終末を意識した生き方
2003.2.16  礼拝メッセージ  マタイ13:24〜43  園 謙慈牧師 
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ノアの方舟の中に罪(息子のハム)があったように、教会の中にも罪はある。厳しい現実を正しく認識し、その中でも神のみわざは着実になされていることを知ろう。

@現実を正しく認識するために
 まず、毒麦のたとえから現実を正しく認識しよう。
 成長しないと、区別がつかない良い麦と悪い麦。良い種が蒔かれたはずなのに、どうして悪い麦が生えたのだろうか?
なぜこのように罪悪が存在するのか?この世の不条理にクリスチャンの信仰は試されている。
 悪魔は人間の心の意志に働きかけてくるが、この世界は神の支配の元に置かれている神の畑なのだから、悪魔といえども神の御手の中にある。悪魔に誘惑され、負けることがあるかもしれない。しかしキリスト者は神のご支配の中で生かされているもの。悪魔の誘惑を断固として拒んでいこう。「世に勝つ者はだれか。イエスを神の子と信じる者ではないか」(1ヨハネ5:5)

A目に見える現実だけに捉われないために
 次に、からし種とパン種(イースト菌)のたとえ(天国の象徴)から、みてみよう。
 からし種はごく小さいが、成長すると3m以上もの大木になる。人間の心に神の種が蒔かれる。最初はごく小さくても、その人の心の中で成長して大きくなり、教会外まで影響を及ぼすほどになる。キリスト者の全生活において、神を生き、神の栄光を現していくように、健全な信仰は全世界を意識し、関わっていくものである。
 パン種はわずかなものでも全体を大きくする力がある。「わずかなもの」が、外に向かって影響を及ぼしていき、「大きな結果」が見られる。福音(からし種、パン種)に導かれ、まことの神を信じる人々が増えていくのである。

B正しい終末信仰に立ち、終末を意識して生きる
 では、今をどのように生きるか。
 良い麦と毒麦が区別しにくいように、クリスチャンの心の中身も外から見ただけでは分からない。神は、「熱心でない者はダメ」と裁く、排除される神ではない。神の憐れみ、恵み、赦しによってわたしたちは変えられていく。わたしたちは人を裁く立場ではなく、また裁いてはならない。神は、良いもの、悪いものがはっきりしないまま混在しているこの世界で、キリスト者が罪と戦い、神と真剣に生きようとしている生き様を現すこと、そのことによって周囲の人が影響を受け、神を知るようにと求めておられる。 
 「収穫(神の最後の審判)まで待て」(30節)。裁く権利を持っておられるのは、「私はある」といわれる神ご自身なのだ。わたしたちは人の善悪を裁いてはならない。必ず神の正 しい裁きが行われる時が来る。わたしたちは神の憐れみを求めるだけ。忍耐をもって祈り待ち続ける時、神のあわれみによって、悪い者であっても善人に変わる。「愛は多くの罪を覆う」主イエスの忍耐こそ救いをもたらすものである。
 主に赦されたわたしたちは隣人を憐れみ、主の救いを証していこう。十字架の主を仰ぎ、終末を意識しつつ、主を証する使命を主にあって果たしていこう。そして、「父の御国で太陽のように 輝きわたる」(43節)、みことばに希望を抱きつつ、終末を生きていこう。