聖日礼拝 2021年9月5日
説教題 「聖霊によって力を受ける」
聖書箇所 使徒言行録第1章1~11節
説  教 安井 光 師

 使徒言行録は、イエスの弟子たち=使徒たちの宣教の記録です。使徒パウロの協力者であったルカにより、ルカ福音書に続く第二巻として書かれました。イエス・キリストの福音、イエスの十字架と復活による救いが、使徒たちの宣教によってエルサレムから世界へ広がっていく様子を見ることができます。それは人間の業ではなく、聖霊の御業であったことを本書は証言しています。

 イエスは、十字架の死から復活され四十日にわたって使徒たちに顕われては「神の国について話され」ました。使徒たちは地上的な王国がイスラエルに実現することを期待していましたが(6 節)、 イエスがもたらされたのは「神の国(神の恵みの支配)」でした。イエスの十字架と復活により、神の国は既に実現していたのです。 神の国はイスラエルに留まってしまうのではなく、使徒たちの宣教によって「地の果てまで」に拡大していくのです(8節)。

 神の国の福音が全世界に届けられるためには、使徒たちの働きが必要 でした。ただ彼らの力ではそうすることができません。使徒たちは、自分たちの罪深さや無力さを痛感していました。しかしイエスは彼らの罪を赦され、ご自分の働きを託されたのでした(ヨハネ 21:15∼)。彼らがするのではありません。聖霊が傍らにて彼らに教え、彼らを助けて下さるのです(ヨハネ 14:16、26)。

 イエスは使徒たちに、「あなたがたは間もなく聖霊によって洗礼を受ける」「エルサレムを離れず…父の約束されたものを待ちなさい」と命じられました。「聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける」と言われました。弟子たちがイエスの使徒(神の使命を帯びで派遣される者)として生きる力は、聖霊によって与えられるのです(イエスも例外ではなかった。ルカ3:21∼22、4:1、14参照)。

 ペンテコステに使徒たちに聖霊が降り、彼らは聖霊に満たされて宣教を開始しました。信じる人々が続々と起こされ、教会が各地に誕生し、福音は全世界に拡大し、遂に私たちにまで届けられました。私たちはイエスを救い主と信じてキリスト者となりました。すべてのキリスト者が聖霊に満たされ、聖霊の力を受けてキリストの証人として生きることをイエスは求めておられます。聖霊がそうして下さるのです(8 節)。困難な状況でも、私たちは神の支配の中に生かされていることを確信し、聖霊によって力を受けて歩むことができます。その歩みをとおして、イエス・キリストは証しされていくのです。

聖日礼拝 2021年8月29日
説教題 「あなたの罪は赦された」
聖書箇所 マルコによる福音書第2章1~12節
説  教 安井 直子 師

 イエスはガリラヤにおいて弟子たちと共に宣教を開始されました。人々は「権威ある新しい教えだ」とイエスの語る教えに驚嘆しました(1:22,27)。イエスの福音は単なる新しい教えというのでなく、信じ受け取る人々に大きな喜びを与えるのです。

 イエ スがある家で人々に教えておられた時、四人の男が体の麻痺した人を運んできました。何とか彼を助けたいと思い、イエスの所に連れて行けば病気を治してもらえるのではと期待して運んで来たのです。イエスはその彼らの心の中に「信仰を見た」と聖書は記しています。

 信仰とはイエスの声を聞くこと、またイエスが成して下さる最善を待ち望んでイエスの前に出ることです(ロ マ 10:17)イエスはその信仰を見逃されるお方ではありません。

 体の麻痺した人は不安で一杯だったことでしょう。当時因果応報の思想から病は罪深い者に対する神の罰と考えられていました。彼は、罪深い自分は神に忘れ去られているのではないかと悩み傷付いていたことでしょう。まさに罪に縛られていたのです。でも幸いこの人はまだ見捨てられてはいなかったのです。彼を助けたいと思ってくれる人が4人もいたからです。イエスは「彼らの信仰を見て、その病人に、『子よ、あなたの罪は赦された』」と罪の赦しを宣言されたのです。

