【No.22】人の報いか神の報いか
2002.6.2 礼拝メッセージ  マタイ 6:1〜4  園 謙慈牧師
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「清い」と自他ともに認める宗教学者らの善行に潜む偽善。
ここから具体的な信仰生活における敬虔さを学び取ろう。
@人の報いを求める
 善行の動機、目的が
 「人に見られ、称賛を得ること」であれば偽善である。
 宗教学者らは会堂や街で敬虔な信仰者を演じた
 (「ラッパを鳴らす」とは自己宣伝のこと)。
 行為そのものは立派でも、動機が醜い。そこに神の報いはない。
 私たちも善行をなす時、人の感謝や称賛がないと満足しないのでは?
 私たちは「あなたの信じる神はすばらしい」と言われるべき。
 自分に注目を集めてはならない。

A神の報いを求める
 「認められたい」という欲求は誰にでもある。
 だが、真の善行は見返りを期待しない。
 「いつ、私がそんなことをしましたか。(マタイ25章37節)」
 当人は当然すべきことをしているだけと、よいことをしている意識もない。
 神の世界は「自由」だ。人の目も自分の目も覆い隠すので、
 人目が気にならないばかりか、善行をなす自分にも気がつかない。
 神に心を向け、神の報いをこそ求めよう。

B主のみこころ
 主のみこころは、私たちの信仰が正され、信仰生活が聖くなっていく
 ことである。「きよさ」とは、常に神の御前にあるという自覚にある。
 直ちにキリストの十字架の元へかけこみ、霊に満たされたいと
 切に祈り求めるよう。自分の生活の安定だけを求めては、真の
 クリスチャンとは言えまい。乏しい中でも他者を思いやれるのが
 真の愛の姿である。

心の照準を神に向けよう!
神に来る者には神ご自身が報いてくださる!