2018年4月8日
説教題 「安息日の主」
聖書箇所 マタイによる福音書第12章1節~8節
説教者 安井 光 師

 ある安息日にイエスと弟子たちが麦畑を通られた時のこと、弟子たちは穂を摘み、手で揉んで食べていました。パリサイ人たちはそれを見て、「安息日にしてはならないことをしています」とイエスに抗議しました。当時、安息日に関する様々な禁止規定が設けられていました。それによると、弟子たちの行為は労働行為と見なされたのです。安息日の規定を厳格に守っていたパリサイ人たちは、イエスの弟子たちのしていることが許せなかったのです。

 イエスはダビデの出来事をとおして、パリサイ人の思い違いを示されました。ダビデはノブの祭司からパンを与えられました(サムエル記上21章)。それは安息日の供えのパンで、祭司以外食べることは禁じられていました。ダビデは神聖なパンを受けて食べ、命をつなぐことができたのです。ダビデの窮乏は律法の規定に優先されたのです。「安息日は人のためにあるもので、人が安息日のためにあるのではない」ことを、イエスはパリサイ人らに示されたのです(マルコ2:27)。

 安息日は、神が天地創造を成し終えて七日目に休まれ、この日を聖別されたことに起源しています(創世記2:3)。神がご自身の民に贖いの恵みを覚えさせるため、彼らを祝福するために設けておられたのです(出エジプト20:11、申命記5:15)。パリサイ人たちは安息日を(その禁止規定を)守っていましたが、それは神の喜ばれない形ばかりの「いけにえ」となっていました。「人の子は安息日の主である」と宣言されたイエスは、安息日の意義を回復なさるお方だったのです。

 イエスは私たち罪人を贖うために、ご自身を完全な「いけにえ」として十字架でささげて下さいました。私たちクリスチャンは、主イエスが復活された日曜日を安息の日・聖日として礼拝をささげます。それは、主が成し遂げられた救いの御業を覚えるためであり、「魂に休み」を与えていただくためもあります(11:29)。主の「あわれみ」を心に抱きつつこの日を過ごすことを、主は私たちに求めておられるのです(7節)。

 礼拝は、英語では「サービス」(奉仕)と呼ばれます。私たちが主にささげる奉仕であるとともに、主が私たちに奉仕して下さる時でもあります。主は私たちに安息させるために、「あわれみ」をもって毎聖日私たちを礼拝に招いておられます。最善の努力を払い、真心を込めて主を礼拝させていただくとともに、礼拝を守れない方々をも心に覚えて祝福を祈らせていただきましょう。

2018年4月1日
説教題 「イエスはよみがえられた」
聖書箇所 ルカによる福音書第23章50節~24章12節
説教者 安井 光 師

 キリストの復活は作り話か、弟子たちのでっちあげではないかと世の人々は言われるかもしれません。けれどもそうではないのです。イエス・キリストは事実、死人の中からよみがえられたのです(Ⅰコリント15:20)。

 福音書の記者たちは、イエスの十字架の死と葬りを記録しています。ローマの百卒長がイエスの死亡を確認し、ユダヤの議員のアリマタヤのヨセフがイエスの体を引き取り、自分の新しい墓に埋葬しました(23:46-55)。この記録は、イエスが生死の狭間をさ迷ったのでも、仮死状態に陥ったのでもないことを証明しています。イエスは十字架で完全な死を遂げられ、死人の中から復活されたのです。
 
もしイエスが死を経験されなかったとしたなら、私たちは死に恐れを抱きながら一生涯過ごさなくてはならなかったでしょう。死は私たち人間にとって恐れであり、重荷であり、悩みです。しかしイエスは十字架で死なれ、死の力を持つ者・悪魔を滅ぼし、私たちを死の力から解放して下さったのです(ヘブル2:14-15)。イエスが死を経験なさり、陰府にまで降り、よみがえられ(陰府から帰られた)、死を克服されたので、たとい死の力が襲ってきても、私たちは希望を持つことができるのです。

