@間違った断食 旧約の時代には、親しい人が死んだときや悲しみの時、罪の悔い改めを 表して神の赦しを乞う時、また、問題が起こり神の導きを求める時、 神に近づく手段として断食をしていた。 だが次第に形式化し、間違った方向へ向かうようになる。 ひげを生やし、やつれた姿を人目に晒し、断食をしていることを一目で 分かるようにすることは偽善であり、断食の苦しみにより神が顧みて 下さると信じるのはご利益主義である。 これらは心の伴わない表面的行為であり、形式・儀式を守るだけの自己 満足であって、信仰を奮い立たせるために「断食」を利用したにすぎない。 禁欲主義的な努力に対して、他者からの称賛を求めることは偽善である。 |
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A正しい断食 正しい断食とは、個々の信仰者の「霊的渇き」によってなされるものである。 人に見せず、隠れてせよ。陰気な顔、見苦しい顔を見せつけるな。 断食は確かに辛く苦しいものだが、本来は神だけに心を向けるもの。 偽善者は人の注意を引こうという、不純な動機からしている。 神に向かうなら、見苦しい顔ではなく、いつもの身なりで晴れやかな顔を すべきであろう。「自分の頭に油を塗り(マタイ6章17節)」とは 喜びの表現である。隠れた喜びの断食がある。 神に向かう隠れた断食は、主に知られ、喜ばれる。 |
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B現代への適用 現代のクリスチャンは断食を軽視している。 「恵みは一方的なものだから、断食などしなくてよい」と。 これにはいくつかの原因が考えられる。 1.恵みに慣れてしまい、神を切実に求めなくなった。 2.精神的抑圧になるから良くないと思う。 3.食すは正常、食さないは異常との栄養学の知識。 4.食べられる事、食欲のある事が当たり前(飽食)。 イエスは「断食せよ」と命じておられないが、 ご自身も弟子たちも断食し、祈って宣教を始めた。 断食は決まり事、義務ではない。自ら進んで主との交わりを 深めたい時、隠れて、喜んで、食を断つのである。 一体、何のために施しや善行、断食をするのか? 「神に会いたい」との思いで礼拝を捧げるように、 本当に神に向かうため、霊的な飢え渇きをもって断食する。 奉仕も同じである。他人に見せるためではない。 目に見えない隠れたことを評価なさる神がおられる。 神に目を向け、他者や自分を「できる、できない」という、 表面的行為だけで判断、評価することから解放されよう。 |
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食べすぎの問題があるなら、それを認め、告白しよう。 「あなたの体を傷つけ、御名を汚しました。お許し下さい。 私は食欲を制御できません。自制心をお与え下さい」と、 食習慣が全く変えられるまで祈り続けよう! |