 イエスの「子よ」という呼びかけには主の御許に救いを求め、御言葉の前にひれ伏す者の信仰を受け入れて下さり、私たちに罪の赦しを宣言して下さ るのです。

 律法学者たちは「この人は、なぜあんなことを言うのか。神を冒瀆している。罪を赦すことができるのは、神おひとりだ」とつぶやき、神が御子イエスに授けられた権威や人の罪を赦す権威を認めようとしませんでした。イエスは罪の赦しの権威 を持っておられることを示すために、体の麻痺した人に「起きて、床を担いで歩け」と言われ彼の病を癒されたのでした。

 人間にとって癒しの源は、罪が赦されることからきます。人が魂の最も 深いところで自分は神に赦された・赦されているという確信を頂く時に人生を前向きに受けとめて歩んで行けるのです。「子よ、あなたの罪は赦された」(5)とイエスが宣言される背後に、私たちの罪を十字架で背負われたイエスの愛があることを忘れないでいたいし、この4人のように、私たちが祈っている家族や友人をイエスの御許に運んで行く者とならせていただきましょう。

聖日礼拝 2021年8月22日
説教題 「何をしてほしいのか」
聖書箇所 マルコによる福音書第10章46~52節
説  教 安井 満 師

 神様は私たちに対して、「何をしてほしいのか」と問いかけています。これをお願いしますと応答(祈り)が出来るなら、幸いであります。神様は身勝手な願いであっても、繰り返してお願いするなら整えてくださいます。

 主イエスは盲人のバルティマイに、「何をしてほしいのか」と問いかけています。彼は、 「また見えるようになることです」と答えました。何かの原因で失明したものと考えられます。彼の強烈な願いは、どこからきているのでしょうか。単に肉眼に入る景色を見たいという思いがあったのでしょうか。現在に生きる私たちの目に入る光景 (例えば豪雨による被災現場等)を前に、一瞬目を閉じたくなります。

 バルティマイは盲人でありましたから物乞いをしていました。物乞いには通行人の心の温かさに触れる一面がありました。なぜならユダヤ社会では、祈りと断食と施しが三大美徳 とされていたからです(マタイ6:5~18)。「何をしてほしいのか」との問いかけに、以前に見えていた世界を見たいからですと答えたなら、「あなたは、自分が何を願っているのか、分かっていない」(マルコ 10:38)と、ヤコブやヨハネに対するのと同様の言葉を、主イエスからかけられたとも考えられます。

 バルティマイの「また見えるようになることです」との答には、心の目を開いていただきたいという願いがありました。「見えるように」という原語には、「まなざしを受ける」との多くの翻訳があるそう です。「見える力を頂きたい」という願いが込められている言葉であります。何よりも主イエスの歩まれる道筋が見える力であります。それは主イエスの十字架への道であります。52 節には、「盲人はすぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った」と書かれています。

 バルティマイの物語は、11 章から始まる主イエスの受難物語のプロローグになったと伝えられています。十二弟子が主イエスの十字架に躓く中で、バルティマイは主イエスが処刑されたカルバリの丘に立ったと考えられます。彼には、主イエスの十字架の意味が見える力が与えられていたのではないでしょうか。私たちは外見で一喜一憂するところがあります。神様は世界を導いていますが、神様の「見えない御手」(救済史)に目が開かれることを願いたいも のです。

聖日礼拝 2021年8月15日
説教題 「神が選んだヤコブ」
聖書箇所 イザヤ書第41章8~16節
説  教 安井 光 師

 神はヤコブにイスラエルという名を与えられ、ヤコブの十二人の子らによって神の民となるイスラエル民族を形成されました。「私が選んだヤコブ」と神は言われます。ヤコブは神に選ばれた者たちを象徴する存在であり、ヤコブの選びに神による選びの本質を見ることができます。

 イサクは長子エサウに祝福を継がせようとしましたが、神は弟のヤコブを選ばれました(創世記 25:23)。エサウよりヤコブが人間的に優れていたのではありません。ヤコブは自分の利益のためなら、他を押しのけ欺くことを平気でやってしまう人でしたが、神はそれを知りながら彼を選ばれました。ヤコブが選ばれたのはただ神の恵みでした(Ⅰコリント 1:26∼29、ヤコブ 2:5)。神の祝福がヤコブから子らにもたらされ、子らから周囲へと拡大していくために、神はヤコブを選ばれたのです。

