【No.36】 新しいぶどう酒は新しい皮袋に
2002.9.8 礼拝メッセージ マタイ 9:14〜17  園 謙慈牧師

メッセージメニューへ
  TOPへ

律法学者、パリサイ人、バプテスマのヨハネの弟子たちは、イエスに厳しく問い、論争を起こす。
「従来の律法に根ざした信仰」と「新しい律法に生きるイエスの信仰」との違いを理解し、
新しい福音の喜びに生きよう。
●中風の人の癒し(罪の赦し)では、律法学者に、罪を赦す権威を、
●取税人マタイへの招き(罪赦され、弟子となる)では、人を裁くパリサイ人に、神の憐れみを、
●断食をせず、宴会を開くでは、バプテスマのヨハネの弟子に、本来の断食の意味を示された。

@「断食しないことへの非難」と「断食しない理由」

 断食の日に、こともあろうに罪人らと宴会を開くとは、と非難する
 バプテスマのヨハネの弟子たち。
 旧約では、年一度の断食日が定められていた(民数29)が、
 パリサイ人らは、その回数を勝手に増やしていた(週2度)。
 「神に向かって罪を悲しむ」というのが本来の断食の意味だが、
 彼らは、「自分たちはこんなに熱心で敬虔だ」という
 自負・おごりを表すために断食した。
 イエスは、宴会を婚礼の喜びにたとえる。花婿がいる間に断食ができようか?
 花婿が奪い去られる日にこそ断食するのである。
 新しい福音信仰に生きるなら、古い律法主義ではいられない。
 古いもの(罪)を持っているなら、新しいもの(福音)に与ることはありえない。
 新しいぶどう酒は古い皮袋には入れることはできない。
 新しく変えられなければ、新しいものを頂くことはできないのである。
 
A真の喜び、偽りの喜び

 律法という文字(決り事)に縛られた律法主義。
 自分中心で、自分の何かにこだわる。
 罪が分らず、悔い改めができず、本当の喜びが分らない。
 クリスチャンも真の喜びを持っていないなら、本当の意味では救われていない。
 イエスを信じながら、良いことがあれば喜び、悪いことが起れば沈みこむ。
 福音とは、人を根本から変え得るもの。主イエスと共に生きること。
 古い着物とは生まれつきの自我である。新しい式服(イエス)を心に着よう。
 イエスを主役とし、喜ぼう。
 「誰でもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。
 古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである(第二コリント5−17)」
 「あなたがたは、主イエス・キリストを着なさい(ロマ13−14)」
 この世の喜びは瞬時的。何も生み出さず、自己満足の偽りの喜びに過ぎない。
 本物の喜びは、イエスを通して来る。
 この喜びは私の内側を満たし、溢れ出て、私を変え、他者にも影響を与え得る。
 イエスこそ、喜びそのものなのである。作り笑いは白々しく不自然ではないか。
 真の喜びを得て、本当の笑みをたたえよう。

B喜びに溢れて生きる

 礼拝はイエスに招かれた宴会の席。
 イエスに会えるという、心からの喜びが溢れ出て集うものである。
 礼拝出席の動機は、義務か、人に会うためか、決まり事だから守るのか。
 神は、義務や強制で礼拝することを求めていない。
 他人を意識したものも意味がない。イエスに招かれていることを喜び、
 イエスに会うことを喜びとして来る者を、主は喜ばれる。
 今までの律法主義(自分たちで作った口伝律法)は、
 自分の義を獲得するための宗教行為。
 イエスの福音は命に溢れ、イエスとの生きた交わりの喜びに溢れている。
 救われたにもかかわらず、関心事がこの世の喜びなら、
 福音の喜びはその人の中にない。
 イエスの中にある新しい命と喜びを深く味わい、他者に伝えよう。
 
喜びに溢れ、輝こう。人を動かすのは言葉ではない。
イエスと共に生きる喜びで溢れる、その生き様による。
真の喜びを、もっと心底味わおう。