聖日礼拝 2020年7月5日
説教題  「目標を目指して」
聖書箇所  ピリピ人への手紙第3章10~16節
説  教 安井 光 師

 パウロはこの箇所でキリスト者の姿を描き出しています。それは目標を目指して走っている姿です。パウロはキリストの中に真の価値を見出し、目標を見出していました(8-9 節)。パウロがキリストの中に見ていたのは、キリストご自身の姿でした。十字架で苦し みを受けられたキリスト、死人の中から復活されたキリストに目が注がれていました(10-11節)。パウロは様々な患難に遭い(Ⅱコリント 11:23-)、この時 ローマの獄中に置かれていましたが、常に喜んでいました。それは確かな希望が与えられていたからでした。 希望の根拠はキリストの復活にありました(Ⅰコリント15 章)。パウ ロは復活を目標にしながら、キリストを仰ぎ見つつ人生の道のりを走っていたのです。

 パウロは信仰者として完全な者となっていたのでありません。キリストを追い求め、完成を目指して走っているキリスト者の一人だったのです(12-13 節)。私たちにもパウロと同 じ希望が与えられており、私たちキリスト者は皆この目標を目指 しながら信仰生活を過ごしているのです。クリスチャン=キリスト者とは、キリストから離れないように必死でキリストにしがみついて いる者ではなく、キリストに捕らえられている者なのです。キリストは私たちを捕えて離さず、今目標に向かって導いておられるの です。

 目標が定まっていたので、パウロは自分の置かれている状況に関わらず目標に向かって進むことができました。キリストの福音を宣べ伝え、キリストの愛に生き、教会の指導に努めていました。それらの働きも、パウロにとっては神から託された務めとして大事でしたが、すべてのことは前にある目標につながっていました。「後ろのものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、目標を目指して走」っていたのです。その姿はさながら競走 を走るランナーのようでした(Ⅱテモテ2:5、Ⅰコリント9:24)。罪や重荷をかなぐり捨てて、「上に召して下さる神の賞与」を思いなが ら直向きに走っていたのです。

 クリスチャンにもそれぞれ違った生き方があります。神は各自に違った志や幻を抱かせ、実現に至 らせて下さる方でもあります。一人一人の異なる状況を知っておられ、状況に応じた導き方をされます。ただそれ同時に、キリスト者としての違わない生き方があり、常に同じ目標に導いておられることを忘れないでいたいと思います。イエス・キリストに目を注ぎ、 目標を目指して走り続けようではありませんか(ヘブル12:1-2)。

聖日礼拝 2020年6月28日
説教題  「価値観の大変革」
聖書箇所  ピリピ人への手紙第3章1~9節
説  教 安井 光 師

 パウロは、イエス・キリストの福音を世界に広めた大宣教者ですが、元は厳格なユダヤ教徒でした。かつては、「肉(自分自身)を頼みとしている」人間だったことを告白しています(4節)。「わたしは八日目に割礼を受けた者、イスラエルの民族に属する者、ベニヤミン族の出身、ヘブル人の中のヘブル人、律法の上ではパリサイ人、熱心の点では教会の迫害者、律法の義については落ち度のない者である」と紹介しています。これはキリストに出会うまでのパウロの履歴書です。自分を形作っている重大要素だとパウロ は考えていたことでしょう。

 自分の中にあるものを拠り所にして生きてきたパウロでしたが、彼の人生観や価値観が一変する転機が 訪れました。それはイエス・キリストとの出会いでした(使徒行伝 9:1-19)。クリスチャンを迫害するためにダマスコに向かっていた時、パウロは光に照らされ、天からイエスの声を聞きました。パウロは自分のしていることが神への反逆だったと知らされ、悔い改めてイエスをキリスト(救い主)と信じました。パウロは心の目が開 かれ、モノの見方見え方が全く変えられたのです。キリストの中に最も大事なものを、また人生の価値を見出すようにされたのです(7-8節)。

 パウロはコロサイ2章3節で、「キリストのうちには、知恵と知識との宝が、いっさい隠されている」と述べています。永遠の命、真の喜び・平安・愛・希望・自由など、キリストは人間の努力や力では得られない宝を賜わるのです。かつては律法の行いによって完全な者となり、神に認められようとしていたパウロでした。しかし喜びがなく感謝がなく、平安も他者に向かう愛もなく、心が渇いていました。パウロは自分にないそれらの宝をクリスチャンの中に見出し(ステパノなど:使徒行伝 7:54-)、彼らが信じるイエス・キリストの中に見出したのです。キリストの中に自分を見出すようにされて、律法的な生き方から解放され全く自由にされた のです(9節)。