 イスラエルの民は不真実で不信仰でしたが、神は彼らの神であることをおやめになりませんでした。彼らが目に見えるものに頼り、困難な状況に陥っていた時、神は「恐れるな、私があなたと共にいる。たじろぐな、私があなたの神である。私はあなたを奮い立たせ、助け、私の勝利の右手で支える」と彼らを励まされたのです。ヤコブも強情で自己中心で、自分の知恵に頼って行動しては不安や恐れを募らせましたが、神はそんなヤコブから離れず、全能の御手をもって彼を助け支えられました。

 神は選んだ者たちのことを「私の僕」と呼ばれます。神は選んだ者たちに対し、ご自分に聞き従うことを求めておられます。神の祝福をいたずらに受けるのではなく、恵みに応えて神の支配と導きを求めて歩むことを求めておられます(イスラエルは「神が支配する」の意)。パウロやペトロらは自らを「主の僕」と呼んでいますが、彼らは主の選びに感謝し、 選びを重く受けとめ、伸ばされる御手にすがりながら、神が選ばれた目的、神の託された使命に生きたのです。

 私たちはイエス・キリストによって神に選ばれました(ヨハネ 15:16)。世の中には難問題が山積しており、私たちは無力さを覚えますが、神は私たちに勝利を約束しておられます(15 節)。キリストの勝利(ヨハネ 16:33、Ⅰコリント15:56∼58)を告げ知らせ、救いの実を結ぶために主の僕として立てておられます。私たちは「虫けら」のように小さく無力な罪人ですが、そんな私たちのことを愛し重んじておられる神(イザヤ43:4)の僕として歩ませていただきましょう。

聖日礼拝 2021年8月8日
説教題 「アブラハムの信仰」
聖書箇所 ローマの信徒への手紙第4章13~25節
説  教 安井 光 師

 アブラハムは「信仰の父」と呼ばれますが、信仰とはいかなるものかをその生涯をもって証ししています。ローマ4章から、アブラハムの信仰について3つのことを見ることができます。

 第一に〝 全能の神を信じた〟ということです。17節に「彼はこの神、すなわち、死者を生かし、無から有を呼び出される神を信じた」とあります。神はアブラハムとサラから生まれる子を祝福の継承者としようとしておられました。アブラハムもサラも高齢だったため、子を産む望みは持ち得ませんでしたが、アブラハムは全能の神を信じ、神に望みを抱いたのでした(18∼19 節)。

 第二に〝御言葉を信じた〟ということです。20節に「彼は不信仰に陥って神の約束を疑うようなことをせず、むしろ信仰によって強められ」とあります。アブラハムの信仰生活は、神が彼に御言葉を語られ、彼が従ったことから始まりました(創世記 12:1∼4)。アブラハムの生涯において、御言葉を信じることが繰り返されていきました(創世記13:14∼、15:1 ∼、17:1∼)。アブラハムはまだ見ていない約束を信じたのです。現実だけを見てしまうと疑いや恐れが生じますが、アブラハムの信仰は御言葉を聴くことで呼び覚まされたのです。

 第三に〝神を信頼していた〟ということです。アブラハムは、子孫を星の数のように増やしカナンの地を与えるといった約束事だけを信じていたのではありません。「神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だと確信し」(21 節)、神を信頼していました。神への信頼は、アブラハムがイサクを神に献げた出来事に証されています(創世記 22:1∼)。アブラハムは、神の命令を理不尽とは考えませんでした(ヘブル 11:17∼19、ローマ 12:1)。神を信頼していたのでイサクを献げることができたのです。

 神は私たち罪人を救うために大切な独り子を犠牲にされました。私たちは罪深く弱く無力で自分を救うことができませんが、罪人を憐れんでお救い下さる全能の神を信じることができます。神は目に見えませんが、私たちは聖書の御言葉によって神を信じ、神の約束を信じています。コロナ禍という試練の中で、私たちは神を礼拝し御言葉を聴き、神にすべてを委ねながら生活しています。神との交わりを持ちながら、神との信頼関係は深められ堅くされていくのです。信仰こそ、神が私たちに求めておられることです(ヘブライ 11:6)。私たちはアブラハム の祝福とともに彼の信仰を継承しているのです(23∼24節)。