 復活は信じ難いことかもしれません。弟子たちも、イエスに従う女たちもはじめは信じられませんでした。彼らは空になった墓を見て、途方に暮れていました。そこに御使が現れ、「あなたがたは、なぜ生きた方を死人の中にたずねているのか。そのかたは、ここにはおられない。よみがえられたのだ」と告げました。彼らは、イエスが「十字架につけられ、そして三日目によみがえる」とおっしゃっておられたことを「思い出し」たのです(24:8)。イエスが十字架で死なれ、よみがえると言われた言葉は、弟子たちにとっては受け入れがたい言葉でした(マタイ16:21-)。けれども、今一度、イエスの語られた御言葉を思い出し、心の中に思い巡らした時に、閉ざされていた心の目が開かれたのです。

 私たちは復活のイエスを見ていません。しかし、御言葉をとおしてイエスの復活を思い起し、イエスのよみがえりを信じることができます(24:32)。「イエスはよみがえられた」と聖書は告げています。礼拝において御言葉(説教と聖餐)を味わい、イエス・キリストが私たちの罪のために十字架で死なれたこと、死人の中からよみがえり死に勝利されたことを思い起し、感謝しつつ歩ませていただきましょう。

2018年3月25日
説教題 「イエスを十字架につけた人」
聖書箇所 ルカによる福音書第23章13節~25節
説教者 安井 光 師

 イエス・キリストは十字架につけられました。誰がイエスを十字架につけたのか?という論議が昔からしばしば起こります。
 
 ユダヤの最高議会は、イエスが神を冒涜する者、民衆を惑わす者、カイザルに反逆する者として、総督ピラトに訴えました(22:66~23:12)。ピラトはその訴えが不当で、ユダヤの指導者らの妬みによると分かり(マルコ15:10)、ユダヤの慣例(過越の祭での特赦)に従ってイエスをゆるそうとしました。ところが民衆は、重罪人バラバをゆるし、イエスを十字架につけるように要求したのです。民衆は祭司長らに扇動されていました(マルコ15:11)。ピラトはその声に負け(22節)、バラバを釈放し、十字架につけるためにイエスをユダヤ人らの手に引き渡したのです。

 イエスを十字架につけたのは、その判決を下したピラトであり、そうすることを要求したユダヤ人だったかもしれません。しかし重要なのは「誰が」ではなく、「誰のために」イエスは十字架につけられたのかです。たとい誰もイエスを十字架につけなかったとしても、イエス自ら十字架につこうとなさったことでしょう。それが神の御旨であり、イエスの選ばれた道だったからです。イエスはユダヤ人をはじめ、私たちすべての罪人ために、私たちの罪を赦し罪の滅びから救うために身代わりとなって十字架につけられたのです(Ⅱコリント5:21)。

 祭司長らの妬み、民衆の無知、自己保身のためにさばきを曲げたピラトの態度、それらの罪が私たちにもあります。バラバのような犯罪行為ではないにせよ、私たちは数えきれないほどの罪を犯し、他人には言い知れない罪の重荷を心に抱えているのではないでしょうか。聖書は「罪の支払う報酬は死である」と告げており、「すべての人が罪を犯し」ていると言っています(ローマ6:23、3:23)。私たちは自分で自分の罪を贖うことはできませんし、罪の重荷を背負いきれません。そんな私たちの罪をイエスは自ら進んで負って下さり、私たちの身代わりとなって十字架につけられ、罪と死の力から私たちを救い出して下さったのです(イザヤ53:4-5)。
 
 主イエスは私たちのために十字架につけられたこと、罪深いこの私を救うために苦しみを受けられた事実、この恵みを心に刻み、悔い改めと感謝と新たな信仰をもって歩ませていただきましょう。

