@心の中の殺人行為 主は「殺すな」という戒めを解釈しなおされた。 単なる殺人行為だけでなく、心の思いこそ問題だと語られる。 私は殺人をしていないから大丈夫だ、と考える人にとって 22節のみことばは衝撃であろう。 怒ること、言葉の暴力、のろいを抱くこと自体がすでに、 人の命を奪い取ることになると主は言われる。 法廷では殺人行為しか裁けぬが、神は心の中の殺人をも裁かれる。 主の弟子なれば、外面を繕うことをせず、心の内面こそ神にきよめられ、 変えられていくように祈り求めねばならぬ。 |
|
A正当な怒り 主イエスはパリサイ人に対して「偽善者よ」怒られ、 弟子たちには「不信仰なものたち」と嘆かれた。 罪、不義、偽善への義憤が真理を愛する者にはある。 しかし、人の「正当な怒り」と思っているものの大半は、 プライドを傷つけられたことや、思い通りに行かず、 腹を立てている種類の怒りではないだろうか。 |
|
B怒りを捨て、和解を マタイ5章23〜25節、神に和解を求めてくる者に対し、主は問われる。 相手と和解しているか、 赦せない憎しみを心に抱いたままで神の前に立てれるのかと。 「まず行ってその兄弟と和解し(マタイ5章24節)」とは、 礼拝の場で和解の決断が促され、和解の緊急性も示される。 まだ間にあう。 今、祈って主の愛の力をいただき、思い切って和解に踏み出そう。 |
|
私たちは和解の神により救われ、和解の福音を委ねられている。 主の愛を祈り求め、御霊の助けにより、怒りの感情を自制できる。 和解の福音の使者となろう! |