【No.10】心の清い人の幸い
2002.3.10 礼拝メッセージ  マタイ 5:8  園 謙慈牧師
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幸いな生き方を主が語られているのに、
「私には無理」と諦めてはいないだろうか。
諦めてはならない。
これは全てのクリスチャンに与えられている恵みである。
@「心」とは・・・
 感情、人格、すべての思い。
 心が清ければ行為に表れる。
 だが行為が清いからと言って心が清いとは限らない。
 人は表情や行いだけを見て清い人だと思う。
 しかし、神は心をご覧になる。
 高等教育を受けても心は清くはならない。
 人の心は清くない。
 そして自分で清くすることもできない。

A「清さ」とは・・・
 偽善がなく、神だけを見る単純さ。
 他者の評価を気にする者は心が神に向けられていない。
 清められた心とは受身だ。
 「私は汚れ果てた罪人。自分の力では清くなれない」と認め、
 へりくだって神にすべてを明け渡すとき、
 私たちは神のものとされる。
 その心に神が主権をもって住んでくださる。
 清さへの唯一の道は、自分の汚れに気づき、絶望すること。
 心から罪を悔い改める時、私たちは赦され、清められる。
 神の清さは愛と正義から来る。

B「神を見る」とは・・・? 
 神を見ることは天国だけでなく、この地上でも可能である。
 礼拝とは、生ける神のみ顔を仰ぎ、拝することである。
 神は私たちを清めようと待っておられる。
 この恵みの価値を知っているか。
 この価値ゆえに喜んで礼拝をささげているだろうか。
 神はいのちを賭けて私たちを滅びから救ってくださった。
 それでも、まだ自分勝手な生き方を選ぶのか。
 なんと主は憐れみに富んでおられることか。
 私たちの信仰の弱さまで知っていてくださり、
 罪を責めるのではなく、
 「清めよう」と約束し、励ましてくださる。

神の限りない恵みに感謝し、真実な礼拝をささげて、
この世で神を見る幸いなきよさに与ろう!