【No.28】まず自分の欠点に気づこう
2002.7.14 礼拝メッセージ  マタイ 7:1〜6  園 謙慈牧師
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現代のストレスのほとんどは人間関係から生じる。
育った環境や考え方の違いがこじれる原因であり、
教会の交わりといえどもまた同じ。
ほんの些細なことが愛の交わりを壊し、その修復は難しい。
神の元にある正しい人間関係を作りなさいと
具体的実践を示すイエス。
聖書の原則を知り、神の愛を頂いて解決を得よう。

@他者を裁かない

 裁くとは分ける・区別する・選び出す・批判・批評、等の意。
 他人の欠点を見つけ出し、悪いと決めつけて裁く。
 裁いたことが相手にも分かるような言葉や態度が出てしまう。
 裁いているかどうか、3つのチェックがある。
 1.「自分は正しい、相手が間違っている」という
   相手への優越感がある。
 2.相手への批評・批判をすることによって、心に満足を覚える。
 3.すぐ相手が悪いと思い込み、決めつける。

 相手の立場を理解しようとする思いやりを持っているか。


Aなぜ裁いてはいけないのか
 
 1. 自分が裁かれないため

 正しい裁きをなさるのは神だけである。
 私たちは救われ、罪許されたものに過ぎない。
 神を度外視した、自分勝手な生き方をしてはいけない。
 「わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前にあらわれ、
 善であれ悪であれ、自分の行ったことに応じて、
 それぞれ報いを受けねばならないからである」
                (第二コリント5:10)
 救いはゴールではなく、スタート。
 ゴールである天国を目指し、日々励もう。
 私たちの人生の基準は「神のみことば」である。
 聖書の教えから外れるなら、滅びに向かう。
 
 2. 裁く資格はない

 私たちは互いに相手のあら捜しをする。
 他人の中にある小さな欠点はすぐ気付くのに、
 自分の中にある大きな欠点は見過ごす。
 自分の欠点が見えない。見えても、軽く見積もる。
 なぜ自分の欠けに気づかないか?
 一人一人が「その人なりの基準」を持ち、二つの物差しを持つから。
 みことばの光に照らされた時、
 初めて自分の中の梁(罪の大きさ、重さ)に気づく。
 私たちの罪の重さは、主イエスを十字架につける。
 私たちは神の大きな憐れみを受け、罪許されている。
 神抜きの人間的交わりから解放され、
 神から徹底的に許されているように、私たちも徹底的に他者を許そう。

 3. 愛による勧告

 裁くことを恐れ、相手の悪いところを見ながら無関心なのもいけない。
 だが、まず自分の中の欠点を直さないことには、他者に忠告はできない。
 自分の罪を取り除けてこそ相手の状態がはっきり分かり、
 相手のちりを取り除けることができる。
 「あなたの目の中のちりを取らせてください(マタイ7:4)」とは、
 へりくだって、許可を願う姿勢である。
 相手を尊重しつつ、相手の罪を憂え、
 おののきをもって指摘し、共に神の許しを乞い願う。
 相手の欠点を指摘するだけで、後は知らんぷり。
 それは「愛のない偽善」にすぎない。
 まず神に祈り、言うべき時と言葉との知恵をいただいこう。

B 自分の梁を取り除くには?
 
神とみことばにへりくだって従っていくことにより、
 自分の梁が取り除かれる。
 「キリスト・イエスは
 罪人を救うためにこの世に来て下さった…
 私は罪人のかしらである(第一テモテ1:15)」。
 パウロの目には大きな梁(罪)があったが、
 それを認め、悔い改め、へりくだって許しを求めた時、
 主イエスによって罪は取り除かれた。
 梁を取り除かれた私たちを通し、救いに導かれる人が起こされるよう、
 霊の目を与えられて識別できるようにされるよう、
 祈り求めていこう。

救いの原点に返り、主にある愛の交わりに入ろう。
相手の立場を思いやり、本当の自分を知り、謙遜な心を持とう。