2018年3月18日
説教題 「主に委ねるさいわい」
聖書箇所 マタイによる福音書第11章28節~30節
説教者 安井 光 師

 人は、人生において何かしら重荷を背負って生きています。学生は勉強が重荷であり、サラリーマンは仕事が重荷であり、主婦は家事が重荷であるかもしれません。せねばならないことだと分かっていても、重荷に感じてしまうことがあります。生きること自体に重荷を感じている人もあるかもしれません。人間関係が重荷になることもあるでしょう。病を患うこと、体に痛みを覚えること、悩んだり、精神的に苦しんだり…、重荷とは単なる煩わしさとは違いますが、辛くしんどく思うことなのだと思います。徳川家康は、「人の一生は、重き荷を背負いて、遠き道を行くがごとし、急ぐべからず、休むべからず」と言いましたが、人は悩み苦しみながらも、人生の重荷を背負って生きていかなくてはなりません。

 イエスは、「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい」と招かれたのです。イエスは重荷を負う者たちが来るのを拒まれないのです。厄介だとか面倒だとは思われず、私たちの重荷を受けとめて下さるのです。重荷を負う私たちを受けいれて下さるのです。当時、ユダヤの指導者たちは、律法や様々な戒律を民衆に重荷のように課していました(マタイ23:4)。また、ローマ帝国の支配下に置かれ、生活に重荷を感じていました。イエスは人々が背負っている一つ一つの重荷を理解しておられたのです。

 「わたしのもとにきなさい」とイエスが招かれるのは、「重荷を負うて苦労している者」たちを「休ませ」るためであると、イエスは言われます。重荷を負う者たちに「休み」が必要です。イエスは、重荷を負って苦労している者たちの重荷をご自身の許に降ろさせて下さるのです。

 イエスは神の御子ですが、人となって私たちの世を生きられました。イエスは、人間にとっての本当の重荷とは何か、人を真に苦しめている重荷が何であるかを見抜いておられました。それは、人を絶望と滅びに追いやる重荷、魂に背負っている罪の重荷です。イエスは、全人類が背負っている罪の重荷を取り除くために十字架で死なれました。十字架において私たちすべての者の罪の重荷を身代わりとなって背負われたのです(イザヤ53:6、12)。私たちすべての者に求められるのはただ、「わたしのもとにきなさい」と言われたイエスの招きに従うこと、イエスの許に自分に負いきれない重荷を解き降ろすことなのです。

 「魂に休みが与えられる」ために、「わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい」とイエスは言われます。頸木は、荷物を引いたり畑を耕すために、家畜につけられた道具です。一つの頸木に二頭の家畜がつながれ、大きな力で働くことができました。私たちは、負うのが辛い「重荷」ではなく、負う目的がはっきりしているイエスの「くびき」を担うのです。それは私たちの重荷なのですが、イエスが私たちに負わせられ、私たちと共に担って下さるイエスの頸木なのです。だから、「負いやすく…軽い」のです。またイエスは「柔和で心のへりくだった」お方であるので、私たちは頸木を負いながら、イエスから多くのことを教えられて、委ねることを学びながら魂に安息が与えられるのです。

2018年3月11日
説教題 「御言葉による成長」
聖書箇所 ペテロの第一の手紙第1章22節~2章3節
説教者 安井 光 師

 神は私たちイエス・キリストによって神の子とされた者たちを成長させて下さいます(Ⅰコリント3:6)。「あなたがたが新たに生れたのは、…神の変ることのない生ける御言によったのである」とペテロは語っています。神の子どもたちは御言葉によって生まれ、御言葉によって成長するのです。

 「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである」と、イエスは教えておられます(マタイ4:4)。体のためには肉の糧が必要です。食べなくては子どもは成長しませんし、大人だって食べなければ生きられません。魂のためには霊的な糧である神の言葉が必要なのです。神によって新しく生れ、御言葉によって生きる私たちは、聖書を読み、魂の糧を日々いただかなくてはなりません。そうしなければ、私たちの魂は枯渇してしまうことでしょう。また聖書を読まずして成長を期待することはできません。毎日御言葉をいただくことが大事です。

