【No.35】 義人ではなく罪人を招く神
2002.9.1 礼拝メッセージ マタイ 9:9〜13  園 謙慈牧師

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今日の聖書個所は、マタイの召命(マタイの信仰の証)ともいえる。
また、イエスがこの世に来られた目的が明らかにされた(13節)。
イエスに会う前のマタイ、イエスに会った後のマタイから学ぼう。

@ イエスに会う前のマタイ

マタイは取税人(敵国ローマのために税を取り立てる仕事)だったので、
同胞ユダヤ人の反感をかったのは、取税人はローマの権力をかさに着て、
不当な取立てをし、自分のふところに不正な金を取り込んでいたため。
仕事柄、異邦人とも交わるので、律法を守らない罪人と軽蔑されていた。
マタイは、「もう一度人生をやり直したい」と思っていたのではないだろうか。


 
A イエスに会った後のマタイ

(9節)イエスは愛と赦しと憐れみのまなざしでマタイを見つめられた。
1. 人生のやり直しへの招き
「すると彼は立ち上がって、イエスに従った」「彼は一切を捨てて従った(ルカ)」
マタイは経済的安定を捨てて従った。それは後戻りできない決断でもある。
人生に起こる様々な出来事の中で、決断は大切。
しかし、イエスに招かれたマタイは、イエスに仕えるために全てを捨て、
残りの人生を神と人のために尽くそうと決意し、立ち上がったのである。

2. 喜びの招き
「レビは自分の家でイエスのために盛大な宴会を催した」と
ルカによる福音書には書いてあるように、これはマタイの家で催された宴会。
しかしマタイは、自分の家ではなくイエスの家、宴会を開いたのもイエスである
かのように(イエスを主役として)書いた。これからの人生の主役はイエスであって、
彼こそ喜びの宴会に招いてくださった主催者である、とマタイはあかししている。
その後、マタイ(「主の賜物」という意)は12弟子の一人となり、
執筆の賜物を生かして、「マタイによる福音書」を書いた。


B「裁き」と「憐れみ」

イエスはマタイら(罪人たち)に対して、憐れみ(愛)のまなざしを注いだ。
「律法の実践こそ大事。律法を守らない者は罪人」だと裁いたパリサイ人ら。
真面目なクリスチャン、奉仕に熱心な者ほど他者を裁きやすいもの。
頑張って出来る人、能力のある人、健康な人は、
まるで自分の力で出来たかのように思い、
できない人の弱さが分からず、「なぜ出来ないのか?」という裁きの思いを抱く。
それは、主のみこころから外れている。
弱い人のためにこそ心を砕いておられるイエスは、弱い人の立場に立たれる。
聖書を隅々まで読んでいたパリサイ人には、
「もっと聖書をよく読んだ方がいい」との皮肉で、
表面的解釈ではなく、主のみこころ、神の憐れみを学べと教えられるイエス。
罪人たちを招き、癒す医者として来られたイエスは、
神の憐れみを楯に、今も取り成しなさる。
イエスの十字架の犠牲こそ、神の憐れみの印。


Cクリスチャンの信仰が成長しない理由

私たちクリスチャンは何のために信仰生活を送っているのだろう。
「信仰の原点」があやふやだと、信仰生活もあやふやになる。
信仰生活の命と力はどこにあるのか?
それはイエス・キリストのみことばにある。
自分の感情を基点とするなら、簡単に信仰は萎えてしまう。
主から招かれ、救われたことを奇跡!と捉えたマタイ。
イエスに招かれ、罪から救われた私たち。
この喜びを原点として、新たに信仰生活を始めよう!


神は私たちの命を尊び、罪に対する永遠の滅びから救い、
永遠の命を与えようと、十字架の犠牲をくださった。
このイエスを信じる時、人生はいつでもやり直せる、変えられていく。
主イエスにすがって、生きよう。