2017年12月3日
説教題 「来るべき方はあなたですか」
聖書箇所 マタイによる福音書第11章2~6節
説教者 安井 光 師

 「『きたるべきかた(救い主)』はあなたなのですか。それとも、ほかにだれかを待つべきでしょうか」。バプテスマのヨハネは、自分の弟子たちを遣わして獄中からイエスにそう問いかけました。ヨハネは、イエスを指差しながら「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と呼ばわり、人々に悔い改めを勧め、イエスの働きのために道備えを行ってきました(マタイ3:1-、ヨハネ1:19-)。この方こそ来たるべき救い主であると、イエスを証しすることを生涯の使命として生きてきた人でした。

 「来たるべき方はあなたですか」。これは、ヨハネのイエスへの切実な問いでした。来たるべき方は世の罪を徹底的に取り除かれるはずなのに、イエスは罪人を受け入れ、人々の求めにひたすら応えておられること。自分はイエスのために生涯をささげ働いてきたのに、牢獄につながれ暗闇の中に置かれている。イエスが自分をこの状況から救い出してくれないこと。信じてきたことと、今経験していることのギャップにヨハネは苦しみ、疑問をいだいていたかもしれません。しかし、ヨハネはイエス以外の誰かを期待したのではありません。彼にとっては、来たるべき方はイエスの他にいなかったのです。

 今年も救い主イエスの降誕を祝うクリスマスを迎えます。私たちが毎年クリスマスを祝うのは、救い主がこの世に救い主が来られた(「アドベント」は「到来」という意味)されたからであります。ところが、イエスは救い主としてこの世に来られたのに、世の中には解決できていない問題が山積されています。イエスを信じクリスチャンとして生活していても、様々な悩みや苦しみの中に置かれることがあります。そういう時、「イエス様、あなたは私の救い主なのですか…」という問い(つぶやき)が心に湧いてくることがあると思います。ヨハネの抱いた問いは、実にイエスを救い主と信じる者たちの問いなのです。

 イエスはヨハネの弟子たちに対し、「行って、あなたがたの見聞きしていることを…報告しなさい」と命じました。見聞きしていることから判断しなさい、答えは明らかではないか…と言われたのです。彼らが見聞きしていること(5節)は、救い主が世に到来した時に起こる出来事として預言されていた神の約束でした(イザヤ35:5-6、61:1)。これらの約束は、イエス・キリストによって成就したのです。私たちはイエスによって、霊的な目が開かれ、御言葉を悟る耳を与えられた。イエスの十字架の死と復活により、罪をきよめられ、死と悪魔の支配から解き放たれ、命の道を歩く者とされました。来たるべき方によって、救いの出来事が起こったのです。イエスを救い主として信じた私たち一人一人の身に救いが成されたのではないでしょうか。

 「わたしにつまずかない者は、さいわいである」とイエスは言われます。イエスの救いの恵みにあずかっていても、私たちは不信仰に陥りやすく、弱く躓きやすい者です。世の中を取り巻く様々な問題、自分の目の前に立ちはだかる困難に対して、イエスの十字架の死と復活による救いの恵みと力とが、自分の内側で小さくなってしまうことがあります。その時に今一度、クリスマスの出来事を覚えたいと思うのです。イエスは、二千年前ユダヤのベツレヘムに救い主としてお生まれになったこと、彼は世をもろもろの罪から救う者なられたこと、世を照らすまことの光として、平和の王として世に来られたことを覚え(賛美歌『諸人こぞりて』)、イエスこそ「来たるべき方」であるという確信に立ち、このクリスマス、喜びをもってイエスを新しく心にお迎えしましょう。

2017年11月26日
説教題 「新しいぶどう酒は新しい皮袋に」
聖書箇所 マタイによる福音書第9章14~17節
説教者 安井 光 師

 イエスに従う者とされたマタイが(9:9~)、イエスと弟子たち、また取税人の仲間を自宅に招いて食事をしていた時のこと。バプテスマのヨハネの弟子たちは、「わたしたちとパリサイ人たちとが断食をしているのに、あなたの弟子たちは、なぜ断食をしないのですか」とイエスに抗議しました。断食は悔い改めを示す行為として旧約時代から行われていましたが、当時は慣習化し形式的な宗教儀礼となっていました。ヨハネの弟子たちは、自分たちがしているようにイエスの弟子たちが断食をせず、楽しげに飲み食いしているのが不敬虔だ・不信仰だと思ったのでしょうか。

