A 真のメシアなるキリスト
独裁者は自分のエゴ・満足のために生き、他人を踏みにじる。だが、イエスは人目に隠れた所に生まれ、人の悲惨
さを味わわれ、全ての人の身代わりとなって十字架に向かわれた。自分の命を捨てて、人の命を救うためにお生まれになったのである。
「ヘロデもキリストも両方拝まない」と言う人もいるだろう。その人は自分自身を王とし、思い通りにならないと苛立って不機嫌になるのではないか。誰も王としないからといって、平安があるわけではない。私たちがイエスを王としてひれ伏し拝むとき、ヘロデ的偶像から解放され、平安を頂くのである。
「博士たちはひれ伏し拝んだ」とあるのはまさに信仰告白である。彼らの動機は、星に導かれ、みことばに導かれたことによる。そして「非常な喜びにあふれた」。星が止まったことにより、そこに『真の王』がいることを知り、みことばの成就を見たのである。
B 真の王を礼拝する喜び
信仰の力は「喜び」による。それは自分の願いが叶う喜びではない。真の喜びは天来の喜びであって、生ける真実なる神、本当の王に出会うことなのだ。神を求め神を礼拝する中で、私たちは目に見えない神と出会う。これこそ真実の喜びである。この喜びを知れば、日曜日の朝でなくても、礼拝に出て行こうと心はうきうきする。もはやそこに義務的な思いはない。
博士たちも喜び勇んで礼拝に行った。クリスマスとは、キリストのミサ、すなわちキリストを礼拝することである。彼らは3つの宝―黄金(王として)、乳香(祭司として)、没薬(十字架の犠牲)―を捧げた。しかも、彼らの商売道具(仕事)を捧げたのである。彼らはこの時から、自分の生活のためではなく、イエスのために生きるように変えられたのではないだろうか。
イエスに心を向けるなら、変化が起こる。価値観が変わる(大切なものが変わる)。
博士は一国の王だったのでは、との説もある。そうだとすれば、ひれ伏すという態度は、王の身分を、プライドを投げ捨てたといえよう。私たちも、自分の都合次第で王として崇めたり無視したりと、神を利用することなく、イエスの前にひれ伏そう。
また、博士たちは 「他の道を通って」帰ったとある。物理的に往路と道を変える事であるが、彼らはこれまでの生きる道を変えたのである。
みことばを聴いても自分に結びつけないヘロデや祭司、律法学者、町の人々のようではなく、新しく変えられた生活(キリストとともなる生活)へと歩みだそう。
真のクリスマス―私の王としてキリストを迎え、ひれ伏し、礼拝する。その中で神のみことばに導かれ、キリストのために生きる者へと変えられる。神のみわざの中に身をおいて、イエス・キリストを王とする喜びを身近な人々に手渡していこう!