神の霊による神の国の到来
2003.1.12 礼拝メッセージ  マタイ12:22〜30  園 謙慈牧師 
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パリサイ人の主張「悪霊が悪霊を追い出している」に対し、
イエスの反論「神の霊と悪霊とは相容れない。神の国は神の霊によって到来する」

@ 間違った「神の国」観
  「イエスこそメシアではあるまいか?」と、奇跡やしるしに驚き、一瞬信じはしても、絶えず奇跡を求める「感覚的な」信仰で、自分に不都合が起こると信仰を捨ててしまう。神は我々に、己の心の罪の本質に気づき、神との個人的つながりを求めるよう促される(群集ではなく個人)。 そこに、イエスの奇跡に驚かず、冷たい視線を向ける人々(パリサイ人)がいた。自分たちこそ正しく、律法を守っている、と自負する自称義人の彼ら。イエスの奇跡は彼らのプライドを傷つけ、立場を危うくするから、イエスの成したわざを「神の霊の働き」とは認めたがらず、「悪霊の親分が悪霊の子分に命じて追い出した」とこじつけ理論でなじる。我々もパリサイ人のように「自分の行いや真面目さ」によって自分を正しいと自負しているなら、神を拒否し退ける自己義認の罪と知ろう。

A イエスの示す「神の国」
イエスの3つの反論
1.(25〜26)悪魔でも自分の国を大事にする。仲間内で争い、分裂させることは悪魔でさえするわけがない。
2.(27)もし私が悪霊の力によって悪霊を追い出すな ら、私は悪霊の国の反逆者となってしまうではないか。
3.(29)家財(悪霊に支配されている人)を取り戻すには、強い人(悪魔)を縛らなければならない。

  「神の国」は「人間の何か」ではなく、「神の霊」によって、その支配を受け入れる人の心に到来する。 「今すでに神の国は来ている。私のわざを見るなら、神の霊(聖霊)が働いているのが見えるはずではないか」。 「私には見えません」と神の前にへりくだる時、神は憐れみと恵みによって聖霊を賜い、霊の世界を開いて見えるようにしてくださる。
 「努力・頑張り・奉仕」を信仰の熱心さと勘違いしていないか?それでは必ず疲れ果て、小さな事につまずいて 嫌になってしまう。全ては神の御手によって成される(それが神の支配)。
 神は中途半端な服従・信仰では満足されない。「神につくのか、この世も良しとするのか、はっきりせよ」と。 聖霊によって悪霊が追い出され、神の世界を見ることが可能になったクリスチャン。だが、洗礼はゴールではなくスタートにすぎない。聖霊によって始められたわざは、聖霊の助けによって成長させられ、聖霊によって天において完成される。つまずいても、恵みによって立ち上がらせて頂き、完成を目指してイエスと共に働き、イエスと共に戦おう。聖書のことばを「信じて従う」者に、聖霊(神の国)は与えられるのだ。

☆教会を中心とする神の国の建設に我らは携わっている。人と比べたりせず、喜びをもって神の働きに加わろう。