 「今生れたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい」とペテロは勧めています。「霊の乳」には神の子どもらの成長に必要な栄養分が十分含まれています(Ⅱテモテ3:15-17)。一日三度の食事をするようにとはいかないかもしれませんが、毎日時間を決めて御言葉を味わうことが大事です。赤ちゃんがお母さんからお乳を規則正しくいただくように、私たちは霊の乳である御言葉を慕い求め、神からそれをいただくことを習慣づける必要があります。神の民が天からの食物であるマナを一日に必要な分だけ採ることが許されたように、私たちは霊の乳・魂の糧を日ごとに新しくいただかなくてはなりません。

 聖書を読めば読むほど、学べば学ぶほどに私たちの信仰と生活は豊かになっていきます。御言葉を正しく知ることによって、神の私たちに対するご計画を知らされ、自分の救いに確信を持つことができ、神への信頼が堅くされます。聖書に自分の問題や課題の答えを求め、御言葉によって神から解決を与えられていくならば、サタンも私たちを躓かせたり倒れさせることは決してできないでしょう。主の御言葉は変わることなく真実で永遠です(1章24-25節)。「あなたはわが目に尊く、重んぜられるもの、わたしはあなたを愛する」(イザヤ43:4)と私たちに言われる、主のご計画と御心は変わることがありません。聖書を読むこと、御言葉を〝にれはむ〟(反芻する)ことをとおして、私たちは神の愛(Ⅰヨハネ4:10)を正しく受けとめたいものです。

 御言葉による成長は、また御言葉を経験していくことをとおしてなされます。御言葉によって支えられ試練を乗り越える経験、物事にあたっていく時に御言葉をいただくとともにその実現を見る経験、語られた御言葉に従っていく経験etc、御言葉の伴う経験こそが私たちの信仰の転機となり、信仰生涯の一里塚となって私たちは霊的に成長していくのです。御言葉の乳を慕い求め、深く味わうことによっていよいよ成長させていただきましょう。

2018年3月4日
説教題 「神を知るさいわい」
聖書箇所 マタイによる福音書第11章20~27節
説教者 安井 光 師

 イエスはガリラヤ地方の町々で「数々の力あるわざをなされ」ました(マタイ11:5)。ところが、「悔い改めることをしなかった町々」がありました。イエスはその町々を「責め」られたというのです。「コラジン」と「ベツサイダ」はガリラヤ北岸の町でした。十二弟子のペテロやアンデレ、ピリポはベツサイダ(漁師の町の意)の出身でした。「カペナウム」は地中海とシリアを結ぶ交通の要所として栄え、イエスがガリラヤ宣教の拠点としておられた町でした。イエスが「力あるわざ」をなったのは、癒された当人たちのためだけではなく、奇跡(神がなさった)としか思えないことを行なうことをとおして、それらの町の人々の心を神に向けさせようとされたためでした。

 イエスがコラジン、ベツサイダ、カペナウムの人々に願っておられたのは「悔い改め」でありました。悔い改めとは神に向き直ること、心の思い違いや行ないの誤り(自分の罪、罪人であること)を認めて、神に向かって方向転換することです。罪を悔い改めなければ、人は滅びに至ってしまいます。神は罪人を救うために御子イエスを救い主としてこの世に遣わされたのです。ところが、ガリラヤの町々の人々はイエスの招きを受け入れなかったのです。もし異邦人の町「ツロとシドン」、あるいはアブラハムの時代に滅んだ「ソドム」で力ある業がなされたとすれば、「彼らはとうの昔に…悔い改めた」か、「その町は今日までも残っていたであろう」とイエスは言われ、神の国の福音を聞き、神の御業を見ながら、なお悔い改めることをしなかった町々は「わざわいだ」と嘆き悲しまれたのでした。

 使徒パウロは、イエス・キリストが世の罪の贖いのために十字架で死なれ復活されたことこそ、神の御業、最大の奇跡であると証言しています(Ⅰコリント15章)。イエスは、全世界のすべての国民がこの「力あるわざ」を認めて、悔い改めてイエスの救いと永遠の命にあずかることを願っておられるのです。

