力と栄とは限りなく汝のものなればなり」という祈りで結ばれることによって、主の祈りは完成し、また完了するのです。

 この結びの句は、主の祈りをささげる者の信仰告白でもあります。神は万物の創造者であり、救い主です。私たちの祈りを聞き、その祈りに応えて下さるお方です。国と力と栄とは永久に神よ、あなたのものだからです、と主なる神を信じているからこそ、絶対的な信頼を寄せているからこそ、私たちはすべてを明け渡すようにして神に祈りをささげるのです。

 神は全世界、全宇宙を支配なさると共に、私たち一人一人を支配なさるお方です。主の祈りが最初に唱えられた頃、イスラエルはローマ帝国の支配下にありました。ローマ帝国は皇帝のものでしたが、クリスチャンたちは「国は汝(神)のもの」と祈りながら、自分たちはローマ皇帝に支配されているのではなく、神の恵みのご支配の中に生かされていると信じて歩みました。「国は神のもの」と、今も神が私たちの国を支配し、全世界を支配しておられるということを信じ祈るのです。神の領域と自分の領域を区別するのではなく、「私の人生・生活を、私自身を神に明け渡します」と信仰を込めて祈るべきなのです(マタイ6:33)。

 神は大能の力を有しておられます。神は荒れ狂う海を静め、己に敵する者を打ち砕かれ、天地万物を創造されました(詩篇89:8-14)。神は私たち罪人を贖い、新しく造りかえて神に生きる者とするために、その大いなる力を御子イエス・キリストのうちに現わされました(ローマ1:16)。大きな力・権力を持つ人も神の前には無力です。「力は神のもの」と、神が私たちの抱えている問題や課題に御力を働かせて下さることを信じて祈り明け渡したいと思います(Ⅱコリント12:9)。

 被造物はその存在をとおして神の栄光をあらわしています(詩篇19:1)。神は他の被造物以上に、私たち人間が真に神の栄光をあらわす者となるためにイエスの十字架の犠牲をもって罪の支配から贖われたのです(Ⅱコリント6:20)。私たちが自分のために生き、自分の思いと力によって生きる時、栄・栄光は自分に帰ってきます。けれども神のために生き、神の力と助けによって生きようとする時、「栄は神のもの」となるのです。自分が何かを成し遂げたとしても、そうさせて下さった神をほめたたえていくならば、周囲の人々が神を認め、神を崇めるに至るのです。

 国と力と栄とは、私たち教会によって永久にあらわされ、神のものとされていくのです(エペソ3:20-21)。私たちは「アーメン(真実です・そのとおりです)」と唱和して、主の祈りを祈っていきたいと思います。



2017年6月11日
説教題 「試みからの救い」
聖書箇所 マタイによる福音書第6章13節、第26章41節
説教者 安井 光 師

 主の祈りの中で、私たちは「我らを試みにあわせず」と祈りますが、「試み」とは何を表わしているのでしょうか。聖書における「試み」という言葉(ペイラスモス)には、「誘惑」と「試練」の二つの意味があります。主の祈りにおける「試み」は、「誘惑」と理解すべきでしょう。神は人を誘惑するのでしょうか。そうではありません。「人が誘惑に陥るのは、それぞれ、欲に引かれ、(サタンに)さそわれるからである」のです(ヤコブ1:13-14)。むしろ神は、私たちが誘惑に陥らないように祈ることを求めておられるのです(マタイ26:41)。

 サタンはさまざまな方法で私たちを誘惑します。金銭の誘惑、性の誘惑、地位や名誉の誘惑があります。お金にしても、性にしても、社会的立場にしても、それ自体が悪ではありませんが、サタンはそれらを利用して、人間の欲(欲求・欲望)に働きかけて、人を誘惑し、罪を犯させ、人生と信仰の道を挫折させようとするのです。クリスチャンは霊的に新しく生れた者です。しかしいまだ肉なる存在であり、誘惑には弱い存在です。だから「我らを試みにあわせず…」と、切に祈らなければならないのです。

 「悪より救い出だしたまえ」と、祈りは続きます。「救い出だしたまえ」は、囲みを解いて逃すとか、危険から引きずり出すという意味を持つ、強い動作を表す言葉です。「悪より」とは、聖書に「悪しき者」(マタイ6:13)とあるように、人格的存在、すなわち悪魔・サタンを指しています。世の中には悪があり、人生には患難があります。そしてそれらの背後には、神に敵対する者、誘惑者であるサタンがいるのです。だから「悪より救い出だしたまえ」と祈らなければならないのです。

