@人の報いを求める 善行の動機、目的が 「人に見られ、称賛を得ること」であれば偽善である。 宗教学者らは会堂や街で敬虔な信仰者を演じた (「ラッパを鳴らす」とは自己宣伝のこと)。 行為そのものは立派でも、動機が醜い。そこに神の報いはない。 私たちも善行をなす時、人の感謝や称賛がないと満足しないのでは? 私たちは「あなたの信じる神はすばらしい」と言われるべき。 自分に注目を集めてはならない。 |
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A神の報いを求める 「認められたい」という欲求は誰にでもある。 だが、真の善行は見返りを期待しない。 「いつ、私がそんなことをしましたか。(マタイ25章37節)」 当人は当然すべきことをしているだけと、よいことをしている意識もない。 神の世界は「自由」だ。人の目も自分の目も覆い隠すので、 人目が気にならないばかりか、善行をなす自分にも気がつかない。 神に心を向け、神の報いをこそ求めよう。 |
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B主のみこころ 主のみこころは、私たちの信仰が正され、信仰生活が聖くなっていく ことである。「きよさ」とは、常に神の御前にあるという自覚にある。 直ちにキリストの十字架の元へかけこみ、霊に満たされたいと 切に祈り求めるよう。自分の生活の安定だけを求めては、真の クリスチャンとは言えまい。乏しい中でも他者を思いやれるのが 真の愛の姿である。 |
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心の照準を神に向けよう! |