 パウロに起こった価値観の変革は、イエス・キリストを信じる私たちの身にも起こります。自分の中に価値を見出そうとすると、傲慢になったり卑屈になったり、また自分の力で自分を 保たなくてはならなくなるので生きるのがつらくしんどくなってしまうでしょう。私たちはキリストの中に真実なる価値を見出し、キリストを頼みとしましょう。キリストを誇りとし、キリストの中に自分を見出し、また人生の標準を合わせて歩ませていただきましょう。

聖日礼拝 2020年6月21日
説教題  「福音に仕えた人々」
聖書箇所  ピリピ人への手紙第2章19~30節
説  教 安井 光 師

 パウロによる福音宣教は、彼一人の力でなされたものではあり ません。パウロの働きを支えた多くの協力者がいました。テモテとエパフロデトもそうでした。パウロは二人をキリスト者の模範として 示しています。

 テモテはパウロの愛弟子でした。祖母と母からキ リスト教信仰を受け継ぎ、幼い時から聖書をいのちの書として学んでいました(Ⅱテモテ1:5、3:15)。テモテはパウロの伝道旅行に同 行し、ある時はパウロの代理として務めを果たしていました。パウロはテモテに対し、大きな信頼と期待を寄せていました。更なる信 仰の成長を願っていました。「テモテの錬達ぶり」は、ピリピの教 会の信徒たちの認めるところでした。

 パウロはテモテに宛てて書いた手紙の中で、イエス・キリストの福音によって救われたこと、ま た福音を託されていることに驚きと恐れを感じていた胸の内を告 白しています(Ⅰテモテ 1:12-16)。また、「わたしは福音を恥としない。それは・・・すべて信じる者に、救を得させる神の力である」と証ししています(ローマ1:16)。パウロは、福音の驚くべき恵みの 力に圧倒され、その力に屈服していました。パウロと共に「福音に 仕えてきた」テモテも、パウロと同様の思いを抱いていたことでしょう。

 エパフロデトも、テモテ同様にパウロの働きを支えた人でした。エパフロデトは、ピリピの教会のメンバーでした。パウロの許にピリピの教会からのささげものを届け(4:18)、この手紙(ピリピ書) をパウロに託されてピリピの教会に届けたのもエパフロデトでした。パウロにとっては、彼は福音宣教のために共に労した「同労 者」であり、福音のために共に戦う「戦友」でもありました。

 神が福音宣教に用いられるのは、必ずしも若くて丈夫な人ではありませ ん。エパフロデトは重い病気を患いながら尚、パウロの許で奉仕を続けていたようです(27-30 節)。パウロは弱さに働く神の力を 経験していましたが(Ⅱコリント12:79)、それはエパフロデトに おいても同じだったでしょう。彼らはピリピの兄弟姉妹のために祈 り、彼らを励ますことを止めませんでした。神の恵みで強くされて、 神の御業のために命をかけることができたのです。

 福音はまず 身近な人に受け継がれていきます。身近な人に心を配り、彼らの ために祈ることから福音宣教は始まります。パウロ、テモテやエパ フロデト、信仰の先達たちが私たちに模範を示してくれています。 私たちも福音によって生かされ、福音に仕えてまいりましょう。

聖日礼拝 2020年6月14日
説教題  「神は常に真実」
聖書箇所  テモテへの第2の手紙第2章13節
説  教 安井 光 師

 神は「常に真実」な方です。神はいつも変わらない愛をもって私 たちの生涯に臨まれます。信仰生涯の始めから終わりまで、神は 真実に導かれるのです。私たちが「神によって召され…イエス・キ リストとの交わりに、はいらせていただいた」時から、否私たちが神 の存在を自覚しない時から、神は真実なご計画をもって私たちを 選んでおられたのです(Ⅰコリント 1:9)。神の真実は、私たちの信 仰をその土台・根底から支えているものなのです。

 私たちが、神 が真実であるということを最初に分かるのは、罪の赦しを経験する 時ではないでしょうか。「神は真実で正しい方であるからその罪を ゆるし」て下さると、使徒ヨハネは語っています(Ⅰヨハネ 1:9)。普 通ならば、真実で正しいから罪をさばくというふうになるでしょう。 でも神は真実な方だから罪を赦すというのです。御子イエスを十字 架で犠牲にされて、私たち罪人の罪を赦されたのです(同1:7)。神 の真実の顕れであるイエスの十字架の前に、自分の罪を告白して イエスを信じる信仰(真実)によって、私たちの罪は赦されるので す。

