今でこそ日本は心の病の時代と呼ばれ多くの方々が何らかの形で精神的な病を抱えていると言われている時代になっていますが、私は今からちょうど15年前、まだ"引きこもり"という言葉が認知されていなかった頃に引きこもり状態にあった経験があります。当時私は16歳でした。肉体的にも精神的にも解放され癒されるのに、それから6年の時間がかかるのですが、その6年間というのは当時の私にとっては、いつまでも晴れない曇り空の下をいつまでもうつむいて歩くような憂鬱な日々でした。

 きっかけは野球の挫折でした。私は小さい頃から野球に打ち込んでいました。将来はプロ野球選手に、またはそれがダメでもなんらかの形で野球に関わって生きていきたいという夢をいだいて頑張っていたのですが、高校1年の時、練習中の事故から左目に怪我をしてしまいそれがもとで野球をあきらめなければならなくなってしまいました。野球をしたくて選んだ高校でしたので退部した数ヶ月後にはその高校も退学しました。

 今にすれば、まだ16歳でこれから新しい目標を持てたはずだと思えるのですが当時の自分は喪失感と失望感でいっぱいでした。そんな自分を人に見られるのがいやで、とにかく逃げ出したくて人目を避けるように引きこもり生活に突入していきました。一度引きこもりの状態に入ってしまうと朝起きて夜寝るという規則正しい生活ができなくなってしまいます。

 規則正しい生活というのは1日を長く感じさせてしまうものです。また昼間に起きているとどうしても人に会い言葉を交わさなければなりません。夕方、日が暮れかけた頃起き出して明け方に眠りにつくという生活パターンを繰り返していました。そんな生活習慣が原因で自律神経にも狂いが生じてきてひどい鬱状態になるようになりました。
 私の場合鬱状態になると特に胃腸に変調がきました。食べたものを全部戻したり下痢が続いたり血便が出たりを繰り返していました。次はいつ鬱が来るのだろうといつも恐れていました。

 そんな生活が2年くらい続いて鬱状態が軽い時などに少しづつ表に出ていけるようになりました。近所の人にも、もう充分自分の状態を知られていたので開き直るような気持ちになっていたと思います。リハビリも兼ねていろいろとアルバイトも始めました。でも周期的に来る鬱のために休み勝ちになり長続きしませんでした。自信がなくてすぐに逃げよう逃げようとしてしまうのです。いらいらして家では特に母親に対して暴力をふるうようになっていました。物にもあたるようになりました。今でも私の部屋の壁や扉には当時の傷や穴が残っています。

 すすめてくれる人がいて大学検定試験に挑戦しました。こちらの方は幸いにも2年ですべて合格することができました。くじけながらも大検の勉強を続けていた時に英語に興味を持ち始め、英語が喋れるようになりたいと思うようになりました。私は基本的に体育会系の思考の持ち主で、ひとつの目標に向かって邁進していくタイプです。野球をあきらめてから数年間ポッカリと心に穴が空いてしまった状態でしたから英語を習得したいという気持ちが久し振りに自分を前向きにしてくれたのです。

 大検合格がちょっぴり自信を与えてくれていたのかもしれません。アメリカに行きたいと思うようになりました。しゃべる英語をものにしたいと思うようになりました。でも当時の私は日本でもちゃんと生活ができていないわけです。相変わらず鬱に苦しんでいましたし文化も生活環境も違う海外に行って生活ができるのか?周りの人も賛成しませんでしたし自分も正直なところ自信ありませんでした。でももう私は二十歳になっていました。あせりもありましたし今の状況から逃げ出したいという強い思いもあってある留学機関を頼ってアメリカに渡ることにしました。

 アメリカでの生活が始まりました。最初はワシントン州のレイシーという所にいました。日本から逃げ出してきたものの私はどうしてもアメリカでの生活になじめないでいました。(分ってくれるだろう。分ってくれるはずだ。こんなに留学生がしんどい思いをしているのだから。) だだの甘えでしかないのですが、どうしても自分から人に関わっていくことができずにいて、これは英語以上の問題でした。アメリカにいて自分が外国人であることを忘れていたわけではないのですがどうしても相手に依存してしまうのです。

 アメリカは自分にとって 以心伝心 どころか 言わないものは聞こえない。の世界でした。自分の意志をはっきり主張しないと中々やっていけないものがありました。このままではダメだと思いました。アメリカまで来た意味がなくなってしまうと思い、自分なりに頑張ってみました。お喋りになってみたり、無理に明るくふるまってみたりと自分を出そう出そうと日々自分を変える努力をしていたのですが、これは自分が想像する以上に精神的に大変なことでした。授業が終って寮の部屋に帰るとぐったり疲れきってしまってもう何もできない状態でした。次の日の朝には無理にでも気分を高揚させて学校に行って明るい自分を演じ、帰ってまたぐったりと寝込むの繰り返し。自分でも躁鬱のアップダウンが激しくなっていくのが分りました。

