【No.33】人生の嵐を静める主イエス
2002.8.18 礼拝メッセージ マタイ 8:23〜27  園 謙慈牧師

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人生はしばしば航海に譬えられる。
この航海の舵取りは誰であろうか。「私の人生、私が舵を取る」と言うものもあろう。
しかし、一歩先も見通すことのできない人間には、予測できない嵐多きこの船旅において、
到底安全かつ着実に舵を取れるものではない。私たちには道先案内人が必要なのである。

13節には「イエスが舟に乗り込まれると、弟子たちも従った」とある。
船旅においてイエスと共なることが肝要である。そして船長たるイエスは確実に
行き先をご存知なのである。しかし、3〜4tといわれる小舟にのり、艫の方で眠って
しまわれたイエス。突然の暴風が起こり小舟は木の葉のように波に翻弄された。

暴風の語源とは激しく揺れ動く、いわゆる地震、それも終末を意味する。
まさに現在の世情である。この世の中におけるクリスチャンの使命はなんであろうか。
滅びを敏感に察知する地震計の役割を果たすために生かされている。その使命、役割を
果たさずして、基盤の安定していると思われる現状に甘んじてよいであろうか。
自分と身近な者のことだけを考えるときであろうか。クリスチャンが滅びを察知せず、
告知せず、自分の基盤の確立された中にどっしり繋がっていることはナンセンスである。
今こそ、「目には見えずとも創造主なる神に立ち返るべく、イエスを信じ、
生ける神のみことばである聖書に耳を傾けるときである」この使命に生かされよう。

さて、漁師であった弟子たちでさえ死を感じるほど恐れる中、イエスはまだ眠っておられる。
「主よ、お助けください」救ってくださいと弟子たちはイエスに詰め寄る。
信仰がないゆえに、彼らは現状にうろたえ、主イエスを起こしてしまった。
これは主が弟子を訓練される場であったのだ。主イエスが私たちに望んでおられることは、
みことば信仰にたつことである。足元が崩れどうしようもなくなった時、私たちがみことばを
信頼して生きることを望んでおられる。しかし弟子たち(私たち)はいとも簡単に、
みことばなんて役立つものかと手離して、うろたえてしまうのである。

コンテキストにおいて、もし弟子たちが信仰の試練に勝利していたら、
ひとことで嵐を静めるという奇跡は起こらなかったであろう。
半面、信仰によって耐えることを学ぶことができた彼らであったが、
実際は手っ取り早い奇跡を望んだ。自分の願望どおり、思い通りになることによって
主を信じても、真実にイエスを信じるに至らない。かえって、自分にとって
都合のいいように奇跡をとらえる、ご利益信仰の始まりともなりかねない。

私たちは、嵐の中でも平安の中に眠っておられた主イエスに目を留めよう。
「あなたがたを耐えられないような試練に会わせることはないばかりか、
試練と同時にそれに耐えられるように、逃れる道も備えてくださる。」(1コリ10:13)
「わたしの平安をあなたがたに与える。
私が与えるのは世が与えるようなものとは異なる。」(ヨハネ14:27)
イエスを信じるものには、約束の平安が与えられる。
状況がどうであろうとも、嵐の中で眠っておられるイエスのお心と同じように、
上から与えられる聖霊による平安によって、たじろぐことなく、おじけることもない。
なにより主イエスの平安により、舟は前へ進められていくのである。

「信仰の薄い者たちよ」といわれたイエスは、それでも弱い私たちの祈り、
嘆き、悲しみ、訴えに耳を傾けてくださる。
「なぜお見捨てになるのですか」との十字架上でのイエスの言葉は、
私たちの不信仰(弱さ)を覚え、深いところで支えてくださり、救おうとしておられる。

どんな時にも主イエスに信頼を寄せることが、神が求めておられる信仰の姿である。
今、弱いなりに主イエスに叫ぼう。
最善に人生航路の舵を取ってくださるイエスのみそばで、深く信頼しよう。