 神が真実であるということは、また私たちが試練に遭うことをと おして分かります。神は真実であられるので、私たちに「耐えられ ないような試練に会わせることがないばかりか…のがれる道も備 えて下さる」のです(Ⅰコリント 10:13)。試練は、魂の父である神の 与える訓練だと言われます(ヘブル 12:6-)。神は真実に私たちを 子と扱っておられるので、私たちの益のために、ご自身のきよさに あずからせるために試練の中を通らされるのです。時に試練は神 への不信仰を抱かせる誘惑にもなりますが、神による訓練として受 けとめていくならば、神の真実を味わい知る祝福となるのです。

 真実な神は私たちの救いを完成して下さいます。イエスが再び世 においで下さる時、私たちを「責められるところのない者にして下 さる」のです。神は「真実であられるから、このことをして下さる」の です(Ⅰテサロニケ 5:23-24)。エレミヤは、神が真実であることを 深く経験し、それをライフメッセージとした預言者でした。彼は心頑 なな民に向かって、「わたし(神)は限りなき愛をもってあなたを愛 している。それゆえ、わたしは絶えず真実をあなたにつくしてきた」 (エレミヤ 31:3)を神のメッセージを伝えました。

 「たとい、わたした ちは不真実であっても、かれは常に真実である」のです。真実なる 主に支えられ、主に寄り頼んで歩ませていただきましょう。

聖日礼拝 2020年6月7日
説教題  「命の言葉を携えて」
聖書箇所  ピリピ人への手紙第2章12~18節
説教者 安井 光 師

 パウロは、私たちクリスチャンに対して「自分の救の達成に努め なさい」と勧告しています。キリストによる救いが不完全なので、あ なたがたの努力で不足を補いなさいというのではありません。キリ ストは十字架の死と復活をとおして、完全な救いを成し遂げて下さ いました(ヘブル 9:12)。にもかかわらず、救いの達成に努めなさ いと勧めるのは、神への「従順」(信頼)によって救いが完成される からなのです(1:6)。神主導で救いが達成さえることを信じて、自ら を神に明け渡すことをパウロは命じているのです。

 完成というゴ ールを見定めながら、私たちは救いの道を歩み続けるのです。 「わたしは道である」(ヨハネ 14:6)と言われたイエス・キリストと共に 歩む生活が救いの道です。キリストと共に生きる信仰生活のゴール に、救いの完成が約束されているのです。このことは、神が抱いて おられるご計画なのです。神がこのことを私たちに願わせ下さり、 歩む道のりを導いて下さり、実現に至らせて下さるのです(13 節)。

 私たちには明日のことが分からず、近い将来どうなるのか分かり ません。しかし神の救いのご計画が明らかにされています。だか ら「つぶやかず疑わないで」、神を信頼しつつ歩むことが求められ ます。目標に至る道のりにおいて、私たちの信仰が成長することも 神の定められたご計画です(ローマ8:28-30)。試練や苦難をとおし て私たちの信仰は試され、神との交わりが密にされ深められていく のです(Ⅰペテロ 1:7)。苦難の中で神と交わりを持つことで、私た ちは「傷のない神の子」とされるのです。コロナの問題も神は決し て無駄にはなさいません・

 サタンは、世界を不信仰と絶望の闇で 覆おうとしています。神の子らはその只中にあって、「いのちの言 葉(救いの約束)」を持ち続けるのです。キリストの命の光を輝かせ るのです(ヨハネ 8:12、マタイ 5:14)。この世が明るければ、光は不 要でしょう。しかし現実には闇が覆っているので光が必要です。私 たちは御言葉の光(詩篇109:105)を輝かせるのです。「あなたがた は…星のように…輝いている」とパウロは言っています。私たちの 放つ光は小さいかもしれませんが、御言葉を信じて生きる星が暗 き世の人々への証しとなり希望となるのです。

 過去の事も、現在の 状況も、私たちが救いの完成を目指す道のりにおいて、神はいっ さいのことを無駄になさいません(16 節)。御言葉が神の約束です。 神を信頼し、御言葉を携えながら、完成を目指して歩み続けましょう。