 3ヶ月が過ぎた頃、ある日学校から帰って疲れ切って鬱に入りこんだ瞬間からその鬱状態から抜け出せなくなっていました。それまではまだアップダウンがあったのにずっと鬱状態が続くようになっていました。自分の内面にもいろいろなものが溜まってくるのが分りました。体も疲れきってしまって授業も休むようになって鬱々とした日々を送っていました。そんな状態で2ヶ月目くらいに‘切れるという状態を経験してしまいました。

 自分の中でプチンというような音がした気がしてそこから記憶がなくなってしまいました。自分では覚えていないのですが無意識の中で自分が何をしていたかというと、錯乱状態になった自分が学校のトイレで鏡の前に立って首を切ろうとしていたそうです。異変に気づいた学校のスタッフに見つかってあとは取り押さえられて鉄格子付きパトカーを呼ばれました。そのパトカーで精神病院に強制入院させられてしまいました。検査の結果、鬱の状態が悪いということで入院することになりました。

 しかししばらくするとその入院生活も続けられなくなってしまいました。精神的な病に保険がきかなかったこともあったと思いますが、今後入院生活を続けていくのに1日800ドルもの入院費が必要になってくることを知らされました。とても支払える額ではなかったので、その病院は1度入ったらでられないと言われていた病院だったのですが、私が日本に帰るという条件で病院から出ることができました。

 日本に帰るつもりだったのですが、その頃、実家の方ではいろいろな事件が続けざまに起こっていました。まず父に食道癌が見つかり食堂除去の手術を受けました。留学中の私を気遣ってか私にはそのことを知らされていませんでした。初めて連絡が取れた時には手術後で入院中でした。父は電話口でまだ声帯が回復していない声で私をはげますのです。自分のためにわざわざ帰ってくるなと何度も言われました。父としても私がずっと閉じこもっていたことに心を痛めていましたから何とかアメリカで頑張って欲しいという思いがあったのだと思います。母親には学校から私の起してしまった事件が伝わっていたのですが、手術を控えた父にはそれを伝えられなかったそうです。私も言えなくて喉元まで帰りたいという言葉が出ていたのですが飲み込んでしまいました。

 また私には年子の弟がいたのですが、この弟も精神的に苦しんでいました。私とは違ってとても優秀な弟で一流大学に通っていたのですが学校に行けないでいました。精神科で睡眠薬をもらっていたようです。それが悪く作用してしまって結局20歳で心不全を起し亡くなってしまいました。弟が亡くなるのは父の手術より2年くらい後なのですが、弟の悪い状態と父親の手術と私の事件、そして受験を控えた妹もいて母親が一人で家を支えているといった状態でした。

 日本に帰っても何もできない私の存在は4重にも母親に重荷を負わせてしまうものでしかありません。母親もさすがに疲れ切っていましたので私はアメリカに留まる決心をしました。元いた学校からは受け入れてもらえませんでした。しかし幸いにもシアトルの方で私を受け入れてくれたミッション大学がありましたのでそれまでのレイシーから都会のシアトルへ引っ越していきました。

 新しい学校での生活が始まりました。1ヶ月くらい経ってキャンパスを歩いていると看板が眼に入りました。フリーランチという文字が書いてあります。今思えば小さく教会の名前も書いてあったと思うのですが、そのときはただ無料のランチというのに引かれ、教室に向かいました。そこではポトラックをしていました。まだあまり人は来ていなくて私はお皿をもらって一人で隅のほうで料理を食べていました。食べたら帰るつもりでいました。
 
 すると一人のアメリカ人が近寄って来て私に話しかけてきました。彼はジェフ・ネルソンという留学生を対象にキリスト教伝道をしている伝道師の先生でした。私は彼がクリスチャンと聞いて彼に対して反抗的になってしまいました。目に見えない神様を信じて幸せそうに生きている人がいる。自分の人生に投げやりになっていたせいもありましたが、私にはジェフはとても幸せそうで輝いて見えました。

 悔しくなったのだと思います。初めて会ったジェフに対して片言の英語で彼のことを批判したのです。しかし彼は怒ることもなく私の言うことをじっと聞いてくれました。そして自分にとっても勉強になるからこれから会ってくれないかと言うのです。私は引きこもっていて人との接触が少なかったせいでしょうか、ジェフに受け入れてもらえたことがうれしくて週に1回彼と会うようになりました。最初は会って話すだけでした。私の英語力では自分のことを話すので精一杯で時間が過ぎていきました。会話に慣れ初めて2ヶ月が過ぎた頃、ジェフが聖書を持ってきました。彼のことを信頼していたこともあってすすめられるままに創世記を読み始めました。すぐに創世記の壮大な世界に引き込まれてしまいました。