聖日礼拝 2021年8月1日
説教題 「祝福の継承と拡大」
聖書箇所 創世記第49章1~28節
説  教 安井 光 師

 神の祝福は、祝福の基となったアブラハム(12:2)からヤコブの十二人の子らへと継承されます。ヤコブはエジプトの宰相となっていたヨセフに招かれエジプトに下りますが、その前に神を礼拝し御心を求めました(46:1∼)。神の導きに従うところに祝福があると信じたからでした。ヤコブが礼拝をささげたベエル・シェバは、アブラハムとイサクが神の恵みを記念した場所でもありました(21:31、 26:33)。

 ヤコブはファラオに面会し、彼を祝福しました(47:7)。流浪の難民がエジプトの王を祝福するなど考えられないことですが、 ヤコブは神の祝福を継承する者であることを自覚しながらそうしたのです。ヨセフはそれを見ながら、神の祝福が父から自分にも及んでいることを再確認したでしょう。人間の尺度で計るなら、ヨセフがヤコブよりも遥かに祝福された人に思えます。しかし当のヨセフはそう考えず、父に受け継がれた神の祝福こそ本当に価値あるものであり、その祝福を自らも受け、子どもたちにも継承することを願ったのです。

 ヤコブはヨセフと二人の子マナセとエフライムを祝福し、また十二人の息子たちを祝福しました(48∼49章)。一人一人異なる言葉で祝福しました。これは神がイスラエル全体になされる預言でもありました。ユダには子孫からイスラエルを治める王(メシヤ)が誕生することが預言され(49:8∼12)、ヨセフには祝福の実を豊かに結び、イスラエル民族形成の要となることが示されました。ヤコブはかつて祝福を奪い取る者でしたが、神の祝福を受け継ぎ、祝福を与える者とされたのです。

 神は私たち人類を呪うのではなく祝福しようとしておられます(創世記 1:27∼28)。私たちは皆、神に罪を犯し、祝福ではなく呪いを受けるべき者となっていましたが、イエス・キリストが十字架で身代わりに呪いを受けて下さったことによって、神の祝福が私たち罪人にももたらされたのです (ガラテヤ 3:13∼14)。神の憐れみによって、私たちは神の祝福を受けているのです。

 神は祝福した者たちに対して、他者を祝福する者となることを求めておられます(創世記12:3、Ⅰペトロ3:9)。 神と共に生きること、神が共におられるところに必ず祝福が伴うと 私たちは信じています。「神の祝福がありますように」と、家族や隣人、出会う人々、心に思う人々のために(それが敵意を抱く人であ ったとしても)、神の祝福を心から祈りましょう。私たちが祝福を神に願い祈ることによって、神の祝福は継承され拡大するのです。

聖日礼拝 2021年7月25日
説教題 「永遠の命を信じる」
聖書箇所 ヨハネによる福音書第3章16節
説  教 安井 光 師

 人は神に造られ、神から命を与えられた存在です。人は土の塵から造られましたが、神から「命の息」を吹き入れられて生きる者なりました(創世記 2:7)。神は人に肉体の命を与えられただけでなく、霊的な命をお与えになったのでした。ところが最初の人アダムは神に背き、罪を犯したために、人は神の命を失い、死ぬ者となりました(ローマ 5:12)。しかし神は御子イエスを救い主として世に遣わされ、御子を信じる者に永遠の命をお与えになったのです(ヨハネ 3:16)。

 イエス・キリストは、神の新しい命を与える方、神の命そのものである方です (ヨハネ 11:25)。神は失われた命を贖うために、私たち罪人に新しい命を得させるために、御子イエスを十字架で犠牲としてささげられ、死から復活させられたのです。肉体の命は限りがあり、死ねば終わりを迎えます。しかしイエス・キリストによって神が賜わる永遠の命は、死んだら終わりというような虚しい命ではありません。永遠の命は、私たち罪人を神の子として新しく生まれさせ(新生)、真に人として生かしめる神の命なのです。

 神は永遠なる方です。天地を創造される前からおられます。神は時の初めから終わりまでを導いておられます(黙示 録 1:8)。永遠の命は、永遠なる神と共にある命です。私たちが神との交わりに入り、またその交わりを持ち続けるための命なのです(ヨハネ 17:3)。永遠の命を受けた者たちは、御子イエスと同じように天の神を「アバ、父よ」と呼びかけ親しく交わるようにされているのです。私たちは御子の命と霊を与えられたので、神と仲睦まじい関係にされて、神と交わりを持ちながら生きることができるのです。永遠の命は、また終わりの日の復活を保証する命でもあります(ヨハネ 6:53∼54)。

