悪い時代に流されぬ生き方
2003.1.26 礼拝メッセージ  マタイ12:38〜45  園 謙慈牧師 
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イエスの語るお言葉によって、正しい時代認識をし、自分の内側を真実に認めよう。そしてイエスの絶大な価値の再発見と新たなる信仰へと導かれたい。

@ 時代を正しく認識するには
「不義」とは、神の愛に対して何度も背き逆らう姿。神が自分の思い通りに動いてくれないと不平・不満だらけになり、神を信じられなくなり、不義に陥る。「願いを叶えて下さるのが神ではないのか。神としての証拠を見せて欲しい。そしたら、信じる」と、思っていないか。パリサイ人らの心にあるのは「神への愛と信頼」ではなく、「信じられるのは自分だけ」という自負心。クリスチャンも、罪赦されて洗礼を受けても信仰が成長せず、教会から遠ざかっていくのは、神への愛が欠如しているからであろう。
 また、「こんなに熱心に信仰生活を続けてきたのだから、自分の生活を良くしてくれるのは当然」と思い込むのも正しい神との関係ではない。
 1.ヨナのしるし:ヨナ(大魚に飲まれ、三日三晩その中で過ごす)=イエス(十字架につけられ、黄泉に下り、 三日間過ごされる)。ニネベの人々は悔い改めたが、パリサイ人らは、神の国の福音が語られ、素晴らしい奇跡を見たにもかかわらず、悔い改めなかった。
 2.南の女王(シバの女王):遠い国からソロモンの知恵を聞くために、へりくだって素直に聞き、従った女王。
 ニネベの人々もシバの女王も、へりくだり、自分の非を悟った。だから、この異邦人らはパリサイ人らを裁き得る立場にある。

A 自分を正しく認識するには
 悪霊が戻ってきた家は「掃除がしてあって、きれいだった」。
 一生懸命きれいにしたつもりでいるが、じつは「私は人に比べてきれいだ」と自負している心の状態。「自らの力で出来る、やっている」と思うなら、それは信仰ではない。 神に委ね信頼していない。「私は悪霊と関わりがない。心の汚い人間ではない」と思い込むパリサイ人。「口伝律法を守れば悪霊を退けられる」と信じ、人々にも教えていた律法学者。自分の心の状態を正しく知りたいと真実に思うなら、彼らの姿を「私とは関係ない」とせず、自分のこととして真剣に受けとめよう。
 「私は正しい。私の心はきれいだ」と思い込む自負心こそ最も危なく、悪霊が住み着きやすい。 クリスチャンの問題点は間違った潔癖さにある。「自分はきれいな人間になった。自分の心には汚れがない」と思い込み、信仰のない人を排除し、この世の人と交わることを嫌う。また神のみことばではなく、自分を拠り所としてしまう。中身は空っぽで外を飾りたて、自分の何かを誇り、人にどう見られるかを気にするプライドの罪。
 私は他人から心の罪を指摘されて快く認めるだろうか。怒ったり不機嫌になったりするのではないか。パリサイ人らは自らの存在価値が否定されたと思い込み、イエスを邪魔な存在とし抹殺すべきとした。心に住むべき王なるイエスを拒んだのである。

B悪い時代に流されない生き方とは
 神は、力なき者、知恵なき者を招いておられる。ニネベはヨナの裁きのメッセージを聞き、悔い改めて裁きを免れた。この神の招きに応じて、「私は何もできない、私の中には罪以外の何物もない」と認め、へりくだって悔い改めよう。イエスは罪を示し悔い改めを促しただけでなく、ご自身が罪の刑罰を受けて下さり我らの罪を赦された。努力して良い人間になるのではない。「私は駄目な者だ」と素直に認めよう。神を信じ従っていく時、正しさ・清さが与えられていく。それらは自分で「勝ち取る」ものではなく、恵みとして「与えられる」ものなのである。知恵者ソロモンに勝る方としてイエスが本物の知恵を語られた。イエスを信じる者の心の中に、神の知恵が与えられる。目に見える「しるし」に飛びついて、見えない神を忘れないようにしよう。そして、「主の十字架を心の中心に置かないなら初めより悪くなる」との警告に耳を傾け、悪い時代に流されぬよう賢く生きよう。