 少数ではありましたが、ガリラヤの町々から悔い改める者たちが起こされていたことをイエスは喜んでおられました(25節)。「これらの事(イエスの宣教によって明らかにされた神の国、イエスによる救い)を知恵のある者や賢い者に隠して、幼な子らにあらわしてくださいました」と、イエスは父なる神をほめたたえました。神は目隠しをしたり、覆いを被せるようなことをなさったわけではなく、人間の知恵と賢さ(傲り・高ぶり=罪)が見えなくさせてしまうのです。自分の知恵や賢さを捨て去り、無知で無力な者、何も持たない何も分からない者のようになって、イエス・キリストを見つめていく、神に心を向けていく。「幼な子」のようになって…。そうすると見えてくるのです。神は「これらの事を…幼な子にあらわして」下さるのです(Ⅰコリント1:18-31)。

 御子イエスと父なる神は、人間の母親と乳飲み子以上に密接な信頼関係で結ばれ、まさに一心同体でありました。神はイエスにご自身のすべてを顕わしておられ、すべて任せておられました(27節)。イエスは幼子のように神を信頼しておられました。私たちは、そのような御子イエスの姿をとおして、救い主イエスの十字架の贖いをとおして、天の父である神を知り、私たちに対する神の愛を認めることができます。イエスは私たちが幼子のような態度でいることを求めておられます(マタイ18:1-)。幼子のようにただ神の愛を信頼すること、それが神の求めておられる悔い改めではないでしょうか。イエス・キリストは、神を知るように、神の愛によって生きるように私たちを召しておられるのです。


2018年2月25日
説教題 「洗礼者ヨハネは何者か」
聖書箇所 マタイによる福音書第11章1~19節
説教者 安井 光 師

 群衆は、バプテスマのヨハネ(洗礼者ヨハネ)に大きな期待と信頼を寄せていました。ヨハネはガリラヤの領主ヘロデさえも恐れず、彼の罪を指摘し悔い改めを迫るほどに勇敢な人でした(マタイ14:3-4)。ところが、ヨハネがヘロデによって捕らえられて獄につながれてしまうと、群衆はヨハネが弱く頼りない者に思え、彼からバプテスマを受けた人々も疑心を抱いたようです。

 イエスは群衆に対して、「あなたがたは何を見に荒野に出てきたのか」と尋ねられました。群衆が荒野にきたのは、「風に揺らぐ葦」のように弱く頼りない存在を求めたわけではなく、また王宮で「柔らかい着物」を着て華やかな生活をしている人々でもなく、「預言者」が語る神の言葉を聞くためでありました。「そうだ、あなたがたに言うが、預言者以上の者である」と、イエスはバプテスマのヨハネが何者であるのかを群衆に示されたのでした。

 バプテスマのヨハネは、荒野で呼ばわる声として主の道を真っ直ぐにする者として(マタイ3:3)、イエスの救い主としての働き、福音宣教の道備えをしたのであります(10節、マラキ3:1)。「エリヤ」(14節)はイスラエルで最大の預言者と称されていましたが、ヨハネは救い主を群衆に直接指し示した(ヨハネ1:29他)故に「預言者以上の者」なのです。「女の産んだ者の中で、バプテスマのヨハネよりも大きい人物は起らなかった」と最大級・最上級の評価をイエスがなさるほどに、ヨハネは重要な役割を担ったのです。

 ヨハネが評価される点は、荒野において力強く勇ましくキリストを証ししたということだけではないでしょう。ヨハネは獄中において弱さを身に帯びつつも、弱さに働かれるキリストの力によって信仰を強くされたのではないでしょうか(参考 Ⅱコリント12:9)。その姿もまたキリスト(救い主)を指し示すものだったと思うのです。最後まで救い主を指し示した故に、ヨハネは「大きい人物」なのです。イエスは群衆に対して、正しくヨハネを見ることを求められたのです。そうすることで、救い主として世にこられたイエスご自身を正しく見ることができるからでした。「天国で最も小さい者も、彼よりは大きい」と言われ、ヨハネの指し示す救い主イエスご自身を信じることによって「天国」(神の国、御国)に入ること、御国の民として生きることの大きさ(重大性)を示されたのです。