 永遠の命は、死んだ後に与えられるのではありません。罪を悔い改め、イエスをキリスト(救い主)と信じた時に与えられます。「我は… 永遠の生命を信ず」とイエス・キリストを信じ、使徒信条を告白する私たちは既に永遠の命を受けているのです。かつては神から離れ、神に背を向け、心虚しく生きていましたが、神との交わりが回復され、神と生きた交わりを持ちながら生き生きと生きるようにされています。私たちは命の源である主と結び 付き、生きる力と希望を与えられて今生かされているのです。

聖日礼拝 2021年7月18日
説教題 「摂理を信じたヨセフ」
聖書箇所 創世記第45章1~15節
説  教 安井 光 師

 ヨセフ物語のテーマは「神の摂理」であると言われます。神の摂理は神のご計画と同義ですが、神が慈しみ深い配慮をもってこの世を見通しておられ、すべてに備えておられることを意味します。 ヨセフの人生に神の摂理を見ることができます。

 エジプトを襲った大飢饉はカナンの地方にまで及びました。ヤコブは息子たちにエジプトに穀物を買いに行かせます。ヨセフと兄たちは思いもかけず再会を果たします。兄たちはヨセフだと分からず、彼の前にひれ伏しました(42:6)。かつてヨセフが見た夢が現実となったのです。ヨセフは神の導きを感じ、すぐに自分を明かさず、兄たちを知るために彼らを試みました(42:9∼)。兄たちはヨセフに対して犯した罪を悔いていることが判りました(42:21)。ヨセフは感慨深い気持ちになり、その場を離れて泣きました(42:24)。

 兄たちの認罪と悔い改めはユダに顕著に見られました。末弟ベニヤミンが 捕らえられ奴隷にされようとした時、ユダは自分が犠牲になって 弟を救おうとしました(44:18∼34、参照 43:8∼9)。このようなことは、 かつてのユダには考えられなかったでしょう。うっぷん晴らしに 弟を売り飛ばすことを何ら厭わず、罪を罪とも思わなかったのですから(37:26∼27、38 章)。驚くべき変化です。神がユダを取り扱われたのです。神はヨセフのみならず兄たちの人生も導いておられたのです。

 ヨセフは遂に兄たちに自分を明かし、兄たちの罪を赦し和解するに至ります。ヨセフは「神が私を…お遣わしになったのです」と、ここに導かれたのは神であり、ヤコブの家(イスラエル民族)を「大いなる救いに至らせる」目的があったことを兄 たちに語りました(45:4∼8)。これはまだ見ぬ神の救いのご計画を含んでいました。ヨセフは摂理を信じたのです。摂理を信じるというのは、「神」が「救い」という目的をもって私たちや私たちに関わ る人々を導いておられると信じること、人間には災いや悪と思えることさえも神は用いて私たちを救おうとなさると信じることなのです。

神はこの世を愛され、罪人を救おうとしておられます。神は救いのご計画を抱かれ、御子イエスによって既に救いを世に与えておられ、大いなる救いへと私たちを導いておられます。コロナ禍の世界も、神の支配と導きの中にあることを信じつつ歩みましょう。目には見えませんが、神は聖霊による臨在をもって私たちと交わりを持たれ、主権をもって私たちの人生を導いておられます。

聖日礼拝 2021年7月11日
説教題 「奴隷から宰相に」
聖書箇所 創世記第41章25~52節
説  教 安井 光 師

 エジプトの王ファラオが二つの夢を見ました(1∼7 節)。ファラオ はエジプト中の知恵者に夢の解き明かしを求めましたができる者はいませんでした。献酌官長がかつてヨセフに夢を解き明かしてもらったことを思い出し、ヨセフはファラオの前に呼び出されます。 そしてファラオの夢を明確に解き明かすのです。それは。これからエジプト全土に七年の大豊作と七年の大飢饉が訪れるということでした。豊作の期間に飢饉に備えるようヨセフはファラオに進言しますが、それはファラオの心に適い、何とヨセフは宰相に任命されエジプト全土を治めることになったのです(37∼43 節)。

 ヨセフはラッキーな人間であるとか、努力を積み重ねた報いを得たのではありません。ヨセフがエジプトの宰相になることを夢見て、そうなるために計画を立てて、エジプトに売られ、奴隷となり、牢獄に入れられ、ファラオの夢を解き明かす機会を窺い、チャンスを捉え、宰相の座を勝ち取ったのではないのです。これは神がヨセフに対して計画しておられたこと、神のご計画の実現にほかなりませんでした。

