【No.25】究極の断食とは
2002.6.23 礼拝メッセージ マタイ 6:16〜18  園 謙慈牧師
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現代の断食はダイエットや健康のためのもの。
イエスは具体的にその間違いを指摘し、
信仰の基本について教えられた。
@間違った断食
 旧約の時代には、親しい人が死んだときや悲しみの時、罪の悔い改めを
 表して神の赦しを乞う時、また、問題が起こり神の導きを求める時、
 神に近づく手段として断食をしていた。
 だが次第に形式化し、間違った方向へ向かうようになる。
 ひげを生やし、やつれた姿を人目に晒し、断食をしていることを一目で
 分かるようにすることは偽善であり、断食の苦しみにより神が顧みて
 下さると信じるのはご利益主義である。
 これらは心の伴わない表面的行為であり、形式・儀式を守るだけの自己
 満足であって、信仰を奮い立たせるために「断食」を利用したにすぎない。
 禁欲主義的な努力に対して、他者からの称賛を求めることは偽善である。

A正しい断食
 正しい断食とは、個々の信仰者の「霊的渇き」によってなされるものである。
 人に見せず、隠れてせよ。陰気な顔、見苦しい顔を見せつけるな。
 断食は確かに辛く苦しいものだが、本来は神だけに心を向けるもの。
 偽善者は人の注意を引こうという、不純な動機からしている。
 神に向かうなら、見苦しい顔ではなく、いつもの身なりで晴れやかな顔を
 すべきであろう。「自分の頭に油を塗り(マタイ6章17節)」とは
 喜びの表現である。隠れた喜びの断食がある。
 神に向かう隠れた断食は、主に知られ、喜ばれる。
 
B現代への適用
 
現代のクリスチャンは断食を軽視している。
 「恵みは一方的なものだから、断食などしなくてよい」と。
 これにはいくつかの原因が考えられる。
  1.恵みに慣れてしまい、神を切実に求めなくなった。 
  2.精神的抑圧になるから良くないと思う。
  3.食すは正常、食さないは異常との栄養学の知識。
  4.食べられる事、食欲のある事が当たり前(飽食)。
 イエスは「断食せよ」と命じておられないが、
 ご自身も弟子たちも断食し、祈って宣教を始めた。
 断食は決まり事、義務ではない。自ら進んで主との交わりを
 深めたい時、隠れて、喜んで、食を断つのである。
 一体、何のために施しや善行、断食をするのか?
 「神に会いたい」との思いで礼拝を捧げるように、
 本当に神に向かうため、霊的な飢え渇きをもって断食する。
 奉仕も同じである。他人に見せるためではない。
 目に見えない隠れたことを評価なさる神がおられる。
 神に目を向け、他者や自分を「できる、できない」という、
 表面的行為だけで判断、評価することから解放されよう。

食べすぎの問題があるなら、それを認め、告白しよう。
「あなたの体を傷つけ、御名を汚しました。お許し下さい。
私は食欲を制御できません。自制心をお与え下さい」と、
食習慣が全く変えられるまで祈り続けよう!