ここに神の家族がある
2003.2.2 礼拝メッセージ マタイ12:46〜50 園 謙慈牧師
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イエスは血のつながりによる肉親を退けられた。
その真意とイエスが求めておられた新しい形の神の家族の姿(天国)を知ろう。
@地(血)に属する人間の家族の姿(特色と問題点)
「血は水よりも濃い」と人は血縁関係を大事にするが、麗しい関係ばかりではなく、最も醜い一面をも持っているのが血のつながりではないだろうか。
互いに束縛し合い、傷つけ合って、他人よりも憎しみが深いこともある。骨肉の争いはエゴイズム(自己中心)からおこる。
表面は麗しく見えても、その実体は醜い。神を抜きにした人間的情愛だけの家族は問題を起こしやすい。
ご存知のように、最初の殺人は「妬み」が原因で、兄カインが弟アベルを殺した。
父親が兄息子エサウを愛し、母親が弟息子ヤコブを愛した「偏愛」によって、家族がバラバラになった。
神は、神を中心とした夫婦・親子・肉親関係を求められておられる。血のつながっている肉親だから「当然」愛し合えるはずと思い込み、人間的な情愛で取り繕おうとするが、「真実の愛」がないので改善されない。その根本的原因は「神の愛の外に立ち続けている」ことにある。
人間の悲惨さはどこからくるのか。人間は本来、神を愛し、自分を愛し、他人を愛するように作られている。
だが、アダムの背きの罪により、神を愛せず、自分も他人も愛せなくなった。罪とは「的外れ」、すなわち本来あるべき姿
から外れているという意味である。
さて、イエスの家族はイエスを理解しようとせず、部外者として外に立っていた。身内だからイエスのことを知っている、と思い込み、
イエスを狂人扱いして取り押さえようとしたのである。人間の情愛の盲目さ・狭さ・限界…そのことに気づく者でありたい。
A天に属する神の家族の姿(特色と課題)
神の家族とは、人間の血筋によらず、キリストの血潮による(ヨハネ1:12〜13)。イエスへの信仰から生じる、神を父とした「新しい家族」。
それは、「神のみこころを行う者」「イエスに従っていく者」として、主の弟子たちが新しい家族のモデルとなる。
神のみこころを知って行おうとする者は、神の一方的あわれみによって神の家族とされる。
人間のヒューマニズムは人間の心の隠れた罪を無視し、神を否定し必要としない傲慢さを生じさせる。
しかし、「私は自己中心で本物の愛を持っていないから、真実の愛を持っている神から頂くしかない」、「嫌い」「憎い」相手
を受け入れられない、という自我と戦い、ありのままを神に申し上げ、愛を頂いていくとき、愛の実践がなされていく。
まさしく、愛は人間的感情や自我(罪)との戦いなのだ。私たちの頑張り・努力ではなく、イエスの愛を頂いてそれを反射していく働きである。
主が罪深い私を受け入れて下さるゆえに、わたしたちもまた他者を受け入れられる者とされる。
その時、世の人々はクリスチャンを通して神の愛を知ろう。 神の愛を見失いやすいわたしたちであるが、そういう自分に気づかされた時、その都度悔い改めて、新たに信仰生活を再出発すればよいとはなんと幸いなことか。
キリストとの絆を大事にし、父のみこころを行って、死後も永遠に続く神を中心とした「天国の家族関係」を目指そう。。