 神は私たち一人一人の人生にご計画を持っておられます(エレミヤ 29:11)。人生には無駄なことは一つもなく、偶然はなく、神によって万事が益に変えられると信じることができます (ローマ 8:28)。ヨセフの人生がそのことを証明しています。ヨセフの人生には浮き沈みがありました。嬉しいことも辛いこともありました。それらすべての出来事や経験に神の時があったのです(コ へレト 3:1∼11 参照)。人生全体を神のご計画として捉えていくと、一つ一つの出来事や経験が互いにつながりを持ち、意味のあるものとして見えてきます。神のご計画を信じ、神の導きを仰ぎ求めて歩んだヨセフは人生の忘却と豊穣の恵みを受けたのです(51∼ 52 節)。

 まさにこれは、ヨセフの人生に示された神のサクセスストーリーと呼べるでしょう。ヨセフの成功は、単に奴隷から宰相に引き上げられたことにあるのではありません。エジプトの人々を飢饉から救い、兄弟たちや父の家を救うことになった事実にあります。私たち霊的には罪の奴隷でしたが、イエス・キリストの十字架の贖いによって神の子とされ、神の祝福を周囲に受け継ぐ者とされています。私たちにも驚くような神のサクセスストーリー(イエス・キリストによる救いのご計画)が、いま完成に向かって現在進行形で展開しているのです。

聖日礼拝 2021年7月4日
説教題 「主の慰めに生きたヨセフ」
聖書箇所 創世記第40章1~23節
説  教 安井 光 師

 ヨセフは無実の罪で投獄されましたが、主なる神が共におられ彼を守られました(39:21∼23)。ある日、宮廷の役人であった献酌官長と料理長がファラオに罪を犯して投獄され、ヨセフは二人に仕えるようになりました。二人は夜、ある夢を見ました。翌朝、二人は困惑し顔色が悪いので、ヨセフは様子を尋ねました。そして夢の話を聞き、それを解き明かしてあげました(5∼19節)。するとヨセ フの解き明かしのとおりになり、献酌官長は元の職務に戻ることができましたが、ヨセフの恩を忘れてしまったのです(20∼23 節)。

 せっかくのチャンスも無になり、ヨセフの思うように事は運びませんでしたが、神の側ではご計画のうちに事を順調に運んでおら れました。ヨセフは神を信頼しすべてをお任せしながら、尚二年間牢獄で日を過ごしていきます(40:1)。ヨセフはこの後、ファラオの見た夢を解き明かし、エジプトの宰相に任命されることになりますが、そこに導かれるまでの苦難の中に主がヨセフと共におられ、 主があらゆる苦難から救い出された事実に目を向けるべきでしょう(使徒 7:9∼10)。

 「神は、どのような苦難のときにも、私たちを慰 めてくださる」と使徒パウロは語っています(Ⅱコリント 1:4)。パウロも迫害に遭い投獄されましたが、それらの苦難の時に主に慰めていただいたのです。パウロは「この慰めは…苦しみに耐える力となる」とも語っています(同6 節)。「慰める」(パラカレオー)には 「傍らに呼び寄せる」という意味があります。苦難の中で主が傍らにいて下さることが慰めなのです。ヨセフも苦難の中で主に慰めていただき、主に慰められたことで苦難に耐え抜くことができたのです。

 ヨセフが悩める人々に寄り添った行為(6∼8 節)もまた、主の慰めから生じたものでした(Ⅱコリント 1:4、創世記 50:15∼21)。 様々な苦難に遭い困惑しながらも、「それを解き明かしてくれる人 がいない」というのは悩める人類の切なる訴えでしょう。「解き明かしは神による」とヨセフは主が慰めて下さることを信じながら、献酌官長らの悩みに耳を傾けることができたのではないでしょうか。

 私たちクリスチャンには聖霊による慰めが与えられています。十字架で苦難に遭われた主イエスは、人間の悩みと苦しみをご存知であり、必要な慰めを与えて下さいます。私たちは悩み多き時代に生かされていますが、主は慰めを受けた私たちをとおして苦 難の中にある悩める人々を慰めようとしておられます。