【No.6】 悲しむ人の幸い 2002.2.10 礼拝メッセージ  マタイ 5:4  園 謙慈牧師メッセージメニューへ TOPへ
一般的に、悲しむ人は不幸だと考える。
私たちは悲しまないで、笑って暮らしたい。
では、なぜ聖書は「悲しむ人は幸い」と言うのか?
@悲しみの真の理解者
 イエスは、人間の悲しみをすべてご自分のものとして
 体験してくださった。彼は人間の罪の悲惨な実態を嘆き悲しみ、
 ゲッセマネで、十字架上で、私たちのために父なる神に叫び、
 涙を流された。それゆえに、私たちの悲しみを完全に理解し、
 私たちが流す涙を覚えていてくださる。
 主の前に、ありのままに叫び、涙を流せることは幸いである。

A幸いな悲しみとは・・・
 私たちの身に降りかかる悪いこと。
 これが起こるための悲しみが幸いなのではない。
 神を信じる時、自分の罪を醜さを知らされる。
 ここに真実の悲しみが起こされるのだ。
 神に背いた罪ゆえに生じる「霊的悲しみ」こそ幸いである。
 「わたしはなんという惨めな人間なのだろう」
  ローマ7:24。
 「神のみこころに添う悲しみは、罪の悔い改めに導かれる」
  第二コリント7:10。
 イエスを通して悲しみが神に向けられる時、慰めが与えられる。

B悲しみを担う者
 「悲しみを担い続けるものは幸いである(ルター)」
 自分中心から神中心へと心が向けられる時、
 他者の悲しみを自分のものとし、とりなしの祈りができる者とされる。
 自分の悲しみだけでとどまるなら、どこに幸いがあろうか。
 イエスは、自分のためではなく罪に苦しんでいる者のために悲しまれ、
 涙を流された。イエスの涙の祈りに私たちの思いを合わせよう。
 悲しみを通して神にむかう時、私たちの涙は神に覚えられ、慰めを受ける。

他者の悲しみを理解し、ともに悲しみ、ともに泣ける
幸いな者へと主イエスは変えてくださる。 イエスのところへ行こう!