 神がお与えになる試練が、私たちの中で不信仰に陥らせてしまう誘惑に変わってしまうことがあります。そうならないために祈りが必要なわけですが、真実であわれみ深い神は「試練と同時に…のがれる道も備えて下さる」(Ⅰコリント10:13)のです。イエスこそが私たちの救いの道、逃れ場なのです(ヨシュア20章、ルカ22:31)。

 イエスは、十字架の死を目前にしてゲッセマネの園で祈られましたが、弟子たちにも祈るように言われました。ところが、弟子たちは睡魔に襲われて眠りこけてしまったのです。神を信じていても試みに遭いますし、熱心に信仰生活に励んでいても誘惑に陥ることがあります。だからこそ、「目をさまして祈って」いなくてはならないのです。イエスは父なる神に祈られ、サタンの試みに勝利されました。「我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ」と私たちは祈り、主イエスの御許に逃れましょう。



2017年6月4日
説教題 「聖霊の御業」
聖書箇所 使徒行伝第2章14~47節
説教者 安井 光 師

 イエスは復活後、弟子たちに対し、「わたしから聞いていた父の約束を待っているがよい」と命じておられました(1:4-5)。その「約束」とは聖霊が降るということでした。弟子たちは約束を信じ、一つの所に集まり心を一つにして祈り、聖霊を待ち望ました。すると五旬節の日(ペンテコステ)に、聖霊が弟子たち・使徒たちの上に降ったのでした。彼らは色々な他国の言葉で神の偉大な働きを証しし始めたのです(1-11節)。

 使徒ペテロは聖霊に満たされ、ユダヤ人をはじめエルサレムに訪れていた諸国の人々に説教を語りました(14-36節)。自分たちの身に起こった出来事、すなわち聖霊降臨は、神が預言者ヨエルをとおしてなされた約束の成就であり、身分年齢性別の区別なくすべての人に聖霊が注がれて、リバイバル(信仰復興、霊的覚醒)が起るということ。また、イエスこそが神の遣わされた救い主であり、十字架の死と復活をとおして世の罪の贖いを成し遂げて、聖霊を我々に注がれたということを大胆明瞭に宣べ伝えたのです。

 説教を聞いた人々は「強く心を刺され」、ペテロの勧めを受け入れて、罪を悔い改めてイエスをキリスト(救い主)と信じてバプテスマ(洗礼)を受けました(37-41節)。このことはまさに聖霊の御業でありました。聖霊は人々に深い罪の自覚をもたらしたのです(ヨハネ16:8)。人々は聖霊の助けと導きによってイエス・キリストを信じたのです。「聖霊によらなければだれも『イエスは主である』と言うことはできない」(Ⅰコリント12:3)のです。

 ペンテコステの日に、三千人もの人々がバプテスマを受けて仲間に加わりました。ここに教会が誕生したのです。初代教会のクリスチャンは教会堂を持っていませんでしたが、「使徒たちの教を守り(聖書の御言葉に聞き従って信仰生活をし)」「信徒の交わりをなし(喜びも悲しみ、働きも重荷も共有し合い)」「共にパンをさき(聖餐式を行ってイエスの十字架と復活を想起し礼拝をささげ)」「祈りをして(心を合わせて祈って)」いました(42節)。彼らは一つの場所にいたわけではありませんが、一つの御霊によって一つの共同体とされたのです(43-47節)。

 使徒たちのみならず、イエス・キリストを信じるすべての者に聖霊は注がれています。聖霊は、二千年前のイエスの十字架の死と復活の出来事を、私たち一人ひとりの救いの出来事として経験させて下さいました。聖霊は私たちの内にあってイエスが私の神・私の救い主であることを証しし、私たちの心に真の平安を与えて私たちを内側から守られるのです(ヨハネ15:26)。キリストの体なる教会には多くの肢体がありますが、一つの御霊によって一つの体となるように召されています(Ⅰコリント12章)。教会は御霊によって一つとされていくことによって、祝福を受け成長していくことができるのです。聖霊の御業を信じ、聖霊の助けと導きを受けながら歩ませていただきましょう。