 イエスはマタイの催した宴会を婚礼の喜びの席に譬えて、ヨハネの弟子たちに対し「婚礼の客は、花婿(救い主イエス)が一緒にいる間は、悲しんでおられようか」と言われました。イエスの弟子たちは祝宴の喜びの只中にいるのです。それなのに、どうして彼らに断食させることができるだろうかと言われたのです。飲み食いの行為が喜びを生み出すのではありません。イエスによって罪を赦され父なる神との生きた交わりを回復されること、イエスの弟子とされイエスに従う生活に真の喜びがあるのです。イエスは真の喜びをもたらすために世に来られたのです。イエスが共におられる食卓には喜びが満ち溢れていました。

 イエスは、しばしば譬えを用いて福音をお語りになりましたが、「福音」とは私たち人類に対する神から良き知らせであり〝喜び〟そのものです。イエスは、ご自身によってもたらされた喜び(福音)について、「真新しい布ぎれ」と「新しいぶどう酒」に譬えられました(16~17節)。

 「真新しい布ぎれで、古い着物につぎを当て」たら、「着物を引き破り…破れがもっとひどくなる」ように、イエスの福音とヨハネの弟子たちやパリサイ人が拠り所としてきたもの(禁欲主義、律法主義)を部分的につぎはぎしてしまうと、アンバランスになり全体的におかしなことになってしまします。すべてを新しくする必要があるのです。また「新しいぶどう酒を古い皮袋に入れ」ると、発酵力が強いため伸びきって固くなった古い「皮袋は張り裂け、酒は流れ出るし、皮袋もむだに」なってしまいます。同様に、イエスの喜びとそれによってもたらされる新しい生活は、「古い皮袋」(知識や経験で踏み固められた心、神の御心と導きを受け入れない自己流の考え方・生き方)ではなく、「新しい皮袋」(イエスの喜びを受け入れる心)を必要とするのです。

 イエスの福音は、ヨハネの弟子たちやパリサイ人が聞いたことのない「真新しい」ものでした。この「新しいぶどう酒」に対する人々の反応は様々でした。ある人々は興味を抱き、関心を持ち、それを知りたいと願ってイエスの許に押し寄せました。別の人々はそれに異議を唱え、受け付けなかったのです。今の時代も同じような反応があるでしょう。私たちクリスチャンも、福音の聴き方・捉え方に注意しなくてはなりません。「新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきである」とイエスは言われます。私たちの用意する「新しい皮袋」とは、イエス・キリストをお迎えする心です。心を開いて新しくイエスをお迎えするならば、イエスが私たちの心を喜びで満たし、内側から新しく造りかえて下さるのです(Ⅱコリント5:17、ローマ12:2)。

 「新しいぶどう酒」は飲みやすくはありませんが、神の大きな恵みの力を秘めた豊かなものなのです。自分ばかりではなく、他の人々にも良き味わいをもたらすものです。主の喜びと祝福が私たちに満ち溢れるために、「新しい皮袋」を用意させていただきましょう。



2017年11月19日
説教題 「罪人を招かれるイエス」
聖書箇所 マタイによる福音書第9章9~13節
説教者 安井 光 師

 マタイはここに自らの救いの体験を記しています。マタイは取税人でした。カペナウムの収税所では働いていた時、マタイはイエスに声をかけられたのです。取税人は支配国のローマに納める税金を徴収していたため、同国民のユダヤ人から嫌われていました。彼らはローマの権力をバックに不当な取り立てをして私腹を肥やし、お金だけを頼りに生きていました。人々から「罪人」というレッテルを貼られ軽蔑されていました。マタイもそのような取税人の一人だったのです。

 イエスは収税所に座っているマタイをご覧になりました。イエスは罪の赦しを得させる救い主として(マタイ1:21、5:6)、「わたしに従ってきなさい」と罪人マタイに声をかけられ、彼をご自身に従う祝福の道に招かれたのです。マタイは「立ちあがって、イエスに従」いました。

