今日の聖書個所は、マタイの召命(マタイの信仰の証)ともいえる。
また、イエスがこの世に来られた目的が明らかにされた(13節)。
イエスに会う前のマタイ、イエスに会った後のマタイから学ぼう。
@ イエスに会う前のマタイ マタイは取税人(敵国ローマのために税を取り立てる仕事)だったので、 同胞ユダヤ人の反感をかったのは、取税人はローマの権力をかさに着て、 不当な取立てをし、自分のふところに不正な金を取り込んでいたため。 仕事柄、異邦人とも交わるので、律法を守らない罪人と軽蔑されていた。 マタイは、「もう一度人生をやり直したい」と思っていたのではないだろうか。 |
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A イエスに会った後のマタイ
(9節)イエスは愛と赦しと憐れみのまなざしでマタイを見つめられた。 1. 人生のやり直しへの招き 「すると彼は立ち上がって、イエスに従った」「彼は一切を捨てて従った(ルカ)」 マタイは経済的安定を捨てて従った。それは後戻りできない決断でもある。 人生に起こる様々な出来事の中で、決断は大切。 しかし、イエスに招かれたマタイは、イエスに仕えるために全てを捨て、 残りの人生を神と人のために尽くそうと決意し、立ち上がったのである。 2. 喜びの招き 「レビは自分の家でイエスのために盛大な宴会を催した」と ルカによる福音書には書いてあるように、これはマタイの家で催された宴会。 しかしマタイは、自分の家ではなくイエスの家、宴会を開いたのもイエスである かのように(イエスを主役として)書いた。これからの人生の主役はイエスであって、 彼こそ喜びの宴会に招いてくださった主催者である、とマタイはあかししている。 その後、マタイ(「主の賜物」という意)は12弟子の一人となり、 執筆の賜物を生かして、「マタイによる福音書」を書いた。 |
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B「裁き」と「憐れみ」 イエスはマタイら(罪人たち)に対して、憐れみ(愛)のまなざしを注いだ。 「律法の実践こそ大事。律法を守らない者は罪人」だと裁いたパリサイ人ら。 真面目なクリスチャン、奉仕に熱心な者ほど他者を裁きやすいもの。 頑張って出来る人、能力のある人、健康な人は、 まるで自分の力で出来たかのように思い、 できない人の弱さが分からず、「なぜ出来ないのか?」という裁きの思いを抱く。 それは、主のみこころから外れている。 弱い人のためにこそ心を砕いておられるイエスは、弱い人の立場に立たれる。 聖書を隅々まで読んでいたパリサイ人には、 「もっと聖書をよく読んだ方がいい」との皮肉で、 表面的解釈ではなく、主のみこころ、神の憐れみを学べと教えられるイエス。 罪人たちを招き、癒す医者として来られたイエスは、 神の憐れみを楯に、今も取り成しなさる。 イエスの十字架の犠牲こそ、神の憐れみの印。 |
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Cクリスチャンの信仰が成長しない理由 私たちクリスチャンは何のために信仰生活を送っているのだろう。 「信仰の原点」があやふやだと、信仰生活もあやふやになる。 信仰生活の命と力はどこにあるのか? それはイエス・キリストのみことばにある。 自分の感情を基点とするなら、簡単に信仰は萎えてしまう。 主から招かれ、救われたことを奇跡!と捉えたマタイ。 イエスに招かれ、罪から救われた私たち。 この喜びを原点として、新たに信仰生活を始めよう! |
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神は私たちの命を尊び、罪に対する永遠の滅びから救い、 永遠の命を与えようと、十字架の犠牲をくださった。 このイエスを信じる時、人生はいつでもやり直せる、変えられていく。 主イエスにすがって、生きよう。 |