【No.50】 誰を王とするのか
2002.12.15 礼拝メッセージ マタイ2:1〜12  園 謙慈師
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東方の博士らがイエスを訪れた。これはイエスがユダヤ人のみならず、
異邦人にとっても王であり、すなわち世界の王という意味である。
では、わたしは(あなたは)誰を真の王とするのか。

@ 偽りの王なるヘロデ
 当時の王ヘロデは、人間の罪としての自己中心性と偶像化を象徴している。救われない罪人と思われていた異邦人(東の博士ら)が、 メシアの誕生を祝い礼拝するということは、神の民としてのユダヤ人にとって驚きであった。
 異常な星の出現を、「ただ事ではない」と調べやってきた博士たち。しかし、ヘロデと町の人々は不安を感じた。「自分達の王」と言いながら、何の行動も起こさなかったユダヤ人たち。彼らは現状に満足し、変化を望まず、まして別の王を望んでいなかった。ヘロデ王にあっては、メシアの出現を自分の権力を脅かす存在として敵視したのである。
 私たちはどうであろう。聖書のみことばが語られているのに他人事と思い、無視して聞き流していないか。神のことばを聞かず、この世への関心ばかりで自己中心的な生活をする反面、自分に不都合な出来事には敏感に反応し、不安に思い、邪魔なものは抹殺する。誰もが持ち合わせている、自分をも他者をも破壊する感情。
 今、あなたの心を置き、信頼を寄せているもの、それは何か。神社や寺の目に見える偶像だけが偶像ではない。―お金・健康・肉親(特に日本人の偶像)。それらがあなたの神となり、真の王なるイエスへの礼拝を妨げている。その姿にみことばの光が当てられたなら、今、悔い改めよう。

A 真のメシアなるキリスト
 独裁者は自分のエゴ・満足のために生き、他人を踏みにじる。だが、イエスは人目に隠れた所に生まれ、人の悲惨 さを味わわれ、全ての人の身代わりとなって十字架に向かわれた。自分の命を捨てて、人の命を救うためにお生まれになったのである。
 「ヘロデもキリストも両方拝まない」と言う人もいるだろう。その人は自分自身を王とし、思い通りにならないと苛立って不機嫌になるのではないか。誰も王としないからといって、平安があるわけではない。私たちがイエスを王としてひれ伏し拝むとき、ヘロデ的偶像から解放され、平安を頂くのである。
 「博士たちはひれ伏し拝んだ」とあるのはまさに信仰告白である。彼らの動機は、星に導かれ、みことばに導かれたことによる。そして「非常な喜びにあふれた」。星が止まったことにより、そこに『真の王』がいることを知り、みことばの成就を見たのである。

B 真の王を礼拝する喜び
 信仰の力は「喜び」による。それは自分の願いが叶う喜びではない。真の喜びは天来の喜びであって、生ける真実なる神、本当の王に出会うことなのだ。神を求め神を礼拝する中で、私たちは目に見えない神と出会う。これこそ真実の喜びである。この喜びを知れば、日曜日の朝でなくても、礼拝に出て行こうと心はうきうきする。もはやそこに義務的な思いはない。
 博士たちも喜び勇んで礼拝に行った。クリスマスとは、キリストのミサ、すなわちキリストを礼拝することである。彼らは3つの宝―黄金(王として)、乳香(祭司として)、没薬(十字架の犠牲)―を捧げた。しかも、彼らの商売道具(仕事)を捧げたのである。彼らはこの時から、自分の生活のためではなく、イエスのために生きるように変えられたのではないだろうか。 イエスに心を向けるなら、変化が起こる。価値観が変わる(大切なものが変わる)。
 博士は一国の王だったのでは、との説もある。そうだとすれば、ひれ伏すという態度は、王の身分を、プライドを投げ捨てたといえよう。私たちも、自分の都合次第で王として崇めたり無視したりと、神を利用することなく、イエスの前にひれ伏そう。
 また、博士たちは 「他の道を通って」帰ったとある。物理的に往路と道を変える事であるが、彼らはこれまでの生きる道を変えたのである。 みことばを聴いても自分に結びつけないヘロデや祭司、律法学者、町の人々のようではなく、新しく変えられた生活(キリストとともなる生活)へと歩みだそう。
 真のクリスマス―私の王としてキリストを迎え、ひれ伏し、礼拝する。その中で神のみことばに導かれ、キリストのために生きる者へと変えられる。神のみわざの中に身をおいて、イエス・キリストを王とする喜びを身近な人々に手渡していこう!