【No.44】 必ず報いて下さる神
2002.11.3 礼拝メッセージ マタイ 10:40〜42  園 謙慈牧師

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主を受け入れる者、主の弟子への報いは必ずある。 だが、神の報いとは何か。報いを得る者とは誰なのか。

@ あなたの求めている報いとは何か?
 「良い報い」、「悪い報い」とは何だろう。目に見えるこの世のもの、健康や金銭を得る
ことが「良い報い」で、病気や貧困は神からの「悪い報い」なのか?
 いや、そうではない。苦難や試練を通して神に近づけるという、むしろ祝福なのである。
人間的価値観に縛られ、せっかくの祝福を逆に捉えては無益である。危機は絶好のチャンス!どんなことも神が益に変えて下さる。 自分にとって都合のよいことばかり求めるのは信仰ではなく、福音を利用しているにすぎない。自己中心の願いをする者は、主の弟子にはなりえない。 信仰の世界には逆転の恵みがある。
 私たちイエスを信じる者は、それ(イエスを信じる)だけで永遠の命をいただいている。
罪赦され、心に平安があるという報いもまた既に得ている。 なによりも第一に求めるべきは、「神の国と神の義」である。そうするなら、後は全て添えて与えられる。神の報いが約束されているのである(ヘブル11:6)。

A どのような者が神の報いを受けるのか?
 信徒は神と一つであって、イエスと同じ価値を置かれている。すなわち、牧師や信徒を軽んじるか重んじるか、私たちの態度はイエスをどのように扱うかに結びつく。キリスト者を歓迎することは神を歓迎することであり、受け入れる者には神の報いがあるのである。
テキストの「小さい」ということを言い訳にして、神の働きを妨げてはならない。神がその人を召して「せよ」と命じられた以上、力を与え、できるようにされる。弱さ、小ささは神の前には問題ではない。。主は無力な者と共にいてくださる。
 また、神は小さい私たちに関わる者たちを救おうとして、家族や周囲の者を救うために”わたし(あなた)”が選ばれた。その役割を果たそう。主が成してくださるからできる。
 全てのクリスチャンは祭司であって、キリストを運ぶ者、執り成しをする者なのである。それゆえに私たちの言動に責任をもつべきである。祈りつつ語り、 祈りつつ行動し、自分だけではなく、周囲の人々にも神 の報いが及ぶようでありたい。
 神は、小さな者の小さな働きにも目をとめ、祝福をお与えくださる。たとえこの世で報いがなくても、来るべき世で必ず報いがある。報いを先に求めるのではなく、既に神から豊かな祝福を頂いているのだから、感謝をもって主に仕えていこう。