【No.49】 神がともにいる生活とは
2002.12.8 礼拝メッセージ マタイ1:18〜25  園 謙慈師
メッセージメニューへ
  TOPへ

クリスマスとは、失われたインマヌエル(神共にいます) が
神のあわれみによって回復されるできごと。
イエス誕生の記事から神のみ旨を知ろう。

@ 3つのみわざの中に表されるインマヌエル
1. 罪から救うインマヌエル
 「彼は、その民をもろもろの罪から救う者となる」と聖書に書かれてあるように、真の救いとは「生ける神がいつも私と共にいること」である。しかし、神は霊的存在だから見ることができない。また、人間の理性では神を理解できず、神に背いて生きているゆえ神のことが分からない。「罪によって神と我々は隔てられている (イザヤ59:2)」のである。人間はどうすることもできない罪の問題を解決するためにイエスが来られた。
 「イエス」とは「主は救い」という意味である。神のご計画は、彼を信じた者が罪赦され、神と共に生きられるようにしてくださることである。
2. 祈りを支えるインマヌエル
  クリスチャンの幸いは祈れることである。祈り続けることは難しいが、「2〜3人が祈る中にイエスもおられる(マタイ18:20)」と聖書にあるように、私たちの弱い祈りを主が助けてくださる。 祈りを聞きいれる立場の神であるイエスが、祈らなければやっていけない人間となってくださったゆえに、祈りの困難も幸いをも分かってくださるのだ。
3. 伝道のわざを助けるインマヌエル
 主を信じ救われた者の生きる目的・使命は、伝道する(主を伝える)こと(マタイ28:16〜20)である。自分が救われただけで満足するのは本物の信仰ではない。キリスト者は「神が共におられる」という喜びを証し、伝えよう。主は世の終わりまで福音宣教に関わり、ご自分で責任を負ってくださり、 私たちの限りある人生を共に歩いてくださる。

A インマヌエルを体験する信仰生活とは
1. インマヌエルでない生活

 それは自己中心の生き方である。アダムは神のみことばを聞いても従わなかった。彼の中に神に対する不遜と不服従があった。私たちも自由に生きたいと、自分勝手に神から離れる。こんな私たちに悪魔はつけ込み、そうして私たちは罪の奴隷となり、滅びへと向かうのである。 
 キリスト者であっても真実に神を求め続けていかないと、いつしか神から離れてしまう。自分勝手な信仰生活を送る自己中心信仰から、「神が共にいる」ことを求め、「自我」から解放され、自らの霊的成長、また周囲に恵みをもたらすものとさせていただこう。
2. インマヌエルの生活
 それは神に従う生き方である。
どうしたら具体的に神を体験し続けることができるのか。「神我らと共に」が実現したのは「聖霊」による。聖霊によるのであって、人間の力や資格によるのではない。
 ヨセフは、人間として考えられ得る限りの正しさを行おうとした。しかし、神は人間の正しさをくつがえす。ヨセフは自分の正しさにこだわらず、神のみことばを聞き、神に従った。
 神の言葉が語られていながら、自分の考えや計画に固執する私たちである。そこには平安はない。人間には神のみことばをへりくだって謙遜に受け入れる以外の恵まれた生き方はないからである。
 もし、「自分の願いが叶ったから神が共におられる」と思っているなら、インマヌエルを履き違えている。自己中心に生きる人には聖霊は働くことができない。「神が共におられる」というのは、「神のみことばに従う」時にのみ、体験できることなのである。
 「神を真剣に求める者」「神のみことばを聞こうとする者」「神に従おうとする者」に、聖霊が働かれる。

罪の赦しの確信に立ち、真の自由・平安・力を頂こう。
神の言葉に従い、神と共に生きる幸いを証していこう。