@悲しみの真の理解者 イエスは、人間の悲しみをすべてご自分のものとして 体験してくださった。彼は人間の罪の悲惨な実態を嘆き悲しみ、 ゲッセマネで、十字架上で、私たちのために父なる神に叫び、 涙を流された。それゆえに、私たちの悲しみを完全に理解し、 私たちが流す涙を覚えていてくださる。 主の前に、ありのままに叫び、涙を流せることは幸いである。 |
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A幸いな悲しみとは・・・ 私たちの身に降りかかる悪いこと。 これが起こるための悲しみが幸いなのではない。 神を信じる時、自分の罪を醜さを知らされる。 ここに真実の悲しみが起こされるのだ。 神に背いた罪ゆえに生じる「霊的悲しみ」こそ幸いである。 「わたしはなんという惨めな人間なのだろう」 ローマ7:24。 「神のみこころに添う悲しみは、罪の悔い改めに導かれる」 第二コリント7:10。 イエスを通して悲しみが神に向けられる時、慰めが与えられる。 |
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B悲しみを担う者 「悲しみを担い続けるものは幸いである(ルター)」 自分中心から神中心へと心が向けられる時、 他者の悲しみを自分のものとし、とりなしの祈りができる者とされる。 自分の悲しみだけでとどまるなら、どこに幸いがあろうか。 イエスは、自分のためではなく罪に苦しんでいる者のために悲しまれ、 涙を流された。イエスの涙の祈りに私たちの思いを合わせよう。 悲しみを通して神にむかう時、私たちの涙は神に覚えられ、慰めを受ける。 |
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他者の悲しみを理解し、ともに悲しみ、ともに泣ける 幸いな者へと主イエスは変えてくださる。 イエスのところへ行こう! |