神礼拝と主の証人として生きる一年
2003.1.1 元旦礼拝メッセージ  マタイ12:1〜8  園 謙慈牧師 
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イエスとパリサイ人との安息日論争から「主イエスとはどんなお方か」「真実の安息日とは何か」を知ろう。

@ 安息日の起源
(創世記から)天地創造を終え、神が7日目に休まれた。
(十戒から)安息日の制定(何もしないで徹底的に休む日)。
当時のユダヤ人らは、「休まないと神のみ旨に背く」 と思い込み、ただじっとすることを良しとした。「安息日を覚えて、これを聖とせよ」とは、正しい信仰生活の指針なのに、パリサイ人や律法学者らの歪んだ安息日解釈に本当の安息(神の平安)はなかったのである。パリサイ人は安息日に麦穂を食べたイエスの弟子を見て、「あなたはどういう宗教教育をしておられるのか」 とイエスを非難、断罪し、「目に見える行為」で判断した。しかし、最も大事なことは「心がどこに向いているか」なのである。 イエスは「あなたがたこそ、律法を読んだことがないのか」と逆に質問された。そして聖書の本当の意味を理解していない彼らに、旧約聖書をひも解いて語られた。
1.サムエル記上21:1〜緊急時に律法違反したダビデをとがめられなかった神。安息日は人間のためにあるのだと。
2.神の宮の祭司は安息日でも働いているではないか。 「宮よりも大いなる者がここにいる」=「イエスこそ神そのものであり、その神ご自身が働いているのだ」という宣言である。
3.「私が好むのはいけにえではなくあわれみである」。神は儀式やささげものよりも「あわれみ」を好む(但し、 儀式を全部否定しているのでも、社会奉仕を勧めているのでもない)。
「人の子は安息日の主である」とはまさに私こそ安息を与える者、とのイエスの強烈な自己主張である。わたしたちは神の憐れみの中で礼拝をささげ、真の安息が得られることを再認識しよう。

A安息日の正しい理解
 「安息日を覚えてこれを聖とせよ」という、神が定めた律法は今でも有効である。主日を聖別し、神を礼拝し、神のみことばを聞き、共に賛美し、共に祈る。しかし、礼拝だけでは十分ではない。前日(土曜日)に心と体を備えることから始まり、日曜日の一日中が特別な日とする。それは決まり事ではない。主があなたのために開かれた休息の日であり、神と共に喜び、憩い、平安を頂く日なのだから。神の憐れみを受け、イエスの恵みを頂いてるキリスト者は、神の元へ行くことを第一としよう。自分の生活を重視するなら、だれよりも神が悲しまれる。 もう一度、それぞれの信仰生活の点検、反省、見直しが必要である。改善を示されたなら、具体的に変えていこう。主の恵みをもっと求め、信仰生活を向上させて頂こう。わたしたちのすべての基点はイエス・キリストである。「自分中心」ではなく、イエス(神)に焦点をあてていこう。私(キリスト者)の生活が変わるなら、家庭が変わり、教会が変わり、身近な人に祝福が及んでいく。主日をもっと大事に捉えるべきである。 礼拝とは、神のみことばを聞き、信仰をもって応答することである。そこに神の安息(平安)が与えられるのである。