律法学者、パリサイ人、バプテスマのヨハネの弟子たちは、イエスに厳しく問い、論争を起こす。 「従来の律法に根ざした信仰」と「新しい律法に生きるイエスの信仰」との違いを理解し、 新しい福音の喜びに生きよう。 ●中風の人の癒し(罪の赦し)では、律法学者に、罪を赦す権威を、 ●取税人マタイへの招き(罪赦され、弟子となる)では、人を裁くパリサイ人に、神の憐れみを、 ●断食をせず、宴会を開くでは、バプテスマのヨハネの弟子に、本来の断食の意味を示された。 | |
@「断食しないことへの非難」と「断食しない理由」 断食の日に、こともあろうに罪人らと宴会を開くとは、と非難する バプテスマのヨハネの弟子たち。 旧約では、年一度の断食日が定められていた(民数29)が、 パリサイ人らは、その回数を勝手に増やしていた(週2度)。 「神に向かって罪を悲しむ」というのが本来の断食の意味だが、 彼らは、「自分たちはこんなに熱心で敬虔だ」という 自負・おごりを表すために断食した。 イエスは、宴会を婚礼の喜びにたとえる。花婿がいる間に断食ができようか? 花婿が奪い去られる日にこそ断食するのである。 新しい福音信仰に生きるなら、古い律法主義ではいられない。 古いもの(罪)を持っているなら、新しいもの(福音)に与ることはありえない。 新しいぶどう酒は古い皮袋には入れることはできない。 新しく変えられなければ、新しいものを頂くことはできないのである。 |
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A真の喜び、偽りの喜び 律法という文字(決り事)に縛られた律法主義。 自分中心で、自分の何かにこだわる。 罪が分らず、悔い改めができず、本当の喜びが分らない。 クリスチャンも真の喜びを持っていないなら、本当の意味では救われていない。 イエスを信じながら、良いことがあれば喜び、悪いことが起れば沈みこむ。 福音とは、人を根本から変え得るもの。主イエスと共に生きること。 古い着物とは生まれつきの自我である。新しい式服(イエス)を心に着よう。 イエスを主役とし、喜ぼう。 「誰でもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。 古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである(第二コリント5−17)」 「あなたがたは、主イエス・キリストを着なさい(ロマ13−14)」 この世の喜びは瞬時的。何も生み出さず、自己満足の偽りの喜びに過ぎない。 本物の喜びは、イエスを通して来る。 この喜びは私の内側を満たし、溢れ出て、私を変え、他者にも影響を与え得る。 イエスこそ、喜びそのものなのである。作り笑いは白々しく不自然ではないか。 真の喜びを得て、本当の笑みをたたえよう。 |
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B喜びに溢れて生きる 礼拝はイエスに招かれた宴会の席。 イエスに会えるという、心からの喜びが溢れ出て集うものである。 礼拝出席の動機は、義務か、人に会うためか、決まり事だから守るのか。 神は、義務や強制で礼拝することを求めていない。 他人を意識したものも意味がない。イエスに招かれていることを喜び、 イエスに会うことを喜びとして来る者を、主は喜ばれる。 今までの律法主義(自分たちで作った口伝律法)は、 自分の義を獲得するための宗教行為。 イエスの福音は命に溢れ、イエスとの生きた交わりの喜びに溢れている。 救われたにもかかわらず、関心事がこの世の喜びなら、 福音の喜びはその人の中にない。 イエスの中にある新しい命と喜びを深く味わい、他者に伝えよう。 |
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喜びに溢れ、輝こう。人を動かすのは言葉ではない。 イエスと共に生きる喜びで溢れる、その生き様による。 真の喜びを、もっと心底味わおう。 |