 イエスに従った理由について、マタイは詳しく書いていません。「わたしに従ってきなさい」とイエスが言われたので、「彼は立ちあがって、イエスに従った」というのです。イエスが招いて下さった。だからマタイは従うことができたのです。マタイは罪人であったからイエスに従ったのです。「わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」とイエスは言われたことをマタイは記しています。

 マタイは自分が罪人であると自覚していました。自分の間違い・思い違いを認め、このままではいけないとイエスに導かれるまま、収税所の席から立ち上がり、神に向き直って一歩を踏み出そうとしたのです(悔い改め)。神に向かって歩み出すために、差し出されたイエスの手を握り、イエスの御手に自分の身を委ね、イエスに導かれて歩み始めたのです(信仰)。不正によって得た富や取税人の職もそうですが、マタイは心にしまい込んでいた罪の重荷をイエスの前に手放したのです(ルカ5:28)。

 マタイはイエスと取税人の仲間たちを招いて宴会を行いました(ルカ5:29)。救いの喜びを仲間に分かち合い、彼らをイエスに紹介しようと思ったのでしょう。ところが、パリサイ人らはその様子を見てイエスを非難しました(11節)。パリサイ人は、律法に沿わない生活をしている人を罪人と定める一方、律法を守り行う自分たちは正しい人間(義人)だと考えていました。でもそれは独善的な判断に過ぎず、神の目から見れば、彼らは神の御旨に従って生きていない罪人のひとりだったのです(ローマ3:10)。

 「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である」とイエスは言われます。自分は「丈夫な人」と考えている人も、真の医者であるイエスによる癒し(罪の赦しによる救い)が必要な「病人」なのです。神は、「いけにえ」(形式的な正しさ)ではなく、「あわれみ」(神に委ねる砕けた心=悔い改めと信仰)を求めておられるのです(ホセア6:6、詩篇51篇)。かつてはパリサイ人であった使徒パウロは、「『キリスト・イエスは罪人を救うためにこの世に来て下さった』という言葉は、確実で、そのまま受けいれるに足るものである。わたしは、その罪人のかしらなのである」(Ⅰテモテ1:15)と証ししています。

 イエスはマタイと同様、私たち罪人を神の子とするために、私たちをきよめ祝福して神の栄光を現わす器とするために、「わたしに従ってきなさい」と招かれます。私たちは、今いるところから立ち上がって、イエスにお従いしたいと思うのです。



2017年11月12日
説教題 「神のみわざが現れるために」
聖書箇所 ヨハネによる福音書第9章1~12節
説教者 安井 直子 師

 イエス様が弟子たちと道を歩いていると、道端で物乞いをしている人に出会いました。彼は生まれつき目が見えませんでした。弟子たちは「先生、この人が生まれつき目が見えないのはだれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか」とイエス様に尋ねました。この問いはユダヤ人の中にあった応報の考えからきているもので、旧約聖書の思想に基づくものでした。日本人の思想の中にもこの因果応報の考えがあり、それらに縛られていることはないでしょうか。

 しかしイエス様が語られた言葉は、弟子たちにも当時のユダヤ人にも全く新しい教えでした。「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである。」(3節)。人の目には不幸と思えることによっても、神はみわざを現わすことができると言明されました。私たちは時に「なぜ、どうして」と思う苦難に出会うことがありますが、その全ての事柄の中に主は共にいて下さって、みわざを現わしてくださるのです。

 イエス様は地面につばきをして泥を作るとそれを彼の両目に塗って、「シロアムの池に行って洗いなさい」(7節)とおっしゃいました。池までは神殿から下り道を1キロ余り。それは目の見えない人にとって大変厳しい道程でした。しかし彼はイエス様の言葉を聴いて、イエス様を信じ、言われる通りにしたのです。一歩一歩ゆっくりと、何度転んでも起き上がり、ひたすらシロアム(つかわされた者)の池に向かって。やっとの事で池に着き、池の水で目に塗られた泥を洗うと、どうでしょう。生まれた時から今まで一度も見えたことのない目が見えるようになったのです。彼は嬉しくて大急ぎで走って帰りました。

