【No.45】 天国を激しく襲う者
2002.11.10 礼拝メッセージ マタイ 11:1〜19  園 謙慈牧師

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天国とはどういう所か? どうしたら天国に入れるのか?
イエスから学び、天国への招きに素直に応じよう。

@ 天国の間違った概念を正そう
1.人間の空想や理想による「天国観」
ユダヤ人たちは、「自分たちだけが選ばれ、そして良い生活ができる」「自分たちは神の子だから、悪いことをしても父アブラハムが必ず救ってくれる」とたかをくくっていた。「死んだら全員天国行き」というのは自分に都合のよい解釈である。そして私たち日本人の天国観とよく似ている。生きている時に何をしても、べつに神を信じなくても、全員天国へ行けるのなら、何故イエスを信じる必要があるのか。また、何故福音を伝える必要があるのか?天国はそんな甘い世界ではないのである。「誰もが天国に」というのは、悪魔が吹き込んだ考えにすぎない。「人間は一度死ぬ事と、死んだ後、裁きを受ける事とが定まっている(ヘブル9:27)」「罪の支払う報酬は死である(ロマ6:23)」と聖書に書いてあるとおり、「今、どう生きているか」は、死後の世界に反映され、神の正しい裁きが待っている。

2.
「天国」の聖書的な正しい意味  
バプテスマのヨハネの時から、「神の国は既に来た(マタイ12:28)」「神の国は 実にあなたがたのただ中にある(ルカ17:21)」、天国はこの地上に激しく入り込んでいる。天国は既にこの地上で始まっているのだ。天国とはまさにイエスの支配されるところであって、すなわちイエスを信じ迎えた私たちキリスト者の霊の中にある。私たちがイエスを信じ従う時、義しくされ(義化)、きよめられ(聖化)イエスに似たものとされるのである。「自分なりに信じている」「名前だけ」「洗礼を受けただけ」のクリスチャンが天国に行けるわけではない。神は私(たち)の日常生活での信仰の本質を見ておられる。

A 天国への間違った関門を取り除こう
1.人間が考え出した天国への関門
人間は善行をすること、努力すること、律法を守ることが必要だと考えるが、これは自分の正しさを表そうとするものであって、まったく神を必要としない姿である。神が私たち人間に求めているのは、律法によ って罪が表され、悔い改め、神の前にへりくだることなのだ。イエスは新しい時代を告げる。ヨハネは旧約時代の最後で最大の預言者だが、今後イエスを信じる者は、どんなに小さな者も彼(ヨハネ)より大きい、 と。
2. 聖書が示す天国への関門
天国へ行くために必要なものは、第一に神の恵みである。「私は道であり、真理であり、命である(ヨハネ14:6)」まさに関門はイエス・キリストであって、この方以外に私たちを天国に入れる門はない。このことを知ってもなお、イエスを神とさせない悪魔の策略に陥り、神抜きで生きよう とするのが人間の罪の本質である。神が私たちに呼びかけているのに、何かと理由をつけて断る冷淡な反応をしてはいないだろうか。しかし、「何としても入りたい!」と切に天国を求める者が天国を得るのだ。旧約聖書を開いてみよう。エサウはこの世を愛し、目の前の食物のために調子の権利を軽く扱った。一方、ヤコブは神の祝福を奪い取るほどに切に求めた。「人々から好かれる善い人(エサウ)」が神の憐れみを受ける、とは限らない。 「どうしようもない嫌われ者(ヤコブ)」が、神の憐れみに預かり、熱心に神を求め、救われ、天国へ行く。「人の善さ」「頑張り」「その人の何か」によって天国に行けるのではない。ただ「神の憐れみによってのみ」入れてもらえるのである。第二にと私たちの信仰が関門となる。教会は天国のひな型である。教会を愛し、繋がることなくして、どうして天国に入れようか。喜びの婚礼の席(礼拝)に招かれているのに、なおもこの世を愛するとは、神に敵対することではないか。もし現在の信仰生活が窮屈に思えるなら、イエスとの関係がおかしくなっているのではと、へりくだって神の前に出て行く必要がある。

幼子のように素直に、地上の者を求める以上に熱心に求めよう。
聖書と聖霊に教えられて天国を求めていこう!