【No.17】怒りを捨て、和解を
2002.4.28 礼拝メッセージ   マタイ 5:21〜26  園 謙慈牧師
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主イエスは当時の律法解釈と対比させ、
律法の奥深い意味、神の真意を明示される。
第一の反対命題から学ぶ。
@心の中の殺人行為
 主は「殺すな」という戒めを解釈しなおされた。
 単なる殺人行為だけでなく、心の思いこそ問題だと語られる。
 私は殺人をしていないから大丈夫だ、と考える人にとって
 22節のみことばは衝撃であろう。
 怒ること、言葉の暴力、のろいを抱くこと自体がすでに、
 人の命を奪い取ることになると主は言われる。
 法廷では殺人行為しか裁けぬが、神は心の中の殺人をも裁かれる。
 主の弟子なれば、外面を繕うことをせず、心の内面こそ神にきよめられ、
 変えられていくように祈り求めねばならぬ。

A正当な怒り
 主イエスはパリサイ人に対して「偽善者よ」怒られ、
 弟子たちには「不信仰なものたち」と嘆かれた。
 罪、不義、偽善への義憤が真理を愛する者にはある。
 しかし、人の「正当な怒り」と思っているものの大半は、
 プライドを傷つけられたことや、思い通りに行かず、
 腹を立てている種類の怒りではないだろうか。

B怒りを捨て、和解を 
 マタイ5章23〜25節、神に和解を求めてくる者に対し、主は問われる。
 相手と和解しているか、
 赦せない憎しみを心に抱いたままで神の前に立てれるのかと。
 「まず行ってその兄弟と和解し(マタイ5章24節)」とは、
 礼拝の場で和解の決断が促され、和解の緊急性も示される。
 まだ間にあう。
 今、祈って主の愛の力をいただき、思い切って和解に踏み出そう。

私たちは和解の神により救われ、和解の福音を委ねられている。
主の愛を祈り求め、御霊の助けにより、怒りの感情を自制できる。
和解の福音の使者となろう!