聖日礼拝 2020年5月31日
説教題  「枯れた骨を生かす」
聖書箇所  エゼキエル書第37章1~14節
説教者 安井 光 師

 エゼキエルは捕囚時代の預言者でした。元は神殿で神に仕え ていた祭司でしたが、バビロン軍の攻撃によって神殿が破壊され、 エルサレムは陥落し、ユダの人々と共にバビロンに連行され、捕 囚生活を送っていたのです。エゼキエルは、深い悲しみと虚脱感 を抱えつつ生活していたことでしょう。

 主なる神はエゼキエルに 臨まれ、主の御霊で満たし幻の中で谷に導かれました。谷一面に 無数の骨があり、どの骨も干からびていました。これらの「枯れた 骨」は、ユダの人々、イスラエルの全国民の霊的な状態を表わして いました(11 節)。荒廃していたのはエルサレムの都だけではなく、 その民の魂が枯れていたのです。体は生きていましたが、真の意 味で生かす命が失われていたのです。「われらの骨は枯れ…望 みは尽き、われらは絶え果てる」と人々が嘆いていたのは、主を信 頼するのではなく目に見えるものを信頼し、目に見えるもので満た されようとしたからでした。

 主はエゼキエルに、「これらの骨は、生 き返ることができるのか」と尋ねました。エゼキエルは「主なる神よ、 あなたはご存じです」と答えました。エゼキエルは主を全く信頼し ていました。主はエゼキエルにご計画を示されます(5-6節)。主の 「息」(ルーアハ、「霊」とも訳される)が枯れた魂に入れられると、イ スラエルの民は真心から主を信頼し、主の助けと導きを受けて生き るようになることを明かされたのです(14 節)。主が命じられたよう に預言すると、骨は音をたてて動き出し、相連なり、筋と肉が生じ、 皮で覆われ、人の姿になりました。そこに主の御霊が吹き込まれる ことによって、人は生きたものとなったのです(創世記2:7)。

 「枯れ た骨」は、主なる神との交わりを失い、主との信頼関係を失っている 人類(罪人)の姿に他なりません。主ではなく他のものを信頼して いるので、心が満たされず困難の中で希望を抱くことができない のです。主との信頼関係が回復されなくてはなりません。ペンテコ ステの聖霊降臨の出来事は、主がエゼキエルに示された預言の 成就でした。主の弟子たちは御霊を内に注がれ、主を信頼し、御霊 の助けと導きを受けながら、希望を抱いて力強く生きるようにされた のです。

 私たちも主の御霊を注がれ、御霊を内に宿しています。 ですから御霊によって歩みましょう。主はすべてをご存じです。今 世界が困難な状況にありますが、真の回復は主がもたらされます。 御霊の助けと希望を証ししつつ歩ませていただきましょう。

聖日礼拝 2020年5月24日
説教題  「岸に立っておられるイエス」
聖書箇所  ヨハネによる福音書第21章1~14節
司会者 安井 直子 師

 主イエスが三度目にご自身を現されたのは、テベリヤの海べ (ガリラヤ湖のほとり)でした。弟子たちはエルサレムで復活の 主に出会った後、再び会うために故郷ガリラヤに戻っていた のです。彼らは魚を獲る為に夜通し漁をしましたが、一匹も魚 が獲れませんでした。弟子として師である主イエスを裏切ると いう失敗をし、漁をしても不漁という結果にどんなに落胆した ことでしょう。しかしそんな彼らに声をかける人がいました。

 主 イエス・キリストです。「子たちよ、何か食べるものがあるか」と 優しく呼びかけられ、彼らは「ありません」と答えました。これ は彼ら自身に現実を認めさせるための質問でした。なぜなら、 豊かな神の恵みを受ける前には、まず自分が貧しい者である ことを認め告白することが必要だからです。落胆していた彼ら に「舟の右の方に網をおろしてみなさい。そうすれ何かとれる だろう」と語られました。彼らがその通りにしたところ、153 匹の 魚が獲れたのです。主イエスは躓き悩んでいたペテロを信仰 の出発点に立ち帰らせるために、この奇跡を見せての下さっ たのです。

 私たちも救いの原点を忘れないでいたいと思いま す。私たちも罪に失望落胆し、心を閉ざし神様から離れてしま いそうな時にも、主イエスの方から私たちに近付き声をかけ回 復へと導いて下さいます。全てをご存知の主イエスに信頼し ましょう。