 生まれつき目が見えなかった人が見えるようになったという話は様々な反響を呼びました。しかし彼は、目が見えるようになったという事実とイエス様が神から来た人でなければ、何もできなかったはずだと明言し、人を恐れずイエス様を証ししました。この人はイエス様によって心の目も開かれたのです。

 私たちはイエス様を信じることによって、あらゆる迷信や因果応報の束縛から解放されて、救の道を、光の中を歩ませていただけるのです。私たちの弱さの中に、苦難の中に共にいて下さる主に望みをおき、主の御言葉に従って歩ませていただきたいと思います。



2017年11月5日
説教題 「罪の赦しを得させるイエス」
聖書箇所 マタイによる福音書第9章1~8節
説教者 安井 光 師

 イエスがカペナウムに戻られると、中風の人がイエスの許に連れてこられました。人々はイエスに癒していただくために、中風の人を床の上に寝かせたまま運び込んだのです。イエスはその様子をご覧になり、中風の人に「子よ、しっかりしなさい。あなたの罪はゆるされたのだ」と、罪の赦しを宣言されました。それは意外な言葉でした。イエスは多くの人の病を癒しておられたので、むしろ人々は「あなたの病は癒された」という言葉を期待したでしょう。そこにいた律法学者たちは、「この人は神を汚している」と批判しました。ただ神のみが人に罪の赦しを得させることができるということをイエスもご存知でした。イエスには「地上で罪をゆるす権威」を神から与えられていたのです(6節)。イエスは、ご自分が人に罪の赦しを得させる救い主であることを示すために(マタイ1:21)、中風の人に「あなたの罪はゆるされた」と言われたのです。

 当時、人々は罪と病を関連付けて捉えるところがありました。中風の人は肉体の病のみならず、言い知れない罪の重荷で苦しんでいたのではないでしょうか。イエスは、すべての人が罪という病で悩んでいることを知っておられました。イエスは人間が抱える根本問題に踏み込まれたのです。「あなたの罪はゆるされた、と言うのと、起きて歩け、と言うのと、どちらがたやすいか」とイエスは律法学者たちに尋ねられました。口で言うのはどちらも簡単です。しかしイエスにとっては語ることはそれを行うということでした。これまでイエスは次々と病を癒してこられました。しかし罪の赦しを得させることは、イエスにとって容易なことではなくまさに命懸けのことでした。人に罪の赦しを得させるために、イエスは十字架で死ぬことになるのです。事実、イエスは世の罪を取り除く神の小羊として、十字架で私たちすべての者の罪の犠牲となられたのです。

 イエスは、罪を赦す権威を神から与えられていることを示すために、中風の人に「起きよ、床を取りあげて家に帰れ」と言われ、彼を癒されたのでした。これは彼の罪が赦されたことの証明でもありました。人は心身の病を患うのみならず、罪という病によって苦しむ存在であります。罪は重荷となり、縄や鎖となって人を束縛して悩ませ苦しめます(ヨハネ8:34、ローマ7:19-20)。人は誰でも罪の重荷と束縛から解放されたいと思っているものです。イエスは十字架の贖いによって、「子よ、しっかりしなさい。あなたの罪はゆるされたのだ」と宣言して、私たちを罪の重荷と束縛から解放し、全人格的な癒しをもたらされるのです。罪の赦しは、単なる倫理的な行為ではなく神による救済の御業であり、私たちが光の中を歩むためになくてはならない神の恵みなのです。

 この恵みに、この救いにあずかるためには、ただ信じること「信仰」が求められます(2節、ヘブル11:6)。イエスの周りを取り囲んでいた群衆のように、あるいは律法学者たちのように、見物人や傍観者、批評家・評論家のような態度をとるべきではありません。イエスは律法学者たちに、「なぜ、あなたは心の中で悪いことを考えているのか」と言われました。「悪いこと」とは、人をさばく罪、罪の赦しを受け入れない不信仰です。イエスが求めておられるのは、中風の人をイエスの許に連れてきた人々が抱いていたような単純・純粋な信仰なのです。イエスは、また罪の赦しの権能を罪赦された者たち、教会に託しておられます(ヨハネ20:23)。(礼拝式、またそこで行われる洗礼や聖餐をとおして)罪の赦しがなされる時、そこには喜びがあり、神を崇める賛美が湧き起こっていくのです(8節)。



