@他者を裁かない 裁くとは分ける・区別する・選び出す・批判・批評、等の意。 他人の欠点を見つけ出し、悪いと決めつけて裁く。 裁いたことが相手にも分かるような言葉や態度が出てしまう。 裁いているかどうか、3つのチェックがある。 1.「自分は正しい、相手が間違っている」という 相手への優越感がある。 2.相手への批評・批判をすることによって、心に満足を覚える。 3.すぐ相手が悪いと思い込み、決めつける。 相手の立場を理解しようとする思いやりを持っているか。 |
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Aなぜ裁いてはいけないのか 1. 自分が裁かれないため 正しい裁きをなさるのは神だけである。 私たちは救われ、罪許されたものに過ぎない。 神を度外視した、自分勝手な生き方をしてはいけない。 「わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前にあらわれ、 善であれ悪であれ、自分の行ったことに応じて、 それぞれ報いを受けねばならないからである」 (第二コリント5:10) 救いはゴールではなく、スタート。 ゴールである天国を目指し、日々励もう。 私たちの人生の基準は「神のみことば」である。 聖書の教えから外れるなら、滅びに向かう。 2. 裁く資格はない 私たちは互いに相手のあら捜しをする。 他人の中にある小さな欠点はすぐ気付くのに、 自分の中にある大きな欠点は見過ごす。 自分の欠点が見えない。見えても、軽く見積もる。 なぜ自分の欠けに気づかないか? 一人一人が「その人なりの基準」を持ち、二つの物差しを持つから。 みことばの光に照らされた時、 初めて自分の中の梁(罪の大きさ、重さ)に気づく。 私たちの罪の重さは、主イエスを十字架につける。 私たちは神の大きな憐れみを受け、罪許されている。 神抜きの人間的交わりから解放され、 神から徹底的に許されているように、私たちも徹底的に他者を許そう。 3. 愛による勧告 裁くことを恐れ、相手の悪いところを見ながら無関心なのもいけない。 だが、まず自分の中の欠点を直さないことには、他者に忠告はできない。 自分の罪を取り除けてこそ相手の状態がはっきり分かり、 相手のちりを取り除けることができる。 「あなたの目の中のちりを取らせてください(マタイ7:4)」とは、 へりくだって、許可を願う姿勢である。 相手を尊重しつつ、相手の罪を憂え、 おののきをもって指摘し、共に神の許しを乞い願う。 相手の欠点を指摘するだけで、後は知らんぷり。 それは「愛のない偽善」にすぎない。 まず神に祈り、言うべき時と言葉との知恵をいただいこう。 |
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B 自分の梁を取り除くには? 神とみことばにへりくだって従っていくことにより、 自分の梁が取り除かれる。 「キリスト・イエスは 罪人を救うためにこの世に来て下さった… 私は罪人のかしらである(第一テモテ1:15)」。 パウロの目には大きな梁(罪)があったが、 それを認め、悔い改め、へりくだって許しを求めた時、 主イエスによって罪は取り除かれた。 梁を取り除かれた私たちを通し、救いに導かれる人が起こされるよう、 霊の目を与えられて識別できるようにされるよう、 祈り求めていこう。 |
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救いの原点に返り、主にある愛の交わりに入ろう。 相手の立場を思いやり、本当の自分を知り、謙遜な心を持とう。 |