 もっと素晴らしいのは主イエスが炭火まで起こして 食事の準備をして弟子たちを招いて下さったのです。主の食 卓と交わりを通して、弟子たちはどれ程慰め励まされたことで しょう。主イエスは今も私たちの為に食事を整えて下さいます。 一つ目は肉の糧・食物です。必要な物を豊かに与えて下さる 主に感謝しましょう。二つ目は霊の糧(聖書の御言葉であり礼 拝)です。主イエスは主の愛で私たちを包み込んで下さり、新 たな気持ちで再出発できるように満たして下さるお方です。

  主イエスは私たちの人生をも徒労に終わらせないお方です。 御言葉によって、罪を悟らせ、私たちに救いと安息が与えら れて喜びに満ちた歩みを与えて下さるお方です。私たちは 弱くて貧しい者ですが、主イエスの十字架と復活の愛と赦し の中で、悔改めと信仰をもってこれからもこのお方に従って行 きましょう。

聖日礼拝 2020年5月17日
説教題  「キリストの心を」
聖書箇所  ピリピ人への手紙第2章1~11節
司会者 安井 光 師

 パウロがピリピの教会の信徒たちに望んでいたことは、「キリスト の福音にふさわしい生活」(1:27)をすることでした。これは神が全 クリスチャンに求めておられることです。その具体的なあり方をパ ウロは2章で述べています。

 「同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、 心を合わせ、一つ思いになって」と、クリスチャンが思いを一つに し、一つ思いになることを勧めています。世の中においては、一 つ思いになることは困難なことでしょう。しかし私たちクリスチャン には可能です。私たちはキリストに属する者だからです。教会は キリストの体と言われます(ローマ 12:5、Ⅰコリント 12:27、エペソ 1:23)。私たちは多種多様な存在ですが、キリストとつながっており、 キリストの体を形作っています。教会はキリストの一つの体ですか ら、一つの心を持つのです。キリストの御霊を与えられ、一つの思 いを抱いて生きるよう召されているのです(エペソ 4:1‐4)。

 パウロ は「何事も党派心や虚栄からするのでなく…」と言っています。「党 派心」は、共同訳では「利己心」と訳されています。「党派心」から福 音を宣べ伝えている者がいたことについて(1:17)、パウロは否定し ませんでしたが「よし」としたのではありません。「へりくだった心を も」ち、「他人のことも考え」ることを求めたのです。キリストの福音を 信じる者は、その深い恵みに生きることを求められているのです。 御霊を宿し、御心を尋ね求めるキリストの体なる教会にはそれがで きるのです。

 「互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イ エスにも見られるものです」(5 節、共同訳)。謙った心で他者のこと を考え重んじておられるのは、他ならぬイエス・キリストです。クリス チャンは、このキリストの心を我が心とし、我らの心とするのです。 教会はキリストの愛の心を互いに抱き合うのです。キリストは、罪人 を救うために「おのれをむなしうして僕のかたちをとり…おのれを 低くして…十字架の死に至るまで従順」を貫かれました。キリストの 謙遜は、父なる神への信頼と罪人への愛からきていました。ここに 示されているキリストの心を互いに抱いて生きる時、教会は一つと なり、キリストの福音を力強くこの世に証しすることができるのです。

 イエス・キリストは、世を罪と死の支配から贖い出すために、愛を もって仕える僕となられました。キリストは愛をもって、苦難の中に あるこの世界をご覧になっておられます。私たちはキリストの愛の 心を抱きながら、キリストの教会として共に建て上げられましょう。

聖日礼拝 2020年5月10日
説教題  「パウロの死生観」
聖書箇所  ピリピ人への手紙第1章18~26節
司会者 安井 光 師

 パウロは、自分の存在をとおしてキリストが証しされ、キリストが 崇められることを願っていました(20 節)。それはパウロのモットー でした。「生きるにも死ぬにも」と言っています。パウロのなかで命 の転換が、人生の転換が起こったのです。彼を生かすもの、彼を 動かすものが変化したのです。自分ではなく、イエス・キリストに変 わったのでした(ガラテヤ 2:19-20)。これはパウロだけでなく、全 キリスト者に当てはまることです(ローマ 14:7-8)。

