【No.48】
ここに私の根元(こんげん)がある
2002.12.1 礼拝メッセージ マタイ1:1〜17 園 謙慈師
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私たちの根元はイエスと関わりがある。イエスの系図に隠された神の愛と恵みとみこころを学ぼう。
@ 「メシアの系図」
なぜマタイは系図から書き始めたのか?血筋を重んじるユダヤ人は「〜の子孫である」という系図が重要であった。それゆえ、イエスがメシアであることを論証するために、系図は欠かせない役割を果たす。
アブラハムはイスラエル民族の父祖、信仰の父である。最初に神を信じ、大きな祝福を受け、目に見えない神の世界が見えるようにされた(霊的な目が開かれた)人であった。地上の事柄に心を留めず、天国を望み見て地上の困難を乗り越えた。ひとり子イサクを神に捧げた(ここにキリストの十字架と復活を見たであろう)。
ダビデはイスラエル最大の王である。アブラハムのように神の祝福を受けた人。様々な困難を乗り越えてイスラエル王国を建てあげた。彼の受けた最大の祝福は、罪の赦しの恵みを頂いたことであろう。彼は、「神の前に心砕かれへりくだる時に祝福が与えられる」という見本となった。
イエスはアブラハム、ダビデが成し遂げ得なかったことを成就、完成させた方。
A 系図の中の4人の女性
タマルはユダの息子の妻(遊女のふりをして舅のユダと関係を持ち、子を成した)
ラハブは異邦人の遊女(イスラエル兵をかくまったゆえに救われた)
ルツは異邦人(ナオミの神を信じ、行動を共にした)
ウリヤの妻は異邦人ウリヤの妻(「ウリヤの妻」であったものをダビデが横取りした、という意味が込められている)。ここに男女の正しい交わりではなく、「愚かで恥ずべきことをした」という事実をも、マタイは包み隠さず表した。
B 人間の罪の歴史を表す系図
信仰の父と呼ばれたアブラハムでさえ何度も失敗している。ダビデも恐ろしい罪を犯している。彼らは立派だから神に選ばれたのではない。罪を犯したにもかかわらず、赦され、憐れまれ、祝福の基とされた、ということを系図は語っている。イスラエルの歴代の王たちも、信仰における浮気の歴史を持つ。神に従わず、自分の思うがままに生きた王たち。
バビロンに移され、王の身分を失い、最後には「大工(ヨセフ)」となり、王としての威厳を失ってしまった。そういう落ちぶれた者の子としてイエスが生まれ、十字架につけられる「犯罪者」の系図へと続く。どん底まで落ちてくださったイエス。
この系図に私たちは自分の根元(本質)を見ることができる。 罪にまみれ汚れた人間の系図を、新しく聖いものに変えるためにイエスは来られた。私(たち)の根元はイエス・キリストである。私(たち)の罪を全部引き受け、私(たち)を愛し、赦し、イエスの系図に入れてくださるのである。
そのために罪のただ中に降りてきてくださったのがクリスマスなのだ!
イエスを根元として生きる(神の子どもとされたと信じて生きる)こと、そこにこそ神の祝福がある。