正義とは何か
2003.1.5 礼拝メッセージ  マタイ12:9〜21  園 謙慈牧師 
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自分たちの基準で物事を決め、判決を下して裁く「人間の正義」と「神の正義」とは違う。その違いは何か?

@ 人間の「正義」とは
パリサイ人の姿は「人間の正義」の象徴。彼らは安息日を守ることを最も重要な事と考え、「安息日には〜してはいけない」リストを作り、厳格に守っていた。身近に困っている人がいても情けをかけず、自分たちの正義だけを押し通し、「我らは安息日を守っている。信仰深い」と誇っていた。イエスは、彼らには到底受け入れられない安息日解釈をし、彼らの怒りを引き起こした。人間は、「自分はあの人よりは正しい」と他者の悪い所を見つけて比較し、自己正当化する。自分の心の本当の姿が分からない霊的盲目。「なぜ出来ないのか。頑張れば 出来るのに、真面目にやらないからだ」とすぐ裁いてしまうのは、パリサイ人だけではない。自分を基準としているから他人の弱さが分からず、「正義」の名の元に裁いたり、さげすんだり、無視したりする。だが、人間には正義を決めることはできない。人間の考える正義は自分に都合良いもので、穴だらけ、欠けだらけだし、人それぞれに異なった基準、正義があるから。神の憐れみ (イエスの癒し)を見ながら、「神が安息日にそんなことをするはずがない」と、イエスを殺そうとした彼らの姿は他人事ではない。我々は皆、自己本位で保守的で、自分の生活を邪魔するものは許せないからだ。

A 神の「正義」とは
「目に見える形で守りさえすればよい」と、安息日を歪 んで捉えたパリサイ人。たとえ礼拝を守っても、心が神に向けられないなら、何の意味があるのか?取り繕った見せかけではなく、ありのままの姿で神に向かおう。同胞から無視・差別されていた片手の萎えたにとって、 イエスに癒されたその日は真の安息日となった。異邦人も又、神に選ばれていない、と蔑視されていた。傷められ、弱った葦を折るのが「人間の正義」で、それを折らないで助けるのが「神の正義」。「神の正義」は、「人を不当に扱わず」「弱い者、欠けのある者、罪人を断罪して見捨てることはせず」「諦めないで、どうにかして生かし、救おうと」人間の命をとことんまで大切になさる。だからといって罪を見過ごされるのではない。神は必ず罪を裁く。我らの罪をイエスの上に置いて裁かれ(十字架の死)、それによって正義を貫かれた。主の十字架によって 死刑を免れている我らは、弱い者の弱さを担うべきであって、裁いてはならない。 「手を伸ばしなさい」とは、神に祈り求めよ、という意味。「私に呼び求めよ(エレミヤ33:3)」自分の欠けを認め、神に求めていこう。そして、「神の正義」をもって他者に向かおう。それは「赦し」である。神から豊かに赦されている我らは、他者を赦せるはずではないか。
☆他者を裁いて自己を良しとする「人間の正義」でなく、 他者を思いやり、いたわる「神の正義」に生きよう。