 バプテスマのヨハネやイエスの「呼びかけ」(16-17節)に対する群衆の態度は二分されました(ルカ7:29-30)。イエスは、「今の時代」の人々の多くがヨハネとご自分の招きを受け入れないことを嘆かれました。今日の世の中のイエスに対する見方や態度も様々でしょう。「あれは悪霊につかれている」とか、「あれは…罪人の仲間だ」という声を周囲から聞くかもしれません。イエスは、そういう時代の只中にあって私たちがヨハネの証しを受け入れ、救い主であるご自身を信じて御国の民として生きることを願っておられるのです。

 イエスが群衆に語られたこと、御国の福音が真実であることは、イエスの救いの御業によって、またヨハネが指し示した救い主と信じた者たちをとおして証しされ明らかにされます(19節後半、ルカ7:35)。イエスを救い主と信じて御国の民・神の子とされた者たちには、イエスからヨハネにまさる大きな恵みと使命が与えられています。イエスは私たちを「バプテスマのヨハネよりも大きい」存在として、イエスの全権大使として生かされます。私たちは救い主イエスを信じ、この方を証しし指し示したいと思うのです。
 

2018年2月18日
説教題 「剣と十字架」
聖書箇所 マタイによる福音書第10章34~42節
説教者 安井 光 師

 イエスは、ご自分が「地上に…平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきた」「人をその父と、娘をその母と、嫁をそのしゅうとめと仲たがいさせるため」にきたと言われます。世の人々が聞けば、キリストは親不孝を教える、キリスト教は争いをもたらす宗教だ、と思われるかもしれません。クリスチャンにとっても、なかなか理解しがたいイエスの言葉です。

 確かに、イエスは平和をもたらす王として世に来られました(イザヤ9:6、ゼカリヤ9:10)。聖書は兄弟愛を教え、父母を敬うように命じています(詩篇133:1、出エジプト20:12)。家族の関係はユダヤ人のみならず、すべての国民が重んじるものでしょう。ただ、その重要性を知りながらも、その関係が良好に保てないでいる。また平和であることを願いながらも、国家や民族の間に、あるいは様々な人間関係に、争いや諍いが絶えないのがこの世の現実ではないでしょうか。イエスはそのような人間の現実世界に跳び込んでこられたのです。イエスは人類が抱えている根本問題に、剣の如くに鋭く切り込んでこられるお方なのです。

 戦争がない状態を、本当(本物)の平和と呼ぶことはできません。それは武力で保たれているものであり、ボタン一つで一瞬にして破壊されてしまう危ういものではないでしょうか。この世は、人間の力や知恵の限界を思い知らなくてはなりません。真の平和(シャローム)は、ただ神の主権的な働きによって、神がこの「地上」に遣わされた救い主イエスによってもたらされるのです。

 最初の人であるアダム以来、私たち人類は神に背を向け、神に反抗しまた敵対しながら生きています。神に対する「敵意(罪)」によって、人類は最も大切な神と関係、神との平和が壊れてしまっていたのです。イエスは十字架の犠牲をもって「敵意」を滅ぼし、私たちを神と和解させ、真の平和をもたらされたのです(エペソ2:14-17)。十字架は元々処刑の道具であり、おおよせ平和とは結び付きにくいものでしょう。しかしながら、イエス・キリストの十字架は、人と人との間にある敵意さえも取り除き、争いを取り去って神による真の平和(シャローム)をもたらすのです。