 アダムとエバやノアの箱舟など知っていた個所もあってジェフと会って聖書の話をするたびに、とても盛りあがりました。何の感動のない生活を送っていた自分にとって週1回のジェフとの交わりは唯一の楽しみになっていきました。

 創世記を読み終わって次にジェフからヨハネの福音書を読むことをすすめられました。正直なところ、これは創世記程面白いとは感じられませんでした。冒頭から、まず言葉があった、で始まって訳が分らなくて。でもせっかく読み始めたのだからと思い直し、ちょうど日本語の聖書を手に入れることができましたので、ヨハネの福音書を日本語で読み進めていました。そのうち、ある日ふとヨハネに書かれている御言葉を通して今までの自分を思い返している自分に気が付きました。(私はよがえりである。私を信じる者は死んでも生きるのである。そう言えば僕は死にかけたよな。死んでも生きるのか。)(私から飲む者は決して渇くことがない。心は渇いているなあ。)(私は世の光である。私を信じる者は決して闇の夜を歩むことなく命の光を持つのです。自分の生活には希望がなくて出口がないようだ。暗闇を歩くって今の自分のことではないか?)不思議なくらいイエス・キリストのメッセージが心に響いてきました。そして、もし本当に信じるだけで、それだけでこの状態から解放されるのであれば信じてみたいと思うようになりました。ジェフと会ってヨハネの福音書を読むごとにその思いは強くなってきました。

 信じたいという気持ちが強くなる一方、私はクリスチャンになるということに抵抗を感じていました。神様の存在は認めるし、聖書もいいことを言っている。こういうように生きられるのであれば幸せだろうなあと思えるのですが信じてしまえば残りの人生クリスチャンの看板を背負って生きていかなければならないのか?クリスチャンに対して弱々しいイメージを持っていたのだと思います。どうしてもあと1歩を踏み出すことができず悶々としていました。

 そんな私を見てある時ジェフはイザヤ書の43章4節、私の眼にはあなたは高価で尊い私はあなたを愛している、の御言葉を開きながら、こう言ってくれました。(浩司よく聞いて欲しい。神様はいるのです。そしてこの地球上に生きる一人一人の人間の人生に道を備えてくださっている。その道は誰のものとも比べることのできない、与えられたその人にしか歩けないかけがえのないものだから、その道を信じてそしてその道を備えた道そのものであるイエス・キリストを信じて生きていってください。その道の上には必ず試練があるけれども、でもその試練さえその道を歩む者のベストを思って備えられたものだから、この神様にあって無駄なことはないはずだから恐れないで逃げないで生きていってください。)私の過去を知っていたジェフはこう言って私を励ましてくれました。

 この一言が不思議なくらい私を前に押し出してくれました。私はそれまで劣等感の塊のようなものでした。特に野球をあきらめてからは自分に自信が持てなくて何かと誰かと比べていました。新しい知り合いができても、何とかして自分が勝っていると思えるものを見つけよう見つけようとして、見つからないと安心してその人と付き合えないといった淋しい人間関係を繰り返していました。相手を見下すことでしか自分の存在を確認できないでいました。友人の中に甲子園で活躍した人がいます。当時の私は彼の活躍を喜ぶことができず妬ましい思いで一杯になってしまいました。テレビでヒーローになっている友人と同じ野球をやっていたのに部屋から出られなくなっている自分。みじめでした。何かといらいらしていました。そのいらいらをいつも何かのせいにして目の前の現実から逃げていました。状況のせいにしたり、友人のせいにしたり、一番多かったのは親のせいにして親に暴力で当り散らしたり。逃げることしか考えられず、やることなすこと自分を嫌いにさせていました。

 でもどんなに逃げても神様からは逃げ切れませんでした。ジェフに出会い聖書に出会い、そして神様に出会い、もし自分がイエス・キリストを信じることができて御言葉の約束を心に生きることができれば、それまでのように目の前の試練から逃げ出すことしか考えられない自分ではなく試練の向こう側にある約束をみつめて神様と共に前向きに生きていける新しい自分があることを確信しました。それまで誰かと比べることでしか得られなかった人生観がこの聖書の神様を知ることによって180度変えられました。ジェフと一緒に罪の悔い改めの祈りをして私は晴れてクリスチャンになりました。

 神様を信じて10年が経ちました。今は常に前向きでいられる自分がいます。引きこもった経験さえも感謝できる自分がいます。確かにあの経験は神様から与えられた自分にとってのベストでした。現在私は伝道師として音楽伝道に携わっております。教会を中心に巡回し神様から与えられた歌を賛美して周っております。時に引きこもりの中高生を訪問してホームコンサートの機会をいただくこともあります。また精神病院で歌う機会を与えられることもあります。あの頃の経験を通らされなかったら今の自分はなかったと思います。御心の限りこの喜びを歌い続けていきたいと思います。

米田浩司先生の証文