【No.32】人を救い癒すことば
2002.8.11 礼拝メッセージ マタイ 8:1〜17  園 謙慈牧師
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体の病、心の病、様々なストレスで傷つき果てた現代社会は「癒し」ブーム。
しかし、イエスの奇跡は「癒し」自体が目的でなく、癒しの奇跡を通して
「イエスがメシア(救い主)であること」を証している。
主の救いと癒しのみわざを学び、改めてその喜びに与ろう。


@ 「三者三様の病の状況」と「主の癒し」
1.らい病人
当時の「らい病」は宗教上の問題とされ隔離されていた。孤独で貧しかったであろう。
この人は人前に出ることが禁じられていたのに、主のみ元に来た。
彼の言葉の直訳「主よ、あなたがそうしたいとお思いでしたら、治して頂けます。
全てはあなたのみこころ次第です」=すべて神のみ心に任せている、という信仰告白。

2.カペナウムの外国人
病を負った僕のためにイエスを招きたいが、外国人ゆえ神の恵みに預かる資格はない。
彼は、軍人としての経験から「言葉の権威」をよく知っていた。上官の「言葉」は
絶対的権威を持つ。神であるイエスの言葉もまた絶対的権威を持つと、それゆえに
「ただお言葉をください」と言った。

3.ペテロのしゅうとめ
熱病で伏せっていた彼女はイエスが触れると直ちに癒された。そればかりか、
体力までも取り戻し、もてなす喜び(他者のために尽くす喜び)も回復して頂いた。


 
A「主の憐れみ」と「みこころによる全人格的(体も魂も)救いと癒し」。
1
7節のイザヤ(53:4)によるメシア預言。「病を負う」とは「背中に負って、持ち去ってしまう」。
世界中に病気があふれ、体だけでなく、心の病も増えている。神を神と思わない、
人を人と思わない、自己中心の罪の病。「行け、あなたの信じたとおりになるように」。
「とおりになる」とは救いの出来事が起こる、という意味。
イエスは、ほとんど「み言葉によって」奇跡的な病の癒しを行っている。

B イエスの癒しを受ける人間の「信仰の過程」
1. 主イエスとの出会い
らい病人と百卒長は、「イエスのみ元に来た」=「自ら一歩前へ進み出た」。
一方、百卒長のしもべやペテロのしゅうとめは、自分からは何もできなかった。
無力な彼らのために、周りの人々が祈り、その積まれた祈りによって癒され、救われた。

2.主イエスに対する謙遜な態度
「主よ、みこころでしたら・・・」。主のなさることが最善と信じ任せた。しかし、ほとんどの人は、
自分の祈ることが最善と信じ、自分の願いが退けられると、がっかりすると同時につまずく。
自分にとって不都合なことを治してもらうだけでは健全な信仰とは言い難い。
「癒しの信仰」とは「全部癒されること」なのか?なぜ、癒されない人もいるのか?
「病気=悪」では、必ずしもない。 病まなければ見えてこない真実や恵みがある。
病気や試練というつらい所を通らされてこそ、主イエスに近づけることがある。
神に造られた私たちは、神に文句を言う資格などない。百卒長のように謙遜になろう。

3. 御言葉を信じ、受け入れる信仰
イエスを信じるとは、イエスの言葉を信じることである。「聖書は私(イエス)について書いている」。
聖書の言葉には権威があり、人を癒し、救う。みことばのごとくなると信じる時、その通りになる。
みことばを手離せば、即座に信仰がおかしくなる。
色々な信仰体験の時に与えられるみことばを心に蓄えよう。

C救いと癒しの「目的」
15節「イエスをもてなした(サービス、奉仕をした)」。
私たちは何のために癒される(救われる)のだろう。
自分が幸せになりたいために祈り求めるのは的外れである。イエスに癒され救われた者は、
イエスに仕えていきたい、従っていきたい、との願いが起こされる。救われてクリスチャンになったものの、
「まだ自分のしたいことがある」と言う人は、まだ本当の救いに預かっていない。
救いの恵みは、広がるものである。その人だけでとどまるなら、不十分な癒し(救い)であることを知ろう。
真実に救われた者は、苦しむ他者のために祈り、とりなすものとされるのである。

主のために、他者のために自分の存在が用いられることこそ、大きな喜び!