2017年10月29日
説教題 「人間性の回復」
聖書箇所 マタイによる福音書第8章28~34節
説教者 安井 光 師

 イエスと弟子たちが向こう岸、ガダラ人の地に着かれると、悪霊につかれた男たちと出会われました。彼らは「手に負えない乱暴者」で、町の人々はそのひとりを鎖や足枷でつなぎとめようとしましたが、誰も抑えることができませんでした。男は長い間悪霊につかれ、家に居つかないで墓場にばかりおり、着物も着ず昼夜構わず騒ぎまわり、自分の体を石で傷つけていました(ルカ8:27、マルコ5:5)。この男は精神異常者であったと聖書学者たちは説明していますが、そう決めつけることはできないでしょう。彼は「悪霊につかれ」、悪魔に心を支配されていたのです。

 人々は、この男のことを異質な人間と見ていたことでしょう。しかし神の目から見れば、悪霊につかれたこの男も、他の人々と同じように神のかたちに造られた尊い存在でした。また同時に神のかたちが失われてしまった罪人の一人だったのです。聖書は、神に背を向け自分中心に生きることが罪であると告げています。罪を犯す者は罪の奴隷であり、悪魔・悪霊に従っている罪人です(ヨハネ8:34、44)。悪霊につかれた男は、神のかたちが、真の人間性が失われてしまった罪人なる人類を象徴しているのです。

 人類は最初の人アダムの罪以来、霊的には死んだ者となり、永遠の滅びとしての死に向かって生きる存在となってしまいました。この世の習わしに従い、神に対しては不従順であり、またそうなるように誘う霊、すなわち悪霊に従って歩んでいます(エペソ2:1-3)。イエス・キリストはそのような私たち人類を救うために、私たちの人間性を回復させるためにこの世に来られたのです(ルカ19:10)。

 ガダラの男たちの心を支配していた悪霊どもは、イエスを「神の子」と認め恐れを抱きましたがイエスと関わりを持つのを拒みました(29節)。悪霊はイエスに支配されることを嫌がり、豚の群れに入り込むことを願い出ました。悪霊は豚の群れに乗り移ると、「その群れ全体が、がけから海へなだれを打って駆け下り、水の中で死んでしまった」のでした。そのようにして、イエスは男たちの内から悪霊を追い出してしまわれたのです。男たちは、人間らしさを・人間性を取り戻すことができました(ルカ8:35-36)。彼らはイエスによって悪魔の力から救われ、神のかたちを回復することができたのです。
一方、ガダラの人々は、イエスと関わりを持つことを拒みました(34節)。人々はイエスが自分たちの内側に、また人生に介入することを嫌がったのです。彼らは、目に見える肉的な事柄ばかりに関心を払い、目に見えない霊的な事柄には無関心を決め込んでしまったのです。これも悪霊の働きによるものでした。

 イエスはすべての人を救いと祝福に招いておられます。人は目に見えるものではなく、目に見えない神を愛する者として造られているのです。神以外に満たすことができない内なる部分、神のかたちを持っているのです。それを誤魔化そうとするのが悪魔なのです。「神のかたち」(創世記1:27)とは、すべての人のうちに与えられている霊的部分であり、人を真に人間たらしめるものです。イエス・キリストとの人格的な出会いと交わりをとおして、その人のうちに神のかたち(真の人間性)が回復されるのです。イエスをとおして神の子たる霊(聖霊)が与えられ、神の人として歩むことができるのです。



