@「誰のことか」 八福の姿はひとりのキリスト者の具体的な生き方である。 特定の「立派」なひとのことではない。 「義のための迫害」も、殉教した偉人を指すのではない。 神は山上の垂訓を通して祝福を下さる。 それなのに「私には無理」と拒んではもったいない。素直に耳を傾けよう。 「できないからこそ、祝福を切に求める」者は祝福に与れる。 他人事ではない。最も重要な、私ごとである。 |
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A「迫害」とは 神の正しさを求めていく者の姿は、世間一般の人には煙たい存在である。 クリスチャンゆえに虐げられ、無視される、良いことをしても悪く言われる等、 神を求めつづける者は必ず迫害される。しかし、迫害こそ天国の民の印。 イエスも安住なく、善を施したのに憎まれ、殺された。 迫害への対処法は、私たちの信仰のゆえに迫害する者のためにとりなす ことである。十字架上のイエスを思い出そう。 「父よ、彼らをおゆるしください。 彼らは何をしているのか、わからずにいるのです。」(ルカ23章34節) とりなしてくださるイエスさまが私たちと一緒にいてくださる。 |
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B「義のため」とは キリストに従い、神のみこころに従っているために受ける迫害が 「義のため」である。自分の失敗ゆえに迫害されることは無意味。 自己正当化は論外。キリストに罪贖われた者はもはや自分勝手に 生きるのではなく、自分を捨て、日々自分の十字架を負おう。 主イエスは言われた。 「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を 負うて、わたしに従ってきなさい」(マタイ16章24節)と。 キリストに属する私たちは幸いだけではなく、 キリストのための苦しみをも負うていることを忘れてはならない。 |
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C「幸い」の理由 イエスのように生きる時、私たちは真理を見出す。真実に生き、 迫害されようとも主の平安で心満たされる。主のために受ける迫害を 光栄と思い、喜び味わうことが本当の幸いである。 神の力が、聖霊によって私たちの心の奥底から働かれるなら、 私たちはこの幸いを得る。 |
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私たちキリスト者はこの世の旅人。 ともにおられる神のみことばに慰められ、励まされ、強められて、 「主のみこころ」だけを求めて生きる! |