【No.16】もっとすぐれた義
2002.4.21 礼拝メッセージ   マタイ 5:17〜20  園 謙慈牧師
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律法の解釈と実践をイスラエルの民は間違った。
イエスは本質を正される。「心を神に向けよ」と。
@間違った律法解釈
 律法学者、パリサイ人の敬虔な態度は偽善だ。
 律法の本質は「神」に心を向けることである。しかし彼らは自ら細則を付け加え、
 「律法(規則)さえ守れば安心」と目に見える行いだけを尊重したのである。
 律法とは本来、「神を礼拝する(神を愛し、信頼する)」ことである。
 形式に捉われる人、熱心であるけれど自己満足に陥りやすい人、
 「律法からは自由だ」とみことばを軽んじる人は要注意である。
A律法(旧約)の目的
 人間のどんな努力も、神の律法を全うできない。心が造り変えられない限り、
 「良い人間」にはなれない。この事実を明らかにするのが律法であった。
 旧約を読む際に大切なことは、メシア(イエス)を理解し、「罪の赦し」の価値を
 知ること。イスラエルの失敗を教訓として学び、神との関係を正すことである。
 イエスは旧約のメシア預言を成就なされた。
 ―処女から生まれ、人類の罪を背負い、贖いの十字架の死を遂げる―
 
B彼らにまさる義 
 律法学者、パリサイ人は熱心に義を追い求め、律法を学び実践していた。
 祈り、断食、施し、十一献金など・・・。 しかしイエスは語られた。
 「あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、
 決して天国に、はいることはできない(マタイ5章20節)」。
 「彼らにまさる義」とは、自分の罪を認め、悔い改めることである。
 罪人は誇るべき何物も持たない。だからこそ神に向かう。
 自分を正しいと思い、罪人と認めない者は、たとい人の目に立派に見えても、
 神の目には傲慢としか映らない。
 とことん醜い自分を認め、礼拝の恵みに与れる幸いを感謝しよう。

義とは神から与えられるものである。
自分を罪人と認め、ひたすら神の憐れみにすがろう!