【No.14】義のために迫害される人の幸い
2002.4.7 礼拝メッセージ  マタイ 5:1〜12  園 謙慈牧師
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新生の「いのち」をいただいた私たち。
だが、すべてがみな成長するわけではない。
マタイ5章3節から10節、主イエスが語られた
八福の幸いによってテストされ、信仰の初心に立ち返ろう。
@「誰のことか」
 八福の姿はひとりのキリスト者の具体的な生き方である。
 特定の「立派」なひとのことではない。
 「義のための迫害」も、殉教した偉人を指すのではない。
 神は山上の垂訓を通して祝福を下さる。
 それなのに「私には無理」と拒んではもったいない。素直に耳を傾けよう。
 「できないからこそ、祝福を切に求める」者は祝福に与れる。
 他人事ではない。最も重要な、私ごとである。

A「迫害」とは
 神の正しさを求めていく者の姿は、世間一般の人には煙たい存在である。
 クリスチャンゆえに虐げられ、無視される、良いことをしても悪く言われる等、
 神を求めつづける者は必ず迫害される。しかし、迫害こそ天国の民の印。
 イエスも安住なく、善を施したのに憎まれ、殺された。
 迫害への対処法は、私たちの信仰のゆえに迫害する者のためにとりなす
 ことである。十字架上のイエスを思い出そう。
 「父よ、彼らをおゆるしください。
 彼らは何をしているのか、わからずにいるのです。」(ルカ23章34節)
 とりなしてくださるイエスさまが私たちと一緒にいてくださる。

B「義のため」とは 
 キリストに従い、神のみこころに従っているために受ける迫害が
 「義のため」である。自分の失敗ゆえに迫害されることは無意味。
 自己正当化は論外。キリストに罪贖われた者はもはや自分勝手に
 生きるのではなく、自分を捨て、日々自分の十字架を負おう。
 主イエスは言われた。
 「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を
 負うて、わたしに従ってきなさい」(マタイ16章24節)と。
 キリストに属する私たちは幸いだけではなく、
 キリストのための苦しみをも負うていることを忘れてはならない。

C「幸い」の理由
 イエスのように生きる時、私たちは真理を見出す。真実に生き、
 迫害されようとも主の平安で心満たされる。主のために受ける迫害を
 光栄と思い、喜び味わうことが本当の幸いである。
 神の力が、聖霊によって私たちの心の奥底から働かれるなら、
 私たちはこの幸いを得る。

私たちキリスト者はこの世の旅人。
ともにおられる神のみことばに慰められ、励まされ、強められて、
「主のみこころ」だけを求めて生きる!