 人は誰でも自分 で考え、判断し、行動します。パウロの場合もそうです。クリスチャ ンになったら、自分がなくなってしまうのではありません。ただ自 分だけが立つのではなく、キリストが傍らに立たれるのです。キリ ストと共に考え、キリストと共に判断し、キリストと共に行動するように なります。人生の主体、命の主体が、自分ではなくキリストに変化し たからです。自分の主体性は失われませんが、自分が先立たない のです。

 「わたしにとっては、生きることはキリストであり、死ぬこと は益である」とパウロは言っています。パウロの死生観がここに示 されています。これはキリスト者の死生観です。キリスト者は、キリ ストの命を与えられた者なのです。命も人生も人が生まれながらに 有するものですが、私たちはイエス・キリストをとおして新たにこれ を受け取り直したのです。当然その扱い方が、生き方が変わってき ます。キリストの導きを切に求めること、キリストにすべてを委ねると いうことが、各自の人生、生活においてなされていくのです。

 キリ ストの命に生かされていたパウロですが、彼は死ぬことにさえ意義 を見出していました。死を恐れる必要がなく、死が無駄にならない ことを知らされていました。イエス・キリストの死と復活にそれを見出 していたのです(Iコリント 15 章)。獄中に置かれていたパウロに とっては、苦しみから逃れ「この世を去ってキリストと共にいる」こと が望ましいことでした。ただ自分が生かされることで「実り多き働き」 がもたらされるとすれば、それがキリストの御心だと示されたので す。ピリピの信徒たちの「信仰を進ませ、その喜びを得させ」るとい う使命に生きたのです(22-24 節)。

 生きるにしても死ぬにしても、 私たちは主イエス・キリストのものであり、私たちは主の御手の中に あります。主が崇められるために、また隣人や他者のために生きる には、主が私たちのうちに生きて下さらなくてはなりません。です から、主に導きを求め、主に委ねつつ生かされてまいりましょう。

聖日礼拝 2020年5月3日
説教題  「喜びを持って祈る」
聖書箇所  ピリピ人への手紙第1章3~11節
説教者 安井 光 師

 ピリピ書は「喜びの手紙」と呼ばれます。パウロは獄中でこの書 を記しましたが、内容は喜びに満ち溢れています。パウロはピリ ピの教会の信徒たちを思うごとに、神に感謝し「いつも喜びをもっ て祈」っていました。

 ピリピの教会は、パウロにとって特別な思い 入れがある教会でした。聖霊にストップをかけられ、また聖霊に導 かれて伝道したのがピリピの町でした(使徒行伝16章)。パウロに とって見知らぬ地でしたが、紫布商人ルデヤとその家族が福音を 受け入れました。困難にも遭遇しましたが、獄吏とその家族が救 われ、ルデヤの家が拠点となってピリピの教会が誕生したのでし た。パウロは、人知を超えた神の導きを感じていたことでしょう。

ただパウロが「喜びをもって祈」っていたのは、単にピリピの教会 が祝福されて順調に成長していたからではありません。パウロの 喜びは、神への信頼からくる喜びでした。パウロが喜んでいたの は、ピリピの信徒たちが「福音にあずかって」いたからでした。福 音に「あずかる(コイノニア)」には、福音を「共有する」という意味 があります。イエス・キリストの救いが、ピリピの信徒たちをして周 囲に広がっていることをパウロは喜んでいたのです。神が「良き わざ(救い)」を「完成して下さるに違いないと、確信して」いました。 そう信じていたので、「いつも喜びをもって祈」ることができたのです。

 今、世界は新型コロナウイルスの問題で苦境に立たされて います。感染が収束に向かうように、ウイルスに苦しむ人々が癒さ れ、医療従事者をはじめ種々の対応に追われている方々に助け があり、皆がこの困難を乗り切れるように、私たちキリスト者は切に 祈らなくてはなりません。また、人知を超えた神のご計画を信じて 「喜びをもって」祈りたいと思います。私たちは「福音にあずかっ ている」からです。パウロがマイナスと思える状況をプラスに捉え ることができたのは、神のご計画は決して頓挫してしまうことがな かったからでした。彼の身に起こった困難が、かえって「福音の前 進に役立つ」結果をもたらしたのです(12-14 節)。

 私たちの身に 起こっている現在の状況も、なぜ? どういう目的で?と感じてし まうものかもしれません。しかし神の「良きわざ」は、今も人間の思 いや力の及ばないところで休むことなく粛々と進められています。 一人で祈る時でも教会全体の祈りとして、最善を信じて聖霊の導き を求めながら、喜びをもって祈ってまいりましょう。