【No.37】 絶望からの再生
2002.9.15 礼拝メッセージ マタイ 9:18〜26  園 謙慈牧師

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突然の死。不治の病。いつの時代でも起こる悲劇である。
しかし、イエスこそ、絶望のどん底から救いを得させる唯一の方。

@ 誰もが陥る絶望

1. 突然訪れる絶望(例:会堂司の娘)
  信仰が立派で尊敬されていた、身分の高い裕福な会堂司。
  その一人娘の突然の死。人間の悲劇は無差別に起こる。
  起こって欲しくない悲劇が起こるのがこの世の現実である。

2. 徐々に訪れる絶望(例:長血の女)
  12年間も続く重い婦人病。肉体的苦痛ばかりでなく、
  当時血を流す病は「汚れたもの」とみなされ、人と付き合うことを
  禁じられていたために、精神的苦痛もまた大きかった。
  治療費を使い果たしても治らない絶望。

A 絶対者なる神に向かう(イエスへの祈りから始まる)

1. 会堂司
  身分の高い彼が、罪人と一緒にいるイエスの前にひれ伏した。
  知恵や力、地位も名誉も見栄も全てかなぐり捨てた。
  自分の知恵や力を頼みとする者は、神に向かい会うこともできない。
  人間の死は絶望の極み。この人間の無力さと限界を知らされて、
  「人に命を与え、命を取られる絶対者なる神」に気づかされる。
  会堂司は、絶望のどん底から激しくイエスに泣きついた。
  同じ悲しみを負い、伴ってくださるイエス。

2. 長血の女
  彼女はイエスのことを聞いて、「イエスが最後の拠り所」と思った。
  世の人は「イエスを知っている」と言うが、切なる求めをもって、
  「イエスに会おう」とはしない。
  彼女は治りたい一心で、思い切って大胆にイエスの元に行き、
  身を低くして、手を伸ばし、やっとイエスのみ衣のふさに触った。
  「触りさえすれば治る」との思いは、ご利益的である。
  しかし、主は彼女の「信仰」を認めて、癒してくださった。

3. 両者の共通点
  絶望から、神の前にへりくだり、一心に切にイエスを求めた両者。
  「もう必死、ただそれのみ」という、信仰とは言い難き姿ではある。
  しかし、主はそれを信仰と認められた。
  信仰とは「上から来るもの」であって、主だけが認めることのできるお方。
  もったいないのは、イエスのそばにいながら、手を伸ばして
  触ろうとしない群集である。自ら省み、礼拝の姿勢を質したい。

Bイエスと触れ合う方法

 
1. 心を低くしてへりくだり、ありのままに祈ること
  2. 主が祈りを聞いてくださると信じること
  3. 聖書のみことばを信じて従うこと



C イエスの奇跡への誤解

  娘は死んでいたのに生き返った。女は長い病を癒された。
  しかし、両者ともやがては「確実に死ぬ」のだ。
  人は必ず死ぬのに、主の奇跡が記されているのはなぜだろうか。
  神の奇跡は、人間に都合のよいように起こされるのではない。
  教会は、決して「奇跡」を売り物にはしない。
  なぜなら、信仰の中心は「奇跡」ではなく、「イエス・キリスト」そのものであるから。
  こんなに一生懸命に祈ったんだから、神は聞いてくださるはずと思い、
  そうならない時つまずいてしまうなら、自分の願いや求めを絶対化する祈りは、
  信仰による祈りではない。私たちが祈り求めるのは、「主の憐れみ」のみ。
  生き返ること、病が治ることが尊いのではない。治っても依然として
  罪の中にあるなら、この世の何かを求めるような生き方を続けるのなら、空しい。
  主イエスにあって「新しい命に生きる」ことが大事である。
  私たちの生き方(信仰生活)は自己中心(自我)との戦いである。
  自己中心が湧き上がってくる時、イエスを仰ぎ、みことばによって助けて頂こう。

☆自分のためではなく、私の罪のために死んでくださったイエスのために生きよう。
 そして、魂が癒されて、救われるために祈ろう。