【No.9】憐れみ深い人の幸い
2002.3.3 礼拝メッセージ  マタイ 5:7  園 謙慈牧師
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この世の考える「憐れみ」と、
主イエスの説かれる「憐れみ」は大きく違う。
聖書から正しく学び、憐れみに生かされよう。
@憐れみを求める現代人
 「私って、かわいそう・・・。」
 自分を不幸の主人公にし、他者の憐れみを求めている。
 自己中心で、自分さえよければいい。
 自分が他者から憐れまれたいだけであって、
 他者を憐れみたいのではない。

A世的憐れみと問題点
 悪を見逃し、法の正義を曲げ、「自由・権利」を主張する。
 自分のしたいことをし、「何でも」許して受け入れる。
 そんなことを、世は「憐れみ」と思っている。
 人を援助する憐れみもあろうが、そこでは優越感や劣等感が生じ、
 受ける側が自立できないという問題も起こり得る。
 また、相手の気持ちになって同情したからといって
 よい結果になるとは限らず、かえって反撃を受け、傷つくこともある。
 そもそも他者の心情を心底理解することは、人間には不可能。

B神の憐れみ 
 神だけが義(正しさ)と憐れみを結ぶことができるお方である。
 十字架はその集約である。
 神の憐れみは、人間の理解をはるかに超えている。
 生まれつきの人間が持ち得ないものである。
 神の真実は人の不真実によって左右されることはない。
 神は裏切りつづける民をどこまでも赦し、
 憐れみを受けるにふさわしくない民を憐れみ愛される。
 返しきれない罪の負債。
 私たちはイエスの十字架のあながいによって赦されたのに、
 仲間のほんの小さな罪をも赦すことができない。
 神の憐れみの深さを味わい知りその中に生き続けよう。

主を信じ、みことばを受け入れて従おう。
それにより憐れみに生きることが可能にされる。
この幸いを得よう!