 イエスの十字架は真の平和をもたらすものですが、また私たちの人生・日々の生活においても神との関係を最優先させるものであり、私たちのなかで神が第一とされていくためのものでもあります。イエスは神と和解した者たち、私たちクリスチャンに対して、「自分の十字架をとって」従ってくることを求めておられます。イエスは私たちにご自分を愛することを要求されます(17節)。私たちには家族関係をはじめ、大切なもの(お金、仕事、生き甲斐)が色々とあるでしょう。それらのものとの関係、自分とのつながりが最優先にされ第一とされてしまう時、最も大切なものを失ってしまうことになるのです。「自分の命」をもイエスに明け渡して従っていく時に、それを最善のかたちでイエスから受け取るようになるのです。

 私たちは、弟子たち・十二使徒の如くにイエス・キリストの全権大使としてこの世に遣わされています。「クリスチャン(キリストに属する者)」と、世の人々から呼ばれていることを誇りにしたいと思います。彼らは私たちを見て、キリストを見るのです(40節)。最終的に見られるのは表面的なものではなく、私たちのうちに生きておられるイエス・キリストです。このお方が、彼らにも真の平和を与えて下さるのです。そのことを覚えつつ、遣われてまいりましょう。

2018年2月11日
説教題 「恐れるべきかたを恐れよ」
聖書箇所 マタイによる福音書第10章24~33節
説教者 安井 光 師

 イエスは様々な場面で、弟子たちに対して「恐れるな」と語っておられます。それは彼らが遣わされる所において、イエスと同質の者と見られ(「クリスチャン」にはキリストに属する者という意味がある)迫害されることになるからでした。

 イエスは、パリサイ人や律法学者たちから「悪霊どものかしら」(9:34)とか「ベルゼブル(サタンの別名)」などと呼ばれ、揶揄されていました。弟子たちもイエスと同じように、人々に誤解され「悪く言われる」ことがあるのです(24-25節)。日本のクリスチャンもそういう経験をすることがあるのではないでしょうか。

 私たちクリスチャンは、遣われている所・置かれている場所で福音を証しするミッション(使命=伝道)を主から託されています。伝道しても、人々に伝わらない・通じないという経験をします。でも「恐れるな」と主イエスは私たちを励まされるのです。福音を聞いて真理を悟らされた者たちは、そのことを世の人々に「話」し「言いひろめ」ていかなくてはならないのです。真理は、いつまでも「おおわれた」ままでなく「隠れている」ままではないからです(26-27節)。

 現代日本において、イエス・キリストの福音を宣べ伝えることで、またクリスチャンとして信仰生活を送ることによって生命を奪われることはありません。ただ日本のキリスト教史を顧みる時、「からだを殺」そうする者たちが再び起こらないとは限りません。異教社会に生きる私たちに対して、キリストへの信仰やキリストにある生き方を打ち消そう(なきもの)とする見えない力は今日も働いています。しかしイエスは、「魂を殺すことのできない者どもを恐れるな」と言われます。クリスチャンを真に生かしめるキリストの命を奪い取ることはできないからです。

 「からだも魂も地獄で滅ぼす力のあるかたを恐れなさい」とイエスは言われます。一番恐ろしい、最も恐れるべきなのは、世の支配者ではない、闇の支配者でもない。天地の支配者であり、地獄さえも支配しておられる審判者、天の父なる神だとおっしゃるのです。神を侮ってはなりません。恐れるべきなのは、主なる神、天の父なのです。私たちクリスチャンもこのことをよく覚えていなくてはなりません。

 ただ神は、さばきの恐怖に脅えさせて私たちを従わせようとなさるお方ではありません。バチを与え、祟ったり呪ったりする神であれば、人から遠ざけられるでしょう。しかし天の父である神は愛をもって私たちに近づいておられます。私たち罪人を滅びから救うために、御子イエスを世に遣わされ、罪の贖いの供え物として十字架でささげて下さいました。私たちは一羽の雀のように小さく取るに足りない存在ですが、神は私たちを「多くのすずめよりも、まさった者」と見ておられ、「頭の毛までも、みな数えられている」のです。この恵みと幸いを覚えて、心から恐れて(畏れて)神に近づくべきなのです(ヘブル4:14)。正しい恐れを抱く(神を信頼する・愛する)ことで、不必要な恐れは私たちの心から取り除かれていくのです。

