【No.8】 義に飢え渇く人の幸い
2002.2.24 礼拝メッセージ  マタイ 5:6  園 謙慈牧師
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「義」の意味を取り違え、
「飢え渇く」ということが分からない。
「義に飢え渇く幸い」の真意を、聖書から探ろう。
@「義」とは・・・
 人間の「義」は、状況や相手次第で変わる相対的なもの。
 神の「義」は絶対である。
 人と比べて自分を義としても、
 神の前では義(ただしい)と認められない。
 自分の心の醜さを知り、義を求める者もいる。
 だが自分で解決を試みたり、趣味や娯楽に逃げ、
 本気で神を求めないその姿は、神の目に滑稽かつ不遜に映る。
 一般的に人は人間関係を重視するが
 最も大事なのは神との正しい関係である。
 真の義とは、神と正しくつながることである。

A「飢え渇く」とは・・・
 飢え渇くとは、自分の欠乏に気づき、切実に謙遜に求めること。
 だが、私は義に飢え渇いているなどと、自分の信仰を誇るものは、
 他者を裁き、見下すという勘違いをしやすい。
 真の「飢え渇き」とは、自分こそが神の義に生きていないことを知り、
 義を行えない無力を認め、神の前に出ることである。
 自分の罪を直視し主に祈ろう。
 「主よ。正しく生きられるよう、助け導いてください。」
 祈り求める者は、飽き足らせられる。

B「飽き足りる」とは・・・ 
 十字架の主を信じる者への罪の赦しによる平安、
 日々悔い改め、祈り求める者は神の義に飽き足りる。
 自分にはまったく義がないので求め続ける姿勢こそ、
 主に喜ばれるものである。義に飢え渇く者の心の叫びは、
 神の義を最も切実に求められたイエスご自身がよく知っておられる。
 切実に求める者を、神は豊かに与えて飽き足らせてくださる。

真に神を礼拝することが神の義を表す姿勢である。
義に飢え渇いて教会に集おう。神の慰めを得、飽き足りる。