2017年10月22日
説教題 「世の光であるイエス」
聖書箇所 ヨハネによる福音書第8章12~20節
説教者 安井 直子 師

 イエス様は宮の内のさいせん箱のそばで「わたしは世の光である」と宣言されました。エルサレムの町を照らす燭台の光は、やがて消えていく光にすぎないが、イエス様は一時の光ではなく、永遠に輝き続け永遠の命に至る不滅の光である。そしてこの光に従う者は、決して闇の中を歩くことがなく、命の光、永遠の命を持つのである―と語られたのです。ところがこれを聞いて黙っているパリサイ人ではありません。「あなたのあかしは真実ではない」と反論してきました。しかしイエス様は「わたし自身のことをあかしするのは、わたしであるし、わたしをつかわされた父も、わたしのことをあかしして下さるのである」(18節)と、ご自分が神の子であり、神がご自分をお遣わしになったのだと言われ、イエス様の自己宣言には、それを証明すべき誰かの証言や何かの証明は必要ではないと言われました。

 ではイエス様が言われた「世の光」とはどう言うことでしょうか。まず「世」とは、この世、世界、私たち人間のことで、それは罪を犯して神から離れてしまった私たち、自分がどこから来てどこへ行くのか、また今自分がどこにいて、何のために存在しているのかわからない人間のことであり、人間は闇の中を歩いているのだと聖書は言うのです。また「光」とは,特性を考えると、暗闇を明るく照らすものであり、命を育む力もあり、私たちにとって不可欠なものです。その光は「すべての人を照らすまことの光」(ヨハネ1:9)なるイエス・キリストご自身であり、神から来られたこの光なるイエス様は、闇の中にいる私たちを照らし、闇から光へ、そして永遠の命へと導かれるお方なのです。

 さらに「世の光」なるキリストに従う者は、まず「闇のうちを歩くことがなく」、自分がどこから来てどこへ向かって歩いているのかを知っているということであり、どんな時でも光であるイエス様が私たちを照らし、真理へと導いて下さるのです。また、「命の光をもつであろう」とは、命の根源、命そのものであるイエスさまを心にいだくことによって、永遠の命を受けることができるのです。世の光であるイエス・キリストを信じる時に、私たちもイエス様の赦しと愛を受けることによって、永遠の命が与えられ、闇の世にあって、光の中を歩くことができ世の光という存在にならせていただけるのです。



2017年10月15日
説教題 「嵐を静めるイエス」
聖書箇所 マタイによる福音書第8章23~27節
説教者 安井 光 師

 イエスが弟子たちと共に舟に乗り込まれると、舟は向こう岸に向けて出発しました。「すると突然、海上に激しい暴風が起って、舟は波にのまれそうにな」りました。突然の事態に弟子たちは慌てました。弟子たちの中の四人は元漁師だったので、漁場であったガリラヤ湖の天候についてよく知っており、似たような状況を経験していたことでしょう。ところがこの時、彼らには為す術がありませんでした。これまで経験したことがないような想定外の嵐が弟子たちの舟を襲ったのです。この時に、「イエスは眠っておられ」ました。弟子たちはイエスを起こし、「主よ、お助けください。わたしたちは死にそうです」と不安と恐怖におののきながら窮状を訴えたのです。

 私たちの人生は、舟の航海に準えることができます。イエスを信じイエスに従う者たちの生涯は、順風満帆の航海であるわけではありません。弟子たちがそうでした。けれども舟には弟子たちだけではなく、イエスが乗っておられました。私たちの人生の舟にもイエスが同船しておられるのです。嵐や困難が私たちの人生を襲うことがありますが、どのような状況に置かれても私たちは一人ではないのです。イエスが共におられるのです。嵐や困難に遭わないことが幸福なのではありません。現実に嵐や困難が人生航路を襲いますが、それらに遭わないようビクビク思い煩いながら向こう岸に向けて進む人生であるとすれば、辛くしんどいだけでしょう。しかし救い主なるイエスが共におられることが分かれば、恐れたり思い煩うことはないと思うのです。

 イエスは弟子たちの叫びを聞かれ、「起きあがって風と海とをおしかりにな」りました。すると嵐は止んで、波は大凪になったのです。悪霊や病魔を叱って追い出されるだけではない、風や波さえも従わせる、このお方はいったい何者だろう…。弟子たちは驚きました。イエスに恐れの念が生じたのです。彼らは自分たちに襲いかかった大自然の恐るべき力に恐れおののきましたが、それを制圧されたイエスの力を目の当りにしてもっと大きな恐れを感じたのでした。