 死の力・悪魔の力が、私たちを脅かしてきますが恐れないでいたいと思います。主が十字架で死なれ復活されて、死と悪魔に勝利され、その力から私たちをお救い下さっているからです。主イエスへの信仰を告白する者たち、主なる神・天の父を恐れ者たちは、それらを恐れる必要はないのです。

2018年2月4日
説教題 「あなたはどう読んでいるか」
聖書箇所 ルカによる福音書第10章25~37節
説教者 安井 光 師

 ある律法学者がイエスを試みるために、「何をしたら永遠の生命を受けられましょうか」と尋ねました。「律法にはなんと書いてあるか。あなたはどう読むか」とイエスは逆に律法学者に問い返されました。すると律法学者は、「心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」、「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」と律法から答えました。するとイエスは「あなたの答は正しい。そのとおり行いなさい。そうすれば、いのちが得られる」と言われました。いったいどういう意味でイエスはそう言われたのでしょうか。

 律法学者はイエスの問いに正しい回答をしましたが(マタイ22:34-40を参照)、そのことを実行できていたわけではありませんでした。彼は自己弁護するために「わたしの隣り人とはだれのことですか」と、さらにイエスに尋ねました。そこでイエスは譬えを用いてそれにお答えになるのです。それが「良きサマリヤ人」の譬え(30-35節)です。

 あるユダヤ人がエルサレムからエリコに下って行く途中、強盗に襲われ半殺しにされ、道に放置されました。するとそこに祭司が通りかかりますが、この人を見ると向こう側を通って行ってしまいました。「隣人を愛せよ」と律法にあるのを祭司は承知していたことでしょう。でも道を急いで構っておられなかったのか、みて見ぬふりをして行ってしまうのです。次にレビ人が通りかかりますが、同様に避けるように見捨てて行ってしました。大変だ、人が強盗に襲われて倒れている、ぼやぼやしていると自分も襲われるかもしれない…と考えたのでしょうか。

 ところが、最後に通りかかったサマリヤは、「彼を見て気の毒に思い」、近寄ってきて傷の手当をし、宿屋に連れていって介抱してやり、宿屋の主人に費用が余計にかかったら帰りに支払うと告げました。ユダヤ人とサマリヤ人は仲が悪く、お互いを敵対視していました。にもかかわらず、このサマリヤ人は「強盗に襲われた人の隣り人になった」のです。

 イエスは律法学者に、「あなたも行って同じようにしなさい」と言われました。しかし彼は、「そんなことはできない…」と途方に暮れたことでしょう。イエスは、律法の行いによって永遠の命が得られると考えていた律法学者の思い違いを示そうとなさったのです。ただ神を信頼し、神が遣わされた救い主イエスご自身を信じること、信仰によって永遠の命を受けることを願われたのです(ルカ18:18‐27、ガラテヤ2:16を参照)。

 私たちは聖書をどう読んでいるか、注意しなくてはなりません。聖書は救い主イエスを証しする書です(ヨハネ5:39)。永遠の命を得るための資格教材ではなく、ハウツー本のようにその内容を実践することで永遠の命が得られるのではありません。律法学者はそのように律法(聖書)を読み励んでいたのです。御言葉を行うことで自分を正当化したり、自分の立場を神の前に弁護すべきではありません。私たちは、ただ主イエスの十字架の贖いによって罪赦され、神に受け入れられているのです。幼子のようにただ主を信頼し、主の恵みと愛によりすがるべきなのです。

 私たちは「私の隣人は誰か」と問う前に、「誰が私の隣人となられたのか」を思い知らなくてはなりません。私たちは「強盗に襲われた人」であり、イエスがその隣人となった「慈悲深い行いをした人(良きサマリヤ人)」なのです。イエスはまた、私たちが敵意を抱いているような人々の隣人でもあられるのです。