【No.27】心配の種と必要の神
2002.7.7 礼拝メッセージ マタイ 6:25〜34  園 謙慈牧師
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いつの時代でも人間には心配事がつきまとう。
限られた家計の中での衣食住や教育費等のやりくり、
経済不況、リストラ、金融不安、人間関係、老親の介護、犯罪、
老後の不安、自然災害、地球資源の減少、世界的食料危機等、
心配の種は尽きない。だが、思い煩うなとイエスは言われる。

@心配の種が生じる原因

 1.神に対する間違った考え方
   神に愛されていない、
   罪が許されていないと、自分の感情で思い込む。
   「なにものもイエスの愛から我らを引き離すことはできない」
   (ロマ書8:39)
   「東が西から遠いように、我らの罪を我らから遠ざけられる」
   (詩篇103:12)
   みことばは教える。私たちは神に愛され赦されている、と。

 2.想像力をたくましくし、悪い方向に考える
   心配の40%は決して起こらないこと、
   30%は心配しても自分ではどうしようもないこと、
   12%は健康についての不必要な心配。
   実に心配の82%は、しても始まらないもの。

 3.優先順位を間違える
   神よりもこの世が優先されるなら、決して不安はなくならない。
   聖書を読み、みことばを頂き、祈ることが優先されるべきである。
   ルカによる福音書10章38〜40節、
   姉マルタは肉体の必要を第一とし、
   妹マリヤは霊的必要を第一とした。
   なすべきことが山ほどある時、思い煩って心が集中できない時、
   その時ほど神を度外視してはならない。
   「なくてならぬものは多くない、いや一つだけである。」
   (ルカ10:42)   その一つとは、神である。

A心配の種を摘み取る勧告

 思い煩わなくてもよい理由を聖書は教える。

 1. からだ(命、霊、全存在の価値)は着物にまさる(マタイ6:25)
 2.人間は、仕事をしないでも豊かに養われている空の鳥より
   はるかにすぐれたもの(マタイ6:26)
 3.命短きはかない野の花でさえ、美しく装われている。
   人間にそれ以上によくして下さらないはずがない(マタイ6:30)

 私たちの目は自分たちの生活だけに目が向けられ、視野が狭い。
 自然界を見よ。神の恵みで満ち溢れている。
 神は私たちに必要を備え、養い、配慮下さるお方である。
 私たちが心配したところで寿命を延ばせはしないし、
 過度の心配(ストレス)は、かえって健康を阻害する。
 「まず、神の国と神の義とを求めよ、
 そうすれば全て添えて与えられる」(マタイ6:33)

 神を第一として求めていくなら、心配の種は消える。
 心配は無用。
 私たちを神の子とし、愛しておられる神は、必要をすべてご存じだ。
 神を本気で信じていない者は、世のものを求め、心配する。
 もっと神を信頼しよう。私たちは、神によって生かされている。
 自分で頑張らず、この世のものでなく、神だけに頼ろう。
 悔い改めて再出発しよう。


B 具体的な生き方

 1.正しい労働観
 生活の糧はどこから来るのか。糧を得るために働いているのか?
 家事労働・育児・ボランティア・教会の奉仕等、お金をもらわないで、
 神のために喜んで働くことこそ、本来の労働。
 神の子たる私たちは、生活の糧を得るためだけに働いてはならない。
 天職(神が私をそこに遣わして下さるからそこへ行く)の考えが
 健全な労働観である。すべての物事の中に神を認め、
 神の栄光が現されるために働くことこそ、最高の労働である。

 2.正しい礼拝
 礼拝とは頂くことではなく、私たちから神へのサービス(奉仕)。
 日毎の生活の中に満ち溢れる神の支配と、それに対する感謝を、
 私たちの賛美や祈りで表そう。
 
3.正しい生活のあり方
 「一日の苦労はその日一日だけで十分である」(マタイ6:34)
 計画を立てず行き当たりばったり、適当でいい、のではない。
 神のことばを聴いて計画をたてた後はお任せ。思い煩わない。
 全ての源である神をそっちのけに、どうして必要が与えられようか。


すべての必要を与え満たす神に感謝しよう!
全存在を神に捧げ、
「神の国と神の義」を第一とする信仰の基本に立ち返ろう!