 主は、正しい恐れを・正しく恐れることを私たちに求めておられます。それは主を恐れることです。主を恐れるとは、主を信頼するということです。主に対する正しい恐れから、主に対する信頼が生まれます(箴言1:7、3:5)。弟子たちは主イエスを信じていなかったわけではありません。ただ「信仰の薄い者よ」と言われたように、彼らの信仰は小さかったのです。その小さい信仰を・主に対する信頼を大きくすることを求めておられたのです。嵐を恐れるのではなく主を恐れることを、主に対する信頼を大きくすることを私たちに求めておられるのです。

 私たちは人生の嵐に遭い、「主よ、お助けください、わたしたちは死にそうです」、「目をさましてください」と主に訴えることがあるでしょう(詩篇35:23)。私たちの目に眠っているように思われても、主は決して眠っておられるのではなく、いつでも私たちを助ける用意ができておられるのです。主は天と地とそこにあるすべてのものを造られたお方であり、私たちの人生も問題や課題もすべて御手におさめておられるのです。その大いなる御腕をもって、私たちを助け守り支えて下さるのです(詩篇121篇)。

 向こう岸に行く人生航路は、主が行くように私たちを招かれる道ですし、主が共に行かれる道であります。ですから、私たちは平安ですし、安心して進んで行くことができます。信仰の小さな者ですが、その信仰を主に向けて進んでまいりましょう。



2017年10月8日
説教題 「イエスに従う道」
聖書箇所 マタイによる福音書第8章18~22節
説教者 安井 光 師

 イエスは、福音宣教の働きがご自身によって完了されるとは考えていませんでした。イエスは弟子を招かれ、彼らを教育して宣教に遣わされることにも思いを注がれました。イエスは弟子たちと交わりを持つために群衆を避けて向こう岸に行こうとされた時のこと。「ひとりの律法学者」が近づいてきて、「先生、あなたがおいでになる所なら、どこへでも従ってまいります」とイエスに言いました。彼は律法の専門家でありユダヤ教の指導者でした。彼はイエスの教えを聞いて目から鱗が落ちるような体験をし、イエスから学び指導を仰ぐこと、弟子となることを志願したのでした。

 イエスに従おうとする律法学者の姿勢は実に勇敢でした。ところがイエスは、「きつねには穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子にはまくらする所がない」と彼の情熱を冷ますかのような言葉をかけられました。動物のみならず、人間は我が家という安心して休める場所がありますが、イエスはこの地上には安住する場所をもっておられませんでした。私に従う者たち・弟子たちもそうだ、それでもあなたは私に従ってくるかという思いでそう語られたのです。

 旧約の族長たちは定住する場所を持ちませんでした。彼らは、主なる神が天に安住の場所を用意しておられると信じ、主こそが避け所・拠り所であることを心に留め、信仰に歩んだのでした(ヘブル11章)。イエスに従おうとする者は、目に見えるものや自分の何かを拠り所すべきではありません。弟子のペテロもそのことで失敗を犯しました(ルカ22:33、54-62)。自己過信せず、従い切れない弱さがあること自覚しつつ、主が負わせられる重荷を、主が共に負って下さる頸木を担いつつ、主を休み場とし拠り所として従っていくことが求められるのです(マタイ11:28-29)。

 また、「弟子のひとり」が、「主よ、まず、父を葬りに行かせて下さい」とイエスに申し出ました。父を葬ることは、最も大事な義務とされていました。ところがイエスは、「わたしに従ってきなさい。そして、その死人を葬ることは、死人に任せておくがよい」と言われました。無慈悲かつ非常識な言葉のようにも思えますが、イエスは肉親の葬りが大切であることを重々ご承知でした。当時、死者の葬りは大変煩雑で、すべてが終わるのに一年以上の歳月を要しました。イエスは弟子に対し、弟子としての使命(福音を宣べ伝えること―ルカ9:60)に生きるべきことを示されたのです。

