【No.43】主イエスの弟子の条件
2002.10.27 礼拝メッセージ マタイ 10:34〜39  園 謙慈牧師

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主の弟子の資格審査。
「〜は私にふさわしくない」。コンテキストに幾度もでてくる言葉。
たとえ家族を捨ててもイエスに従うようにという厳しい言葉をどう理解するか?
イエスに従って忠実に証をしていく時、反対や争いが必ず生じてくる。
イエスが意味する「剣」とは、罪を裁く剣であり、この世の人生観や価値観と
切り離す剣であり、イエスを信じる者と信じない者とを切り離す剣のことである。

@ イエスの弟子にふさわしくない者
1. 肉親への愛をイエスより優先させる者
肉親への愛とは、人間的な自己本位の愛にすぎない。
相手に与える愛ではなく、相手から奪う愛。イエス以外に過度の関心を
寄せる人は「主に背く者」であって、福音を伝える弟子としてふさわしくない。
2.自己愛(自我)にしがみつく者
自我は、この世への執着心として表われる。金銭・財産・地位・名誉・
仕事・趣味といったこの世の生活を愛してしがみつく人は弟子にふさわしくない。
イエスへの愛とこの世への愛は両立しない。イエスだけを信頼しているのか、
それとも他のものにも信頼しているのか?イエスは全き信頼を求めておられる。
A イエスの弟子にふさわしい者
「主こそ、我が宝。」という信仰の姿勢で生きる者。
肉親を愛するのは当然、というのがこの世の常識だが、肉親の情愛には
エゴイズムが潜んでいる。肉親以上にイエスを愛するためには、常識・価値観の
転換が必要で、それは神への真実な祈りから起こる。イエスさまがいちばん!と
頭で思っているように、実際生活でもそうなっているだろうか。
イエスこそ価値あるお方、として追い求めていく者こそ、弟子にふさわしい。
ピリピ3:7〜14。

主の愛によって絶えずきよめられ、自我を十字架につけて日々歩もう。
イエスの愛が私たちの心の深みまで及ぶ時、私たちは変えられていく。
主の愛のゆえに、進んで自分の十字架を背負い、
イエスの弟子としてふさわしいものとならせて頂こう。