言葉の罪から救われる秘訣
2003.1.19 礼拝メッセージ  マタイ12:31〜37  園 謙慈牧師 
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どうしたら「言葉の罪」から救われ、「悪い言葉」でなく 「良い言葉」を語ることができるのだろうか。

@ 「言葉の罪」とは何か
1. 聖霊を汚す言葉(聖霊に対して言い逆らう言葉)
 ペテロもユダも主に対する裏切り行為をしたが、その中身は大きく異なっていた。ペテロは主に従おうとしつつも誘惑されたのだが、ユダは表面はイエスに仕えつつ心中では裏切っていたのである。そして二人とも自分の罪に気づく。ペテロは悔い改めて主に仕え、ユダは後悔して自殺 した。「悔い改め」と「後悔」とは似て非なるもの。 「聖霊を汚す」とは、聖霊の呼びかけを拒み、神を無視し、軽んじ、信じないこと。聖霊の働きが明白なのに故意にねじまげ、「聖霊の力を悪霊の力とみなした」パリサイ人らの中傷は大いなる冒涜で、赦されることではない。彼らのように神を拒み、悔い改めないなら、遂には神から遮断される。クリスチャンといえどもこの危険は大いにある。
2.無益な言葉(口にした後で後悔せずにおれない言葉)
 「無益」とは害も益もないという中立ではなく、明らかに悪いという意味である。人を傷つける無益な言葉は、最後の審判の時に弁明が求められ、責任を問われる。「心にもないことをつい言った」とか、「あの人は口は悪いけど、心根はいい」とかで、人を傷つける言葉を気軽に言ってしまう。口から出た言葉は決して消すことはできない。言葉の暴力は人の心を傷つける。人を傷つけてもなんとも思わないのは、良心が鈍っているからであろう。家族の中、学校、職場、あらゆる人間関係において、そういう無益な言葉が語られている現実は悲しいものである。

A 無益な言葉の発生元
 言葉は人間の心の奥底から出る。人間は意識をコン トロールすることがほとんどできないから、無意識の内に心が思うことを語る。それで、イエスは「人間の心」を問題視された。「自分の心の醜さ」に気づかされ、神の前にへりくだって罪を認め、悔い改め、「神を恐れ、神を意識させる良心」を頂こう。

B 言葉の罪から救われるために
 まず、「神は確かに生きて働いておられる」という事実に気づくことが大事。自分の身に起こってくる厳しい現実や不都合等で、神を疑ったり否定したりしないことである。神は災いを益に変えて下さる。また、「人に」ではな く、「神に」良く思われるよう心がけること。神との正しい関係作りを心がけているなら、我らの信仰は正しく導 かれ、良心が作られ、良い言葉が出てくる。聖書を読み、メッセージを聞いて、「何が良いことか」は分かっても、 それを日常生活において実際に行わなければ無意味である。教会、家庭、職場どこであろうと、いつも「神に向かう」姿勢を保つことが大事である。内なる聖霊を悲しませないように生きるなら、我らの口からは有益な言葉が出るようになる。祈りの中で神に感謝し、賛美し、復活の希望を信じる信仰を持ち続けていこう。栄光を目指して生きている我らが、どうして神を否定する言葉や人を傷つける言葉を出すことができるだろう。日々、聖書と祈りによって神と交わるとき、心が整えられ、良い思い、良い言葉が出てくる。
 あなたは何を心にたくわえていくのか?世の事柄か、神の言葉か。我々は神から豊かに赦されているのだから、他者の罪をも赦そう。また、自分が言葉によって他者を傷つけてきたことを真実に悔い改め、良い言葉を口にすることができるよう変えて頂こう。