 イエスに従う者たちは、親や家族のことは放っておいて伝道に励まなければならないのでしょうか。そうではありません。ここで問われているのは、このことが終わったらイエスに従おうとか、あのことが終わっていないのでイエスのお手伝いはできない…というようなあり方でよいのかということです。私たちが生かされている日本の社会、すなわち異教社会において、弟子として主イエスに従うことは簡単ではありません。後ろ髪を引かれる思いをすることもしばしばです。しかしそのなかで私たちは、「まず神の国と神の義とを求めなさい」と言われる主の御言葉に心を留めたいと思います。自分の置かれている状況や時をよく捉え、何が主の御旨なのかを教えていただき、主にお従いしたいと思うのです。

 主に従う者たちの道には、困難があり犠牲が伴うかもしれません。しかしそれにまさる大きな祝福が約束されています。主に従う道は真の命に至る道であり、主の祝福がもたらされる道です。主がご自身に従う者たちの生涯に全責任を持って下さいます。そのことを覚えつつ、私たちは主にお従いし、主の道を歩ませていただきましょう。



2017年10月1日
説教題 「私たちに与えられる希望」
聖書箇所 ヨハネによる福音書第11章17~44節
説教者 安井 光 師

 イエスと親しくしていたマルタとマリヤの兄弟ラザロが病気で亡くなりました。イエスがラザロの許を訪れたのは、彼が墓に葬られて四日後ことでした。「主よ、もしあなたがここにいて下さったなら、わたしの兄弟は死ななかったでしょう」。マルタとマリヤは、愛する家族を突然失い、やりきれない思いをイエスに訴えました。既に大勢の人々がラザロの死を悼み、マルタとマリヤの姉妹を慰めるために家に集まっていました。

 人生には辛いこと、悲しいこと、涙することがありますが、愛する者との死別以上に辛く悲しいことはありません。人がどんなに大勢よってたかっても解決することができないのが死の問題です。すべての人が死に直面(近親者の死、自らの死)しますが、死に対して私たち人間はまったく無力です。

 イエスは、私たち人間を苦悩させ人生を虚しくさせる死の力に真正面から相対峙されたのです。イエスは、人類をこれほどまでに悩ませ苦しめている死の力に対峙し、霊的な憤りを覚えられました。また死の力に屈服し狼狽えている人間の現実を目の当りにして、激しく心を震わせ、深く憐れまれて涙を流されたのです(33-34節)。イエスはマルタに対し、「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない」と言われました。イエスご自身に希望があることを示されたのです。

 イエスは、死に打ち勝たせる確かな希望を私たちに与えて下さるお方です。イエスは、十字架で死なれ、墓に葬られ、陰府に下られました。死の恐れや苦しみ、死がもたらす絶望など、すべてを味わわれたのです。死んで終わりませんでした。「わたしはよみがえりであり、命である」と宣言されたとおり、イエスは死人の中からよみがえられたのです。「わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる」と、ご自身を信じる者にもこの命と希望を与えると約束なさったのです。

 桑原教会の召天者たちも、それぞれ人生において死の問題に直面しました。死の力が一人一人を襲いました。そのなかで主の語りかけを聞き、「あなたはこれを信じるか」との問いかけに、「主よ、信じます」と身も心も魂もすべてを主に委ねたのです。主は永遠の命に至る確かな希望を一人一人に賜わり、その希望をもって召天者の兄姉らの生涯を導かれたのです。私たちにもこの確かな希望が与えられているのです。

 人生には終わり・終末があります。終活も必要でしょう。しかし死に対する大事な備えとは、死に向けての身辺整理ではなく、死にどう向き合うかということに本題があるのではないでしょうか。「人間は死ねば終わり」とするのではなく、死の先にある真のゴールに心を向け、主を信頼して生きることによって、人生は本当に豊かなものとなるのです。主が私たちのために天の故郷、永遠の世界を用意しておられると信じるからこそ、私たちは死を恐れないで、自分に与えられている命と人生を大切にし感謝と喜びをもって、また希望を抱いて生きることができるのです。

 死の力に打ち勝ち、永遠の命に生きるために、イエスはマルタとマリヤに対して信仰をお求めになりました(25-26、39-40節)。私たちも彼女たちや召天者の兄姉たちが抱いた信仰と希望、イエス・キリストが私たちに賜わる確かな希望によって歩ませていただきたく思うのです。