@心配の種が生じる原因 1.神に対する間違った考え方 神に愛されていない、 罪が許されていないと、自分の感情で思い込む。 「なにものもイエスの愛から我らを引き離すことはできない」 (ロマ書8:39) 「東が西から遠いように、我らの罪を我らから遠ざけられる」 (詩篇103:12) みことばは教える。私たちは神に愛され赦されている、と。 2.想像力をたくましくし、悪い方向に考える 心配の40%は決して起こらないこと、 30%は心配しても自分ではどうしようもないこと、 12%は健康についての不必要な心配。 実に心配の82%は、しても始まらないもの。 3.優先順位を間違える 神よりもこの世が優先されるなら、決して不安はなくならない。 聖書を読み、みことばを頂き、祈ることが優先されるべきである。 ルカによる福音書10章38〜40節、 姉マルタは肉体の必要を第一とし、 妹マリヤは霊的必要を第一とした。 なすべきことが山ほどある時、思い煩って心が集中できない時、 その時ほど神を度外視してはならない。 「なくてならぬものは多くない、いや一つだけである。」 (ルカ10:42) その一つとは、神である。 |
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A心配の種を摘み取る勧告 思い煩わなくてもよい理由を聖書は教える。 1. からだ(命、霊、全存在の価値)は着物にまさる(マタイ6:25) 2.人間は、仕事をしないでも豊かに養われている空の鳥より はるかにすぐれたもの(マタイ6:26) 3.命短きはかない野の花でさえ、美しく装われている。 人間にそれ以上によくして下さらないはずがない(マタイ6:30) 私たちの目は自分たちの生活だけに目が向けられ、視野が狭い。 自然界を見よ。神の恵みで満ち溢れている。 神は私たちに必要を備え、養い、配慮下さるお方である。 私たちが心配したところで寿命を延ばせはしないし、 過度の心配(ストレス)は、かえって健康を阻害する。 「まず、神の国と神の義とを求めよ、 そうすれば全て添えて与えられる」(マタイ6:33) 神を第一として求めていくなら、心配の種は消える。 心配は無用。 私たちを神の子とし、愛しておられる神は、必要をすべてご存じだ。 神を本気で信じていない者は、世のものを求め、心配する。 もっと神を信頼しよう。私たちは、神によって生かされている。 自分で頑張らず、この世のものでなく、神だけに頼ろう。 悔い改めて再出発しよう。 |
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B 具体的な生き方 1.正しい労働観 生活の糧はどこから来るのか。糧を得るために働いているのか? 家事労働・育児・ボランティア・教会の奉仕等、お金をもらわないで、 神のために喜んで働くことこそ、本来の労働。 神の子たる私たちは、生活の糧を得るためだけに働いてはならない。 天職(神が私をそこに遣わして下さるからそこへ行く)の考えが 健全な労働観である。すべての物事の中に神を認め、 神の栄光が現されるために働くことこそ、最高の労働である。 2.正しい礼拝 礼拝とは頂くことではなく、私たちから神へのサービス(奉仕)。 日毎の生活の中に満ち溢れる神の支配と、それに対する感謝を、 私たちの賛美や祈りで表そう。 3.正しい生活のあり方 「一日の苦労はその日一日だけで十分である」(マタイ6:34) 計画を立てず行き当たりばったり、適当でいい、のではない。 神のことばを聴いて計画をたてた後はお任せ。思い煩わない。 全ての源である神をそっちのけに、どうして必要が与えられようか。 |
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すべての必要を与え満たす神に感謝しよう! 全存在を神に捧げ、 「神の国と神の義」を第一とする信仰の基本に立ち返ろう! |