【No.38】 柔軟さと頑固さの境目
2002.9.22 礼拝メッセージ マタイ 9:27〜34  園 謙慈牧師

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イエスによる、2人の盲人の癒しと、口の聞けない人の癒しの箇所である。
パリサイ人は賛美や感謝をささげることなく、かえってイエスを非難、中傷した。
その姿には人間の頑固さが見える。
私たちのかたくなな心は、どうすれば砕かれ、柔らかく変えられるのか。

@ 頑固な心の姿とは?(パリサイ人に代表される姿)
パリサイ人は、モーセの律法と自分たちが作った口伝律法とを
厳格に守る熱心な信仰者である。だが、病気で苦しむ人への同情も、
また癒されて喜ぶ人への共感すらない。
イエスの癒しを「悪霊と関わっている」と非難するだけである。
彼らに潜む頑固さとは、
1.古い伝統を変えるのは悪い(変化を極端に嫌う)という 「固定観念」と
2.人間の知恵で律法に取り組み、自分の努力や頑張りで守っているという
「自己満足と高慢」。自らの欠けを省みることなく、悔い改めもない。
3.物事を正しく見ることができない「偏見」。
神の世界を求めているのであろうが、それが分かっていない。
自分は律法を守っていると自負しているから、守れない者を厳しく断罪してしまう。
自分の本当の姿(罪だらけの醜い姿)が分からないから、ますますかたくなになる。
注意すべきことは、クリスチャンであっても、パリサイ人的な考え方をしてしまうこと。
何が善で何が悪かを神が語られるのに聞こうとしない。
もし今、私は神の世界が分かっていると思うなら、本当は分かっていないのだ。
「あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪(高慢の罪)がある」
(ヨハネ9:39〜41)。

A 柔らかい心の姿とは?(盲人の信仰の姿勢)
盲人の心が柔らかくされていく3つの段階を見てみよう。
1.憐れみを求め神に向かう
「ダビデの子よ!私をあわれんでください。」
ダビデの子孫からメシアが生まれるという約束に基づいての
(イエスをメシアと認めての)呼びかけをして、彼らは神に憐れみ求めた。
私たちが神に求めることができるのは、ただ「憐れみ」のみである。
神の前にへりくだり、切に求めることが必要である。
人間は、何も見えない、何も分からない、霊的盲目なのだから。
2.信仰が試される
彼らの必死の叫びを無視するかの如く、イエスは家の中に入って行かれた。
イエスは彼らの信仰を試された。人前で人目を気にした祈りではなく、
神と対峙すること、そして祈りの姿勢を教えられた。
3.イエスの言葉を素直に受け入れる
「できると信じるか?」「主よ、信じます」。
主の言葉(聖書の言葉)を素直に信じて受け入れよう。
私たち信仰は弱いけれど、私たちの信じる主は確かなお方である。
それゆえに私たちが目を向けるのは、ただ主のみ。
だが、この盲人たちにもかたくなな部分があった。
「誰にも知れないようにしなさい」との厳しい戒めに従えなかったのだ。
イエスはなぜ言い広めることを禁じられたのだろうか。
「メシアとは、絶大な権力をもってローマを追い払い、ユダヤ帝国を打ち立てる方。
自分たちの願いを何でも叶えてくれる方」と民衆は期待した。
「この世の幸福を求める人間の考える救い」と「十字架の救い」とは大きな隔たりがある。
彼らも誤解ゆえに間違った証をする者だとと見抜かれたイエスは禁じられたのである。

B みことばに聞き従うこと
自分本位に神を求めるクリスチャンは、自分の都合を優先させる。
神は何と言っておられるのか、と信仰を働かせようとしないなら、かたくなになる。
私たちの生きる目的は、神の言葉を受け入れ、吸収し、神の栄光を表すことであって、
自分勝手に「これは神のため」と働いても、神のためには何の役にも立ってない。
祈りの姿勢とみことばを聞く姿勢とを、礼拝によってチェックし、
日々のデボーションによって正されよう。
自分の信仰を誇ることも、自分の弱さを嘆くことも、神の前には不必要である。

自らの頑固さに気づかされたなら、「主よ、憐れんでください」と祈り求めよう。
そして、イエスの赦しと励ましの言葉を、「はい」と素直に受け入れ、従っていこう。
主は心柔らかな人を求めておられる。主が「新しい心」「肉の心」を与えてくださる。